#8 祖父の護符
「……一体どこにあるんだ」
食事を終え、ゴミを一枚一枚、一冊一冊退けながら捜索を続けていた湊が呟く。
流石にリリーの顔にも疲れが見えていた。
護符が紙や本の裏に張り付いてしまっていないかも丁寧に確認していたと言うのに、廊下に出ているゴミの中に護符はなかった。
「伯母さん、湊が散らかす!」
桜に指さされるが、強い焦燥感を前に何も言う気力もなかった。
「湊、いい加減にしたらどうなの?護符だかなんだか知らないけど、せっかく片付けてるのに進まないじゃない」
「母さん……でも必要なもんなんだよ」
「どうしてなの?何がどう必要なのか教えてくれないと納得できないでしょ?」
世界に穴を開けるために必要――などと言えるはずもなく、湊は高速で頭を回転させた。
そして、ひとつの出まかせを思い付いた。
「あーと、あれは祖父ちゃんのお守りなんだよ。日誌に書いてあったのペネオラさんが読んでくれたの。お守りや護符は捨てたりしないでちゃんと正月に神社かお寺で燃やさないといけないでしょーよ」
「そうなの?本当に?」
母はたまに魔法を使ったように湊を見透かそうとする。
湊はこれ以上目を合わせているとバレると思った。魔法が当たり前ではない世界で、人は人の心を読む。
「本当だよ。魔法陣は使ったら燃えて消えるべきもんなの!ペネオラさんも言ってやって下さ――って、あれ……?」
自分で言っておきながら、湊はその意味を頭の中で復唱する。
お守りや神棚に置いておく護摩札は正月に燃やしてしまう。それが、こちらの世界では勝手に神火が出て焼失しないために人の手で行われて来たことだとすると――湊はこの後どうなるのだろうか。
「……俺って……もしかして焼かれなきゃダメなのか?」
リリーの顔を確認すると、その顔は真っ青だった。
「み、湊様。こちらの世界は……神火を自分で起こさなくちゃいけないんですか……?」
「そ、そうかも……。桜、お守りってなんで燃やすの……?」
「込められた力と魂抜く為でしょ。お守りだって言うなら仕方ないから私も探すの手伝ってやるわよ」
「た、魂抜くためか。じゃ、死んでから火葬されればセーフかな」
湊がほ、と息を吐き、リリーも安堵に息を吐いた。
「湊様、将来いつかお亡くなりになったら、必ず荼毘に付すようにお願いしておいた方がいいです。強力すぎる呪具の放置は危険だと思います」
「じ、呪具って……」湊は少し肩を落として苦笑した。「ま、大丈夫です。日本で土葬する人は滅多にいませんから。ほっといても火葬してくれます」
「……あんた何の話してんの?」
「いや、なんでもない。そう言うわけで、母さん。ここ以外にも紙ゴミってある?」
「玄関のたたきにもあるけど……あんまりリリーちゃんに汚いもの触らせないでね?」
「へーい。行こう」
湊が腰を上げるとリリーと桜も立った。
濡れ縁のある廊下から、和室と仏間を突っ切って北側にある玄関へ向かう。
「どんなお守り探せば良いわけ?」
「ほら、こないだ燃えた護符。あれと同じもんがあるんだよ」
「はー、そう言うこと。あんた、燃やすつもり本当にあるの?もう一回書きたいとか言ってたくらい執着してるもんなのに」
「正月になる頃には燃やすよ」
言いながら、湊はあの缶に貼られてた護符も剥がして燃やさなくてはと思った。
(――その頃には、もうペネオラさんはいないんだな)
二度と会えないこの子の事を、この一週間の事を、湊はいつか忘れて行くのだろう。
記憶が薄れる度に祖父の本を読んで、必死に記憶を繋げ止めようとするのかもしれない。
別れの方法はこの世にたくさんあるが、彼女が違う世界のどこかで生きていると思えることは幸せな別れの一つだ。
三人は玄関の土間に置かれた紙ゴミの紐を解いて一つづつ確認して行った。
捜索は難航した。
「……ねぇわ」
「あんたが言い出したんだから諦めないの」
「諦めないけどさ……」諦めないが、弱音は吐きたくなる。
すると、念のために本の中を確認していたリリーが手を止めた。
「湊様、祈ってみては如何ですか?」
「……神頼みか」
