マルーテの逃亡 3
部屋からでなくてはいけない。
今日の夜――一緒に森を出ようと、ロドリグと約束をしているのだ。
『ロドリグ。私はあなたと行く。あなたと、一緒にいたい』
『マルーテ。……それは、家族や村を捨てるということだ。それでもいいのか?』
『あなたは、私が好きではない?』
『本当は連れ去っていまいたいぐらいに、君が好きだ』
初恋の高揚感に浮かれていた。
そのままなにも持たずに逃げていればよかったのだ。
でも、最後だからと。
家族の顔を、世話になった人の顔を見てから、せめて置き手紙を残して家をでようと思った。
まさかこんなことになるなんて、思っていなかった。
何度かドアを開けようと試みる。
けれど鍵がかかっており、開くことはなかった。
脱出できる場所はない。窓はマルーテが通り抜けるには小さすぎたし、窓の外に出たところで二階から落ちて骨を折るかもしれない。
いや、骨を折るのは別に構わない。
怪我をするのも別にいい。それでロドリグの元に行けるのならば。
今夜、ロドリグの元に行くと約束している。
約束を果たせなければ、ロドリグは帰ってしまうだろう。二度と、会えなくなってしまうかもしれない。
それを考えるだけで、心が凍り付くようだった。
はじめて知る恋は激しくマルーテの感情を揺さぶった。
部屋にはベッドと、水差しとコップ。花瓶には花がいけられている。
閉じ込めてはいるけれど、あくまでも丁寧に扱っているつもりなのだろう。
それが余計にマルーテを苛立たせた。
今までこれほど憤ったことがあっただろうか。村での生活は静かで、誰もがマルーテを尊重してくれた。
感情の揺れのない、静かな生活だった。
恋とは、怒りとは、これほどまでに心を動かすものなのだろうか。
まるで自分が、自分ではなくなっていくような感じがする。
体が希薄となって、大きな熱量の塊になっているような。
感情だけが、全てになっているような。脳がひりつき、指先が燃えるような感覚だ。
「出して! 私をここから出しなさい!」
扉を力任せに叩いて大声を出していると、扉の外から声が聞こえた。
「マルーテ。中に、入れて欲しい。悪いようにはしない。話し合おう」
兄の声だった。
アールエルドは冷静だ。母がおかしいことを言っているのだと、理解してくれている。
妹と結ばれていいはずがない。
そんなことは間違っている。アールエルドはまともだ。だからきっと、助けてくれる。
期待を胸に抱き扉から離れる。鍵が開き、アールエルドが中に入ってきた。
アールエルドもマルーテと同じ銀の髪をしている。母やマルーテとよく似た美しい男で、村の女性たちから憧れの眼差しを向けられていた。
誰にでも優しく、もちろんマルーテにも優しくしてくれた。
マルーテはアールエルドのことが好きだったが、それはもちろん兄として――兄妹として、親愛の情を抱いているだけだった。
「兄様、母様はおかしくなってしまったのです。私を、閉じ込めるなんて。私は何も、していないのに……」
ロドリグのことは言わなかった。
言ってはいけないと、頭の中で誰かが警鐘を鳴らしているようだった。
「森で、男と密会していただろう?」
「……っ、そんなことは、していません!」
「マルーテ。諦めろ。母上は全てご存じだ。それでもお前を哀れと思い、自由にさせてやっていた。だが、越えてはいけない領域というものがある。マルーテ、お前は自分の役割を忘れて、男と逃げようと考えているだろう?」
冷たい声で、アールエルドは言う。
マルーテの知るアールエルドは、いつでもマルーテに優しかった。
幼い時は手を繋いで一緒に、森を歩いたこともある。
精霊たちの言葉を、兄に伝えるととても嬉しそうに笑っていた。
『マルーテはいいな。僕には精霊の声は聞こえない。同じ、銀の髪なのに』
そう、残念そうに言って、それから『でも、僕にも役割があるらしい』と、困ったように眉を寄せた。
役割とは何だと聞いても、『それはマルーテが大きくなったらわかる』と言って、教えてくれなかった。
「兄様、お願いです。私をここから出してください。森の外に怪物がいるなんて、嘘です。森の外には国があって、街があって、多くの人が住んでいます」
「その多くの人々は、武器を持ち血を流すことが好きな化け物なんだ。人間ではない。僕たちとは、違う」
「そんなことはありません。優しい人だって……」
「議論はしない。……マルーテ。お前はここから出られない。僕の子を孕むのが、お前のもう一つの役割だ。白の聖女は、白の聖女の血筋にのみ生まれる。血を、交わらせなくては」
「私たちは、兄妹だわ」
「そんなことはどうでもいい。マルーテ、大丈夫だ。僕はお前をきちんと、愛している」
「……いやああっ!」
化け物はどちらだ。
妹を襲おうとする兄は化け物ではないのか。
マルーテの意志を無視して、ここに閉じ込める母や、家の者たちは。世話役の者たちは。
森の外から来たロドリグのほうがずっと――人間だ。
強引にベッドに押し倒されたマルーテは、がむしゃらに暴れた。
指先に何かが触れて、それを離すまいと強く掴む。
そして、抵抗するマルーテを押さえつけて、腹や胸に触れようとするアールエルドに、掴んだ何かを思い切り振り下ろした。
その時は、夢中だった。
頭が真っ白になって、嫌悪感と怒りと悔しさと恐怖でいっぱいで。
気づけば――アールエルドは頭から血を流して、ベッドに転がっていた。
「あ……あ……っ」
マルーテの服にも手にも、真っ赤な鮮血がべったりとこびりついている。
掴んだのは、ベッドの横の飾り棚にあった、花瓶だった。
水がぶちまけられていて、花が、ベッドに散乱している。血の染みが、広がっていく。
マルーテはふらふらと立ち上がり、それから――転がるようにして、走り出した。
一目散に二階の自室に戻り、窓から飛び降りる。
浮遊感の後に激しい衝撃が体を襲い、それからごろごろと草むらに転がった。
草むらの中で、痛みにじっとしていた。
指先が動く。立ち上がることもできる。足も、動く。
それなら、行かなくては。
行かなくては。行かなくては。
それだけが頭の中をぐるぐると巡った。
夢遊病の患者のようにふらつきながら歩き出したマルーテは、マルーテを探す者たちの呼び声から逃れるように、村から出て森の奥に進んでいく。
――兄を、殺してしまった。
――それでも、ロドリグに会いたい。
その気持ちだけでひたすらに進み続けて、やがて、行き止まりの崖に辿り着いた。
あの場所で捕まって、再び同じ目に会うぐらいなら。
逃げたい。ロドリグの元に行きたい。そうでなければ、こんな命などないほうがいい。
裸足の足が、崖の端の土を踏む。
踵は宙に浮いている。
マルーテは崖から、空へと飛び込んだ。