プロローグ
「は〜気持ちいい」
ベッドでうつ伏せに寝ている沙耶香さんが、満足げに僕に声をかける。
「けど、もう少し奥まで圧をかけて。指だけで押すんじゃなくて、重心の移動をちゃんと利用して」
と、彼女の具体的なアドバイスを聞いて、僕はもう少し彼女の背中に圧をかける。
「こんな感じですか?」
「うん、いい感じ。芳之くんも、だいぶん上達したね」
僕の指圧に対して、沙耶香さんは満足げに返事をした。
「あとは、専門学校を卒業して国家資格を取るだけだね」
と、来年からの僕の進路を引き合いに出す。
「そしたら、僕も沙耶香さんの役に立てますか?」
「今でも、うちのお店にはなくてもならない存在だよ、芳之くんは」
指圧の練習が終わり、ゆっくりと体をベッドから起こすと、沙耶香さんは満足げな笑顔を僕に向けてくれた。
日頃はちょっときつい感じの美人が見せる、柔らかな笑顔、そしてTシャツ一枚の無防備な姿に、僕はつい照れ臭くなって顔を赤らめる。
僕の名は傍士芳之
中学の時に事故で両親を亡くし、唯一の親戚である沙耶香さんに引き取られて、この店を手伝いながら高校に通っている。
そして僕のマッサージを受けていた月夜見沙耶香さんが店長を務める『さわやかマッサージ』に住み込みで働いていた。
マッサージ師は沙耶香さん一人の女性専門のマッサージ店だが、なかなかの繁盛店。
そんな彼女に、僕は定期的にマッサージの技術と知識を教わっていた。
「ん、だいぶん肩が軽くなった」
そう言いながら、沙耶香さんはゆっくりと自分の肩を動かし、僕の指圧の効果を確認しする。
「沙耶香さん、一人で頑張ってますから。どうしても疲れが溜まるんですよ」
「ふふふ、今は一人じゃないから」
嬉しげに微笑んで見せる沙耶香さん。
「芳之くんがウチに来てから、事務仕事と家事を任せられるんで、私もだいぶんストレスなくなったよ」
僕がこの店で担当しているのは、裏方の事務仕事や家事全般。女性専門店ということで、僕がお客さんの前に姿を見せることはない。
ただ沙耶香さんはマッサージ師としての腕は超一流だが、家事や事務仕事はからっきし。
僕がこの家に来た時には、二階の住居には洗濯物や食器類が、事務机の奥には無造作に放り込んだ領収書が溜まっていた。
「芳之くんが帳簿つけてくれる前は、確定申告がくる度に『世界が滅びないかなぁ』って思ってたし」
「物騒なことを思わないでください」
と、僕は彼女がお客さんには見せない雑な一面に、乾いた笑いを浮かべた。
そして沙耶香さんは、ふと嫌なことを思い出したように、苦々しくぼやいた。
「あとは変な男さえ寄り付かなきゃ、ストレスフリーの生活を送れるんだけどなぁ」
沙耶香さんは今年三〇歳になる独身女性だ。
すらっとした長身に、メリハリのある体格。
少しきつい顔立ちだけど、ふと笑った時に誰よりも優しい表情になる美人だ。
そんな彼女と少しでも仲良くなりたくて、客を装ってやってくる男は後を絶たない。
僕だって、親戚でなければ、恩人でなければ……例えばもし、沙耶香さんのような美人が教師だったら、ドキドキして授業にも集中できないだろう。
「ああ言った男に近寄られるのが嫌で、女性専用店にしたのに。あ、もちろん芳之くんは、別だよ。私の親戚だし、何より誠実で信頼できる」
(そう言ってくれるのは嬉しいけど、もう少し僕も男なんで、もう少し警戒してくれたほうがこっちもありがたいんだけど)
と、仕事が終わり、ジャージとTシャツだけの沙耶香さんを見ながら心の中で呟く。
この彼女の警戒心の甘さが、結果的に変な男を寄せ付けてしまうんだろう。
これだけ美人で優しく経済的に自立している沙耶香さんだが、周囲には恋人などの男性の影は全くみられないのは、過去に色々と嫌な思いをしたんだろうとは察しがつく。