「そうです。こちらの世界は魔法陣を書かなくても祈ったり、願いを口にするだけでも魔法を起こせると仰ったのは湊様です」
「……確かに。でも、俺の神様って腹痛止める力もないんだよな……」
トイレで何回神に謝罪し、二度と悪い事をしないと誓ったか分からない。が、腹痛は止まらなかった。
本当に神がいるなら腹痛くらい治めてくれれば良いのに。いや、ここで神に喧嘩を売っても仕方がない。
湊は取り敢えず真剣に両手を合わせた。
「何やってんの?」
「……神様に護符見つけてってお願いすんの」
「……馬鹿なの?本当に信じられんのはマンパワーでしょ」
正直湊もそう思う。こんな真似をする成人した男がいるだろうか。
馬鹿らしいとは思うが、湊はこう返した。
「うるさいわい」
何にしても、この子を家に帰してやりたいと思う気持ちは本当だ。この子が帰れれば、祖父の家族にこちらの事を伝えてもらえる。リリーはきっと祖父の骨とこちらの家族の写真を祖父の家族に渡してくれる。
見付けなければ。帰さなければ。
湊は祈りを捧げようと息を吸う。
その瞬間「――あ、あったよ」
桜の声がした。
ガッカリだった。
桜の手の中にあるのは、確かにあの日に燃えたと思い込んでいた護符に見えた。梵字や、重なるように書かれた漢字と文章。朱墨で散りばめられる模様と漢字。初めてそれを見た時、あれほど胸騒ぎがしていたと言うのに今見るとただの紙切れに感じた。だが、靴で踏まれたような皺と跡があるのでこれで間違い無いだろう。
「………やっぱり俺の神様ってダメだわ。腹痛一つ治せない神様に物探しなんかできるわけがなかった」
「意味不明な真似してないでさっさと探せば良かったのよ」
桜からの追い討ちは痛恨の一撃となり刻まれた。
「やめろ、下手に神様信じた俺を虐めるな」
桜がケラケラと笑う中、リリーは首を傾げていた。
「湊様、どうしてそんな事を仰るんですか?見付ける力を貸していただいたのに失礼です」
「……見付けたのは桜ですよ」
「湊様の魔法がサクラ様に護符を見つけさせたんです!」
恐ろしいほどにピュアだった。魔法のある世界出身の人は皆こうなのだろうか。
「……そうですね」
「はい。でも、本当に魔法陣なく神の力を借りられるなんてすごいです」
「……まぁね」
湊は遠い目をした。ここから見えるはずもない海を見たような気がした。
「で、これどうするの?」
桜がぴらぴらと魔法護符を振り、湊は手を伸ばした。
「お守りだから、俺も書けるように練習する。貸して」
「お守りなんか同じもん書いたって神社で力入れて貰わなきゃ何にもなんないでしょ。あ、これはお札だからお寺?」
「いーの。書いたらちゃんと力が入るようにするから」――ある意味。
「あんた、仏教徒にでもなんの?」
「日本人、生まれた時から、仏教徒。字余り」
「また変なこと言って。理系の無神論者が突然どうしちゃったの?さっきも死んだら火葬が何とかって言ってたけど……湊、死んじゃうの……?」
「死ぬわけないでしょーに」
湊は軽く答えてから少し身構えた。心配してやってんのにその言い方はなんなのよ、と怒られる気がしたからだ。
しかし――
「本当に……?」
桜の様子は湊の想像した反応とは全く違った。
「桜?」
「……湊、本当に死なないんだよね?何だか、怖いよ。やだよ。お祖父ちゃまが死んじゃって、自分のせいとか思ってるんじゃ無いの?湊はずっと自分のせいでお祖父ちゃまが認知症になったんじゃないか気にしてるみたいだったし……。全部誰かのせいなんかじゃないのに……湊……やだよ……。私、何だかやだよぉ……」
祖父へ感じていたあの憂鬱を見抜かれていたか。
不安の糸を震わせて、桜の顔がクシャッと中心に寄せられる。湊は慌てて桜の顔を覗き込んだ。
「さ、桜。もうそんな事思ってないよ。祖父ちゃんは俺が家出た時多分安心したはずなんだから」
――下手に近くにいれば、魔法陣を完成させるべきなのか悩み苦しんだのではないだろうか。湊が大学からは一人暮らしをすると言った時、安心したような寂しがるような顔をして笑ったのを覚えている。きっと、近くにいなければ近くにいない事を自分の中で言い訳にできたはずなのだ。
