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悪寒

 記憶の旅路から戻ってきた私は、気付くとロビーのソファに身体を埋めていた。


「あっ、大丈夫?」

「気が付かれましたか」


 私を覗き込む友人と法被の老人。

 謝りながら慌てて起き上がったが、まだ少し心臓の脈動を強く感じる。それは私の分身の入ったバッグが目の隅に映りこみ、倒れる直前に目に焼き付いた光景が一瞬フラッシュバックしたからかもしれない。


「長旅で疲れが出たのでしょう。お部屋にご案内いたしますから、お風呂に浸かってゆっくり休まれたほうが良いかと……」


 老人の気遣いに頷くと、四十代くらいのガタイの良い男性がフロントの奥から現れた。彼は私たちの荷物を担いでロビーの奥へと続く廊下に向かった。その後に従いながら、私たちは階段で二階に上り、廊下の突き当りの部屋に通された。

 男性従業員が障子のようなデザインの扉を開けると、まず木と畳の香りが肺に流れ込み、自然と気持ちが落ち着いた。落ち着いた色合いの大理石の土間。八畳ほどの和室には茶菓子の置かれた座卓。一般的な旅館と同じく、その奥に広縁。さらにその窓の向こうには寂れた温泉街が広がっていた。これもまたネットの情報通り。少なくとも心配していた写真詐欺の問題はなさそうだ。

 荷物を丁寧に置いた男性は笑みを湛えながら、簡単に部屋の設備の説明と、大浴場と食事処の場所、夕食と明日の朝食の時間と、一通りのことを告げると部屋を出て行った。

 それを確認してから、ふんわりと厚みのある座布団の敷かれた座椅子に座り込み、私たちはようやく脚を延ばして一息つくことができた。


「なんだ、思ってたより全然いいじゃん」

「ほんと、心配して損した感じ」

「ね、ね、人形、見てみない?」


 友達の一人が口にした言葉に、私の身体は内からぞわりと震えた。腕に鳥肌が立っているのが、服の上からでも透けて見えそうだった。否が応でも脳裏に浮かぶのは、暗闇から覗き込む、光を失した一際濃い闇を漂わせた黒目。生々しい記憶の中で、今またその瞳がこちらを捉えたような気がした。

 途端、私はそれを追い払うように頭を振った。


「それよりもさ、温泉入ろ? 私、やっぱ疲れちゃったみたいだし」


 先程倒れたことも相まって、二人も渋々了承し、私に付き合ってもらうことになった。とは言え彼女たちは一刻も早く自分の身代わり人形を一目見たかったようで、文字通り後ろ髪を引かれているかのように、大浴場へ向かう道すがら、何度も何度も部屋の方を振り返っていた。

 大浴場にも他の客の姿はなく、広い湯舟は貸し切り状態で、石のように凝り固まった身体をほぐすには打ってつけだった。露天風呂もかなりの広さがあり、私たちは身体を洗うと迷わずそちらに向かった。

 陽は落ちていたものの、柔らかな残照がまだ辺りを包んでいる。郷愁を誘うような雄大な山々の連なりに、鮮やかな橙の光が反射して、まるで紅葉しているかのように映えた。アパートのワンルームに備え付けられた狭苦しいユニットバスに身体を押し込めている普段とは大違いで、人で溢れた都会からようやく離れられたと実感する。この時ばかりは薄気味悪い人形のことなど、頭の中からすっかり消え失せ、いつものように友人との他愛もない世間話を心底楽しめた。

 しかし、そんな時間稼ぎも長くは続かない。これ以上居たら湯あたりするところまで粘ったが、いい加減友人二人の辛抱も限界を迎えた。覚悟を決めつつも、彼女たちに腕を引かれるようにして自室に戻ると、もう夕飯の時間になっていた。

 私は胸を撫でおろしつつ、そのまま友人と食事処に引き返した。

 食事処の前には既に着物姿の若い女性が立っており、彼女に言われた通りに部屋の鍵を見せると個室に通された。テーブルの上は既に準備万端で、私たちが着席するとすぐさま前菜が運ばれてきた。夕食のコースで出される料理の記載された紙がそれぞれの席に置かれていたが、その品数の多さに目が丸くなる。とても格安の宿泊プランで出される内容ではない。

 前菜も一つ口にして、思わず舌鼓を打ってしまった。次から次からやってくる料理は一つ一つが趣向を凝らしてあり、見た目は当然のことながら、口腔に潜む小さな器官さえも豊かな五味で歓待してくれる。東京ではこのレベルのものを食べただけで、財布から福沢諭吉が忽然と消える。

 思い返せば、従業員が少ない割にはロビーも館内も客室も大浴場も、広いのに掃除が行き届いているし客も少なくて静か。食事は文句の付け所がなく、本当に、人形に中てられて倒れたことを除けば最高の宿だ。

