ジオスティル・ウルフロッド
床でうずくまっている黒い塊は、どうやら男性のようだった。
それに気づいたシャルロッテは、抱えていた荷物を慎重に床に降ろすと、あわててその男性に駆け寄った。
ゲルドが妙に落ち着いているのが気になったが、ともかく人が倒れているのだから放っておくことはできない。
(どういう状況なのかしら……ゲルドさんが何かしたの? でも、まさか、そんなことって……)
「大丈夫ですか!? どうしたんですか、ゲルドさん、一体何が……!」
「そんな目で俺を見るな、シャルロッテ。俺は何もしていない。最初から倒れていたんだ」
「じゃあ、何か事件が……」
肩をすくめるゲルドから、シャルロッテは男に視線を移した。
黒いローブ姿の男だ。白い顔は、白を通り越して青白い。
顔立ちは整っているのだろう。伏せられた長い睫が頬に影を落としていて、薄い唇から漏れる吐息はか細い。
月の光を集めたような長い金の髪は、艶やかで美しい。
黒いローブのせいで、真っ黒な何かが倒れているように見えたようだ。
「事件じゃないとは思うぞ。ジオスティル様の元に荷物を運ぶのはこれでかれこれ十回目だが、十回中五回は倒れていた。今みたいにな」
「それは大問題じゃないですか……! 倒れているというのは、具合が悪いということでしょう? 大丈夫ですか、辺境伯様! どこか痛むのですか、それともお熱が……?」
平然としているゲルドを軽く睨んだあと、シャルロッテはジオスティルの横へと膝をついて、その体に手を伸ばした。
青白い額に手を当てる。
熱があるかと思ったが、氷のように冷たかった。まるで死人のようだ。
念のために胸に手を当てるが、呼吸は浅いが胸は上下に動いている。
シャルロッテはほっとして(ほっとしていいのかどうかは分からないが)「辺境伯様、ご無事ですか?」と、もう一度ジオスティルを呼んだ。
「ジオスティル様のことはお前に任せるぞ、シャルロッテ。俺は荷物を降ろす。早くしないと日が暮れる前に、辺境から出られなくなる。俺にも家族があるからな、こんな場所で夜を越す気はない」
「えっ」
「俺の役目は荷運び。病弱な坊ちゃんの世話じゃないからな」
確かにそれはそうだけれど――と、シャルロッテは眉を寄せる。
ゲルドは、ジオスティルにずいぶんと冷たい。いい人だと思っていたのにと思わず文句を言いそうになって、口をつぐんだ。
ゲルドがジオスティルの心配をしないというのなら、自分が看病すればいいだけの話だ。
シャルロッテは辺境にとどまるのだから、ゲルドのように急ぎこの場を立ち去る必要などない。
宣言通り、荷馬車に戻って荷物を運びはじめるゲルドを尻目に、シャルロッテはジオスティルの手を握って声をかける。
「辺境伯様、どこか具合が悪いのでしょう? ご病気でしょうか。それとも怪我? お返事をすることはできますか?」
「……君は」
シャルロッテの声が届いたのか、ジオスティルの瞼が薄らと開いた。
青空をそのまま宝石にしたような、輝く美しい空色の瞳に翡翠色の星が散っている。
倒れてさえいなければ、驚くほど整っているその容姿に思わず見とれていたかもしれないが、今はそれどころではない。
どれほど容姿が美しかろうが、具合が悪くて倒れているのだ。容姿のよさに感心している場合ではない。
「辺境伯様、よかった。私はゲルドさんと一緒に荷物を運んできた女です。今到着したところで、そうしたら、辺境伯様が倒れていらっしゃったので……」
「すまない。……よくあることだ。いつもの貧血だろうと思う。ゲルドは?」
シャルロッテはジオスティルの頭を慎重に抱えて、ぺたんと座った膝の上に乗せた。
ジオスティルの視線が広間を彷徨い、両手に軽々と重たい箱を重ねて持って運んで来たゲルドの元で焦点を結んだ。
「ジオスティル様。頼まれていたものです。無事に運び終わりましたので、俺はこれで」
「ゲルド。金は、そこに。今回は、部下も一緒だったのだね。少し多めに支払おう。路銀を含めて、五十万ギルスでいいだろうか」
「あぁ、構いません。それでは、半月後にまた」
「いつもすまない。辺境に荷運びをしてくれるのは、ゲルドぐらいだ。ありがとう」
「仕事ですから」
木箱を運び、木樽を運び、ゲルドはすっかり荷台を空にした。
それからジオスティルの隣に落ちている袋から、金貨を出して枚数を確認する。
金貨一枚十万ギルス。
五枚で五十万ギルス。
一ヶ月の給金が五千ギルス(銅貨五十枚)程度の庶民にとっては、一年身を粉にして働いても手に入らないぐらいの大金である。
「じゃあな、シャルロッテ。二人旅とは久しぶりだったが、中々楽しかった。あんたは人を信じすぎるから心配だが、ま、元気でな」
「ゲルドさん、ありがとうございました! 娘さんにも、よろしくお伝えください」
「あぁ」
別れとは、これほどあっけないものだろうか。
動くことができそうにないジオスティルを抱えながら、シャルロッテは瞳を潤ませる。
ゲルドははじめて親切にしてくれたいい人だ。
具合の悪いジオスティルを放っておくのはいかがなものかとは思うが――それも仕方ないのかもしれない。
ゲルドは仕事でここに何度も来ていて、ジオスティルの具合の悪さは、今に始まったことではないようなのだから。
「ジオスティル様、代金はきっちりいただきました。それでは、俺はこれで」
ゲルドはそう言うと、屋敷から出ていった。
シャルロッテは潤む瞳を片手で擦ると、膝の上に頭を乗せたままのジオスティルに視線を落とす。
「辺境伯様、ベッドに運びます。そちらでお休みしましょう。貧血というのは、血が足りないということですから、落ち着いたら何か飲んだほうがいいです。食べ物も……誰か、助けてくれる方はいらっしゃらないのですか?」
「俺は、この家に一人だ。大丈夫、時間がたてばそのうち落ち着く。君も、ゲルドと一緒に帰らないと」
「私のことは気にしないでください。そうでした、辺境伯様は一人で住んでいるって、ゲルドさんが……」
シャルロッテは、ゲルドの話について半信半疑でいた。
辺境伯が使用人もなく一人で住んでいるなど、考えられないことだったからだ。
でも確かに――と、シャルロッテはあらためて広間を見渡した。
屋敷は何年も手入れをされていないように、ほこりがつもり、蜘蛛の巣がはっている。
鼠の入り込めそうな穴もあり、床にはひびが入っている。
何年も修繕をしていないのだろう。ゲルドがいなくなると、屋敷はしんと静まりかえった。
人の気配もまるでしない。
「とりあえず、ベッドに運びます。ベッドはどこにありますか?」
「そこの廊下を抜けた先。一階の、階段横の通路の右に……」
そこまで言うと、ジオスティルは疲れたように目を閉じた。
シャルロッテはジオスティルをもう一度床に寝かせると、案外背の高い体を背中に背負って、ふらふらと歩き出した。
日頃の労働でシャルロッテは女性にしては力が強く、足腰も丈夫だ。
ジオスティルの足を引きずってしまうのは、身長の差からして仕方ないとして――なんとか運ぶことができそうでよかったと、一歩一歩確実に前へ足を進ませながら、いままでの労働に感謝した。
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