序章:シャルロッテは逃げることにした
シャルロッテ・ハーミルトンは全ての荷物を鞄に入れると、部屋の最終チェックを行った。
住み慣れた――愛着はそんなにない、質素な部屋だ。
部屋というか、屋根裏。十字の格子がはめられた天窓からは早朝の光が入り込み、ほこりの粒子がきらきらと舞っている。
三角屋根の下に作られている屋根裏は、部屋の端に行くほどに天井の傾斜に沿って狭く低くなっている。
置かれているのは、眠るときに使用する毛布が一枚。
古びたクローゼットの中には、シャルロッテが普段使用しているハ―ミルトン家のメイド用のお仕着せが数着入っている。
お仕着せの他には、古いワンピース。ところどころほつれのある寝衣。
クローゼットを開くとくもった鏡があって、その鏡には身支度を整えたシャルロッテの姿がうつっている。
銀の髪と、アメジストの瞳。これは、亡くなった祖母に似たらしい。
らしいというのは、シャルロッテは祖母の姿を知らない。絵姿も残っていないので、本当に似ていたかどうかなんてわからない。
全ての荷物といっても、物置をあさってこっそり手に入れてきた古めかしい茶色のトランクの中には、着替え用の服が一着。それから、どうしようもなく空腹になった時用にとっておいた乾燥パンとラムのジャーキー。
服の中ではハーミルトン家のお仕着せが一番上等だが、それを着て歩くのは避けたかった。
自分はハーミルトン家の者だと、名札をつけて歩いているようなものだからだ。
だから服の中では二番目にまともな、普段使い用のワンピースを選んだ。古めかしいけれど、着ることができるのだから問題ない。
シャルロッテはできる限り音を立てないように、屋根裏から階段を降りて階下に向かう。
歩くたびにぎりぎしと軋む板張りの床は所々穴が開いていて、雨漏りこそしないけれどハ―ミルトン伯爵家の立派なお屋敷にしては随分とお粗末である。
修繕の費用がないのだ。階下の暮らしは派手だけれど、見える所は綺麗に取り繕っていても見えないところまでは手が回らない。
ハ―ミルトン伯爵家の経済状況をシャルロッテが全て知っているわけではないが、困窮しているほどではないけれどとても豊かというほどでもない。
なんせ、長女であるシャルロッテをメイドとして働かせていたぐらいなのだから。
(でも、それも今日で終わり。私は自由を手に入れる)
家の者たちは、まだ寝静まっている。
誰かに呼び止められるのではないか、咎められるのではないかと心配していたが、シャルロッテは無事に屋敷の外に出ることができた。
ふりかえり、十八年間暮らした屋敷を見上げる。
(もっと早く、逃げていればよかった)
自分は外に出られないものだと、どうしてかずっと思い込んでいた。
けれど――そうしようと決意して、逃げるための準備を整えて外に出てみたら、なんともあっけない。
シャルロッテは歩き出した。お金はないけれど、きっとなんとかなるはずだ。
(ハーミルトン家の人々は私に冷たかったけれど、親切な人だってこの国にはきっと、けっこう、多分、いるはずだもの……うん、多分、きっと!)
楽観的に過ぎるかもしれない。
けれど楽観的にならないとやっていられなかった。
そうしないと、足が竦んで一歩も踏み出せそうになかったからだ。
「おはようございます! おじさま、この荷馬車はどこに行きますか?」
シャルロッテは家から出ると、まずは街の積み荷保管庫に向かった。
街の入り口にそれはあって、大農場や牧場や、他の街から荷物の運搬をしている荷馬車が並んでいる。
荷馬車は早朝に出立する。できる限り急いできたので、出立前に間に合うことができた。
荷馬車の準備をしている大柄な男性たちに、シャルロッテは話しかける。
会話をするときは、笑顔。できる限り大きな声。
それがシャルロッテがあの家で学んだ処世術だった。
長年の振る舞いがきちんと染みついているのは、それだけシャルロッテがハーミルトン家に住む人々に気を使いながら生きてきた証である。
「なんだ、お嬢ちゃん。馬車に乗りたいなら、乗合馬車をつかいな」
「そうだぞ、お嬢ちゃん。これは荷馬車だ。人を乗せるものじゃねぇよ」
「お嬢ちゃん、トランクは分かるが、どうして箒を持ってるんだ?」
珍しい来客に、荷馬車の運搬主たちが集まってくる。
もっと邪険に扱われるのかと思っていたシャルロッテは少しほっとしながら、元気よくこたえた。
「箒は護身用です。私、お金がないのです。ですので、荷物の積み下ろしのお手伝いをさせてください。どこにでも行きます。事情は説明できませんが、できる限り、この街から離れたいのです」
ハーミルトン伯爵家の所有する小さな街グリーンヒルドに留まるつもりはない。
どこか遠くへ行こうとシャルロッテは思っている。ここではないどこかなら、どこでも構わない。
ここに残っていたら――連れ戻されてしまうかもしれないのだ。
メイドとして働くのは我慢できる。でも、売り飛ばされるのだけは嫌だった。
「わけありか、お嬢ちゃん」
「つっても、お嬢ちゃんを乗せるのはなぁ。助けてやりたいのは山々だが、訳ありのお嬢ちゃんに関わるのはな。俺たちにも生活があるんだ」
「そうだなぁ」
屈強そうに見える男性たちが、困ったように顔を見合わせている。
確かにそれはそうだろう。シャルロッテは明らかに訳ありで、もしハ―ミルトン伯爵家から逃げてきたとでも言えば、誰も手を差し伸べてくれない。だから事情は言えないが、事情を隠せばよけいに怪しまれてしまうことを失念していた。
上手な嘘を考えておけばよかったと、今更ながら後悔する。
「どこにでも行くって言ったか、お嬢さん」
男たちの中の一人が、シャルロッテに声をかけた。
顔を見合わせていた男たちは、明らかに狼狽したように声をかけてきた男を見る。
「俺の荷馬車は辺境に向かう。辺境の街は危険だからな、実入りはいいが、荷物の積み下ろしを手伝いたいという人間はいない。俺を手伝ってくれるんなら、乗せてやってもいい」
「ありがとうございます! もちろんです!」
「それは駄目だろう、ゲルドの旦那。お嬢ちゃんを辺境に連れていくなんて。わざわざあんなところに」
「そうだ。危険すぎる」
「人の住む場所じゃねぇよ、あそこは」
口々に男たちが首を振りながら言った。
シャルロッテとしては、そこがどこでもいい。危険だろうと、人の住む場所ではなかろうと。
ハーミルトン家から離れることができれば、なんだって構わなかった。
「心配してくれてありがとうございます。これから、自分の身は自分で守るつもりなので、大丈夫です。辺境に私を連れて行ってください」
――そうして、シャルロッテ・ハーミルトンは――家名を捨てた、シャルロッテは、辺境の地ウルフロッドに向かうことになったわけである。
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