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#6 朝の奮闘

「ぅ……ん……?」

 湊は母屋から聞こえてくる笑い声で目を覚ました。

 大量の出来損ないの魔法陣が転がる散らかし放題の部屋。ソファのサイドテーブルの上には飲みっぱなしのお茶のセット。それから、二本の()。湊の言葉で言えば付けペン。


 ソファの上から起き上がろうとすると腰が痛くなっていた。歳だ。


 そして尋常じゃなく胸元が重たい。これも歳か。そう思って頭を上げると、湊の頭は急速に冷えた。

(な、なんだ!?なん、なん!?)

 湊の上では魔法陣と原稿用紙を握り締めて眠るリリーがいた。


(や、やばい!待てよ……待てよ待てよ……!もう皆起きてるんだよな!?)


 壁にかかる無駄にレトロな振り子時計はコッチ、コッチ、と喧しい程に音を上げている。


 ――十一時半。


 皆起きているとかそんなレベルの話ではない。

 間違いなく朝ご飯に誘うために湊達を探しに来てこの惨状を見られた。点けていた電気が消されているので誰か来たことは疑いようのない事実だ。そして、見た誰かは気を遣って二人を起こさず消えた。


 桜が怒鳴り込んで来たり、母が引っ叩きに来ていない事を考えると――目撃者は父だ。


 いつもなら九時くらいからこの部屋の片付けに人が入ってくるはずだが、何らかの方法で足止めに成功しているらしい。

 父は男として気を遣ってくれたのかも知れないが、普通に朝起こしてくれた方が良かった。そうすれば、早起きしてここで作業していたことにできたのだから。

 湊は胃が痛くなるのを感じた。


 兎に角、ここから先に一人で抜け出さなければ。

 父の心遣いを最大限享受するためには、どうにかして渡り廊下から外に逃げ出し、子供の頃に発見した生垣の穴を出て、アリバイを作るために達郎を連れて帰ってくる。

 達郎には賄賂を渡してオールしていたと言ってもらう。

 いける。これだ。


 方針を決めると湊はリリーを起こさないように、ゆっくりとリリーの上に乗っている腕を持ち上げた。

「ん……むぅ……」

 声が漏れ、湊は硬直した。

(ゆっくりだ!焦るな!!焦るのはモテない男の悪いところだぞ!!)


 湊はコマ送りのようにじっくりと時間をかけて腕を上げた。


(………で、この後どうすんのよ?)


 腕を上げたところまでは良いとして、どうやって起こさずにこの子の下から抜け出せばいいのだろう。


 まずは状況確認だ。

 左足はソファから落ちているのですでに脱出できていると言っても過言ではない。一番の問題は右足だ。膝を立てている右足はリリーの体より背もたれ側にある。

 リリーの胴体は、ほぼ湊の胴体に乗っていた。


(……積んでるじゃん)


 湊は昨日のことを思い出し始めた。

 お茶を飲んでカフェインで目を覚ましたところまでは良い。祖父の机を使っては一人しか座れないのでソファで魔法陣講座を始めたのが全ての間違いだ。


 向かい合って座り、あれこれと解説されながら、魔法陣を何枚も何枚も書いた。リリーも一緒に何枚も書いてくれた。そんな夜を過ごして――最後に時計を見たのは明け方だった。

