初めての感情
こんなに速く飛べたのかと思えるぐらいに、ジオスティルは翼を広げて飛ぶ鳥よりもさらに速く空を駆ける。
長い間離れることがなかったウルフロッドの地が、すぐに遠くなり消えていく。
眼下の森が、浮かぶ雲が、一瞬のうちに遠く小さく、目まぐるしく景色が変わっていく。
風をヒュンヒュン切りながら、ジオスティルは王都の方角へとひたすらに飛んだ。
ウルフロッドの地から、磔刑にされたように離れることができなかった。
けれどあまりにもあっけない。一歩踏み出せば、そこには別の景色が広がっている。
ジオスティルがウルフロッドの地から離れることができなかったのは、呪われていたからだ。
お前のせいで魔獣が溢れたのだという、両親や大人たちからかけられた呪い。
そして、居眠りをしてしまったせいで両親や家の者たちが魔獣に食われたという自責の呪い。
数々の、助けられなかった命。ジオスティルの前で散っていった命。
屍の上で、生きている。生きるという罰を与えられている。
一日のうち、まともに考えられる時間はとても短い。魔獣を討伐しているときは余計なことを考えなくて済んだ。吐き気とめまいに襲われている時も、何も考えることはできなかった。
正気でいられる時は、屍の上で眠る幻覚を見る。
赤黒い床に積まれた骸の山の中から両親が時折顔を覗かせて「お前のせいだ」と呪詛の言葉を吐いた。
いつか罪が雪げる日が来るだろうか。
このまま、屍に飲み込まれて自分も屍の一人になるのだろうか。
呼吸が続いている間は、この地を守ろう。たとえ手足がちぎれようとも。心臓が動く限りは、息が続く限りは。
そんな日々が、唐突に終わりを告げた。
ゲルドの荷馬車と共にやってきた可憐な女性が、暗闇に沈んでいくばかりだったジオスティルの体を無理やり、泥濘の中から引き摺りあげてくれた。
まともな食事。風呂と、久々の──いや、はじめての、自分ではない誰かとのたわいのない会話。
孤独を孤独と認識できなくなるほどに、一人だった。
自分は苦しいのだと、気づけないほどに、ずっと苦しかった。
自分がどんな形をしているのか。どんな声だったのか。何を考えて、何を感じているのかさえ。
分からなくなっていたことに気づいた。
シャルロッテが現れたから、気づくことができた。
彼女の笑顔が、悲しみが、怒りが。優しさが──ジオスティルの感情を、呼び戻してくれた。
失いたくない。何が起こっているのかは分からないが、嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
シャルロッテを失ってしまったら、以前の自分にはもう戻れない。
きっとズタズタになり、バラバラになり、もうどうでもいいのだと。
この国など、ウルフロッドなど、どうでもいいと。彼女の体を抱いて、屍の中に沈んでいくだろう。
これが恋なのか。
生きる義務も使命も忘れて、ただ一人にだけ溺れるようなものが、恋。
知ってしまえばもう戻れない。淡々と過ごしていた、繰り返す日々に。
ウルフロッドの人々を守らなければと、それだけを考えていた自分に。
だって、もうどうでもいいのだ。
どうでもいいとさえ、思ってしまっている。あれほど離れることができなかったあの地から、あっさり抜け出すことができるほどに。
シャルロッテのことしか、考えられない。
(違うな。そうではない。全て、彼女がくれたものだ。ウルフロッドの屋敷に皆を集めて、サラマンドを助けて結界を張ってもらった。アスラムもイリオスもウィリアムも戦える)
自分がいなくても、ウルフロッドは大丈夫だと思うことができた。
だから、アスラムとイリオスに、皆を頼むと伝えてきた。
今までとは違う。一人だった。誰も助けてくれなかった。手を差し伸べてなどくれなかった。
どこまでも孤独で、閉塞的な日々とは何もかもが違う。
「シャルロッテ……!」
多くの人が、空をかける鳥のような人の姿を見て、指をさした。
それでも構わずに飛び続けると、騎馬たちに追われている荷馬車を見つけた。
それがゲルドの荷馬車だとはすぐに知れた。
シャルロッテは無事だ。だが、無惨な姿だ。髪は乱れ、服は破けて、まるで──誰かに襲われたような。
頭がくらくらした。怒りのせいで、一瞬何も考えられなくなった。
骨も残らないぐらいに、焼き尽くして殺してやると、強い殺意の塊が体を支配する。
あぁだが、だめだ。頭の中に残ったわずかな冷静な部分が、それはいけないと警鐘を鳴らした。
そんなことをしたら、シャルロッテは怯えて、二度と笑顔をむけてくれなくなるかもしれない。
殺戮者になってしまえば、二度と彼女の柔らかい手を握ることができなくなってしまうかもしれない。
これは、戦争ではないのだ。一方的な殺戮は、ただの殺戮でしかない。
ジオスティルには確かに人の命を簡単に奪える力がある。それを人に向けてはいけないとずっと戒めてきた。
シャルロッテはだからこそ、そばにいてくれる。
優しい人を、裏切りたくない。怒りに染まった心で、血に染まった手で、彼女を抱きしめることはできない。
魔法による雷撃で、あっけなく男たちは地面に倒れた。
駆け寄ってきたシャルロッテの瞳が、何かを必死に訴えている。
殺してはいけないと。これ以上はいけないと。
大丈夫だ、わかっていると、ジオスティルは頷いた。
怒りは感じる。だが、冷静だ。行き過ぎた報復をする必要はない。シャルロッテが無事ならそれでいい。
そしてジオスティルは、シャルロッテと共に辺境に戻った。
泣き出しそうな顔をしているシャルロッテを誰にも見せたくなくて、二人きりで部屋に篭った。
震える声も、凍える体も。白い肌も、柔らかい手も。泣き声も、泣き顔も。
シャルロッテを傷つけたものたちには怒りを感じるが、彼女が無事に戻ってきてくれた、ここにいてくれる。
それだけで、心が張り裂けそうなほどに、切ない喜びを感じる。
君を守らせてほしい。
君を傷つけるもの全てから。
そばにいてほしい。
君がいなければ、きっともう、呼吸さえままならない。
激しく燃えるような感情を心の奥に押し込めた。行き場のない感情がどうしようもなくて、誘われるように小さな唇に口付ける。
柔らかく、甘い。体が痺れるようだ。もっと、味わいたい。
ふとそこで、正気に戻った。
なんてことをしてしまったのだろうと、頭を抱えたくなる。
シャルロッテからはまだ許しを得ていない。彼女の気持ちだって、分からないのに。
離れようとすると、シャルロッテの手がジオスティルのそれに絡まった。
涙に濡れた瞳が、強い光を宿してじっと、ジオスティルを見つめた。




