#7 人柱
空は群青と黒が混ざり合りあい、千切ったような雲がまばらに散りばめられている。
庭が一望できる和室の前の廊下には数えきれない魔法陣が山のように積み重なっていた。
静まり返った家の中、ぽとりと付けペンが一本落ちる音が響いた。
「――は、や、やってしまいました」
「今日はここまでにしましょうか?」
湊が尋ねると、リリーはぷるぷると顔を左右に振った。
「私は平気です!でも、湊様はお疲れですか?」
「ううん、僕はもう少しやろうかな」
「湊様はとっても勤勉です。それに、飲み込みも早いです」
「数式みたいで面白いですから。それに、すごく懐かしいんです。祖父ちゃんが側で教えてくれてるみたい」
「……湊様」
「ペネオラさんは寝て良いんですよ。昨日も遅かったですし」
「いえ、私のためにお勉強してる湊様を置いては寝られません!」
「じゃあ、少し休憩して仮眠とって下さい。仮眠した方がたくさんできますからね」
「分かりました!五分くらいで起こしてくださいね」
「はーい」
リリーは和室から持ち出してきている枕を丁寧に頭の下に設置すると眠り始めた。
いくら言葉が通じなくても良いと言っても、やはり何を言われているのか分からない中にいると言うのは気疲れするだろう。特に、言葉が通じないと言う経験が生まれて初めてであれば尚のことだ。
リリーから寝息が上がると湊は自分の書いた日本語の魔法陣を見下ろした。
(……あの日燃えたのは護符みたいな形だった。ペネオラさんは魔法陣を教えることができても護符は無理だ)
湊が真剣に悩んでいると、和室の襖が少し開いた。
「なぁーにが僕、よ。ピュアアピール?」
「桜、まだ起きてたんだ」
「起きてるわよ。こそこそ近くで話し声がしたら寝られないでしょ」
「はは、悪い」
「思ってないくせに」
「思ってるよ。ごめん」
「……いいよ。素直に謝ったから許してあげる。ねぇ、それ何なの?怖いんだけど」
桜は敷居から身を乗り出して魔法陣を見下ろした。
「祖父ちゃんの小説の魔法陣。日本語バージョン」
「呪われそう……」
漢字でできている魔法陣は本当に邪悪な雰囲気だ。湊は苦笑した。
「それより、桜にまた教えて欲しいんだけど」
「何?もう教えれることなんか多分ないわよ」
「いや、割と頼りにしてんだわ。こないだ燃えた護符あったじゃん?あれ、桜から見てどう見えた?」
「どう見えたって?」
「どこのどう言うものに似てると思った?」
桜は枕を引っ張り寄せ、抱え込むとうーん、と唸った。
「そうだなー。密教の護符みたいだったかなぁ。梵字みたいの書かれてたよね?」
「俺もそう思った」
「僕、じゃ無いんだ」
茶化されるが、一人称についてのコメントは差し控えた。
「なぁ、梵字ってなんなの?」
桜はスルーされた…と呟いてから続けた。
「私は別に宗教のこと一生懸命やってる訳じゃないからよく分かんないけど、梵字って言ったら、一文字で仏様を現せる文字のイメージかな。発音とは別に一文字で意味を持ってるって言うか」
「一文字で?」
「そ。例えば、貸して」ペンを桜に渡す。いや、奪い取られる。桜は湊の最高傑作の魔法陣が書かれた紙の隅に適当にくちゃくちゃっと丸を書いた。「――これが仮に一文字の梵字だとして、これだけで弥勒菩薩を示す見たいな感じ。多分」
納得はできたが書く意味があったのかよく分からない。
「漢字も一字で意味があるからほとんど漢字と同じだと思って良い?」
「んー…漢字は普段使いできるけど、梵字は宗教的な所でしかほとんど使わないんじゃない。梵字は梵天様が作った字だし、神聖だと思う。まぁ、外国なら場所によってはまだ普通に使ってるんだろうけどね。元はサンスクリット語だし」
「梵字を作った梵天か。梵天って稀に聞くけど何者?」と口にしてから、湊は口を塞いだ。神はいるようなのだ。どんな名前でどんな姿かは別にして。
「……梵天様はどなたでどんなお力が?」
言い直すと、桜は怪訝な顔をしてから続けた。
「梵天様はブラフマーなの。哲学の授業にブラフマンとか出てくるし、ブラフマーなら聞いたことあるでしょ?」
「記憶にないわ。とにかく、ブラフマー様が梵天様ね。おっけー。それで?」
「本当に分かってんだか……。ブラフマーはインドの最強神様の三人のうちの一人。なんか宗派で色々考え方が違うみたいだけど、大まかに言えば世界が壊れないように守るヴィシュヌと、世界を作る為に世界を壊すシヴァがいる。それでもって、宇宙と世界を作ったブラフマーね。梵字もブラフマーが作ったから、梵天様の字で梵字。分かった?」
湊は一瞬ペンを落としそうになった。
「……分かった。分かりすぎるくらい。やっぱり桜はすごいよ」
「もっと褒め称えなさい。そうそう、昼に話した諸法無我の大元の考え方もブラフマーと同じもんよ。別名をブラフマン。もしくはアートマンね」
クッキーの缶に内側から張り付いていた世界同士の独立性を否定する魔法陣――いや、魔法護符の真の意味を湊ははっきりと悟った。
桜は機嫌良さそうに「私って本当天才ねぇ」と言っていた。
「……世界創造の神の文字と概念と来たら、そりゃあ世界に風穴の一つや二つ開けるわけだ」
「意味不明だし漫画の読みすぎ。神様の文字って言ったら、ルーン文字だってオーディンが作ったんだか手に入れたんだか閃いたんだかした字よ。あれも一文字であれこれ意味がある」