だから、湊は祖父から離れて良かったはずなのだ。全てを知った今だから断言できる。
ただ、魔法陣の完成が見えてしまってからの心労は大きかっただろう。発動させるべきなのか、そうではないのか。心労は人を弱らせる。もしかしたら、祖父はもう何もかも忘れたいと思ったかもしれない。――この世界は魔法陣なんか書かなくても魔法や奇跡を呼び寄せることが出来てしまうのだから。
不幸な願いだったが、その事でリリーを責めようとなんて思っていない。
桜の言う通り、全て誰かのせいではないのだ。
リリーは訳もわからなそうに、涙をこぼす桜の背をさすっていた。
「湊様……サクラ様はどうされたんですか……?」
「あ、いや。なんか、俺が死ぬと思ったって。桜、俺は死なないよ。死ぬ訳ないじゃんか。落ち着いて」
茶色い真っ直ぐな髪を撫でると、すん、と一度鼻を鳴らした。
「じゃあ、じゃあもう二度と火葬とか言わないで。お願い……。本当に嫌なの……。湊にはずっと元気でいて欲しいの……」
「ありがと。俺は元気だよ。もう泣かないで」
親指でぐいと頬を拭うと、桜は頷いた。
「――ね、湊は覚えてる?小学三年生の時のホワイトデー。私がお情けでバレンタインにチョコあげたら、湊、ビーズのブレスレットくれたよね」
朧すぎる記憶だ。桜が小三なら、湊は小四か。そのくらいの歳では母親主導でお返しを用意しているはずだ。
「それが……どうかした?」
「嬉しかったの……。すごく、嬉しかった。白いビーズが宝石みたいで……綺麗で……今ももらった時のこと覚えてる。汚い字でお礼の手紙も入れてあった……」
「汚いは余計だって」
「はは、でも、本当汚い字だったんだもん。私、今でもあのブレスレット、取っておいてるよ。そうやって、湊のこと本当に大切に思ってる人がたくさんいるって、忘れないで」
「……うん、ありがと。俺も桜を大事に思ってるよ」
「じゃあそろそろ新しいのちょうだい」
「催促かい。でも――いいよ。今度新しいのやるよ。あんま高くないやつで」
忘れてしまっていた埋め合わせと、無駄に不安な思いをさせた償いだ。
「……三十万のダイヤのついてる腕時計がいい」
静かな声で呟かられたリクエストに湊はブッと吹き出した。
「お、お前馬鹿か!?人の給料なんだと思っとんねん!!」
「はは、だって、あの日のブレスレット。私にはそのくらいの価値に見えたんだもん。仕方ないでしょ」
桜がいつもの調子で笑うと、湊は安堵から無意識に笑った。力が抜けるようだった。
「褒めれば何でもいいと思ってるな?まぁ、三千円の腕時計なら考えても良い」
「はぁ?子供か!」
「俺は子供だ!三千円は子供からしたら三十万円の価値がある!」
「せめて三万円にせんかい!」
そう言うと、桜は笑って土間から上がって行った。
「あ、護符!」
「これが欲しかったら捕まえてみなさい!」
「お前こそ子供か!こら、待て!」
桜がバタバタと廊下を走って行くと湊も駆け出した。
仏間を突っ切り、和室に姿を見つけて手を伸ばすが、桜はひょいと避けて重なる襖を盾にするようにちょろちょろと逃げ回った。
「もー、二人とも子供じゃないんだからバタバタしないで」
母に言われるが、子供なのは桜だけだ。
湊が廊下に出ると、桜は柱を軸にするように触れてぐるりと周り、仏間を斜めに横切って「こっち!欲しいんならもっと頑張りなさい!」と煽って駆けた。
仏間の隣の湊の部屋の向こう、この廊下は茶室で行き止まりだ。
桜が茶室に入り、湊は桜の手を取った。
「おら!捕まえた!」
握りしめた手首は子供の頃のように、自分と同じ太さではない。簡単に指の回る、細く華奢なものだった。
湊は強く握ると壊してしまいそうな気がしてすぐに離した。
「はぁー、面白かったね。湊って子供の頃からほんと変わんないね」
「うるさい。童心を忘れない素敵なお兄さんなの」
「ふふ、本当だね。素敵だよ」
「……服はダサいけど?」
「まじ服。服ダサすぎる。今日のも何なの?また馬鹿みたいな服着て。アイラブラーメンじゃないっつーの!」
