馬たちの世話
ニケとテレーズが、藁でせっせと馬の体を擦っている。
擦られた馬は気持ちよさそうに軽く首を振って、尻尾をぱたりと動かした。
辺境伯家の広大な敷地には、雑草に覆われた馬小屋があった。
これは元々、独自の軍と指揮権を持つことを王家から許されている辺境伯家が、軍事力を有していた名残である。
かつては軍馬を何頭も飼っていて、兵士の宿舎も敷地内にあったのだと、草刈りをしながらウィリアムが教えてくれた。
シャルロッテがジオスティルと共に部屋にこもっている間、男たち総出で草刈りを行い、突然増えた馬たちの住処を作っていたようだ。
モネの愛馬である蒼月と赤月を含めて十頭。
ウィリアムやイリオスは馬たちを検分して、よい馬をみつけると自分の馬だという証として名前をつけたそうだ。
ゲルドも同じく。兵士と軍馬は切っても切り離せない関係にある。
アスラムは「俺は兵士ではないからいい」と遠慮をしていたらしい。
シャルロッテが不在にしていた数日の間に、アスラムは弓矢からすっかり手を離し、文官のように働き始めたのだという。
「アスラムのやつ、自分は肉体労働は苦手だとかなんとか言って鍛錬から逃げやがる」
ニケもテレーズもシャルロッテも、朝からモネの手伝いで、なんとか使える形に戻った馬舎の中に入っている馬たちの世話をしている。
イリオスも自分の馬だと決めて『疾風』と名付けた黒毛馬の敷き藁を運び込んで、汚れたものをせっせと交換している。
元々兵士長を務めていたイリオスである。馬の世話は手慣れている。
シャルロッテも馬は好きだ。ハーミルトン家ではよく馬車馬の世話をしたものである。
あの時は馬番の男が何かをしてくるのではないかと思い怖かったけれど、今は純粋に馬たちが可愛らしいと感じることができるのが嬉しい。
「蒼月も赤月もいいこね。イリオスのは、しっぷ」
「しっぷ」
「疾風だ、チビども」
「チビって言うな!」
「おじさん!」
「俺はまだ若いぞ。いや、何歳だったかなぁ、自分の年もよく思い出せねぇんだが」
「えぇ……?」
ニケとテレーズがイリオスと戯れているのを聞きながらくすくす笑っていると、モネが訝しげに首を傾げた。
シャルロッテはイリオスの記憶が一時期曖昧である理由を説明した。
炎の大精霊サラマンドの話では、イリオスは強い魔素を浴びて魔獣に変わっていたのだという。
そこには誰かの意思があった。正気を失い操られていた。サラマンドも同じような状態だったと。
けれど誰の意思なのか。あるいは、折られたユグドラーシュの怒りなのか。
それはわからないと、サラマンドは言っていた。
「まぁ、大変だったのね。王都は平和で、細々したことは起こるけれど、辺境がそんなことになっているなんて知らない人ばかりよ。私はお父さんから少しだけ聞いて、知っていたけれど」
「荷運びをしていると、いろいろ噂が耳に入ってくるだろうし、ゲルドは辺境に食料をずっと運んでくれていたんだよな。立派な人だ」
「ふふ、少し偏屈だけどね」
「手合わせをしてみたが、すごく強いな」
「イリオス、負けた?」
「負けた?」
「引き分けだ。チビども、あんまりうるさいと藁の中に放り投げるぞ」
きゃあきゃあ言いながらニケとテレーズが逃げて、イリオスは二人を捕まえると、馬舎の奥に積まれた藁の中に二人を放り投げた。
ぽすんと藁の上に落ちて藁だらけになりながら、ニケたちがお腹を抱えて笑っている。
シャルロッテとモネは顔を見合わせると、声をあげて笑った。
「あぁでも、残念だわ。せっかく馬が、天馬になったのに。天馬、憧れの天馬。うぅ、がっかり……」
モネは蒼月の首にぎゅっと抱きつきながら言う。蒼月はモネの体に心配そうに鼻先を擦り付けた。
「もちろん今のままでも素敵よ。蒼月、格好いいわ。でも、翼がはえて空を飛べるのよ。最高だったわ」
「馬に翼がはえると、そんなに嬉しいものなのか。エルフェンスには翼がはえているが、エルフェンスでは駄目なのか」
ジオスティルがアスラムと共に馬舎の中に入ってくる。
ニケとテレーズはすぐさま藁だらけの体でアスラムに突っ込んだ。
アスラムは困り顔で二人を受け止めると、せっせと二人の体から藁を取り始める。二人はにこにこしながら「アスラム、とって」「アスラム、姫君たちは藁をとってと御所望じゃ」と得意気に言っている。
「ジオスティル様、おはようございます!」
「おはようございます、ジオスティル様」
「あぁ、おはよう」
明るい声でモネが挨拶をし、シャルロッテはいつもと同じように微笑んでぺこりと礼をした。
いつもと同じように、できているだろうか。
その顔を見ると色んな記憶が巡ってしまって、どうしても、勝手に頬が染まってしまう。
「シャルロッテ」
「は、はい」
「……いや、なんでもない」
「はい……」
どちらともなく視線を逸らして、なんとなく浮ついた会話を交わすのを、アスラムは「他所でやってくれ」と眉間に皺を寄せて、イリオスは「わかりやすすぎるぞ」と、豪快に笑った。