あまりにも参考になりすぎる話だった。漢字だけの魔法陣を作るよりも、やはり護符のような梵字も使ったものを作らなくては。難易度ならルーン文字の方が低そうだが、日本で確かに発動しそうなのは梵字だ。
「桜さ、ちなみにあの時の護符に書かれてた梵字覚えてる?」
「全く覚えてない。別に私も梵字を読めるわけじゃないし。あんた、あれもう一回作りたいの?」
「そう。察しがいいな」
「無理じゃないの?あれ、梵字以外にも色々書いてあったじゃん」
それは湊も思うが、何とかしなくては。
「参考になったから俺ちょっと祖父ちゃんの部屋行くわ。本当にありがとう。桜がいて良かったよ」
「……ま、精々感謝しなさいよ」
桜は部屋に体を引っ込めて襖を閉め、湊は今夜書いた魔法陣をまとめて隅に置いてから離れへ向かった。
書斎を開けると祖父の陰を感じた。
(祖父ちゃん。力を貸してくれ。優しいあの子を家に帰してあげるために)
湊は電気を付けると資料本を一つ一つ確認して行った。
まだ虫干しした中には無かったはずなので、探すべき本棚は分かっている。
なぞるように指を滑らせていくと――湊は手を止めた。
「これだ。梵字の書き方、意味一覧」
祖父だって小説と魔法以外は専門家では無かった。湊にも理解できるはずだ。
魔法の利用は理解が何よりも大切だから、一夜漬けでどうこうしようとするべきじゃないかもしれない。
だが、祖父は数えきれないことを教えてくれたし学ぶようにも言ってくれた。湊の中には知らぬうちに蓄積された、知識の遺伝子と言っても過言ではないものが流れているはずだ。
付箋が大量に貼られた梵字の本を取り出すと――本の間から紙が何枚かばらばらと落ちた。
「っわ、やっちまった」
紙はどれも畳まれていた。落ちたものを全て拾い、開いてみれば、そこには――「ご、護符だ……」
あの日燃えた護符にそっくりな護符だった。
一度本を小脇に抱えて、入っていた他の紙も広げる。どれもこれも微妙に違っていた。そして、全て湊の文字が欠けている。
今なら分かる。祖父が湊の文字を旅立ちの門だと大切にしてくれていたのが伝わってくるようだった。
だが、二つわからないこともある。
一つ目は祖父はどうやって、完成や未完成を見極めていたのだろうかと言うことだ。
魔法が容易く使えない世界で、とにかく書いて使ってみることはできない。それに、誤って門を開くことを恐れてくれていたのだ。どうやって発動しないギリギリを知ることができたのだろう。
二つ目の疑問は、世界に関わる神の事を理解していなかった湊が完成させた魔法陣が発動した理由だ。
リリーが来た日に話した時、リリーはそれで魔法陣が発動するなんて事があるのかと悩んでいるようだった。
魔法は真理を理解しなければ発動しない。湊はとても自分が世界転移の真理を理解しているとは思えなかった。梵天の話すら今初めて知ったのだから。
湊はどう言うことなんだと悩んだ。
この二つは宿題にして、明日改めてリリーに聞くべきかもしれない。
そうと決めると廊下で眠るリリーの下へ戻った。
よく寝ている。本を廊下に置くと襖を開け、そっと抱き上げた。
「っよ……!」
やはり少し重かった。
タオルケットを先に退けておかなかったのは失態だ。
湊は足でタオルケットを払うと、小さくなって眠るリリーをゆっくり降ろした。すぐ隣に敷かれた布団からは桜の寝息が聞こえてきていた。
「……みなとさま」
「――あ、ごめん。起きちゃいました?」
「……起こして下さるお約束のはずです」
「はは、じゃあ今起こした事にしてください。それでもって、また眠って」
「湊様がまだお勉強されるのなら……リリも起きます……」
「リリ……良いんだよ。俺は祖父ちゃんの代わりにリリのためにならなきゃいけないし、それに…俺はリリに酷いこと言ったから……。罪滅ぼし」
「そんな事お気になさる必要なんてないんです……。私が悪かったんですから……」
「優しいんだね。ありがとう。でも、今日はもうおやすみ」
湊はリリーの頭を撫でると廊下に戻った。
廊下は障子も空いているし、雨戸も空いているので、月明かりに青白く染められていて美しかった。まるで海底に沈んだように静かだ。
これだけ月が綺麗だと、どこかの部屋に移動する気にはならないのが人情だ。
和室のすぐ隣が納戸なので、湊は納戸の壁に寄りかかって床に座った。冷たい床と壁の感触が暑い夜には心地良い。
そして呟く。
「……うわぁ…苦手だわぁ」
梵字は湊の領分ではなさそうだった。いや、魔法陣の製作がそもそも湊の領分ではない。――などとぼやいてはいられない。そう思い、前書きからきちんと読み始めた。
真理の理解と言うものがどんなものかはよく分からないが、深く理解するには前書きも馬鹿にはできない気がした。
一ページをめくったところで、和室の襖が開いた。
「……湊様……。リリも……」
「リリ、良いのに…」
リリーは湊の後ろからズルズルと這い出てきて、湊の隣に座ると満足したように、ほぅ、と息を吐いた。
「リリは少し頑固だね」
「――それがリリの良いところです」
至近で微笑まれると弱い。湊は笑い返すと本を開いた。
「それは何ですか…?」
「梵字って言うんだって。ここの世界を創ったかもしれない神様が生み出した文字。きっと役に立つと思う。それで、明日いくつか見てほしい物があるんだ。あと、二つ聞きたいこともある」
「今でも良いんですよ?」
「いや、今は皆寝てるから。あんまり騒がしくしたら悪いでしょ」
「あ、それはそうです。失礼しました」
