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初めての旅とウルフロッド辺境伯家




 小さな町の宿の入り口には、馬番のいる馬舎がある。

 ゲルドは馬番に交渉して馬車を倉庫に預けて、馬を馬舎に入れた。

 

 馬舎に入れる前に二頭の馬の体を藁で擦り、飼葉を食べさせるのをシャルロッテは手伝った。

 馬の体はつるりとしていて暖かく、賢そうな黒い目が熱心に藁で体を擦るシャルロッテを見つめる。

 馬首を下げる馬の額をシャルロッテは撫でた。

 くすくす笑っていると、ゲルドが「馬は好きか?」と話しかけてくる。


「はい、馬は好きです。私もよく──」


 ハーミルトン伯爵家の馬車馬の世話を、シャルロッテはよくしていた。

 けれどそれを言うことはできずに、シャルロッテは笑顔のまま口を閉じた。

 ハーミルトン伯爵家の馬番は、いつも馬舎の前で煙草を吸っていた。


 裏庭で洗濯を干しているシャルロッテを見つけると、腕を捻りあげるようにして馬舎の前に連れていき、「今日からお前が世話をしろ」「お前が世話をしなかったら馬は死ぬ。お前が死なせたんだと旦那様に報告する」と言ったのだ。

 報告をされるのは怖かったが、世話をされない伯爵家の二頭の馬たちが命を落としてしまうことの方がもっと嫌だった。


「馬は、賢くて可愛いから好きです」

「お嬢さんは、馬の世話に慣れているな。馬番は大抵男なんだが……あぁ、詮索は余計だったか」

「ゲルドさん……」


 ゲルドはどちらかといえば寡黙な男だった。

 あまり笑わないし、陽気に声を弾ませることもない。

 たった一日共に過ごしただけだが、シャルロッテは彼を信用できる人ではないかと考えはじめていた。

 人を疑えば、きりがない。

 シャルロッテはあの家から、この国にはきっといい人だってたくさんいるはずだと信じて外に出てきたのだ。

 金も持たない明らかに訳ありのシャルロッテを荷馬車に乗せてくれた時点で、ゲルドのことは信用するべきだと、シャルロッテは思う。


「私は、ある場所から逃げてきました。この国には、きっといい人がいるって思って。それで、その、ゲルドさんは、いい人だと思っています」

「俺が?」

「はい!」

「俺が、いい人か。……辺境に行くのは嘘で、このまま大きな町にいって、お嬢さんを売っぱらうかもしれないぞ」

「ゲルドさんは私を売るんですか?」

「いや、売らないがな。俺の娘と同じぐらいの年齢だから、放ってはおけなかったというのが本音だ。それに俺は人買いは嫌いだ」

「娘さんがいるのですね! やっぱりあなたはいい人ですね、ゲルドさん」

「……そういえば、お嬢さんの名前も聞いていなかったな」


 にっこり微笑むシャルロッテに、ゲルドは尋ねる。


「私は、シャルロッテといいます」

「俺はゲルド・グラフ。短い間だが、よろしくなシャルロッテ。俺はあんたのことをお荷物かと思っていたが、馬の世話ができるし、動きもいい。旅の相棒としては申し分ないな」

「褒めてくれていますか?」

「あぁ、そのつもりだ」


 シャルロッテは父親にも母親にも褒められたことなどなかった。

 日々の役割を完璧にこなした時も、いつもよりも豪華な食事を用意した時も、何かを言われる前に家事を済ませることができた日も。

 褒められることは一度もなかったし、シャルロッテの家族はいつでもシャルロッテのあらを探していた。

 そして言うのだ「まだ暖炉に煤が残っていたわよ、役立たず」「私のドレスのビーズが一個取れていたわ、お姉様。直しておいてちょうだいね」と。


「褒められたのって、はじめてです。ありがとうございます、ゲルドさん」

「……宿に行こうか、シャルロッテ。飯を食って早く寝よう。朝日が昇れば、出発する」

「はい!」


 ゲルドは町の宿に部屋をとって、宿の一階にある食堂に向かった。

 食堂には宿の客と思しき者たちがすでにテーブルについて食事をとっていて、木製のジョッキには並々と注がれた麦酒の泡が膨らんでいる。

 蝋燭やオイルランプの油は高価である。そのため、大抵の場合人々はまだ日が高いうちに夕食を済ませる。

 ゲルドは自分用に麦酒を頼み、シャルロッテには薬草茶を頼んだ。

 食堂のメニューは二種類。『ライラル鳥の揚げ焼き』と『グルーステン雷魚の香草焼き』のどちらかで、ゲルドが両方頼んで二人で食べようと言うので、シャルロッテは瞳を輝かせながらこくこくと頷いた。


 ややあって運ばれてきたライラル鳥の揚げ焼きは、ライラル鳥の手羽先を使用していて、皮目がパリッと茶色く色づき、油の食欲をそそる匂いがする。

 グルーステン雷魚の香草焼きは、王国北側の川でよくとれるグルーステン雷魚を丸々一匹使用している。

 そのまま食べると少し泥臭いので、一日綺麗な水につけて泥抜きをして、内臓をとって代わりに腹に香草を詰めて焼く。

 泥臭さはすっかり抜けて、あとは魚の風味が残るのである。


「ゲルドさん、私、お金を持っていなくて」

「そんなことは知っている。旅費は辺境伯が払う。だから、遠慮なく食え」

「……ありがとうございます」


 家族の食事を作ることはある。その中で、味見をすることもある。けれど普段の食事は、古くてカチカチのパンと干し肉。もしくはあまりものを少しだけ。

 いつも空腹だったし、自分のための『まともな』食事というのははじめてだった。

 ゲルドが食事を皿に取り分けてくれたので、薬草茶を一口飲んで、それからナイフとフォークを手にして、魚を一口口に運んだ。

 

