マルーテの逃亡 1
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背の高い木々に囲まれた、静かで小さな村。
それが――マルーテの世界の全てだった。
銀の髪のマルーテは、その小さな村では生まれたときから尊ばれていた。
精霊の声を聞き、世界樹の化身である精霊王と心を通わせることができる存在として。
皆がマルーテを『巫女様』や『聖女様』と呼び、大切に扱われていた。
マルーテの母もまた、銀の髪をもつ巫女であった。
マルーテの家族には銀の髪をもつ男性もいる。
けれど、精霊王の声を聞けるのは女性のみだった。
母は人前に顔を出すことは滅多にない。
精霊王との対話を行い、大切な預言を皆に伝えるのがその役割だ。
といっても、実際に声を聞くことができるわけではない。
精霊王の見る夢を、同じく見ることができるのである。
その夢は、未来の夢だったり過去の夢だったり、全く違う場所、知らない場所の夢だったりする。
マルーテはまだ夢を見ることはないが、物心ついたときから森に住まう愛らしい精霊たちと言葉を交わすことができた。
じっとしているのが苦手な性格のマルーテは、よく大人たちの目を盗んでは森の中を探索して回った。
森の中は迷いやすい。
そして、森の外には化け物がいるから、外に出てはいけない。
そう、言われていた。
森の中でも危険な獣がいる。
狼などがそれだ。
しかし、大人たちが魔獣と呼ぶ、黒々とした化け物の気配を感じることがある。
化け物は、大抵の場合は一日や二日で消えてしまう。
精霊たちや大精霊たちが化け物を倒してくれているのだ。
時折魔獣は森から出ていくことがあるようだが、出て行った後どうなるのかマルーテは知らなかった。
森の外には魔獣よりも恐ろしい化け物がいるのだから、きっと食われてしまったのだろう。
マルーテの世界は森の中だけで完結していた。
村の者たちはマルーテに優しく、精霊たちも友人のように傍にいてくれる。
外の世界がどうなっているのかなんて、考えたことがなかった。
この世界は世界樹の見ている夢のようなものかもしれない。
はじめて、預言の夢を見たときに、マルーテはそう思った。
それは、世界の成り立ちの夢だった。
真っ暗闇の中に種が落ちて、そこから幹が伸びて枝が伸びて、根が伸びていく。
精霊王が世界樹の中で目覚めると、まず大精霊たちをつくった。
炎の大精霊は火を起こし、水の大精霊は川をつくって、海をつくった。
風の大精霊は風を吹かせて世界を動かし、土の大精霊は世界樹の根の植えに土をもって土地をつくった。
精霊王は光と闇を司る。
朝がきて、夜が訪れるようになると――様々な動物たちが、世界樹の上でその命を芽吹かせはじめた。
そうすると、精霊王は満たされた。
精霊王の意志は世界樹の意志だ。
だからきっと、ひとりぼっちの世界樹は寂しかったのだ。
寂しくて、寂しくて。その体を大きく広げて、沢山の人々が自分の作り上げた箱庭の中で住む、夢を見ているのかもしれない。
マルーテは、世界樹を愛しく思った。
それと同時に、森の外に化け物がいるというのは、嘘なのかもしれないと考えるようになった。
精霊王の夢の中では、沢山の人々が暮らしているというのに、マルーテの村に住む人はほんの少しだ。
もしかしたら森の外にもっと、広い世界が広がっているかもしれない。
成長するにつれてマルーテのその思いは、強いものになっていた。
そんなある日、マルーテは母に呼び出された。
「マルーテ、あなたはやがて外の世界を知ることになる。あなたは二人の子供を産むでしょう。あなたの産んだ子供たちは、この世界を混乱に陥れるかもしれない」
「……お母様、どうしてそんなひどいことを言うのですか?」
「預言とは、絶対的なものではありません。マルーテ、村の外に出るのはもうやめなさい。あなたは、世界を知る必要はない」
勝手なことを言っていると思った。
それに――村人たちからは敬われているが、ただ預言のために生きているような母は、まるで虜囚ではないかと。
母に残酷な預言をされた反発心もあったのだろう。
マルーテは森の探索をやめなかった。それどころか、探索の足を伸ばし、森の出口を探すように遠くまで行くようになった。
当然、村人たちには叱られた。
マルーテにはお目付役のような存在の村人がいて、叱られたし、監視もされた。
それでも、なんとか監視の目をくぐって村から出て――その日も、ふらふらと森の中を歩いていた。
「……森の外には、広い世界が広がっているのではないかしら」
『どうして森の外に出たいの?』
『森が嫌いなの?』
『大精霊様は、森から出てはいけないと言うわ。危険だから!』
マルーテの傍には、いつも精霊たちが寄ってくる。
口々に話しかけられて、マルーテは肩をすくめた。
「危険かどうかなんて、行ってみないとわからないじゃない」
『マルーテは変ね』
『そんなことを言う子はいままでいなかったわ』
本当にそうなのだろうか。
銀の髪の聖女は、生まれたときからその役割を定められている。
だから、皆、諦めていたのではないだろうか。
どこか遠くに行くことを。好きなように、生きることを。
森は広大で、どちらにいけば出口なのかがまるで分からない。
大精霊も精霊たちもマルーテにそれを教えてくれはしなかった。
――ここにいる者たちは、私を森に閉じ込めようとしているのだ。
可愛い精霊たちのことは好きだった。
母のような大精霊たちのことも好きだった。
けれど、同時にまるで監視されているようで、少し苦手だと思っていた。
「――待って、誰かいるわ」
精霊たちと話しながら歩いていたマルーテは、足を止める。
靴底の下で枝が折れる、パキンという音がやけに大きく響いた。
清廉な水の流れている河原に、見知らぬ男が倒れている。
しきりに『近づかない方がいい』と言う精霊たちの声を無視して、マルーテはその男に駆け寄った。