 そこで記憶は終わっている。


 ともかく、脱出プランは変更をした方が良さそうだ。

 驚かさないように起こし、今夜二人でここにいたことを口封じして二人で外に――いや、湊だけ外に行く。そしてやはり達郎だ。


 プランBの問題は起こした時に気持ち悪がられたり気まずくなったりする危険がある事と、一番は叫ばれそうな気がする事だ。

 叫ばれたら桜が来て湊は死ぬ。


 いや、容疑者になる前に被害者を装うのはどうだろう。

 叫ばれた瞬間、湊もいやーん!と叫ぶのだ。これは天才的なひらめきではないだろうか。


 プランBのいやーん作戦、これで行くしかない。

 湊がよし!と心の中で気合を入れた、その時――

「……へぃばんたま……」

 リリーが呟いた。

 長く色の薄いまつ毛が濡れている。

 湊はいやーん作戦はやめることにした。昨日に引き続きあまりにも情けない。この子に尊敬されている祖父の孫として間違っている気がした。


 目から一筋涙が落ちていくと、湊は指でそれをぬぐってやった。何となく自分が男らしくなった気がした。女の子の涙を拭う日が来るなんて思いもしなかった。


「ん………ぁぅ……?」

「おはようございます」

「へぃばんたま……りりは……こわいゆめを……あれ……?」


 湊の胸から見上げてくるリリーはもにょもにょと喋ったが、途中で固まった。混乱する頭の中を整理するように、じっくりと部屋を見渡し、そして湊に視線が戻ってきた。


「――みなとさま?」

「……おはようございます」


 もう一度挨拶すると、リリーは飛び上がった。


「お、おはようございます!!申し訳――」まで言い、湊は人差し指を口の前に当てた。

「しー!静かに、静かに!」

 リリーはパッと口を塞いで頷いた。そして、小さな声で話しなおした。


「し、失礼しました。おはようございます」

「おはようございます。えーと……なんて言うか、遅くまで付き合わせてすみませんでした」

「いえ、私の方こそ。詰め込みと焦りは良くないと言われていたんですけど、悪い癖で……」


「いえいえ。それは良いんですけどね。えーと、それで、俺渡り廊下から出掛けて、玄関から帰ってくるんで……今夜は一緒にいなかったことにして貰えますか?」

「何でですか?」

「……家族に殺されそうな気がするからです」

「そんなことしないです!皆さん良い方達なんですから」

「良い人であればあるほど殺される危険が上がるんです。男と女は二人で同じ部屋で寝るとそれだけで男は有罪判決です。分かる?」


 リリーは首を傾げていたが、ようやく何かを察したように顔を赤くして頷いた。


「では、そう言うわけで、お先に失礼します。後で部屋は片付けにくるんで」

 湊がドアノブに手をかけると、その背に声がかかった。

「あ、み、湊様。お待ちください」

「――はい?」


「……あの、お出かけになる前に……もう一度、あなたの胸……あの……触らせて貰えないでしょうか……?」

「む――え?なんて?」


 意味が分からなかった。翻訳の力が壊れてしまったのだろうか。それとも、正しく翻訳できる時間は終わってしまったのか。ゲームなら特殊能力は時間切れになるものだ。

 湊は意味不明な状況に首を傾げた。


「ダメでしょうか……」

「え、と……待ってください。俺の方、何かおかしいみたいです。正しく言葉が聞こえてません」

「え……昨日書いた魔法陣がどれか悪さをしてるんでしょうか……?魔法が使えたんだとすると、ある意味は嬉しいんですけど……」


 ある意味、というのは今翻訳が壊れてしまうと世界に風穴を開ける正しい魔法陣が作れなくなる危険が上がるため手放しでは喜べないと言う事だ。


「うーん、俺の集中が足りないんでしょうか。もう一回ゆっくり言ってもらえますか…?」

「はい…。胸を触らせてもらえませんか?」

「うん、バグってます。胸触らせろって聞こえてます」

「え?」

「……すみません」


 十八才の乙女には気持ちの悪い状況だろう。湊は情けない聞き間違いに肩を落とした。


「湊様。私は確かに胸を触らせてほしいって言ってます」

「なんやて?」

 湊の返事は何故かとても馬鹿らしい響きがあった。湊の胸なんか触っても何も良い事はない。特別鍛えられた体というわけでもない、普通のどこにでもいる二十四(ちゃい)の男の体だ。


