一話 異世界転移?
僕は、生きているのか?
それとも死んだのか?
ゆっくりと意識が回復していく中で、そう自問自答する。
目を開けているはずなのに、周囲は暗闇に包まれたまま。
途端に僕の最後に残った記憶が、蘇ってくる。
僕は沙耶香さんが食べたかったプリンをコンビニで無事入手し、早足で帰ろうとしていた。
彼女の喜ぶ顔を早く見たくて、油断していたんだろう。
信号のない交差点。
なぜあのタイミングで、渡ろうと思ったのか。僕はトラックの前に飛び込むような形で、交差点に入ってしまった。
僕の不注意で、事故に巻き込んだトラックの運転手に対し、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
そして何よりも、僕の戻ってくるのを楽しみにしていた、沙耶香さんの顔が思い浮かぶ。
あの素敵な笑顔を曇らせることが、僕に取っては何よりも辛いことだった。
しかし、ここはどこなんだろう。
事故にあったはずなのに、不思議と体に痛みはない。
(この感触は……温かい)
そして僕の顔を包むような柔らかく、そして温かい感触。
かすかに香るいい匂いが、気持ちを落ち着けてくる。
ここは病院ではなく、やはり天国なのか?
僕は目に見えない蜘蛛の糸を探すように、無造作に手を動かした。
むにゅ。
そして掌に伝わる心地よい感触。
その柔らかさを求め、僕は数回、手を動かす。
むにゅ、むにゅ。
この感触は……癒される。
これが天国の感触なのか……
多幸感に包まれていた時、僕の襟首がいきなり力強く掴まれ、強引に後方に引き剥がされた。
先ほどまでの、ほんのりと心地よい香りが消え、代わりに獣臭が嗅覚を刺激した。
天国から地獄へ落とされたのか?
僕の視界がゆっくりと回復していく。
「え、だれ?」
すると目の前では、同じぐらいの年頃の水色の髪の美少女が、僕を見ていた。
その少女は、明らかに日本人とは異なる外見をしていた。
サラサラの水色のロングヘアーに、髪の毛と同じ水色の瞳。
垂れ目がちの目元に、スッと通った鼻筋。
一言で例えるなら、北欧系の美少女。
そんな彼女は怯えた表情で、僕の方を見ている。
「はわわわ」
彼女は全体的にぽっちゃりとした体型をしていた。
そして身につけているのは、黒色の薄手のガウンとパンツのみで、まるでスイカを二つ乗っけたような胸の膨らみは、胸元からこぼれんばかりに深い谷間を作っている。
どうやらさっきまで顔を埋めていたのは彼女の胸で、僕が揉んだのも……
そのことに気づいた瞬間、僕は反射的に土下座し、額を床に擦り付けた。
ひたいにジャリとした感触が伝わる。
「ご、ごめんなさい!」
とにかく僕は、全力で謝罪の言葉を口にした。
何がどうして、どうなったのか。
今、置かれた状況も、目の前の美少女が誰かもわからない。
だけど、どのような理由であれ、そして不可抗力であれ、人の胸に顔を埋め、そして揉んだとなれば、まず謝罪するのが当然。
「え、謝ってくれるのですか?」
少しおどおどした、少女の声。
「もちろんです。触ったのは、ワザとではないんです。けど、自分はあなたの心と体を傷つけてしまった。だから、まずは謝罪させてください!」
「「グルル」」
すると頭を下げる僕の両方の耳から、獣の唸りが聞こえた。
それは地獄の番犬のような獰猛な声。
ひょっとして、一度は天国に召されそうになった僕は、痴漢の罪で地獄に送られようとしているのか?
混乱する頭の中で、そんなふうに考える。
「だめなのです、その人は餌ではないのです!」
懸命に謝罪する僕を庇うように、少女は慌てた様子で叫んだ。
餌?
その瞬間、両耳に聞こえていた獣の唸り声が、ピタッと止まった。
ふーっという音と共に、獣臭い風が僕のうなじにかかった。
後ろを振り向き、唸り声の正体を直視することは、怖くてできない。
どう考えても、凶暴な獣がそこにいるのは確実。
僕はどうしていいかわからないまま、土下座の状態で固まっていた。
「あの、顔を上げてください。あなたがワザと触ったわけじゃないのは、わかってます」
少女のほんわかとした喋り方が、僕の警戒心と恐怖心を緩めてくれた。
そして顔を上げた僕と目が合うと、彼女はニコッと微笑んでくれる。
「私、レミって言います」
僕が土下座をしている間に、服を羽織ったんだろう。
今、彼女の着ている服は、黒のゆったり目のワンピースに、黒マント。そして頭には、同じく黒色の三角帽子をかぶっていた。
それはまるで、アニメやゲームで見る、魔女のような出たちだった。
(僕は異世界に来たのか?)
