到着
「こちらが皆様の身代わり人形で御座います」
旅館の名が記された法被を着た、禿頭の小柄な老人は、愛想のよい笑顔を満面に貼り付けて大きなボストンバッグを三つ、カウンターの上によいせと載せた。
「ささ、どうぞ」
促されるままに、私たちはそのバッグを手に取った。見た目ほど重くない。私は興味本位でファスナーに手をかけた。バッグの中がロビーの明るい暖色照明を浴びて、徐々に詳らかになる。光沢を失った安物の合皮。その間の暗闇から姿を現した『それ』に、私は少しばかり息が止まった。死人のように血色の薄い肌。生者のように艶やかな髪。その隙間から、焦点も合わない虚ろな瞳が二つ、私を覗き返していたのだ……。
反射的に視線を逸らし、慌ててファスナーを閉じた私の心臓は高鳴り、背中からは嫌な汗がじわりと滲み出た。
「ご就寝の前に、こちらの人形の御召し物と、皆様の御召し物を交換なさってください。そうすると、この人形が皆様の代わりに厄を引き受けるようになります」
旅館の館内を説明するのと同じ口調で、何でもないような平然とした調子で、その老人はやはり笑みを浮かべながら語った。その言葉は、徐々に徐々に遠ざかっていく。
反比例するように、心の内から自分の声が聞こえ始め、老人の声を押し流していく。
見てはならないものを見てしまった。来てはならないところに来てしまった。
なぜかはわからないが、そんな後悔が頭の中に閃き、こだまのように反芻する。
こだまは脳内に拡散し、共鳴する。その共鳴は私の記憶を掘り起こし、過去への扉を開けた。
*
春の大型連休に、いつもの面子で向かう宿を決めようと、とにかくネットで情報を漁っていた時に、とあるページが目に留まった。紹介画像を見た限り、いかにも鄙びた温泉旅館といった出で立ちの外観。内装も間接照明で誤魔化しているが、相当に年季が入っていそうな雰囲気を漂わせている。それでも、格安と謳ったプラン名に違わず相場よりも確かに一、二万円は安く、安月給の自分としては惹かれるものがある。折しも今年は厄年で、旅行ついでに厄除けもできるというのなら一石二鳥だ。
しかしこの『身代わり人形と泊まる』という文言は一体……。
説明の欄を読んでみると、人形には古来より、人間の代わりに厄災を引き受けてもらうという役割があるのだという。そこでこの旅館では、事前に送ってもらった写真をもとに宿泊客そっくりの人形を作成。客はその人形と一晩一緒に眠ることで、悪いものが自分と勘違いして人形に憑りつき、降りかかるはずの厄から逃れられるのだという。
紹介ページの写真には実際に客が自分そっくりの人形と一緒に写っているものがあった。いかにも人形といった感じではあるが、顔の造形はなるほど凝っている。物珍しさもあるから、写真映えもしそうだ。SNSに上げれば少しは自己顕示欲を満たせる反応が得られるかもしれない。
私は早速、一緒に旅行に行く友人二人に、このページを共有した。
*
都心から新幹線で一時間半。そこから在来線を乗り継ぎ、さらに二時間進んだところに、その温泉街はあった。
駅名を告げるアナウンスを切り裂くように開いた扉から列車の外に出る。くたびれた身体を伸ばすと、心地の良い風が吹いて、早速硫黄の臭いが鼻腔を刺激した。ひび割れたアスファルトのホームには乗降客はおろか、駅員すらいない。たった二両の芋虫のように短い列車が私たちの背後で出発すると、未だ陽が出ているとは思えないような静寂が辺りを包んだ。一体いつから建っているのか判らないほどの古ぼけた木造駅舎にも人の姿はなく、改札の代わりに切符を入れるための箱が置かれているだけ。さらに外に出ても人っ子一人いない、閑散とした小さな商店街があるばかり。
「連休の土日なのにこんなに空いてるなんて、凄い穴場じゃない?」
静けさに耐えられず、私は後ろを歩く二人に声をかけた。本当に現実の世界かと疑うほどの人気のなさに、後ろの二人も消えてしまったのではないかと、子どものような不安が心を過ぎってしまったせいでもある。
「それかとんでもなく不人気とかじゃないよね」
耳慣れた声の返事が返ってきて、私は内心安堵していた。
「うっそ、なんかボロボロとか、ごはん美味しくないとか、曰くが付いてるとかだったら、私帰るからね」
「紹介ページには特に変なところはなかったと思うけど……」
「写真詐欺なんて今時よくある話だから」
「それなら、その旅館だけ人がいないとかでしょう? 温泉街そのものに人がいないっていうのは、どういうわけ」
「もしかして休みとか?」
「いやいや、ちゃんと予約したから。確認の連絡も昨日来てるし」
「まあでも、混んでるよりいいんじゃない。わざわざ東京から来たのに、人混みに揉まれるなんて冗談じゃないわ」
二人と話していると、一人で抱えていた胸のわだかまりが薄らいでいく。三人とも違う会社に勤めているが、大学時代からの付き合いで、三十路を過ぎた今でも年に一度はこうして一緒に旅行に出かける仲だ。一人ならともかく、気心の知れた友人がいれば、誰もいない世界でも人心地つける。人見知りの激しい私にとっては有難い存在だ。
商店街を抜けると、それと直角を成すように川が流れている。川向こうにも何件か旅館らしき建物が並んでいる。元々は白かったであろう壁は黄ばんでいて、蔦なのかヒビなのか、見分けのつかない黒い筋が表面を覆っていた。まるで崩れかけた廃墟の様相である。
そのすぐ背後に覆いかぶさるようにして、緑の生い茂った山が迫っていた。緑の中にも濃灰色の瓦屋根がちらほら見える。目当ての旅館はその中の一軒らしい。スマートフォンの地図を頼りに、辺りを見回しながら私は二人を先導して、川にかけられた朱色の橋を渡る。進むと五月とは思えないひんやりとした空気が一瞬頬を撫ぜた。振り返ったが他の二人は何ともないような顔をしている。気のせいかと首を傾げながら橋を渡りきると、川に沿うようにして伸びた道から、さらに細い山道が生えている。
その坂道を少し上ったところに、ネットで見た写真そのままの外観のその旅館があった。二階建ての日本建築が取り囲んでいる、砂利の敷かれた広い前庭には旅館のバスが何台か停まっている。普通の乗用車はない。ほかに客は来ていないのだろうか。
訝りながら玄関をくぐると、木目調の家具や内装で統一された、広い吹き抜けのロビー。その一角に法被の老人。駅から降りて初めて見た人間の姿。胸を撫でおろした私はチェックインをしにそこへ向かった。