(だから、僕が沙耶香さんを支えないと)
彼女は天涯孤独ななった僕に居場所を与えてくれただけでなく、絶望の淵に沈んでいた僕に、生きる方向を見つけさせてくれた大切な女性だ。
今はまだ、頼りない存在かもしれないけど……いずれは。
「あ、そうだ。プリンが食べたい! コンビニの新商品」
いきなり、沙耶香さんが言い出した。
すらっとした見た目からは想像できないが、彼女はかなりの甘い物好き。
「午前中にお客さんと話題になってね。特別に育てた卵だけ使った限定品で、すごく美味しいらしいの」
彼女は、キャッキャした感じでそのプリンの説明を始めた。
普段の食品などは格安スーパで倹約している彼女だけど、コンビニスイーツは別で、日常でのちょっとした贅沢らしい。
となれば、僕の取る行動は一つ。
「じゃあ、買ってきますね」
「ごめんね、いつも急にスイーツが食べたくなって」
「それも沙耶香さんのストレス発散の一つですからね。パッと買ってきて、そのまま夕飯作ります」
僕としては、こんなことでも彼女の役に立てることが嬉しかった。
ひょっとして、パシリ体質があるのかも。
「あ、ちょっと待って!」
店を出ようとした僕に、沙耶香さんが急に声をかける。
「芳之君……その……いつもありがとね」
たかがプリンひとつで買い物に行かせるのが申し訳なく感じたのか、彼女は少し顔を赤らめてお礼を言ってきた。
「こんなガサツな私だけど、これからもよろしくね」
急にしおらしくなった沙耶香さんの態度がおかしくて、僕はつい吹き出してしまう。
「僕はずっと、ここにいますよ」
沙耶香さんが言っているのは、僕の春からの進路のことだろう。
僕は現在高校三年生。来春からはマッサージ師の専門学校への入学が決まっている。
日本には「指圧あん摩マッサージ師」という国家資格があり、その受験資格を得るためには専門学校に三年通う必要があった。
正直なところ、国家資格を持っていなくても「整体」「ほぐし」「ツボ押し」など、法律に定めのない言葉を使い、施術業を国家資格なしで施術業を営んでいる人も多い。
だけど僕は……沙耶香さんをこれからも支えるために、国家資格はちゃんととっておきたかった。
愛情を持って育ててくれた両親の元、全てにおいて平均的な成績の僕は、将来の目標も持つことも特になく、平穏な日々を過ごしていた。だけど両親を亡くし、沙耶香さんに引き取られてからは、特に将来の 目標もなかった僕はマッサージ師を目指し始めた。
その理由は簡単だ。
沙耶香さんへの憧れ、そして彼女に認めてもらいたい想い。
十二歳という恋人というには少し離れているし、親子ほどでもない微妙な年齢差。
だからこそ変に異性として意識をすることもなく、尊敬の対象として彼女の役に立ちたいと思うようになった。
そしてその想いは、ずっと変わることはない。
「よかった。芳之くんが専門学校に受かったのは嬉しかったんだけど……今朝、急に私の前からいなくなる夢を見ちゃって」
「意外に心配性なんですね。大丈夫、僕はちゃんとここに戻ってきます」
「私、ずっと一人で生きてくと思ってたけど、家族ができて嬉しかったの。だから、芳之くんはずっとここにいてね」
僕がマッサージ師になっても、女性専門のこの店で働くことはできない。おそらく、どこか他の店で働くことになるだろう。
だけど僕に取って師匠と呼べるのは、沙耶香さんだけ。
そして僕が戻ってくる場所は、ここしかない。
「じゃあ、プリン楽しみに待っててくださいね」
「うん、芳之くんの帰ってくるの、楽しみにしてるから」
僕は、そう沙耶香さんに告げ、ウエストポーチに財布とスマホをしまうい、コンビニに向かう。
そして無事プリンを購入した後、帰宅途中にトラックにはねられ、死んだ。