「良いよ」
もう眠そうなリリーに聞くのが悪かっただけだ。
湊が本を読み始めると、リリーはすぐに船を漕ぎ始め、三ページ目に行きあたる頃には壁と湊の左肩に寄りかかって眠った。
(律儀な子だよなぁ)
湊もふわぁ…とあくびをし、顔を振った。
何ページも何ページも読み、有用そうな文字のあるページに紙を挟んでおく。そして、明日は取り敢えず書いてみることを決めた。
湊の長い夜は続いた。
◇
日の光が零れ落ちて来る。
夢を見ているとも、起きているとも言える狭間。
心地良いまどろみに身を任せる。
ふと、何か良い香りがした。夢で香りがするなんて不思議なこともあるものだ。
まだ起きるには早いはず。
もう少しこの香りを――。
そう思った矢先、脇腹に衝撃と鈍い痛みが走った。
「――ゔ」
朝一番の発声はザラザラのヤスリをすり合わせたように掠れていた。
夢の中から引きずり上げられた湊は今日も腰の痛い朝を迎えていた。
硬く冷たい床でずり落ちるように半端に座ったまま寝ていたので完全に筋肉が凝っていた。廊下に対して流れを堰き止める向きに座っているので、窓があるせいで足も満足に伸ばせていない。
何か良い夢を見ていたと言うのに、一体何が――そう思って目を開ける。
湊の手には読みかけの本がぎりぎり握られていて、頭を預けているところからは夢で嗅いだのと同じいい香りがした。
(……夢か)
湊はまた目を閉じた。
そして、脇腹に再度衝撃が走った。
「っつぅ……!」
痛みの発生源を確認するように見上げると――桜が仁王立ちしていた。不動明王だった。
言葉を発することはなかったが、その背に立ち登る暗黒色のオーラは桜の言いたい事をハッキリ物語っていた。
湊は今度こそ目が覚めた。
眠りこけるリリーに肩を貸して本を読んでいたまま寝ていたらしい。リリーはまだ湊の肩で眠っていた。
きっと、湊の首にかかる指輪のそばは心地が良いのだろう。向こうに感じる自分の世界と、祖父の陰を追っているから。
起こすのはやはり、可哀想な気がした。
湊は目を覚ましたその体勢のまま、無言で梵字の本を開き直した。
そこで、あまりにも無粋な大声が響いた。
「――何無かった事にしてんのよ!!」
湊に寄りかかっていたリリーの体がビクッと跳ねた。まるで猫のようだった。
リリーは自分がどこで寝ていたのかを確認しようとキョロキョロと辺りを見渡し、納得すると頭を下げた。
「あ、おはようございます!湊様、サクラ様!」
電車で人の肩で居眠りした時に、人に肩を借りた自覚がないのと同じなようで、リリーは全く何も気にしないように二人に微笑んだ。
「リリーちゃん、今夜からは私と寝ようね?こいつと寝るとダサいのがうつるよ?」
「サクラ様、大丈夫です!座って寝た割によく眠れました!」
相変わらず通じ合っていない。
だが、もう慣れた。湊はうんと伸びをし、首を左右に倒すことで緊張を解いた。
「はぁー。やっぱり布団じゃないと寝れないな」
「あんたはさっさと退く!お祖母ちゃま通れないでしょ!!」
湊は桜の陰から現れた祖母を見上げ、なんちゅーもんを見られたんだと思った。親よりもダメージが大きいのは、きっと親よりも湊の事を子供として扱ってくる為だろう。
「お、おはよう。祖母ちゃん」
「おはよう。湊ちゃん、同じ部屋で寝なかったら何でも良いわけじゃないわよ」
「は、はぁ〜い」
ここは素直に良いお返事をしておいた。
「あ、すみません!イロハ様のお邪魔に!」
リリーはぺこぺこと祖母と湊に頭を下げ、祖母はリリーの髪を梳るように頭を撫でた。
「良いのよ。リリーちゃんは湊のお勉強に付き合ってくれたんでしょ。私もお爺さんのお勉強が楽しくてずっとお爺さんの後を追いかけたわ」
「お、お許しいただけたんでしょうか……」
リリーは困ったように湊を確認した。
「勉強に付き合ってただけのペネオラさんは許されてます」
「何故勉強していたとお分かりに……?」
「まぁ、祖父ちゃんの本とこの惨状じゃね」
周りには湊が単なるペンで書いた怪しい梵字と怪しい護符が大量に落ちていた。
「お、お片付けします!」
リリーが慌てて紙の回収をはじめると、桜もそれを手伝い、湊は朝食の為にちゃぶ台と祖母の高座椅子を出しに行った。
朝食がちゃぶ台に並んで行く。リリーのご飯には黄色い振り掛けが掛かっていた。
今朝は塩鮭、サラダ、まとめて大量に炊いたであろうひじきの煮物、納豆、味噌汁だった。
「湊、ちゃんとするなら父さん応援しちゃうぞ。こんな可愛いお嫁さんが来てくれたら、孫もすごく可愛いはずだからな。ふふふ」
そう言って隣に座る父に肘で軽く小突かれると湊は火山ガスのように重たいため息を吐いた。
もしもリリーがここに残ると言ったら、言葉はこのネックレスを渡す事で何とかなるが、パスポートもなければ戸籍もない彼女がこの日本で湊と長く暮らして行けるはずがない。子供を持つなんてもっての外だ。保険証もない妊婦など病院に通報される。今は祖父の来た時代とは違うのだから。
と、そこまで考えて湊は首を振った。
そう言う問題ではない。この子は魔法陣の完成を手伝えるからこそ湊と一緒にいるのだ。それが、帰らないと決めて指輪を渡した後まで湊と一緒にいるはずもない。何もかもが思い上がりも甚だしいもしもの話だった。
「そう言うんじゃないってぇの」
「そう言うんじゃないのに仲良しじゃんかぁ」
「仲良く見えても妹以上に見れない」
「いけずぅ」