桜はそう言うと、湊の手を取り、護符を握らせた。
湊が礼を言う前に、静かな願いが響く。
「……死なないでね」
「死なないよ。ありがと」
護符を握らせてくる桜の手は細かく震えていた。普段は強気だが、繊細なところがある人だった。
湊は少し悩んだが、桜に一歩近付いて、握られていない手で桜を抱きしめた。恋人にする全身を密着させるようなものではなく、親友にやる上半身だけが少し触れ合うような、そんなさらりとしたものだ。
一度だけ背をポンと叩き、すぐに湊が離れると同時に、包まれたままだった手は離された。
「桜、平気?」
「……平気。ごめんね」
「いーよ。じゃ、今夜はラーメン食いにいくか」
「行くの暑くてめんどくさいからオンラインのフードデリバリーが良い」
「現代っ子め。配達系は割高だし送料かかるから、それくらいなら出前で中華系の支那そば取ろうぜ」
「え〜ラーメンって言ったのに〜中華そば〜?」
「支那そばもラーメンだって」
二人で決め、廊下に戻ると、湊の部屋の壁にもたれかかって待つリリーがいた。
「――サクラ様、平気ですか?」
「あ、ペネオラさん。平気ですよ。取り敢えず今夜はラーメン食いましょうね」
「らぁみぇん」
「そー。先に出前にしよって言っておかなきゃな。その後護符書く練習するか」
湊は人差し指と中指に挟んだ護符をひらひらと振り、一人先に両親のいる廊下へ戻って行った。
その背を、桜は複雑な気持ちで見送った。
「……リリーちゃん、湊のこと、好き?」
リリーは困ったような顔をして桜を見上げ、何かを言った。
桜に返事の言葉の意味はわからないが、彼女が湊を見る目は何か大切なものを見るようだった。
◇
洗った器を軒先に出すと、湊は痩せた気がする財布を開いた。
そんなにしょっちゅう出前は取らないと親に言われ、自分で出すと言ったら全員分出させられた。当たり前かもしれないが些か遺憾だった。
可哀想な財布を物置と化している自室に置かれたボディーバッグに放り、湊は和室へ戻るため廊下を歩いた。
昼間はあの後多少片付けを手伝い、後は護符に書かれている言葉の中身を調べた。少しでもリリーに護符の中身を教え、転移の魔法陣と繋げる方法を考えてもらう。
幸い、護符の中から魔法陣へ伸びる回路がみえているので、これが見つかる前よりもずっと難易度は下がっている。
後は、護符の中身を湊が理解し、自分を魔法陣の一部として書き上げる。湊の理解が及ばなければ、そもそもこれでこちらの世界に穴を開けることは叶わず、リリーの書く魔法陣が発動することもない。
この世に独立した物などない。全てが影響し合い、自分以外の何かで出来ている。
宇宙のこの場所に隣り合う世界へのワームホールを生むのだ。
(――誤発したらブラックホールでしょ、これ)
湊は責任の重大さに苦笑した。そして、リリーに朝聞き忘れていたもう一つの疑問を思い出した。
それは、どうやって魔法陣が発動するとかしないとかを、こっちにいる祖父が見極めていたのかと言うことだ。
その点は折を見て聞かなくては。
湊が和室に戻ると、皆待ってましたと言わんばかりに振り返った。
本日の手記の音読大会だ。
気を利かせて、ちゃぶ台の上にはペンとメモ帳が出されている。皆相変わらず翻訳していると思っているが、言葉を選んでいるだけだ。
「お待たせ。さて、と。今日もお願いします」
今日は古い手記だ。魔法が何とかと書かれていることが多いので注意が必要だろう。認知症になってからの手記なら、うまく説明できずに魔法云々を持ち出しても小説と記憶が曖昧になっていると言えるが、若い頃の、まだ日本語を書けていない頃の手記に書かれている魔法云々はご法度だ。
前は異界から来たなんてどうせ言っても信じて貰えないとたかを括っていたので伏せて聞かせていたが、今は最後まで自分が異界の人であると隠し通して死んだ祖父の思いと覚悟を、踏み躙らないために隠して聞かせる。
心持ちが違うので、ある意味気楽で、ある意味責任重大だ。
「では、読ませて頂きますね」
「はーい」
湊がペンを持つと、リリーはノートを開いた。