 バグったのは乙女の方だった。それともモテ期だろうか。


「私、さっき湊様の上で目を覚ました時に感じたんです。あの感じは確かにあちらの世界にいた時に包まれていた物です。一瞬向こうに帰ったのかと思ったくらいでした」


 リリーは真っ直ぐに湊を見つめて言葉を紡ぐと、湊は自分の頬を一度バシッと思い切り叩き捨てた。

 頭がおかしかったのは湊だった。


「み、湊様!?」

「はは、お気になさらず。どうぞ。いくらでも」

 どうしていれば良いのか分からないので、とりあえず突っ立っておいた。

 リリーは湊の大して分厚くもない大胸筋に両手を当て、耳を胸に寄せた。

 何故かだらだらと冷や汗が流れそうだった。

 思わず目が泳ぐ。窓の外、ソファ、付けペン、祖父の机、扉。


 その時――湊の心臓が跳ねた。

 扉から覗く父と目が合った。


「と、まだだったな。失敬」


 パタン、と軽い音を立てて扉が閉まる。


「と、父さん!違う!!違ぁーう!!」


 湊が扉に向かって両手を伸ばすと、リリーがはっと顔を上げた。


「湊様!」

「何すかぁ!」

「あなた、何を着けてるんですか!」

「え?何、何って何?何ですか?」

「良いから見せてください!」


 そう言ってリリーが湊のティーシャツの襟ぐりを引っ張ると、湊は軽く屈む形になり、リリーが服の中を覗き込んだところで「違うなら昼飯は――」と再び扉が開いた。

 そしてすぐに扉は閉じた。父は去った。


 湊の頭の中にはプランB、いやーん作戦がよぎった。

「えっち!!はしたないわよ!!」

 好きなニューハーフタレントを思い浮かべながら無駄に高い声で叫んだ。


 引っ張られている襟を引っ張り返すと、リリーはボッと顔を赤くした。

「え、あっ!す、すみません!そうじゃなくって!わ、私ったら!本当にごめんなさい!!ただ、そこに!そこに洗礼の指輪があって!!違うんです!!すみませんでした!!」

 こういうのは普通逆ではなかろうか。何も美味しくなかった。


 リリーは慌ててペコペコと頭を下げた。ドリンキングバードと言う、昔懐かしい鳥が水を飲むような仕草を見せるおもちゃを思い出した。

 湊はあらゆる雑念を振り払うため、一度咳払いをした。


「ンン。洗礼の指輪って、これの事ですか?」

 服の中から指輪を取り出すと、リリーは慌てて頷いた。

「そ、そうです!ヘイバン様の洗礼の指輪!!それを見たかったんです!!」

「ははーん、そんな名前だったんすねぇ。っていうかあっちの物だったんですね」

 湊は指輪の引っかかっているチェーンを首から外し、リリーに持たせた。


「すごい……!ちゃんと洗礼されてるから、向こうの世界に僅かにでも繋がれるのかもしれません!」

「へー。そんなにすごい物だとは知らなかったな」

「私も知りませんでした!洗礼の指輪はあちらではただの公認魔術師の証のようなものだったのに!」

「あ、ペネオラさんのループタイの石。あれもそうですか?」


「えっと、物としては同じですが、あれはまだ洗礼を受けてないんです。私のように国の魔術省に勤めていながら、魔力を使って宙に魔法陣を書き上げられない見習いは一目で見習いだと分かる様にするんです。見習いの殆どが自分で魔法陣を作ったり、人に教えたりできないので、師として付く以外の魔術師も助けになってくれるようにするためです!ちなみに、あっちでは紙になら誰もが大なり小なり魔法陣を書けますが、洗礼の指輪は魔術省にいても一生与えられない人もいるほどです!ヘイバン様は本当に優秀な方で、若干二十一歳でこれを頂いたそうです!」