この親父は男子高校生だろうか。
湊は無視を決め込み、食事を進めた。
さっさと自分の分の食器をまとめていく。食器の頂上に漆器の腕を乗せて立ち上がった。
「ごちそうさま。ペネオラさん、後で二人で話があるから、洋間に来てください」
味噌汁からスプーンで豆腐をすくっていたリリーは頷いた。
「分かりました。すぐに伺います」
「焦んないで良いからね」
そして足で襖を開けて立ち去った。
「何が妹以上に見られない、だ。ふふ。まだ格好つけたいお年頃か」
父の楽しげな呟きは湊の背には届かなかった。
湊は先に自分の食器を洗い、食事の間仏間に放って置いた梵字の本と護符達を手に洋間に向かった。
筆ペンと付箋を文房具が入れられている引き出しから出して出窓に座る。
有用そうだと思われる文字の書かれたページに付箋を貼り、ページと字、字義をメモする。
まるで大学受験の時のようだなと思いながら昨日一時的に紙を挟んでおいたページを見直すと――よく見てみれば、そこには祖父の付箋が貼ってあった。
いくつかを除いてどのページにも祖父の付箋があり、湊は笑いを漏らした。
「はは、そっか」
全てに目は通した方が良いだろうが、付箋はもう使わなかった。祖父の軌跡が導いてくれるはずだから。
窓の外で徐々に暑さを増していく太陽の光は必死な湊を祖父が見守っているように感じて心地よかった。
集中してやっていると、扉が叩かれた。
「どうぞー」
「失礼します。お待たせしました!」
リリーは久しぶりに来た時と同じ服を着ていた。
久しぶりと言っても、リリーが来てから四日だが。
付け加えていうと、湊が帰るまで後二日。
護符の完成目処が付かないまま祖父の持つ資料を簡単に見ることができない家に帰るのは痛手だ。最悪帰宅の予定を伸ばして会社には実家から出る必要があるかもしれない。朝が早くてしんどいが。
「座ってください」
リリーはひょいと軽い身のこなしで出窓に腰掛けた。二人の間には護符と本。
湊は本に挟まれていた書きかけの護符をリリーの方に向けて並べた。
「すごいです。これは湊様が?」
「いえ。これ、全部祖父ちゃんの書いたものなんです。全部あの日に燃えたのと同じに見えるけど、よく見ると少しづつ違う。例えばこれ。この漢字は百。こっちは地。そうかと思ったら、こっちは梵字が違う。これはカーン、不動明王の文字。でもこっちはウーン、馬頭観音って言う交通安全の神様……らしい」
リリーは並べられた護符を真上からじっくりと見下ろした。肩に乗っていた長い髪がサラリと落ち、それをすくって耳にかけた。
「難しそうな魔法陣です……」
「本当ですよね。どれが正解なのかは正直分からないです。もしかしたら、どれも正解じゃなくて、燃えてなくなった一つだけが正解なのかもしれません」
「……難航しそうですね」
「ですね。だから、ペネオラさんには全部の護符が填まって繋がる転移魔法陣を書いて貰わなきゃなりません。それに追加で、ここにあった祖父ちゃんの護符の全部が試作品で力を持たなかった場合には、俺の書く俺の想定する別バージョンにも繋がるようにしてもらわなきゃならない」
「つ、繋げるのですか…?」
「そう。祖父ちゃんの護符はぴったり填まっただけじゃなくて魔法陣と繋がってましたから。それは多分俺にはできません」
「……こちらの魔法陣の字義も意味もわかっていない私に繋げることができるのでしょうか。できたとして発動するのか……」
真理の理解。それは湊も思ったことで、付随する謎がある。
「ペネオラさん。あの日、梵字の意味もあっちの世界の文字も分からない俺が適当に完成させた魔法陣が発動したのはどうしてなんだろう?ちゃんと理解していた祖父ちゃんが途中まで書いてたから発動したんですか?」
リリーは口に手を当て、頭を悩ますような表情になった。
「……それはずっと私も考えている事です。そんな事、ハッキリ言って不可能です。理解のない者に魔法陣を正しく発動させることはできません」
「魔法陣の意味は分かっていないけど、その魔法陣が起こそうとしている事の知識だけがある場合も?実は理解してる的な」
その問いにリリーが首を振る。
「その場合も発動しません。魔法陣は術師が力を取り出すために作る知識の門なので、魔法陣を書く人が理解できる言葉で書く必要があります。なので、魔法陣への理解がある者が途中まで書いたとしても、最後に何も知らない子供や文字を読めない者が魔法陣を完成させてしまえば正しい力は発動しません。それどころか、半端な者が触れれば魔法陣が歪んでしまうことすらあるんです。私達はそれを力塊誤作動と呼んでいます」
「え?歪むって?どういうことですか?」
「今のところこちらでは確認されていない事象ですが、魔法陣と書き込まれている文字が意味を失うまで文字通り歪んでしまうんです。ぐにゃーって。知識をうまく魔法陣で表現しきれなかったり、逆に魔法陣に書かれていることを解する知識が足りなかったりしても起こります」
「インクが動くってことかな……?」
「そうですね。書いた陣だけが歪むこともあれば、書きつけた紙や近くにあるものまで影響を受けて一緒に歪んでしまう事もあります。書いた魔法陣だけが歪む分には良いですが、家具や家が歪むと危険です」
湊はいわゆる魔女の家と言って想像するような歪んだ家具や歪んだ屋根を思い浮かべた。
