鬼神のゲルド、兵士長イリオス
闇色の狼は、普通の狼の何倍もの大きさがある。
その背丈は四つ足の状態で森の木々をはるかに超えて、その闇色の体は闇色の炎に全身が包まれているように、毎秒姿を変えていく。
臭気を漂わせる吐息を吐き出すたびに、薪の奥に燃える炎のように赤が靡く。
暗く赤い瞳は全ての対話を拒絶するような獣の眼光で、逃げ惑う馬車だけをひたすらに追いかけている。
蒼月は狼の魔獣の前に飛来した。
シャルロッテ一人で魔獣を倒せるとは思っていない。
けれど今はウェルシュがいて、アマルダもいる。時間を稼いで、馬車を誘導し、救援を待つのがシャルロッテの役割だ。
「私が相手をします!」
王都での一件で、シャルロッテの心は鎖から解放されたように吹っ切れていた。
人を傷つけることは怖い。
けれど、誰かが傷つけられるのはもっと嫌だ。
何よりも、ジオスティルを守りたい。
一人きりで皆を守ろうとしてくれるジオスティルのことを、守れるような強さが欲しい。
あの優しい人が眠れるように。穏やかな夜が訪れるように。
サラマンドの加護のおかげで、ウルフロッドの屋敷周辺は安全だが、それ以外の場所は魔獣が蔓延っている。
魔獣たちはウルフロッドの屋敷を避けるようにしている。
そのために、辺境の地ではもう襲う対象が見つからず。悠々とウルフロッドの地を闊歩している。
ジオスティルは全て討伐するべきだと考えているようだったが、アスラムやイリオス、ウィリアムがそれを説得した。
ウルフロッドの地では、サラマンドに守護されている屋敷周辺が最後の砦だ。
この地に残った人びとは皆、そこに集まっている。
その場所が守られているのならば、全てを討伐する必要はない。そんなことをしていたら、きりがないと。
交代で見回りを行い、誰かが襲われていたり危険のある時だけは討伐すればいい。
まずはしっかりと足場を固めて、ジオスティルもまともに休むべきだと。
シャルロッテもそれは同意見だった。
夜になると生まれる魔獣が街を襲わないようにジオスティルはひたすらそれを狩り続けていた。
けれど今は、守るべき街はなくなったのだ。
「来なさい、魔獣よ!」
狼の魔獣に比べて、シャルロッテはその指の先ほどに小さい。
蒼月も、その炎を燻らせている口に一飲みにされてしまうぐらいだ。
『あたしの力、貸してあげるわ、ロッテ!』
『私も手伝ってあげるわね』
アマルダの翼が赤く輝く。魔獣の足元から円形に炎の柱が空高く迸った。
ウェルシュの翼が青く輝く。シャルロッテの槍に水流が渦巻いて、その切っ先が水気を孕む。
足止めされた魔獣に蒼月が飛来する。
シャルロッテは頭上で槍を一回転させて、魔獣の脳天に水の槍を突き刺した。
その体は、まるで空気で作られているかのように手応えがない。
槍を包む水流が、水の刃となって、魔獣の体を引き裂いた。
魔獣は体を大きく左右に振るわせる。体当たりをされたまばらに生えた木々が、折れて倒れる。
めりめりと軋む音を立てながら、倒れていく木々の間をすり抜けて、蒼月が再び空に舞い上がる。
魔獣の体には炎が渦巻き、切り裂かれた場所を修復しはじめている。
シャルロッテは魔獣から離れると馬車に近づいた。
「こちらに!」
ウルフロッドの屋敷まで誘導できれば、あとは安全だ。
御者と目が合う。シャルロッテは瞳を見開いた。知っている顔だったからだ。
「シャルロッテ様!」
「テオさん!」
懐かしい顔だった。御者台にいるのは、かつてハーミルトン伯爵家で庭師をしていた男だった。
話している暇はない。今は先に馬車を逃さなくては。
『ロッテ、くるわよ』
『しぶといのよ、しつこいのよ』
炎の息を荒く吐き出しながら、闇色の毛並みを逆立たせて、狼の魔獣が何度かガリガリと苛立たしげに大地を前足で抉った。
魔獣が跳躍すると、青空を黒い影が埋め尽くす。
空を覆う不吉な帷のように、シャルロッテたちは魔獣の腹の真下へと。
影から逃れるため、馬車を誘導しながらシャルロッテは蒼月を駆けさせる。
その時、シャルロッテたちとは逆方向に、軽快な音を立てて駆けていく二頭の馬とすれ違う。
「イリオスさん、ゲルドさん!」
「後は任せな、お嬢ちゃん」
「おー! ロッテ、お兄さんたちが格好いいところを見ていてくれよな!」
短く低い声で言うのは、槍を持つゲルドで、大剣を掲げてイリオスも大きな声をあげた。
アマルダの合図に気づき、救援に来てくれたのだ。
「いくぞ、ゲルド!」
「あぁ」
馬から飛び降りた二人は、空から襲いかかってくる魔獣に向かっていく。
大地を蹴って、臆することなく真っ直ぐに。
魔獣の凶悪な爪の生えた前足が、大地を抉り取る。
跳躍しそれを避けて、イリオスは大きな剣を前足へと叩きつけるように振り下ろす。
いつの間にか魔獣の背の上に飛び乗ったゲルドが、槍をその首へと突き立てた。
前足を切り落とされた魔獣は尚も暴れて、イリオスを喰らおうと大きく口を開く。
イリオスは地面にずしんと落ちた魔獣の鼻頭の上に足をかけて、その瞳に剣を振り下ろした。
魔獣が、さらさらと砂のように、黒い粒子を残して消えていく。
思わず見入っていたシャルロッテは槍を握りしめて「すごいです!」と、二人を賞賛した。
イリオスは片手をあげて応えて、ゲルドはやれやれというように肩をすくめた。