 リリーは大変興奮していた。

 祖父の向こうの世界での活躍を聞けるというのは良い物だ。


「よくわからないけど、すごそうですね。もしかして祖父ちゃんが最年少?」


「――あ、はは。最年少は十五才のお方です。ご両親が公認魔術師だそうで義務教育中からずっと学んでいたそうです」

「……やっぱりあんますごくない気がしてきた」


「いえ!他にもすごい方はたくさんいらっしゃいましたが、ヘイバン様はとっても尊敬できる素晴らしい方でした!そのヘイバン様の下に初めてついたのがこの私です!」


 えへんと胸を張る様子は本当に誇らしげだった。


「へぇ。一番弟子だったんですねぇ。ペネオラさんもきっとすぐにどこにでも魔法陣書けるようになりますよ。俺に魔法陣教えてますし、もう少しで一人前じゃないですか?」


「はは。難しいですよぅ。だって、私はヘイバン様の手記に習ってお伝えしているだけなんですから。これじゃ宙に魔法陣は書けません」


「そうかもしれないけど、多分これでレベルアップは間違いないです」

 湊が言うと、「――はい!段階上昇ですね!」とリリーが繰り返した。

 ゲームのレベルアップをイメージしていたせいか、少し特殊な言葉になって返ってきてしまった。


 そして、ネックレスがチャリ…と音を立てて湊の手に返ってきた。


「湊様、私があちらへ戻る時、門を繋ぐ助けにするためにこちらを貸して頂けませんか?どうすれば良いかはまだ分かりませんが、少しでもあちらへ近づく為に」


「もちろん。そう言えばペネオラさんが来た時の魔法陣、これと一緒に仕舞われてたんでした。良い影響受けてたのかな」

 あはは〜と能天気に湊が言うと、リリーは目を見開いた。


「そ、そうなんですか?」

「え?良い影響与えそうじゃないですか?」

「そこじゃないです!魔法陣と指輪が一緒に仕舞われてたってところです!」

 ずずいと身を乗り出され、湊は一歩後ろに下がった。


「い、言ってなかったっけ?」

「言ってません!そう言う大事な事はもっと早く言って下さい!」

「め、面目ない。何が大事か分からなくて」

「湊様、最初から私がきた時の事をちゃんと教えてください!」


「何を話してないんだっけ…?」

「全部です!最初から聞かせてください!」

 湊はぽり…と頬をかいて記憶をさらった。


「え……と……。父さんがどっかからかクッキーの缶見つけて来て……開かないって言うから開けてみたら……指輪と魔法陣が」湊は情けない顔をして笑った。「以上です」

「その缶はどこにあるんですか!見させて下さい!」

「えっと…和室のどっかにあるかな…?」

 リリーは湊を手をむんずと掴み、書斎を出た。


 湊は思ったよりこの子は強いなと思った。

 それから、何となく距離が近付いているような気がした。湊は繋がれた手を見下ろし、ふっと小さく笑った。可愛い妹だ。


 和室にはちゃぶ台が出され、配膳が始まっていた。腹減り指数は最高潮だ。


「おはよー」

「おはようございます!」


 二人でそう言って和室に入ると、桜が振り返った。

「おはよう?湊出掛けてたんじゃ――ぁ?」

 桜はちらりと二人の繋がれた手を見ると、その目はゆっくりとゴミを見るようなものへ変わっていった。

 桜の向こうで父がバタバタしながら手でバツを作っている。完全にしくじった事に気が付いた。


「……え……と……」


 何か言い訳をしようと考えていると、桜が並べ掛けの箸をバンっとちゃぶ台に叩きつけた。


「伯父さん!書斎で寝てたのリリーちゃんだけじゃないの!?なにこれ!?」

「あ、やぁ。はは」

 父は全く戦力にならなかった。


「あんたも何やってんのよ!!」

 湊は耳がキン――と高く鳴るような気がした。

「えーと……寝てました」

「一晩リリーちゃんのいる部屋で寝たわけ!?信じらんない!!この――不潔!!」

 何の飾り気もない罵倒と共に平手が思い切り顔面に入った。

 風船を割ったような音が響き、父があちゃぁ…と顔に手を当てていた。


「大丈夫ですか…?」

 リリーが言う。頬がじんじんと痛む湊は情けなくて泣きたい気持ちになった。


「今俺の何かが失われた気がします……。ペネオラさんが帰った後にこの家に俺の居場所はあるんだろうか……」

「い、一緒に向こうに行きます?」

「……行こうかな……」

 湊は心を無にして桜の罵倒を聞き流した。


 ◇


 食事を終え、湊は桜に叩かれたせいでヒリヒリする頬に氷を当てていた。畳の上に情けなく転がっている。


「……湊様、大丈夫ですか?」

「……痛いです。治せる魔法ないですか……」

