脱出
老人の言う通り、外は真っ暗闇だった。旅館の前庭はともかく、一歩そこから外に出ると、足元すら影と同化してしまう。ことに斜面を歩くのは一歩一歩小刻みでないと滑落しそうだった。一分一秒でも早く、一歩でもあの旅館から遠ざかりたい。はやる思いとは裏腹に、芋虫のような歩みの遅さにもどかしさが募る。
――じゃらじゃらじゃら。
そこに背後から砂利を混ぜるような音を立てながら、低い唸り声を上げた何かが動き始めていた。
ハッとして振り返った私の目にちらと一条の光が映る。その光は唸り声とともに動き、徐々に旅館の前庭からこちらに迫ろうとしている。
追いかけてきた。
考える前に私の足は動いていた。縺れそうになるのを堪え、情けない恰好で前に倒れこむように走った。
山道を下り降りると、私はすぐそこの草むらに飛び込むようにして身を潜める。
それと光が完全にこちらを向いて坂道を下りだすのと、ほぼ同時だった。唸り声を上げた四足の鉄の獣は、眼光鋭く私の隠れた草むらを照らす。
上がった息を手で押さえてどうにか殺す。光はどんどん私に迫る。あまりのまばゆさに目を細めた。
獣はそのままゆっくりと私の前を通り過ぎた。操っていたのはあの老人だ。固まった笑顔がヘッドライトの中に浮かび上がっていた。
きょろきょろと首を回しながらのろのろと車を進めている。やはり私を捕まえに来たのだと悟った。
車がそのまま橋を渡って駅に向かうのを見送ってから、そのあとを追いかける。スマートフォンの時計を確認した。
午後九時十分前。最終列車は九時丁度発。立ち止まっている余裕はない。
橋は来た時とはまるで別物のように長く感じたが、そこを通り過ぎると、肩にのしかかっていた重さが取れたような僅かばかり晴れやかな気持ちになった。振り返ってライトアップされた旅館を見上げると、あそこに残してきてしまった二人のことが悔やまれる。しかし、戻ろうとはどうしても思えなかった。そんな時間もない。
暗闇に包まれた商店街をできるだけ足音を殺しながら、できるだけ早足で抜ける。駅はもうすぐそこだ。電車の到着まで後五分。
助かった。安堵したのも束の間。
後ろから光を浴びせられた。
口の中が渇く。反対に額から汗が垂れた。
背後から男の声がする。
心臓が早鐘を打った。どくんどくんどくん。
それなのに靴がアスファルトにくっついたかのように動かない。
振り向いた私の目に、光を反射する刃。鋭い切っ先がピクリと動いたその瞬間。
――ガタンガタンガタン。
列車の足音が迫る。その音はすぐにブレーキの悲鳴に掻き消される。
駅舎の向こうに止まったそれは、まるで極楽から垂らされた一本の蜘蛛の糸のように光って見えた。
そろりそろりと迫っていた背後の男に気付き、私は列車に向かって駆けだしていた。
こんなに走ったのは高校卒業以来だろうか。
後ろで男が大声を上げて私を引き留めようとする。
肺も心臓も悲鳴を上げているが、足を止めれば彼らはその文句すら言えなくなる。
あと少しあと一歩と頭の中で繰り返しながら、駅舎を通り過ぎ、ホームに駆け込む。開いていた扉から明るい白色蛍光灯に照らされた空間に飛び込む――。
飛び込むと同時に、後ろで扉が閉まった。閉まった扉の向こうに、笑顔の老人が佇んでいた。何も言わず、何もせず、そこに立って、私をただ見ていた。
電車が動き出しても、彼は微動だにせずに、最後まで私にその笑顔を見せつけていた。しかしそれも長くは続かない。彼の顔が消えると、あとは輪郭だけの山々の姿が、闇の中で窓を横切るのみだった。
荒れた息を整え、私は空いているボックス席の窓側に座った。荷物を通路側の席に置き、窓外の暗闇を暫し眺める。
窓の反射に背後から迫る車掌の姿が映った。
「切符を拝見いたします」
しまった。乗り込むので精いっぱいで、切符まで頭が回っていなかった。しかしそれも、命あっての物種。
波乱を乗り越え、密かに昂揚している今の私は、お金で解決するのなら、いくらでも支払いたい気分だった。
「すみません、買い損ねてしまったので――」
振り返った私の目に、人形の顔をした車掌が立っていた。虚ろな目がこちらを向く。布でできた白い手が伸びた。
「切符を拝見いたします」
*
ハッとして目を覚ますと、既に列車は終点に着いていた。
全身から粘っこい脂汗が流れている。服が貼りついて気持ちが悪い。もう一度お風呂に入り直したい気分だった。それを我慢して席を立つ。
電車の外で乗客から切符を受け取っている車掌の顔は、疲れた様子を見せながらも、人当たりの良さそうな自然な笑みを浮かべている。人間の顔だ。家に到着したわけでもないのに、帰ってこれたという心地がした。
電車を乗り継いだが、新幹線は既に最後の便が出ていた。その晩私はビジネスホテルに泊まって泥のように眠った。
翌日にはアパートに帰ることができたが、どうしたものかと考えあぐねていた。
あの旅館や温泉街で起こった一連の出来事を、警察に連絡すべきなのかどうか。
話したところで頭のおかしな人間の妄言と一蹴されるのがオチ。あるいは最悪、逃げ帰ってこれたというのに、鉄格子のついた病院の中に収監されてしまうかもしれない。
それでも残してきた二人が気懸りだ。スマートフォンで連絡を入れても返事がなかった。だが一体どうすればよいのか。
そんな堂々巡りをしているうちに連休が終わってしまい、いつものごとく人間の荒波に揉まれて仕事を始める日々が始まった。
しかし、私の考えは杞憂だったようだ。
会社に行く途中で偶然二人に出会った。二人ともいつもと同じように化粧をし、いつものようにビジネススーツを着て、いつものように談笑している。
そこに何らおかしなところはない。警察に連絡しなくてよかった。
「ていうか、あんた確か旅行の途中で帰ったよね。あれ、仕事じゃないでしょ」
暫くは休み中の出来事で花を咲かせていると、友人の一人が唐突にそう訊いてきた。彼女にはお見通しだったらしい。
今なら笑い話にできるかもしれない。全てを打ち明けようとした私は、初めから思い出そうとして、はたと思考が停止した。
ところでこの友人の名前は何だっただろうか。何がきっかけで出会ったのだっただろうか。どうして彼女たちと旅行に行ったのだろうか。
今まで疑問にもならなかったはずの疑問が堰を切ったように溢れてきた。
あの旅館でチェックインしたところを境に、記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
その前に私はどこで何をしていたのだろうか。私はどこに勤めているのだろうか。これからどこに向かえばよいのか。
私は一体どこの誰なのか。私の名前は。私の――。
視線を落とした先にある私の両手は、やけに白く、やけに細く、触るとぐぬぐぬと柔らかいのと固いのが綯い交ぜになったような感じがした。




