妻の爆発的な、
ラストです。
「別に、どこにもいかないから。」
香澄は、行き先を気にしていそうな隆二にそう告げた。
香澄が隆二を連れ出したのはゆっくり話をしたいからで、隆二の車を選んだのはなるべくリラックスして欲しいから、運転を買って出たのはこれからする話に集中して欲しいからなのだが、今のところ全て裏目に出ているようである。
ため息をつきそうになるのを我慢する。決して隆二に対して呆れているわけではない。
香澄は美人だ。傲慢のようだが、この顔でずっと生きてくれば、自分の容姿が優れているということぐらいどんなにぼーっとしていてもわかる。
だからこそ、香澄は本当の意味で他人に、特に異性に気を遣ったということがない。どんな時でも、下心ありきだとしても、一定の配慮と気遣いを受け取る側だった香澄には、こういうとき、相手の緊張をほぐす術がわからない。
隆二にいつも助けてもらってばかりだからこうなるんだ。
香澄は、唇を強く噛みながらウインカーを出した。
予定ではもう少し早く隆二に話を切り出して、何かいい感じになって、ご飯でも食べようと思っていたのに、まだ、会話を始めることすらできないでいる。
簡単な話なのだ。
いつも助かっている。本当に感謝しているし、何より尊敬している。家のことも朱莉のこともそうだし、仕事のことだって、香澄が隆二と同じ会社に入って隆二と同じだけの成果を出せるのかと言われれば、はっきり言って自信はない。
すごいと思っているし、感謝しているし、愛しているし、そもそも好きなのだ。
大学の時気になって、話しかけてデートして。初めて自分からアプローチした相手が隆二なのだ。
真面目で誠実で、でも意外と俗っぽくて、私の顔や体が好きだけど、同時に中身もちゃんと尊敬してくれている隆二が好きで好きでたまらない。
外見だけで判断されることも、「逆に」中身を重視するようなスタンスも飽き飽きしていた香澄の前に唯一現れてくれた人なのだ。
香澄は馬鹿でも鈍感でもない。何に隆二が悩んでいるかはわかっている。
劣等感。
きっと彼が感じているのは、収入だとか、見かけだとか、匂いだとか、そんなことだ。それらが香澄と比べて劣っているということに強く強く苛まれている。
道が悪くなり、ガタガタと車が揺れだした。香澄はハンドルを強く握った。
楽観的な香澄と比べて、隆二はとことん悲観的だ。
それを悪いことだとは思わない。どんなことも最悪の場合を想定して動く夫は、本当に頼りになる。
朱莉がまだ本当に幼い頃、何度か病気に罹ったことがあったが、彼は冷静に、てきぱきと対処し、母娘共々安心したのを覚えている。
大学の頃からそうだった。
あんなにまじめに講義に出ているのに、留年を怖がる隆二を少し滑稽に思えたこともあったが、それ以上にその慎重さに助けられることの方が多かった。
給付の奨学金、授業料の減免制度なども彼から教えてもらったし、就職活動を始めるのも誰よりも早かった。
金がないと言ってバイトに勤しむ割にその稼いだ金を飲み会なんかで浪費する馬鹿な連中とは一線を画す大学生活を送っている彼が恋人であることが誇らしかった。
けれど、人の特徴はいい面もあれば、悪い面もある。
やっぱりちょっと考えすぎちゃうんだよな。
彼は自罰的だ。上手くいかない理由を自分に求める。その気高い考え方は、往々にして彼の心身を蝕むことがある。結果、どうしようもない穴、沼にハマることがたまにある。
それを助けるのが妻の仕事だと香澄は考えている。けど、上手くできない。数えきれないものをもらっている夫に、何も返せないのがもどかしい。
「あのさ、」香澄は話しかけた。
どうしよう。なにもまとまっていないのに。
「うん。」答える隆二の声色は、やはり優しい。
その優しさに、香澄は泣きそうになった。
優しい彼を、かえって傷つけてしまうかもしれない。本当は、黙って過ごすのが無難なのかも。
迷いが消えなかった。
場を、沈黙が支配する。
なんとか香澄が言葉を探していると隆二がかすれた声で言った。
「ごめんね。迷惑ばっかかけて」
その言葉で、香澄の中の堰が切れた。
この男は。この男はこの期に及んでまだ謝るのか。訳も言わずにつれだした女に、妻だからって普段から夫に甘え切っている自分に、こんな気まずい雰囲気にしている張本人に謝ると。
隆二は私のことをお姫様だと思っているのかもしれない。それは嬉しいけど、だったらこっちにも言いたいことがある。
「最近元気ないじゃん。」香澄は、もうはっきりと言った。
香澄の言葉と声色で、隆二が息を呑んだのがわかる。
言ってほしくないだろう。香澄だって、落ち込むことはあるし、そういうときはそっとしておいて上でさりげなく優しくしてほしいタイプだし、隆二はいつもそうしてくれる。
