手のひらの痛み
エオルゼン夫妻を乗せて、エルフェンスでウルフロッド家に戻った。
エルフェンスの姿を見て、ニケがすぐさま駆け寄ってくる。
「ウィリアムじいじ! ハンナばあば!」
「おぉ、ニケ。元気そうで、よかった」
「ニケちゃん。ロサーナは?」
「私はここに。ウィリアムさん、ハンナさん――来てくださってよかった」
ジオスティルがウィリアムに手を貸して、エルフェンスから降ろした。
屋敷の中へと向かうため、ハンナが杖をついて歩くウィリアムを支える。
ロサーナがハンナと交代して、ニケがその代わりにハンナの手を引いた。
「お二人のために、はりきって料理を作りましょう」
「私も手伝いますね、ロサーナさん」
「シャルロッテ様の手をわずらわせるわけには……」
「私、お料理は得意なんですよ」
「わかりました。では、一緒にお願いします」
「料理……まともな料理を作るなんて、何年ぶりかしら。私にも手伝わせて頂戴。あぁ、懐かしい……変わらないわね、ここは」
屋敷に入ると、ハンナが屋敷の中を見渡しながら言った。
「ウィリアム、ハンナ。好きな部屋を使ってくれ。長年ここで働いてきたハンナは、屋敷の中に詳しいだろう」
「ありがとうございます、坊ちゃん」
「その坊ちゃんというのは、やめてくれるか」
「あぁ――そうですね。坊ちゃんと呼ぶには、ジオスティル様は精悍な青年へと成長なさいました。でしたら、旦那様と」
「それはそれで、くすぐったいな」
「でしたら私も、旦那様と呼びますね」
「シャルロッテ……君には、名前で呼ばれたい」
「え……あ、はい。では、ジオスティル様のままで」
「あぁ」
「ロッテは駄目なのですか、旦那様?」
「ニケ、君もまだ小さいのだから、そう畏まって喋る必要はない」
「私、立派な淑女になるのです。ロッテみたいな! だから、言葉づかいは大切です」
ニケが胸を張ってこたえるので、ロサーナやハンナはくすくすと笑った。
シャルロッテは『淑女』と言われたことに驚いて、口元に手を当てる。
「ニケ、私は……淑女ではありませんよ」
「どうして?」
「だって私は――」
淑女は人を叩いたりしない。
今も――アスラムの頬を叩いた手の平が、じくじくと痛んでいる。
明るく振舞ってはいるものの、そのことが心に影を落としていた。
もちろん――あの場ではああするしかなかったと、シャルロッテは思っている。
対話は、不可能だった。
けれどシャルロッテは感情的になっていて、感情のままにアスラムの頬を叩いて強い言葉で叱咤してしまったことは否定できない。
「シャルロッテ。君は休め」
ジオスティルはシャルロッテの言葉を遮った。
何を言おうとしたのか、気づかれてしまったのだろう。
「大丈夫ですよ、疲れていません」
「では、少し話をしよう」
「でも、私はお料理の手伝いをしないと……」
「それは私たちに任せておいてください、シャルロッテ様」
「そうだよ、シャルロッテさん。私はウルフロッド家の侍女だった。また仕事ができると思うと嬉しいんだ。シャルロッテさんは無理をしなくていい」
ロサーナとハンナに追い立てられるようにして、シャルロッテはジオスティルと共に部屋へと向かった。
ニケはウィリアムを使われていない部屋へと、どこか得意気に案内していった。
まるでジオスティルに心の中を見透かされているような気がして戸惑うシャルロッテの手を引いて、ジオスティルは自室に入ると、ソファに座らせる。
それから自分もその隣へと座った。
「シャルロッテ。――手が震えている」
「え……あ、あの……これは」
膝の上に置いた手を、シャルロッテは隠した。
空色の瞳を真っ直ぐに見つめ返すことができずに、うつむく。
ジオスティルはシャルロッテの震えている右手を取ると、そっと握りしめた。
「すまなかった。……シャルロッテ、本当に、すまない」
「い、いえ、謝っていただくことなんて何も……」
「痛かっただろう」
「――痛かったのは、私ではなくて……ジオスティル様の心や、それから、アスラムさんの……」
「君は、優しい人だ。人を叩いたことなんて、なかったはずだ。……俺を守るために、俺のために怒ってくれた」
「それは……」
「アスラムは昔、魔獣に母親を殺された。目の前で――俺は、間に合わなかった。そんなことばかりだ。……だからずっと、憎まれて当然だと思っていた」
「そんなことが……」
「あぁ。だが……俺もアスラムも。ずっと、過去ばかりみていたのだと思う。過去に縛られて、過去に生きていた。そのせいで、君を傷つける羽目になった」
ジオスティルは握りしめたシャルロッテの手を引き寄せると、祈るようにその指先へと口づけた。
やさしく、そっと。
痛みを癒やすように。
「俺は、君を守ると約束をした。けれど、実際は守られてばかりだ。……これからは、君に恥じない自分でありたい」
「ジオスティル様……ジオスティル様は十分頑張っていらっしゃいます」
「ではまだ、足りないのだろう。君に手を引いて貰っていた。幼い子供のように。……だが、できることなら俺が、君の手を引いて歩きたいと思う。君が先に、どこかに行ってしまわないように」
シャルロッテは俄かに目を見開いて、それから、そっと頷いた。
「叩かれたら痛いのだと、私は知っていました。……けれど、叩いた手も、痛いのですね。できることなら――こんなことは、ないほうがいいのだと思い知りました」
「あぁ」
「私……もう一度、アスラムさんと話をしてみようと思います。叩いたことは、謝らなきゃ」
「俺も、もう一度話をしたい。過去のこと、これからのこと。きちんと話し合わなくてはいけない」
「はい」
シャルロッテはつないだ手に、もう片方の自分の手を重ねる。
「ジオスティル様は、私の手を引いて歩いてくださるとおっしゃいました」
「ジオスティル・ウルフロッドとして、君や皆を守れるように」
「――でしたら、私は手を繋いで並んで歩きたいのです。あなただけに、全て任せるだけではなくて。私も、一緒に」
「……シャルロッテ。……あぁ。君と、一緒に」
シャルロッテは、先の見えない深い森の中をジオスティルと共に歩いている幻想を見た気がした。
森の先には、見たこともないほどに太い木がある。
木は、無残に折れている。
その木の中で――誰かが待っている。シャルロッテたちを呼んでいるのだ。
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