怒る妻
香澄は隆二のことが心配だった。
仕事を終え、助手席に荷物を載せて家までの道のりを車で走りながら、香澄はため息をついた。
収入のことを気にしているのだろうか。たしかに香澄が隆二の収入を超えたとき、彼は悔しいとはっきり言った。でも、確かに悔しそうではあったけれど、あんなふうに虚ろな目をするような感じではなかった。香澄は隆二がそういう負の感情を誤魔化さないのが好きだった。見栄をはりたいということさえ隠さず、本当の意味で見栄をはらない彼といるのが好きだった。
隆二とは、大学の時に出会った。
単位が確定し、出席する必要がなくなった講義に気まぐれに出た時に、最前列で教授に相槌を打っていたのを見たのが彼を最初に意識した瞬間である。
学部、学科が同じだったこともあり、折に触れてメッセージアプリでやり取りをする機会があったが、普段自分に言い寄ってくる男とは違い、必要事項以外全くメッセージを送ってこない彼がなんだか無性に気になった。
それから彼をデートに誘い、食事、映画、水族館、ショッピングなど色々な場所で時間を共にする中で、彼のことを好きになっていった。
隆二は、卑屈ともいえるほど自分に自信がなかったが、それ以上に他人に優しい人だった。
デートに誘うのも告白するのも、セックスをするのもすべて自分からだったが、そんなことはどうでもよかった。
香澄は、自分を尊重してくれて、受け入れてくれる隆二を愛していた。
お互い就職活動をしている時、香澄は隆二に相談したことがあった。自分が本当に入りたい会社は不安定で、本当に入社していいのか迷っている。大企業の方がいいんじゃないか。そんな感じのことを喋ったのを覚えている。ほとんど愚痴のようなものだったと思う。
彼は、口を挟まず最後まで聞いてくれ、「どちらがいいのか僕にもわからないけど、僕は君がしたいことを応援したい。」と、柔らかい笑顔で香澄に言った。
隆二は、上からアドバイスするのではなく、常に隣に立って意見をくれた。
香澄は、あの時の隆二の言葉があって、今の自分があると思っている。
子どもができた時も、出産してからも、自分のことは後回しで、香澄、そして朱莉のことを優先して考えてくれる。
職場の同僚や先輩が自分の夫への悪口を漏らし、隆二のことを羨むのを聞くと、香澄はいつも誇らしい気持ちになっていた。
香澄は、隆二を尊敬していた。年収なんかでは測れない人としての価値を隆二に感じていたし、愛していた。
それに、社会人としても隆二は優秀だった。自分にはやりたいこともないから、と大企業に就職した隆二はすぐに会社に順応し、課長にまで出世した。自分が役員になって初めてわかるが、隆二のように上司の飲みに付き合わないタイプがすぐに出世するのは本当に信頼されているからである。
自分は課長どまりだと隆二は謙遜していたが、上下関係が厳しい大企業で若くして出世する難しさを香澄は良く知っていた。取引先として大企業の上役とやり取りをすることがあるが、彼らの頭は一様に硬い。そんな中で生き抜く隆二のことを、香澄は尊敬していた。
それだけに、最近の隆二が心配だった。それも、主に心が。
朱莉が生まれて、お互いの育休が終わってすぐは、仕事をしながら家事のほとんど全てをこなす彼の体が心配だった。自分も手伝わなければならないという思いはあったが、仕事終わりに、片付いた部屋と暖かい料理、可愛い我が子と愛する夫が迎えてくれ、食事を済ませてまどろんでいる間に片付けが終わっているという毎日が幸せすぎてつい隆二に頼り切りになってしまっていた。
すると、香澄が葛藤している間に、隆二は仕事と家事を完璧に両立させ始めた。成長した朱莉に赤ん坊のころ程手がかからないというのもあったが、それ以上に隆二の適応力がすごかった。
仕事から帰ってすぐにだらけることなく家事を片づけていく彼に香澄は惚れ直した。
最近は香澄が帰ってくるとゆっくりとテレビを見ていることも増え、安心していた。
おかしいと気づいたのは、先週のことだ。
その日、いつも通りにただいま、と言っても返事がなかった。時間的に朱莉は寝ているとしても、隆二から返事がないのは変だ。
リビングに向かうと、虚ろな目でテレビをザッピングする隆二の姿があった。
付き合ってから今まで、香澄が隆二のそんな姿を見たのは初めてだった。
その日から、隆二を注意して見てみると、色んな所が少しずつおかしくなっているのがわかった。
まず、自分の話をしなくなった。隆二はもともと自分のことをあまり話さない人ではあったが、ここまで徹底して自分の話をしないことはなかった。
そして、付き合い始めた頃のように、体臭を気にしていることが分かった。
彼がとてもコンプレックスに感じている体臭だが、香澄は出会ってから一度も彼を臭いと思ったことはない。隆二は多少汗かきではあったが、その汗のにおいはむしろ好ましいもので、香澄は大柄な彼に抱きしめられるのが好きだった。
香澄が初めて夜に誘ったとき、隆二は恐る恐る、優しく自分に触れた。抱きしめて、キスをしてと言っても、彼は応じなかった。
理由を聞くと、自分は汚い。それに臭う。君を汚したくないと言う。
香澄は腹が立った。
優しくて卑屈な彼のことだ。誰かに言われた臭いという言葉をずっと気にしているのだろう。
香澄は、臭くない、汚くない、愛していると繰り返し囁いた。囁くたび、隆二がくすぐったそうに、そして嬉しそうに笑うのを見て胸が高鳴った。囁くのを続けていると、隆二が少しずつ香澄の要望に応じてくれたのを覚えている。
彼に罹った呪いを解いてあげられた気がして嬉しかった。
結婚してからも、朱莉が生まれてからも、隆二が自分のことを抱きしめてくれるのは信頼の証だと思っていた。
それだけに、隆二が再び体臭を気にしだしたのは香澄にとってショックだった。会社で何か言われたのだろうか。
思えば、隆二から愚痴を聞いたことがない。さっきも言ったように隆二が自分の話をしないということもあるが、それ以上に彼は何か悪いことがあるとその原因を自分に求めるところがあった。
きっと隆二は、自分を責めている。前にも似たようなことはあった。
香澄の容姿は美しく、言い寄る男は後を絶たなかったため、おとなしい隆二と付き合い始めた時は周りからは意外だとか似合わないだとか色々なことを言われた。
香澄でさえそうだったのだから、隆二はもっときつい言葉を言われていたのだろう。一度、別れを切り出されたことがある。
君にふさわしい男になれないと、あの時の隆二は言った。
香澄は、勝手なことを言うなと激怒した。ふさわしいから好きになったんじゃないと泣きながら喚き散らすと、隆二はポカンとしていて、それにまた怒って収拾がつかなくなった。
あの時、もっとはっきりしておくべきだったと香澄は思う。隆二は自分にとってかけがえのない存在なのだと。
この世界に家事も育児も完璧にこなして、安定した仕事に就いて、妻の話も娘の話も笑顔で聞いてくれる夫がどれほどいると思っているのか。今乗っている車も、隆二が乗っているよりずっと大きくて高級なものだ。
二人で相談して車を買う際、敏腕美人役員が乗るんだからと、隆二に言われ、香澄が思っていたよりずっといい車に乗ることになった。自分の乗る車は軽自動車なのに、似合っているねなんて言ってくれる夫の素晴らしさを、本人にわからさなければならない。
香澄は、ハンドルを握る手に力を入れた。家に着くまでまだ少しかかるが、わからずやの夫への愛ある怒りが香澄の中で燃え上がっていた。