今夜は先に湊が聞かせて貰っていた祖母との出会いと、横溝への感謝などを読み上げた。
あの時はリリーが特に家族のことを書いていそうなところを探して読んでくれていたが、今回は全てのページだ。
何を食べて美味しかったとか、変わった草木が生えているとか、建物の趣がなんとかだとか――湊と桜には少し退屈な内容でも、祖母や父にとってはこれ以上ない情報のようだった。祖母は大切な思い出を、リリーが帰った後も読めるように新しいノートに丁寧に書いていった。
それを待つ分、読むのに時間はかかるが、思い出のために読んでいるので何の問題もないだろう。
皆、何もかもが懐かしく、愛しいと言うような雰囲気だった。
和やかな様子で読み上げ会は続いた。
進めば進むほど、リリーにしか読めない手記の時間は飛ぶ。
それは祖父が日本語を堪能に操れるようになり始めたことの現れと、あちらへの切望が薄まって来た事の現れだ。
「――星の本をワタルに買ってやって気付いた事がある。これを読むまで、星空はどこであってもこう言うものだと自分の中で決め付けていたが、それは全く正しくない考えだった。住む世界――」と、そこでリリーは顔を上げた。「二重線です。世界という言葉に訂正の二重線が入れられています。――住む星が違えば、見える星空も全く異なるはずだと言うのに、ここはあちらの星空と似過ぎている」
湊は「父さんに星の本」「気付き」「星空」とメモをとっていた手を止めた。久しぶりにまた難しそうなものが来た。
ここまでを一度伝えることに決め、湊は口を開いた。
「星の本を父さんに買って、案外知らない事がたくさん書かれてて面白かったらしい。別の場所から見てた星空と、日本で見る星空は全然違うと思ってたけど、想像より似てたらしい」
「ははは。祖父ちゃんは父さんに買ってくれた本、父さんが読むより早く読んでたからなぁ。子供の頃は何なんだって思ったけど、今じゃ勉強家で感心するよ」
父が笑い、祖母も「そうだったわねぇ」と相槌を打ちながら、湊によって少し変えられた情報をノートに書いた。祖母はノートに対して横向きに入っている罫線を無視して縦にメモを取っている。自由人だった。
それが済むと、またリリーは読み始めた。
「――あちらと違ってこちらの月はたった一つしかないが、概ね空にある星は同じだ。一致することが奇妙だと気が付くまで、これほど長い時間がかかるなんて。思い込みとはかくも恐ろしいものだ。空を作る神はどこでも似たような空を作るとばかり思い込んでいたのだから。ここにはあちらと同じように北極星や宵の明星、昴、シリウスが輝いている。ここは遥か未来の私の世界なのかと一瞬思ったが、こことあちらに地理的な一致は一切ないし、月も一つしかない。もう少しよく調べたほうがいいかもしれない」
そこで、リリーが顔を上げて呟いた。
「星、ちっとも似てないのに……?」
湊の手元には「概ね同じ」「北極星、金星、昴、シリウス」とメモがある。伝えるのが難しい上に、湊は何故同じ星が、と考えた。まさか月に住んでいたなんて言わないよなとちらりとリリーを見た。
リリーはリリーで違うことに疑問を感じているようだ。
とにかく今は祖母が翻訳を待っている。湊は意識を戻した。
「……えーと。祖父ちゃんのいた国と、日本から見える星がこんなに同じだなんて不思議だって。暮らしてた場所と同じく北極星や金星、昴、シリウスが見えて感慨深い……って所かな」
「湊、その星達が見えるところにお祖父ちゃまは住んでたって事よね!これ、ヒントなんじゃないの!」
桜が身を乗り出すように言い、湊は首を振った。
「桜、そもそも三六五日の暦を作ったのはシリウスが昇るまでの日数を数えたエジプト人だし、日本で昴って呼ばれてる六連星はギリシャじゃプレイアデス星団って呼ばれて、姉妹の神話があるくらいなんだよ。北半球と南半球では違うけど、ほとんどの星が世界中で見えるって言っても間違いじゃない。地球は回ってんだから」
「ちぇ。最初はお祖父ちゃまの実家とか戦後引き上げまで住んでた国とか分かるって思ったのに。――ん?ね、リリーちゃんはどこの国から来てんの?字読めるってことは近所なんじゃない?」