「ふーむ……。その誤作動って、歪むだけじゃなくて火が出たりはします?それで、思ったのと違うことが起こるみたいな。例えば、祖父ちゃんは本当は帰る魔法陣を書いたけど、俺が触ったせいでたまたまペネオラさんを呼び出しちゃったとか」
リリーは首を左右に振った。
「魔法陣が焼けるのは力塊誤作動ではなく発動の証です。望んだ効果と違うことが起こるような場合は誤発と呼ばれています。例えば、ヘイバン様と私は転移実験の魔法陣で魔術省の庭に書いた出口の魔法陣に行くつもりだったのに、魔法陣が完成する前に勝手に発動してここに来ました。これは完全なる誤発事故です。ただ、誤発の例はそう多くありません。書き込む知識と引き出そうとする力に齟齬があるのに、たまたま力を持って発動するなんてことは滅多にないんです。理屈を説明できないので、同じ誤発は狙っても二度と出来ないくらい。人によっては神様のいたずらなんて呼んだりもします」
「すると、今回のは間違いなく誤発じゃないわけか……」
「そうですね。初日に湊様が似ていると仰った魔法陣も転移出口になり得る魔法陣でしたし。今回私が来られたのは、やっぱり正常な発動だと思います」
「……俺が使えた理由がますます分からんなぁ」
弱ったな、と湊から弱音が漏れる。ため息と共に出窓の枠に寄りかかった。
リリーも「本当ですねぇ〜」と苦笑した。
「もしかしたら、こっちはあっちと少し理屈が違うせいかもしれませんね。昨日湊様が見せてくれた箱の内側に貼られていた魔法護符、あれは破られる事で効果を失ったようなのに私の世界と違って焼失しませんでしたもんね」
「そっちは燃えるんですもんね。危ないな」
聞きながら、湊は祖父の小説を思い出そうと頭を回転させる。だが、祖父の書いた小説では空中に魔法陣を書く魔術師の話が多かったので当たり前のように魔法陣は残っていなかった気がした。
「燃え尽きちゃいます。って言っても、神火って呼ばれる実体の無い火なので危険はありません。神の力を引き出した魔法陣を神が焼失させるために起こす火なので、魔法陣を焼く効果しかないんです」
湊は、だからあの時燃え移ったはずの写真が無傷だったのかと理解した。気のせいだったかと思って忘れていた。
「――あれ?って事は、ペネオラさんの出てきた場所に、魔法陣の書かれてた紙だけは無傷で落ちてたって事ですか?」
「落ちてたんだろうと思いますよ。焼失するのは魔法陣だけですから。それにしても、あっちもここの魔法護符みたいに残ってくれれば良いのに。とっても羨ましいです」
「はは。俺も残ってくれてろよって今思ってます。残ってりゃいくらでも書き写せたのに」
「本当ですよね。発動した魔法陣が焼失しちゃうせいで、皆それはそれは必死で魔法陣を覚えるものです。理論がわかっていても、それをうまく魔法陣に表現するのは本当に難しいですから」
「書き掛けで焼失する寸前で取っておいて貰えば覚えやすいんじゃないですか?」
「湊様、お忘れですか?こっちみたいに魔法陣を書き掛けで長いこと取っておいたりするとあっちでは力塊誤作動を起こしちゃいますよ。魔法陣が完成しないっていう事は、知識を魔法陣できちんと表現できなかったって事になっちゃうんです」
「あーそっかぁ。こりゃ本当に祖父ちゃんが言ってた通りだなぁ。魔法とは無条件に利用できる便利な力ではない、か。現実は世知辛いなぁ。本当に書いてくのを見て覚えるしかないんすねぇ」
「まぁ、例外もありますけどね。継続的に力を持つ魔法陣は力を失うまでは消失しないで残ります。例えば、図書館なんかにはカビよけのために乾燥を促す大型魔法陣が織り込まれた絨毯を敷いています。そういうのは一ヶ月くらいは保つので、魔法陣の継承もし易いですね。焼失するまでに同じものを作り直して敷き直すんです」
「ははは、面白いですね。それ、絨毯屋の魔術師もいるってことですよね。もしくは魔術を使える絨毯屋か」
「いますけど……面白いでしょうか?」
当たり前の話ではなかろうかと言った顔でリリーが瞬き、湊は常識のズレを感じた。
湊のイメージでは、魔術師と言えば王宮お抱えだったりする、何かすごい存在だ。もしくは勇者のお供。それがただの絨毯屋とは。ホットカーペットを売るような感覚なのだろうか。
こちらの世界が科学技術で発達しているとしたら、あちらは魔法技術で発達している世界だ。
そう言えば、祖父の小説では十二歳くらいから火を起こす魔法陣を使えるようになるとも書かれていた。だから、湊は十二歳になれば火の魔法を使えるようになると信じていたので思い出深い。
子供とは何も知らない可愛らしいものだ。と、――そこまで考え湊は閃いた。
「ペネオラさん。何も知らない子供に正しい魔法陣を真似して書かせればあっちの世界でも魔法陣の永久保存ができるんじゃないですか?」
「……出来るには出来ますけど、魔法陣は望む望まないに関わらず、書かれたことを解する知識に触れれば力を持って力塊誤作動を起こしてしまうことが大半です。それをするには、全く知識のない何も知らない子供を生む必要があります」
リリーの瞳は細められ、ギラリと光った。光は美しい煌めきではなく、いつも優しい彼女が作るとは思えないような、憤怒の炎が見えたのだ。
「――私とヘイバン様の暮らしたバラミス共和国では行われていませんでしたが、バラミスと長く戦争をしているアルケリマン公国は近くのミア連合から自国で使われているアルケイ文字を読めない子供を買って魔法陣の保存を行なっています」
「あ、やっぱりあるんですね。そうした方が良い気がするもんな」