 満腹中枢を刺激され、至福の極致にいた私は、件の人形さえも、暗がりでちらと覗き見たことが原因で、明るいところに晒してしまえば案外なんてことのないものだったのかもしれないと思い始めていた。

 甘味と飲み物を肴に、くだらない話をひとしきり堪能して部屋に戻ると、既に座卓は隅に立てかけられ、畳を覆うように純白の布団が敷かれていた。吸い込まれるように倒れこんだ私の身体を、充満した羽毛が迎え入れる。だんだん頭がぼんやりしてきて、瞼も重くなる。

 漕ぎ始めた船を、嬉しさを帯びた友人の短い悲鳴が引き留めた。

 何事かと思って仰向けになった体を捻り、そちらに視線を向ける。

 すると、彼女は例のボストンバッグから、自分の身代わり人形を取り出していた。彼女の顔そっくりに作られた、等身大の人形を。

 そして初めてサンタクロースからプレゼントでも貰ったかのように、黄色い声で誰にともなく、


「え、やば、凄くない、これ!」


 と大はしゃぎしている。少し度が過ぎているように思えた。


「めっちゃよくできてんじゃん。なんなら実物より綺麗、みたいな」


 茶々を入れながら、もう一人の友人も彼女に倣ってバッグから人形を取り出した。その人形の顔もまた、当然ながらその友人と瓜二つの顔をしていた。


「ほら、あんたも出してみてたら?」


 人形と並んで写真を撮り始めた友人たちが、私の方を向く。人形のほうまで私を急かしているかのように睨みを利かせて見えた。


「そ、そうね」


 圧力に負けた私はボストンバッグを手元に寄せる。

 大丈夫、大丈夫。ただの人形。ただの物。さっきはちょっとびっくりして取り乱しただけ。

 自己暗示をかけるように念じてはいるが、手は震えるどころかぴりぴりと痺れている。平静を装って、私はバッグのファスナーに手をかけた。

 私はやっとの思いで喉に引っかかった生唾を飲み込んだ。と同時に勢いよくバッグを開ける。中の物を掴んで強引に引っ張り出す。

 ほら、大丈夫、大丈夫。何も起きたりしない。


 中から出てきたものは――やはり人形だった。胴体は布か厚紙で作ったはりぼてらしい。ぐぬぐぬと柔らかいのと固いのが綯い交ぜになったような感じ。

 徐々に徐々に焦点をその顔に合わせる。私にそっくりな人形。私と同じ顔を持った。私と瓜二つの。私と同じ唇、鼻。

 視線が人形の瞳に差し掛かった時、虚無を見ているその双眸に、私は吸い込まれそうになった。

 生気を丸ごと吸い込み、私の代わりに生きていく人形。代わりに私は血の気を失い、虚ろな目のまま身体を動かすことすらできない。

 そんな荒唐無稽な想像が、弾かれたように頭に入り込んでくる。

 瞬間、私は本当に心臓から魂を抜かれてしまったかのような寒気を覚えた。湯冷めにしては異常なほどの寒気。

 手から滑り落ち、布団に倒れこんだ人形は、なんの偶然か私の方に視線を向けた。生気のないはずの白い肌が、僅かに血色を帯びたように見えたのは、部屋の照明のせいだろうか。

 人形を落とした私に気付いているのかいないのか、友人二人は良い大人の癖に人形を抱きしめたり、写真を撮り合っては嗤っている。以前は人形なんて子どもの時に卒業したと言っていたはずなのに。

 何も感じないのだろうか。乾いた二つの蠟の目が、死んだ魚のように、どこも見ていないのに私を見続けているこの感覚に。


「ご就寝の前に、こちらの人形の御召し物と、皆様の御召し物を交換なさってください。そうすると、この人形が皆様の代わりに厄を引き受けるようになります」


 フロントの老人の声がどこからともなく聞こえてくる。

 これと服を交換する――?

 視線を落とした先に倒れた人形は、薄汚れてほつれた浴衣を着ていた。これを着て、私の服を着せる――?