湊はギクリと肩を揺らした。
「……桜、それよりお前いつ帰るんだっけ?」
「何よ。邪魔とでも言いたいわけ?」
「とんでもございません。えーと……」何か良い言い訳は、と考えたところで風呂が沸いた事を知らせる音楽が鳴った。「――そう。風呂だよ。風呂。うんうん。今日は銭湯行きたいなーって思ってたから、ペネオラさんと一緒にいてくれないかなーと思ったんだよ。だから、お前が今日帰っちゃうと困るよねって言う」
「銭湯なんかあったっけ?」
「あるある。チャリンコで五分。その後、花火でも買って帰ってやろうぜ」
「え!良いじゃん!気がきくぅ!じゃあ私タオル出してくる!」
桜が洗面所へ行くと、その後を母も追ってくれた。
「湊、自転車空気入ってるか確認した方がいいぞ。しばらく使ってないから」
嘘のために無駄な労働が増えた。代償だと思うしかない。
「へーい……。ねぇ、父さん。桜って本当にいつまでいんの?」
「明日は祖父ちゃんの服とか浴衣とか分け合うから、雪子と一緒に慎次郎さんが来て、一泊して次の日の夜に帰ると思うぞ」
「……俺と同時帰宅か」
「そうなるな。なんだか寂しくなるよ。リリーちゃんも明後日には帰国だもんなぁ」
父はため息を吐き、祖母の書き直した手記を手にした。
「――でも、親父の思い出がこうして息を吹き返して本当に良かった。湊、ありがとな」
「……俺じゃないよ。ペネオラさんのおかげ」
「リリーちゃんも本当にありがとう」
父が頭を下げると、祖母も高座椅子で頭を下げた。
「二人とも、ありがとうね。お爺さんも、まさかこんなに読んでもらえるなんて思いもしなかったでしょうし、私もこんなにお爺さんの話を聞けるなんて思いもしなかった。本当にありがとうございました」
頭を下げられると、リリーは「お世話になっているのはこちらなのに、そんな」と通じているような事を返した。
湊も頭を下げられ、何となくくすぐったい。
「――湊!リリーちゃん!行こ!!」
二つの手提げにバスタオルとタオルを入れた桜が顔を覗かせ、湊は照れ臭さを隠すように立ち上がった。
「ペネオラさん、一緒に銭湯行きましょう。銭湯って分かりますか?」
「はい!あちらは公衆浴場が多かったので、もちろん分かります!」
水の魔法は使えないんだった。それが使えないとなると、科学技術があまり進歩していないあちらでは確かに公衆浴場の方が多いのかもしれない。
湊が納得すると同時にリリーが湊の手を取り、湊が引っ張り立たせた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「あ、湊待て。銭湯代と花火代やろう。お駄賃な」
父はそう言うと一度和室を出て行き、すぐに戻ってくると五千円も持たせてくれた。
「こんなに?でかい花火買えるな」
「そんなもんたくさん買わないで、残りは小遣いにするんだよ。察しが悪いな」
「――あ、はは。ありがとう。悪いね、父さん」
親友のように笑い、父は湊の背を叩いた。
「じゃ、気を付けて行けよ」
湊は軽く手を挙げ、リリーを手招いた。
三人でガヤガヤと出かけて行き、父、航は長く細い息を吐いた。
「本当に大人になったなぁ」
「本当にねぇ。リリーちゃん、湊のところにお嫁さんに来てくれないかしら」
「ははは。湊の甲斐性次第だね。言葉を覚えられるまで根気強く付き合ってあげて、自国を手放しても良いって思って貰えるように頑張るしかない」
航は濡れ縁に出ると星空を見上げた。
昔よりずいぶん星は見えなくなってしまった。しかし、今でも覚えてる。平文が買ってくれたたくさんの図鑑や星の本達。
どれも平文自身の趣味だったと言っても過言ではないが、楽しそうな父に付き合って本を読むのも悪くなかった。航は湊よりも割とアウトドア派だったので熱中して本を読むことは無かったが、知的好奇心は人並みにはあった。
あぁ、一緒に大阪万博に行って月の石を見た時のあの喜びよう。
懐かしくて、切なくて、笑えてくる。
航は見上げる夜空の向こうに父の笑顔を思い出した。