湊が考える程度の事はずっとその世界にいる人達によって当然のように思い付かれていた。
「湊様。子供による魔法陣の保存は湊様が思うより余程残酷です。子供達は寝食と魔法陣を写す以外の知識を極限まで削ぎ落として育てられます。書かれた文字の意味を理解せずに文字と魔法陣だけを写す道具として扱われるんです。私はそう言うの……嫌です。子供が余計な知識を付けて魔法陣が力塊誤作動を起こすようになると、子供はそこまでです」
「そこまでって言うと……返されるか捨てられるんですか?」
「捨てられるなら拾ってもらう事もできるでしょうが……放り出された子供が物を盗んだり、行き倒れたりすれば治安が悪くなります。だから……殺してしまうんです」
「こ、殺してって……」
「忌まわしい話です」
抑えきれない感情を隠すように、リリーは目を閉じた。
「まるでフォアグラのガチョウだな……。高いんだろうから雇って働かせた方が育てたコスト回収できそうなのに……」
「湊様……コスト回収なんて……。相手は命なんですよ」
リリーの口調は呆れを通り越して、不快感を訴えていた。
「あ、いや。すみません。物を教えて働かせた方が良い気がするなーと思って」
「……三歳やそこらじゃないんです。手元が狂わない曲線が引けて、文章をきちんと定められた枠に収められる年齢がいくつなのかよく考えて下さい。それも、隣で魔術師が書くものを同時に真似て書くだけの精度がいるんですよ。意味も知らない記号と模様、曲線をきっちり真似るなんて……」
湊は知らない文字を書いた事はないので、とりあえず中学一年生の頃の自分の数学のノートを思い浮かべた。文字は割と上手くいっていただろうが、曲線を書く必要があった反比例の図は大して綺麗じゃなかった気がする。
魔法陣と字を書くことだけを教えられて生きる子供達とは比べられないが、湊だって学校で朝から夕方までずっと板書されるものをノートに取っていたのだ。
ちなみに湊が今いきなりアラビア語を真似て書けと言われても不可能だ。
「……なるほど。よく分かりました」
いくつとははっきり想像ができないが、少なくとも再教育が容易な歳ではない事は確かだ。そんな歳までまともに教育されなかった子供に今更何かを教えるくらいなら、最初から教育された者を働かせた方がましだろう。そこは損切り――リリーが聞けば起こりそうな言葉だ――をした方が良いのかもしれない。使い物になるまで育てる時間と費用対効果を考えての処分だろう。
「すみません、変なこと言ったりして」
「……良いんです。国の繁栄のためだから、子供を道具にする事を分かっていても必要だと言う人も世の中にはいますし――ん?」
リリーはそこで言葉を切ると、「子供を……道具………?」と自分に尋ね、確かめるように繰り返した。
「嫌ですねぇ。人を道具にするとか、子供の自由を奪うとか」
やれやれと湊がため息を吐く。
「……嘘だ。そんなはず……」
リリーの顔はどんどん思い詰めるようなものに変わっていき、何度も首を振った。
「ペネオラさん?」
「み、湊様……私、どうしても確かめなきゃいけないことができました……」
「確かめなきゃいけないこと?」
「ヘイバン様の書斎に行かせてください……」
「良いですけど。大丈夫?」
リリーは頷くと、窓辺から降りて危なっかしい様子でふらふらと洋間を出ていった。地雷の話題だったのだろうか。
湊も散らかしていた物をまとめて持ち、その背を追った。
庭では母と祖母が祖父のジャケットやベストなんかを物干し竿で虫干ししていた。濡れ縁でも父と桜が本の虫干しを進めている。傍にはゴミにするのか縛られている本もある。鍵が入れられてくり抜かれていた文学書も纏められている物と共にあるが、どれだけ読めないと思っても今はまだ何も捨てないでいて欲しいと思った。
「――湊、振られちゃったのか?」
「伯父さん、当然よ」
心配げに見上げる父と、鼻歌混じりの桜に何を想像してんだと内心で悪態を吐く。
「うるさい。振られてない」
「じゃあ付き合うのか?」
「告白なんかしてないっつーの!」
「えぇ…湊は奥手だなぁ」
やれやれと首を振る父に言いたい事は山ほどあるが、さっきのリリーの様子は尋常ではなかった。
湊は喉から出かかっている言葉を全て胃の腑に飲み下すと、積み上げられて縛られている本達を避けて書斎へ向かった。
この暑いのに扉は閉められていた。
クーラーが入るたびに感動して喜んでいた彼女にクーラーを入れると言う頭はないだろう。いや、方法が分からないだろう。
湊はそっと扉を開けた。
「――ペネオラさん?」
リリーはソファの前に座っていた。手記とノートに囲まれて、落ちたの花のように床に青いスカートが広がっている。
リリーが顔を上げると、どうしようもなく溜まった涙がぽつりと一粒こぼれ落ちた。
それは神様が間違えて空の上から落としたガラス玉のようで、湊は綺麗だなと思った。
「湊様……」
「どうした?俺も一緒に調べるよ?」
リリーの隣に置かれているソファに座り、少し屈む。子供をあやすように指の背で頬を撫でた。
「私……ヘイバン様を信じたいのに……なのに……なのに……」
「うん?言ってごらん?」
「い、言えない……言えない……。あなたはきっとまた……ヘイバン様を信じられなくなります……」