そう思ったのは彼女の服装や顔立ちのせいだけではない。
僕が違和感を感じたのは、彼女との会話のせいだ。
最初、レミは日本語を話していると思った。けど、よく口元を見ると、明らかに僕に聞こえる言葉と、口の動きが一致していない。
おそらく、この会話のやり取りは、一種のテレパシーのようなものが介在しているのではないか。
漫画とかで、異世界でも言葉が通じる理屈に使われるやつだ。
(しかし、異世界転移なんか、本当にあり得ることだろうか?)
そして僕は仮説を確信に変えるため、後ろを振り返った。
僕の後ろで座っているのは、見たことのない巨大な獣。
(い、犬……ではないよな)
一見したところ、精悍な顔立ちの犬。
だが、それは犬というには、大きすぎた。
例えるならベンガル虎クラスの巨体。そして犬科のような固太りの体型に、漆黒の毛並み。
そして何より、この生き物が僕のいた世界には存在しないと確信させたのは、その獣には狼のような顔が二つ付いているところだ。
(ケ、ケルベロス……けど、あれって確か頭は三つのはず)
「あ、この子ですか? 心配しないでください。オルトロスのオルちゃんと、トロちゃんといって、賢くておとなしい召喚獣です」
僕の混乱を鎮めるように、レミがこの生き物のことを説明してくれた。
「「バウ」」
そして僕に唸り声をあげた時とはうって変わり、まるで飼い犬のようにレミに、愛想よく返事をする双頭犬。
いや、珍しいどころが、僕がいた世界に、こんな生き物は、絶対にいない。
それに「召喚獣」などという言葉も、普段使いはしない。
(となると……)
アニメのような美少女とモンスターを目の前にし、僕は異世界へ転移したことを受け入れ始めた。
異世界転移。
それは多くの少年の憧れ。
僕のように現実世界では冴えなかった人間でも、剣と魔法のファンタジー世界で、強力な特殊能力を駆使して活躍できる。
僕もそんなアニメやゲームが大好きだった。
しかし、それが実際に自分の身に降りかかったとなれば話は別だ。
憧れのシチュエーションと言っている余裕はない。
確かに目の前には美少女がいる。
だが同時にモンスターもいる。
この双頭のデカ犬、オルトロスは僕の首根っこを咥え、いとも簡単にレミから引き離した。少し本気を出せば、簡単に僕を食いちぎる力を持っていだろう。
どこにでもいる平凡な高校生の僕が、こんな巨大な双頭犬の住む世界に迷い込んだとしたら……活躍するどころか、今日を生き抜く自信もない。
「あの〜今更ですがレミさん。ここは一体どこでしょうか? そして僕は、なんでここに?」
まの抜けた質問だが、今はまずなんでもいいから、この世界の情報が欲しかった。
僕は敵意がないことを示すために、まずは彼女との距離を十分にとる。そして床に膝立ちになり、両手を上げて、穏やかな口調と症状で質問した。
とにかくレミと名乗った女性は、ちゃんと言葉は通じるし、僕に害意を持ってはいないようだ。だとすると、この現地の人との最初の出会いを大切にすれば、異世界で生きのびられる可能性はアップする。
「えっと……どこと言われましても」
僕の焦りを受け流すように、おっとりした口調でレミは答えようとすると、別の声が彼女の返事に被さった。
「ここはザイメル王国内、テスカ伯爵領、そしてニカ商会のテントの中や」
レミのほんわかした口調とは違う、凛とした声のエセ関西弁が後ろから聞こえた。
(他にも人がいるのか! けど、なんで関西弁?)
慌てて振り返ると、そこには二人の女性が立っていた。
「で、誰やお前は? この大商人ニカのテントで、何をしとる?」
エセ関西弁の女性は、僕を訝しげに睨みつつ、そう質問してきた。
ニカと名乗った自称大商人は、ぱっと見は小学校高学年ぐらいの少女。銀色のおかっぱの髪に、シンプルな外見の白い服、そして、その真紅の瞳の持ち主だった。
もう一人の女性は、僕より年上の二十代半ばぐらい。綺麗な金髪ポニーテールの青い瞳の長身女性で、ところどころに革のつぎ当てがついた、作業着のような服を着て、ゲームや映画で戦士が持っているような西洋風の剣を腰に携えていた。
シャッ。
金属が擦れる音が響き、女戦士は剣を僕の鼻先に突きつけた。
その鋼の冷たい輝きと重量感は、コスプレ用の模造品とは思えない。どう見ても、本物の剣。
「盗人なら、斬る」
女戦士は、刃のような冷たい視線で僕を睨み、静かな口調で詰問してきた。
何もわからない世界に来たばかりで、早くも僕の命は風前の灯となった。