「あ、あはは。世界が違いますよぅ」

「うぅ…魔法掛けて欲しい……」


 ゴロゴロする湊の腰にドスっと足が降りた。


「何が魔法掛けて欲しい〜よ。あんたの頭を治す魔法を私が今すぐにでもかけてやるわよ」


 足蹴にされていると、理不尽さへ抵抗しようと言う気持ちがふつふつと湧いてきた。そして、沸騰すると湊はガバリと体を起こしてヤカンのように声を上げた。


「だぁー!何もしてないのになんでそんなに怒んだよ!!」

「何もしてなきゃ女子と同じ部屋で寝て良いと思ってんの!?」

「寝たくて寝たんじゃないっつーの!!気付いたら寝てたの!!」

「良い歳してこんなか弱そうな女の子と一緒に寝落ち!?まじでありえないんだけど!!ちょっとは体力つけなさいよ!!」

「いい歳だから寝落ちしたんだろ!!こっちは疲れてんだよ!!」

「何よ!ちょっと言葉通じるからって女の子と話せて浮かれてんじゃないの!?」


 若干図星に入ると湊はふぃ……と目を逸らした。


「……確かに浮かれてはいるけどね」


「歳弁えろ」


 吐き捨てて桜が書斎へ去って行く。猛烈なダメージに今回の戦いは負けを認めた。

「はぁ〜ままなりませんなぁ〜」

 ゴロゴロする和室の外、廊下でアルバムの整理をしていた父は笑った。


「ま、仕方ないね。今回は桜ちゃんの言う通り。美女を胸に抱いて寝るなんて父さん羨ましいよ」

 冗談なのか本気なのかわからない。そして、離れの方から「不潔!!」と叫び声がした。

「……父さんまじさぁ」

「や、ごめんごめん」


 母は呆れた様に長く息を吐き出した。

「……湊、あんまり良い加減な事しないでちょうだいよね」

「してないし、今後もしようとなんて思ってないよ」

「本当かー?良い加減な気持ちで何かあればーなんて思ってると、父さんも怒っちゃうぞぉ」

「……ない。本当にない。ペネオラさんは帰る人だし、帰ったらもう二度と会えないくらい遠くに住んでんだから」


「まぁ……二度と?少数民族が何とかって言ってたけど、来てもらうんじゃなくてあんたがお金貯めて会いに行くとかできないの?」

 非現実的な話だ。金を出せば異世界旅行できるなら今すぐにでも全貯金を投げ出しても良い。――大した額はないが。


「それよりさ、この祖父ちゃんの指輪が入ってた缶ってどこにある?」

「ん?これだけど?」

 そう言って父が持ち上げたのは、確かにあのクッキーの丸い缶だった。中には整理できていない写真が入れられている。

「それ貸してもらっていい?」

「良いけど、後で返してくれよ。使ってるから」

「へーい」

 父は中から写真を取り出すと、空の缶を湊に渡した。


「はい、ペネオラさん」

「ありがとうございます」

 リリーは缶を受け取ると、底に当てられた蓋をぽこりと外した。

「――これ、洗礼に使われる魔法陣の一部です」

 そう言って見せてくれた蓋の裏には油性ペンで魔法陣が書き込まれていた。


「うわー全く見てなかったな。こりゃすごいな。よくこんなの書いたよ」

「私も神官以外が書いた物なんて初めて見ました。焼失していないところを見ると未発動なのか、まだ効果を維持してるのか……。――ところで湊様、これは何と書かれているんでしょう?」


 リリーが指さしたのは、蓋裏の魔法陣から接続されるように貼られている――護符だ。

 護符は缶を開けた時に破れてしまったようだった。

「ちょっと待ってくださいね」

 缶本体の内側に貼られる護符と合わせ、湊はそれを読んだ。

「……諸法無我、開湊封護」

 湊と法の字は破けていた。

「つまり……?」

 湊が理解しないで読んでいるせいでリリーにも理解できないようだった。

 アルバムの整理を進めていた父も覗き込む。


「なんだ?ゾンビの顔に貼る奴か?」

「はは、確かにお札っぽいな。父さん、これ何て意味?」

「さぁ?祖母ちゃんと桜ちゃんに聞いて来た方が良いんじゃないか?」

「そうするか。ペネオラさん、少し待っててください」

「はい!」

 湊は駆け足で桜の下へ向かった。


 離れでは桜と祖母が窓を開けてはたきで方々を叩いていた。

「桜、ごめんちょっと教えてくんない?」

「何」

 その返事は絶対零度の冷え込みだった。

「い、いや。……桜さ、文学部だったよな?」

「そーよ。どうせ頭脳派なあんたとは正反対よ」

「そんな事言ってないって。ちょっと教えて欲しいんだけど、これ何て意味?」

「知らない」


 缶の蓋と缶を斜めに合わせて見せたが、桜は一瞥もせずにソファの上にあったクッションを窓から出してハタキの柄でバンバンと叩いた。白い埃が少しだけ舞った。黒板消しを綺麗にするようだった。