「平気だよ。俺はもう分かってるから。俺は祖父ちゃんをすごく好きだし、祖父ちゃんも俺や家族をすごく好きだった。もう疑わないよ。信じる。それでもって、もしペネオラさんが祖父ちゃんの何かを信じられなくなってるなら、俺はまた祖父ちゃんを信じて貰えるようにしたい。だから……リリ。話してごらん」
空気が緩んだのを感じた。同時に、切なげな息が漏れる。
「……湊様……。まだ不確かなことですが……あなたは、門の一部として完成しているのかもしれないです」
リリーの簡素な言葉に湊の頭は追いつかない。
「ごめん、どう言う意味……?ゆっくり順を追って話して」
「……湊。旅立ち、そして帰ってくる場所……。ヘイバン様の道標……。あなたの名前は、まるで魔法そのものです……」
「はは、魔法そのものか。まぁ湊の字は護符にも書かれてたしね」
湊は軽く笑ったが、リリーは笑わなかった。
「……ヘイバン様はきっと、あなたをこちらの世界の門を開ける魔法陣の一部として完成させたんです。ヘイバン様の世界転移門は、あなたが湊の字を書き込むことによって初めて完成する――生体一式の禁忌の魔法陣」
「――え?俺が……なんて……?」
「あなたは……魔法陣そのものかもしれません。そうなら、あなたがヘイバン様の魔法陣を動かせた理由が分かります……。あなた自身が魔法陣そのものだから、ヘイバン様が完成させたも同然です……」
湊は不安そうに見上げて来るリリーから、自らの手へと視線を移動させた。
「……俺が、魔法陣?そんなことができるんですか?」
「……出来るか出来ないかでいえば、出来てしまうんです。知識を形とする方法を魔法陣や文字ではなく、生き物に落とし込んだり、物にする事は可能なんです。私達の杖も、魔法の力を魔法陣で込めた物ではなく、知識と魔力を物の形に落とし込んだものです」
リリーは腰のポーチから二本の付けペンを取り出し、湊に渡した。
「でも……生き物を魔法陣の一部とする事は法で禁止されています。神に命を捧げるので、とても強力な魔法が作れる一方……万が一力塊誤作動を起こせば、その生き物は魔法の意味を失うまで歪みきって死んでしまいます。いえ、死ねればまだ良いですが……悍ましく歪んだ姿のままで生きながらえてしまう事の方が……ずっと多い。そして、もし力塊誤作動を起こさずに正しく発動したなら、魔法陣の一部としてその命は燃え尽きます」
「そっか。じゃあ良かったね」
湊があっけらかんと言い放つと、リリーの瞳が揺れた。
「湊様……この意味をお分かりでしょうか……?」
「分かるよ。俺はそっちで禁止されてるようなことの果てに生きてる謎の生き物なんでしょ。でも、こっちじゃ禁止されてない。こっちはそんなに魔法の力に満ちた世界じゃないから、半端に書かれた魔法陣は誤作動なんか起こさない。しかも、使った後の魔法陣も焼失しない。世の中神社やお寺には大量に効果切れみたいなお札があるし、皆の持ってるお守りも効果切れになったって焼失してない。良かったじゃないですか。きっと次の魔法陣も祖父ちゃんの力が残る俺が書けば何とかなる。心強いや」
「お、お辛くないんですか……?」
「辛くないよ。俺の祖父ちゃんは、俺のことをそんな危ないもんにしようと思って俺といたんじゃない。俺は信じるよ。そうじゃなかったら、とっくに祖父ちゃんは君を呼んでた。祖父ちゃんが生きてるうちに君が来なかったことが、祖父ちゃんが俺の焼失を恐れてくれた証拠だよ。きっと、あっちの魔法陣と繋がる事で焼失が起こるかもしれなくてできなかったんだって分かった。そんな事を恐れる祖父ちゃんが誤作動して歪んじゃうかもしれないようになんて、俺を育てるわけがないんだ」
「でも……ヘイバン様は魔法陣を破棄しなかったのに……」
確かに魔法陣はいつでも湊が完成させられる状態でとってあった。だが、いくら湊以外に開けられないようになっていたとは言え、湊がそれをたまたま完成させる確率は低い。
湊はうーん、と声を上げてから答えた。
「そりゃさ。やっぱりペネオラさんのことがずっと心配だったんだって思う。君のことを助けられる可能性を完全に捨てられるほど、ドライじゃいられなかった。祖父ちゃんはここにいたかったけど、そっちの家にも帰りたかったような人だからさ。君の事が大事だったけど、俺の事も大事だった。それで良いんだって、今は思える。人の気持ちなんて、何かに優劣を付けて簡単に選んで、簡単に捨てられるようには出来てないんだって、そう言う不確かで、不安定なもんなんだって――君が教えてくれた」
リリーはギュッと一つに硬く結んだ唇を震わせた。何かを言えば今にも涙のダムが決壊してしまいそうな顔だ。湊は笑った。
湊はあの日みっともなく泣いたのに、リリーは泣かないでいられるらしい。
「はは、泣いてくれた方が助かるんだけど」
「湊さまぁ!」
わっと涙が溢れると、床に座るリリーはソファに座る湊の膝に縋って肩を震わせた。
祖父に選ばれずに捨てられたのかもしれないと思う不安や、孫のことを故意に禁忌の魔法陣にしようとしたのではないかと言う不信感が氷塊して行くようだった。
柔らかい髪を撫でてやりながら、湊は自分の言った事を自分にも信じさせようと心の中で何度も繰り返す。
(――そうだ。祖父ちゃんは、ただ俺のことが好きで魔法のことをたくさん教えてくれた。父さんも魔法の事は聞いただろうけど、そう言うの信じるタイプじゃないし、たまたま俺がそうなっちゃったんだ)
諸法無我とともに書かれていた開湊封護の文字はもしかしたら湊以外に缶を開けられない様にするものでは無く、書き上げたとしても燃え尽きない様にする何かだったのかも知れない。