これは、自分のエゴなのかもしれないと香澄は思った。
思ったが、そんなことはもうどうでもよかった。
だって、香澄は隆二のことが好きで愛しているから。
「隆二が気にしていることはわかってる。給料とか顔とか体型とかが私と釣り合わないって思ってるでしょ?」
返答を挟ませずに、香澄は続ける。
「それはいいの。だって、それは隆二にとって本当に大切なことで、そうやって苦しいことから逃げないでずっと頑張ってきたから今のかっこいい隆二があると思うから。」
いつもそばで見てきた隆二の姿を思い浮かべる。ずーっと耐えて耐えて、絶対に最後は「形にする」隆二の姿。育児も、料理も、仕事だって初めてなのに全部逃げずに向き合って乗り越えていく背中。
香澄にとって一番頼もしい、安心と幸福と、大好きだという興奮をくれるその姿。
香澄は涙ぐんでいた。
「でもね、でも、知っておいて欲しいことがあるの。どうしても隆二の頭の中の真ん中に置いておいて欲しいこと。」
香澄は息を吸って、ゆっくり吐いた。
「好き。本当に好き。あなたは私にとって最高の人。尊敬してる。」
「いつも助かってるし、これからも助けてほしいし、その分何かあったら寄りかかってほしい。これは上から言ってるんじゃないの。なんていうかこう、上とか下とかじゃなくて、好きだから言ってるの。」
香澄はもう止まらない。
「あなたのことが好きで大切だから、あなたが苦しそうにしてるのはつらい。だから、もっと頼ってよ。カッコ悪いとか思わないから。というかいつも滅茶苦茶かっこいいから。」
香澄は、ハンドルから片手を離して涙をぬぐい、垂れてきた鼻水をすすった。
「あなた、私のことをお姫様だと思ってない。そして自分のことをそれを支える騎士?いや、あなたのことだからオタサーの姫とオタクとか?」
「全部違うよ!!!」
香澄は叫んだ。
「あなたは、私の王子様なの!恥ずかしいから言わなかったけど、私の方があなたを好きなんだから。だって考えてよ、体は大きくてがっしりしてるし、誠実だし、頭もいいし、なんでも真剣に考えてくれるから頼りになるし、嘘でしょってくらい私に甘いし。」
香澄は続ける。
「朱莉が生まれた時だって、全部全部調べてくれて、育児のことも、私の身体のことも、私のキャリアのことだって考えてくれてるし。そのうえ自分はちゃんと働いて出世してるし、家事もして、朱莉だってあなたのことが大好きだし。」
「あと私のお父さんとお母さん。あなたは引け目を感じているようだけど、二人ともあなたのこと大好きだから。お父さんの趣味に合わせてゴルフと将棋を始めて、ちゃんとどっちも上手くなってるし、お母さんと一緒にデパートに買い物行くとき、あの人がどんだけ浮かれた連絡を私によこすかあなた知らないでしょ?私のなんですけど!!」
香澄は鼻の穴が膨らんでいた。
「なんかさ、どうせ私に周りにいたどうしようもない男がなんか言ったんだよね?隆二優しいからさ、いちいちちゃんと聞いちゃうじゃんそういうの。一度聞いたことがあるよ私も。この際言うけど、隆二のことヒモだってさ。」
香澄は大きく息を吸いこんだ。
「絶対違うよ!!」
「だって、私が、あなたに、よりかかってるんだもん。偉そうに言うことじゃないけど。今の生活だって全部あなたの収入でやってるじゃん。しかもやりくりもしてくれてるし。私の欲しいものは言わないでも買ってくれるのに、自分の欲しいものは何も買わないでさ。」
「わたし、あなたによりかかったことはあっても、よりかかられた事は無いよ。それが悲しいって話なんだけど。」
「私はさ、ずっと甘やかされてきちゃったの。だからさ、あなたに、隆二に何もしてあげられなくて、今回だって隆二がこんなになるまで気づかないで自分だけへらへらしてさ、どっちが妻失格、夫婦失格だって話だよ。」
「あと、私は隆二の顔と匂いが一番好きだから!!!!」
香澄は、右手の手首のあたりで顔全体に広がった涙をぬぐった。
「私は、あなたが好き。愛してる。それは、あなたが私にとって一番だから。」
香澄は隆二に尋ねる。
「私にはあなたがいないとダメなの。…わかってもらえたかな。」
笑いながら、泣きながら、嬉しそうに恥ずかしそうにうなずく隆二を横目で見て、香澄は小さく微笑んだ。
車はいつの間にか、3人で暮らす家へと進行方向を変えていた。
香澄はいつものように、リラックスして片手で運転する。
「ご飯どうする?」
「あ、作ってるよ。あとビールある。」
軽自動車の車内は狭い。2人の距離が近いことが、香澄も隆二も嬉しかった。
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