「湊ちゃん、諸法無我って言うのは、この世の全部に原因があって、全部が関係しあってるっていうお釈迦さまの言葉よ。皆何かに形作られてるのね」

「あ、祖母ちゃんありがと。人って字が他の人に支えられてる的な言葉ね」


 湊が適当に総括すると、クッションを叩き終わった桜が振り返った。


「違う。お祖母ちゃまはあってるけど、あんたはあってない。個は何かによって生み出されているから、本当の個なんて存在しないって意味」


「え?なんて?」

「あんたの体を作る遺伝子は大昔を生きたご先祖様の遺伝子や、ご先祖様が子供を作る前に死ななかった縁でしょ。そこまで含めてあんたってわけ。だから、湊っていう個人は存在しないの」


「あ、分かった分かった。なるほどね。そう言う哲学的な奴ね」

「本当に分かったの?」

「分かったよ、じゃあ、こっちは?」

 開湊封護の文字を指差すと、桜は鼻で笑った。


「お花畑全開な湊の頭を封じることで周りの人を護る」


「……絶対違う。まぁ兎に角助かったよ。サンキュー」

 湊は軽く手を挙げて和室の方へ引き返した。


 廊下と濡れ縁の間で、リリーは父母が整理する祖父のアルバムを覗き込んでいた。


「ペネオラさん、分かりましたよ」

「本当ですか!」

「うん、こっちは単体で存在できる物なんかないから個はないって言葉らしい。そんでこっちは――開く、俺の字の湊、封じる、護る」

 破れてしまっているものも含めて一つづつ指を指して教えると、リリーは悩むように護符を見つめた。


「……それが指輪を入れられていた缶に貼られてたとなると……この世界とあちらの世界は本当は独立した存在ではないと言う事かもしれませんね。とすると、"諸法無我"の文字は個で存在できるものはないと書くことによって、逆説的に独立した世界同士を繋げる魔法陣――と言う考え方はどうですか?箱という小さな空間の中で二つの世界の因果を繋げて、この世界で力を持たないはずの私たちの魔法陣に力が入りやすいようにしていた……とか」


 そう言う事かと湊は座り込んだ。

「とすると、魔法陣はまだないですけど、指輪だけでも入れておいた方が良いんでしょうか?」

「そうかも知れません!」

「そんじゃ――」

 湊は指輪を缶の中に入れ、蓋をした。


「なんだ、湊着けないのか?」

「今はちょっとね。この缶さ、違うもん用意するから俺にくれない?」

「それなら別に構わないぞ」

「じゃ、部屋になんかないか探してくるわ」

 そう言って再び立ち上がろうとした湊の耳に――聞き取れない言葉が届いた。


「――え?」


 リリーは目を丸くして湊を見ていた。

 そして――また彼女が何かを言った。

「す、すみません。もっかいお願いします」

 また何かを言う。何も分からなかった。一つも分からず、耳の奥でキーンと音が鳴るようだった。

「ま、待って。え!?嘘だろ!?」

 リリーは何かを必死に訴えていた。

「湊、リリーちゃんどうかしたのか?」

 父が心配そうにしているが、それどころではない。

「あ、いや。なんでもない!ペネオラさん!こっち来て!!」

 慌ててリリーの手を取ると湊は洋間へ駆けた。


 洋間の扉を閉め、一言もわからない言葉を喋るリリーを困惑の顔で見つめた。

「――ミナト――」湊以外の何も聞き取れない。

 二人で顔を青くし、リリーは手を湊に伸ばした。

 何かを必死に訴え、指を何度も指し示した。


「ゆ、ゆび……?――あ!指輪か!!ここにいて下さい!!」


 洋間を飛び出すと、仁王立ちする父がいた。

「湊、お前本当にリリーちゃんを傷付けるような真似はしてないんだろうな。別に父さんは若い頃に楽しく過ごす事に反対してる訳じゃないんだよ。むしろどんな経験だってしてみるに越したことはないと思って応援もしてる。だけどな。それが誰かを傷つける事なら、父さんはお前がもう大人だとしてもたまには説教しなきゃいけない」