 生理的嫌悪感に襲われた私は、ついに胃袋が持ち上げられる感覚を覚えた。平静を取り戻すために空気を吸おうとしたが、喉元で詰まってしまう。まるで空気に浴衣の汚れが侵食し、淀んだ澱ばかりになってしまったかのようだ。異様な臭いが鼻についた。それは足元の人形から漂っているように思えた。

 思わず私は部屋を飛び出していた。そのまま階下に下りると、裏口から旅館の中庭に出た。扉を閉める間もなく、逆流した胃液が中身を伴って口から飛び出す。

 私の意識も命令も無視して出てくる物。それらが醸し出す酸い味と、鼻の奥を刺すような痛みが走る。

 夕飯を出し切るともう何も出てこなかったが、しばらくは胃が吐き出そうとしている感覚が腹の中に残り続けた。少し離れた石造りのベンチに倒れこむように腰を掛けると、横目で汚物を一瞥して項垂れた。

 さっきお風呂に入った時には、あれだけ楽しかったというのに。夕食を食べたときには、あれだけ楽しかったというのに。

 目を瞑ると、黒いもやもやが流体のように蠢く。それらがゆっくりと集合し、人形の顔形を形成する。その顔がこちらを向く……。


 どうしてこうなってしまったのか。あんなサイトさえ見つけなければ。

 そんな後悔が押し寄せてくる。

 その時、裏口と反対の方向から、異音が聞こえてきた。

 ――ざら、ざら、ことり。

 葉を擦る音、石畳の上を草履が叩く音。誰かが来ている。

 それも一人ではない。二人。ぼそぼそと話す声が耳朶を擽る。


「――久しぶりの客――」

「――大事にしないと――」


 断片的に聞こえる単語だけでは肝心なことは何も掴めない。

 息を殺しているうち、その二人が私の背後を通り過ぎる。生垣やら庭木やらのおかげで気付かれなかったのか。あるいは私の吐き出したものが目に留まったせいかもしれない。


「あらら、モップ持ってきて頂戴」


 女性の声。夕食の時にあった仲居さんかどうかまではわからない。彼女がそう言うと、連れの男が嫌そうに返事して姿を消した。


「残念ねえ、適合しなかったのかしら」


 彼女から飛び出した意味不明な単語を咀嚼していると、モップを持って戻ってきた男が彼女に向かって言う。


「――まだ二人いますから。それだけあれば、充分ですよ」

「そうねえ、合わせれば百キロくらいはありそうですものねえ。暫くは困らないかもしれないわね」


 客の誰かが嘔吐したというのに、顔色一つ変えずに男も女も淡々と掃除を進める。その声音に感情という感情はなく、まるで機械の音声のように私の耳に届いた。

 適合――、二人いれば充分――、合わせて百キロ――。

 僅かな単語が組み合わさり、万華鏡のように頭の中でめくるめく様々な光景を浮かび上がらせる。

 その光景に共通するもの。単純明快な一つの言葉。

 ここにいてはいけない。

 来てはならないところに来てしまったのではないか。最初にここに来た時に抱いた後悔が押し寄せる。

 私は今すぐ駆けだしたい思いを必死で抑えながら、二人が掃除し終わるのを待った。

 彼らが掃除道具を片付けに向かったタイミングを見計らい、急いで自室に戻る。

 部屋に入って私はぎょっとした。

 友人二人は既に就寝の準備を始めていた。自分の床に人形を寝かせている。私が落とした人形も、私の布団の上に寝かせられていた。

 人形は彼女たちの服を着て、いつの間にか友人たちは人形の薄汚れた浴衣を羽織っている。


「どこ行ってたの? あんたも早く寝る準備したほうが良いよ。疲れてるんでしょ」

「てかこれどう? 結構似合ってるでしょ」

「ね、服を交換しろって言われたときはちょっと、って思ったけど良い感じじゃん」


 二人の目には何も見えていないようだ。それどころか、私には、浴衣を羽織った目の前の友人が、ここまで一緒に旅行に来た友人なのかさえ判然としなくなっていた。布団で人形のように寝ているのが私の本当の友人だった気もする。


「ちょっと急に仕事でトラブルがあって、今すぐ帰らなくちゃいけなくなったの」


 私は彼女たちも人形も、出来るだけ視界に入れないように、自分の荷物を引っ掴んだ。風呂場で脱いだ着替えを乱雑に突っ込む私の袖を二人の腕が掴む。

 異様に細い、異様に白い肌のように見えた。ぐぬぐぬと柔らかいのと固いのが綯い交ぜになったような感じ。元からこうだったのかもしれないが、今の私には自信が持てない。


「いいじゃん、せっかくの休みなんだし」

「そうそう、一日くらい休んじゃえばさ」


 いつもの二人の声が、悪魔の囁きのように聞こえる。それを振り払い、ごめんと言いながら逃げるように部屋を飛び出した。

 フロントで出迎えたのは禿頭の老人。ここへ来た時と変わらず満面の笑みを浮かべている。


「お客様、どうかなさいましたか」


 喋っているのに顔の筋肉は動いていない。笑みは顔に貼りついた偽物だ。


「今から、ですか……。暗くなって危ないですから、駅まで車をお出しいたしましょうか」


 急な出立をいぶかしむ様子もなく、ただただ残念そうな声音だが、やはり表情はピクリとも動かない。

 どこかに連れ去られても困る。

 私は丁重に断り、料金を支払うと振り返ることなく旅館を後にした。

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