そして、湊はある事を思い出した。
「――ペネオラさん。この世界には魔法はないって俺思ってたけど、すごい魔法の使い方があったのを思い出したよ」
すんすんと鼻を鳴らしながら、リリーは涙で髪の毛が張り付く顔を上げた。膝が冷たかった。
「すごい…つかいかた……?」
「うん。この世界はさ、魔法陣なんか書かなくったって祈ったり、祈りを口にしたりするだけでも魔法を使える事があるんです。祖父ちゃんは俺に船出の水門を意味する名前をくれた。たくさん人が集まるようにって願ってくれた。たくさんの人が俺の名前を呼んでくれた。父さんの航って名前は自分の世界に漕ぎ出していくように願われたからこうはならなかったけど、俺は祖父ちゃんが思いもしないうちに、願いのカケラになったんたね」
「……すごいです。口にするだけで、魔法になるなんて。あっちよりこっちの方がずっと不思議で魔法みたいな世界です」
「本当だ」
二人で笑っていると、申し訳なさそうに扉が開いて父が顔を覗かせた。
「湊、リリーちゃん。昼飯だぞ?」
「あ、うん。行くよ」
「…………リリーちゃん平気か?」
「ん?別に平気だけど」
「そっかそっか。あんまり泣かせるなよ」
顔が引っ込むと同時に扉が閉まる。
「……あの親父は何を想像してるんだ」
湊はチラリとリリーを見下ろし、その頬に残る涙の跡をぐいっと親指で拭った。
「飯ですって。少し片付けて行きましょう」
「はひ!湊様、ありがとうございます」
「いいえ。明後日の夜にはここを出ることになるけど、ゴールが見えてきてる気がしますね。いやー、こっちの魔法陣は焼失するタイプじゃなくて良かった」
「本当ですね!湊様が居てくださらなかったら、私きっと帰れませんでしたもん!」
湊はひとまずめでたしめでたしと心の中で唱え、扉へ向かう。――そして、ん?と首を傾げた。
「どうしました?」
「……いや、あの日の祖父ちゃんの護符って……本当に燃えたのか?」
「こちらの魔法陣は神火が起こらないようですが、燃えたのをご覧になったんじゃないですか?あちらの魔法陣と繋がったせいで」
「……確かに魔法陣の上に乗せて、一緒に丸ごと燃えたように見えた。でも、燃え移ったと思った写真は――燃えてなかった。じゃあ、あっちの魔法陣と一緒に丸ごと燃えたように見えてた護符も、俺がここに残ってるなら――」
「の、残ってる!護符も残ってます!湊様が護符の術式の一部なら、護符は残ってるはずです!!」
二人は大きな希望を前に、夏の昼間よりも明るい顔を突き合わせて笑った。
ドタバタと書斎を後にし、渡り廊下の掃き出し窓から適当な突っかけを履いて庭に躍り出た。
風に吹かれてどこかに行ってやしないか。
床下の基礎、庭木の茂みの中、風の吹き溜まり。
二人は手当たり次第に庭を捜索した。
「湊ー遊んでないで手伝いなさーい」
「分かってるけどちょっと待ってー!」
母の声に、湊は一度額の汗を拭った。夏の直射日光は暴力的で、世界の色を全てホワイトアウトさせそうだ。
あの日、リリーが来た時の庭の様子をよく思い出す。
考えろ。考えるんだ。
茹だるような暑さで、吸うことも嫌になるような風が吹いていた。
風はどっちに吹いていた。干されていた湊の服やパンツはどの向きに揺れていた。
湊はハッと物干し竿を見た。
洗濯物があったのだ。リリーが魔法陣に招ばれ、家族とは言葉が通じないと分かった後、二人で書斎に行った。
湊がまた書斎を出た時、外は夕暮れの赤い世界に落ちていたのだ。
二人で書斎にいた間に洗濯物を取り込むために庭に出た者がいる。
庭にゴミが落ちていれば、誰だって片付ける。
湊は確信すると、濡れ縁へ駆けた。
「母さん!この辺に護符落ちてなかった!?」
「護符?なぁに?それ」
「紙だよ!とにかく紙!!」
「紙?落ちてたけど?本から飛ばされて出てきちゃったのかと思ってたけど、湊が捨てたの?あんな風に捨てたりしちゃいけないじゃない」
「捨ててない!どこやったの!!」
いや、燃えたと思って慌てて捨てたが。
「明日の資源ゴミに出す為に他の紙ゴミと一緒にまとめたわよ?いるものだったの?」
「いるもんだよ!!――ペネオラさん!!」
植木にもそもそと頭を突っ込んでいたリリーはパッと振り返った。
「はひ!」
「縛ってどっかにあるって!!」
「わ!やりましたね!」
やったどころではない。庭に落ちてた方がよっぽど見つかりやすかった。紙ゴミは文字通り山のようにあるのだ。
リリーが濡れ縁まで来ると、その髪にくっついている葉っぱを取ってやった。
「はは、そんなに着いてました?恥ずかしいです」
くすぐったそうに笑う顔に湊は何故か胸が少し苦しくなった。
「――着いてるよ。ほら、とにかく探そう」
「はーい!」
紙ゴミの山を解き始めると、その前に桜が仁王立ちした。
「ご飯だって言ってんでしょーが!」
「――そ、そうだった」
「呆けるには早いわよ。このすっとこどっこい」
湊はほどき掛けていた紐を離した。
「……すっとこどっこいって百年ぶりに聞いたわ」
「良かったわね。今のままなら次は百年経つ前に聞けるわよ」
「……どうも」
桜が食卓につくと、一生懸命に紐を解いているリリーの肩を叩いた。
「すみません、飯ですって。俺一瞬で忘れてました」
「あ――はは。私もです」
二人は自分の頭の弱さに苦笑を漏らし、和室に並ぶ食卓に付いた。