「長い!後で聞く!!」


 父を半ば突き飛ばす様に先程の廊下に駆け戻る。背中に「湊!!」と怒りの声がかかるが止まらなかった。

 滑り込むように缶を手に取り、蓋を放り投げるように開けると指輪を取り出して首にかけなおした。


「湊、あなたねぇ」

「母さん、後で聞く!!」

 湊はまた洋間に向かって駆け、向こうからはリリーが走ってきていた。

「湊様!!」

「ペネオラさん!!」

 二人はぶつかる勢いで駆け寄り合うと手を取り合った。


「分かった!分かりましたよ!!」

「私も!私も分かりました!!どうして湊様だけに言葉が分かるのか!洗礼の指輪の加護がある時、あなたは言葉を統合した私達の双子の女神、エリエンとアリアンの祝福を受けられるんだって!!」


「だから祖父ちゃんはこれを大事にしてたんだ!!」

「はい!湊様!分かりました!分かりましたよ!!」


 向こうの世界とやらと繋がるものの確かな力を見つけ、希望が大きくなる。湊は喜ぶリリーを高い高いするように持ち上げ、廊下で一回りすると、大声で笑い合いながら庭に落っこちた。

 両親が焦るように濡れ縁の下に落ちた二人を覗き込む。

 それでも笑いは止まらず、二人は庭に生える芝生の様な、ただの背の低い雑草の様な草の上で長いこと笑い続けた。

 父と母は揃って肩をすくめ、あまりの騒がしさに離れから顔を覗かせた祖母と桜は目を見合わせた。


「ははは!はは、ははは――はぁー」

「ふふ、ふふふ。ふへへ――はぁー」

 二人は満足するまで草の上で空を見上げながら笑った。


「――この指輪、ペネオラさんが着けてれば、きっと誰とでも話せます。良かったら使ってください」

 湊が首にかかる指輪を持ち上げて石を太陽に透かせると、リリーは首を振った。

「ダメですよ。受け取れないです」

「なんで?その方が便利ですよ?」


 草の上から起き上がってリリーを見下ろすと、瞳の中の紫色の部分が太陽に強く照らし出されていた。まるで万華鏡のように輝いていた。


「私、この世界で何がおかしくて何がおかしくないのか分からないんですから。ヘイバン様の手記をお読みする時、伏せなければいけない事を上手く伏せて皆さんに聞かせる自信がないんです。湊様が精査して下さる今のままがきっと、一番良いと思います」


 それはリリーが自身の過ごしやすさよりも、湊や家族達の事を想ってくれていると言うことだ。

「……すみません」

「良いんです。ここで三日目を迎えましたけど、私は湊様がお話してくれてるおかげで何の不自由もなく過ごせてますから」


「……これを着ければ皆もあっちの事を信じるかもしれません。そしたら、手記だって普通に読んだって良い。もっと協力もして貰えるようになります」


「湊様。ヘイバン様はその指輪のことを当然ご存知でした。それを使い、ご自身の言葉の変化を聞かせることもできたはずです。そうすれば、皆さんもヘイバン様をここではない場所より来た人だと理解してくださったでしょう。でも、ヘイバン様はそうされなかった」


 リリーは遠く空を見上げたまま語った。その目は空を見ているようで、空よりもっと遠くを見つめているようでもあった。


「それは、ご家族の皆さんと違う異質なものではなく、同じ場所に生き、暮らし、死にたいと言うヘイバン様の強い覚悟と願いです。私はそれを勝手に壊したりしたくはないんです。もちろん、ヘイバン様は誰にも真実を告げられずに孤独を感じた日もあったかも知れません。ですが、それと引き換えにするだけの価値があると、ヘイバン様は思われていたんです」


「……うん」


「湊様。ヘイバン様は湊様がその箱を開けて、()の字を完成させて私をここへ導くと分かっていたのかもしれません。だから、魔法陣はわざわざあなたのお名前の字を完成させずに残した。箱に貼られていた護符の開湊封護と言う言葉は、納められていた魔法陣が湊様以外の手に渡らないように護った。魔法を理解するあなたが世界を繋いでくれる未来を――ヘイバン様は信じた」


 風が吹き、リリーの前髪が揺れた。


「きっと、湊様となら魔法陣を完成させられます。だから、私はどなたとも話せないままでいる事が一番良いのだと、そう信じているのです」


 顔にかかった髪を避けてやると、湊は頷いた。


「分かりました。それなら、僕もお祖父ちゃんの気持ちを尊重したい。ありがとう。僕とお祖父ちゃんの大切なリリー・ペネオラ」


 リリーは嬉しそうに笑った。

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