 ふんわりとした白身と、はっきりした塩胡椒の味と、香草の爽やかさが口いっぱいに広がった。


「美味しいです、ゲルドさん……」

「おい、泣くな、お嬢さん。俺はこの見た目だし、あんたは若い。人攫いだと思われる」

「人攫い……!」


 ゲルドははじめて、声に感情を乗せた。

 わずかに冗談めかして言ってくるので、シャルロッテはくすくす笑った。

 ゲルドには娘がいるという。お父様とは、こんな感じなのだろうかとシャルロッテは思う。

 シャルロッテの父は、父というよりも他人である。シャルロッテにとっては、恐ろしい主人という印象の方が強い。


「ゲルドさん。私……グリーンヒルドにある、ハーミルトン伯爵家から逃げてきました」

「俺はあの街の出身じゃないから詳しいことは知らんが、あの町の領主の家だな」

「はい」

「使用人か何かか。ひどい扱いを受けて逃げたのか」

「これは、秘密にしておいてほしいのですけれど、私はあの家の長女として生まれました。けれど、私の見た目を、お母様が嫌っていて、私は娘としては扱ってもらえませんでした」

「見た目を」


 ゲルドは手づかみで揚げどりを口に運ぶと、布巾で指を拭って麦酒を飲んだ。

 シャルロッテはその姿をまじまじと見つめる。

 そういえば、誰かと一緒に食事をするというのもはじめてだった。


「ずっと使用人として働いてきましたから、馬の世話は得意です。それに、他の家事も」

「そうか。逃げてきたのは、その立場に耐えられなくなったからか」

「それは少し違います。毎日のお仕事は忙しかったですけれど、不満というわけではなくて……それを考える暇もないぐらいに、忙しかったので。……そうではなくて、両親が、私を売ると言っていて。娼館に売って、お金にすると言って」

「……下衆だな」


 不快そうに、ゲルドは眉を寄せる。


「私、それは嫌でしたから、家から逃げようと思いました。ゲルドさんのおかげで辺境に行けますから、そこで仕事を探そうと思います」

「そうか。……きっとあんたなら大丈夫だと思うぞ、シャルロッテ」

「はい。ありがとうございます」


 皿の上の料理をすっかり平らげて、ゲルドとシャルロッテは部屋で休んだ。

 部屋を二つとるような余裕はないと言うゲルドに、シャルロッテは構わないと言って、毛布を一つもらうと部屋の隅の床で寝た。

 何度かゲルドにベッドを譲ると言われたが、そんなことはできないと遠慮した。

 食事も宿も世話になって、さらにベッドまで譲ってもらうなんて、とてもできなかった。

 床で寝ることには慣れているのだと微笑むシャルロッテに、ゲルドはなんともいえない表情を浮かべた。

 それから「辺境まで急ごう。あんたに追っ手がかけられている可能性もあるからな」と言った。


 それから数日、荷馬車は順調に辺境までの道を進んでいった。

 グリーンヒルドから離れれば離れるほどに、高い木々の鬱蒼としげる森や、草原や大きな川。どこまでも続く果てのない自然が広がり、人の往来はどんどん減っていった。

 数日前は街道を歩く人の姿や馬車ともすれ違ったが、今は草原を駆ける野うさぎや、森に走っていく鹿や、大空を飛ぶ鳥の姿ばかりだ。


「デルフォルニア大橋を抜けると、ウルフロッド辺境伯領だ。人よりも動物の方が多い、僻地だな」

「はい」

「ここからは、魔獣が出る。だから、急ぐ。荷馬車から振り落とされないように気をつけていろ」


 ゲルドは、最後の補給地点で荷馬車荷台の荷物を、しっかりとロープで縛り付けていた。

 魔獣とはなんだろうかと思いながら、徐々に速度をあげていく荷馬車の荷台で、シャルロッテはさらに弾んで揺れる体が荷台から落ちないように、ロープにしっかり捕まった。

 ゲルドが馬を走らせたのは、この旅路でははじめてだった。

 草原の街道──ともいえない、獣道のような道を抜けて、馬車はさらに進んでいく。

 そして、森を背にして立つ古びた屋敷の前にたどり着いた。


 屋敷の全体は、石を積み上げられて作られた塀に囲まれている。

 屋敷も灰色の石で作られていて、見上げるほど大きな屋敷だけれど、どこか不吉な予感が漂っているように感じられた。

 多分。静かすぎるのだろう。

 門番もいない入り口から、馬車は屋敷の中に入る。

 昔は綺麗な庭園があったのだろうか。雑草がボサボサに生えている前庭を抜けて屋敷の前まで辿り着くと、ゲルドは馬車を止めた。


「ついたぞ、シャルロッテ。坊っちゃんを呼んでくる。お前は、荷下ろしを手伝え」

「はい!」

 

 シャルロッテも荷台から飛び降りた。

 ゲルドは屋敷の入り口の扉を開く。そこにもやはり門番などはいなくて、そういえば辺境伯は一人で住んでいるとゲルドが言っていたことを、シャルロッテは思い出した。


「ジオスティル様、到着しましたよ」


 案外気安く、ゲルドは中へと声をかけた。

 シャルロッテは荷物の一つ、重たい箱を両手に抱えてゲルドを追いかけた。

 よたよたと歩くシャルロッテが、抱えている荷物越しに見たのは、大きな何もない広間にうずくまっている真っ黒な男と、その前に立っているゲルドの姿だった。



お読みくださりありがとうございました!

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