#5 懐疑と氷海
虫の声が聞こえる。
空には地上の光に追いやられるようにうっすらと天の川が横たわっていた。
満点の星空と呼ぶには些か物足りない空だ。無音で飛行機の赤い点滅が横切り、少しだけ空に彩りを足す。
誰かが家路を急ぐ足音が生垣の向こうから聞こえてくるような静かな夏の夜。
詠うように乙女の声が響く。
「――近頃は大分ニホン語も書けるようになった。もっと書けるようになったら、ニホン語であちらの事を書いて本にしようと思う。この世界は広い。私が未来に魔法陣を作り出せないがためにリリも既にこっちに来てしまっていたら、これを通して見つけられるかもしれない。それに、私達以外にも迷い込んだ誰かがいれば、同胞がいる希望を与えられるだろう」
ノートを読んでくれていたリリーはそこで言葉を区切った。
これは何と伝えるべきかと湊は悩んだ。
湊の手元にはメモ。そこには「書けるように」「書こうと思う」「誰かに希望」と殴り書きで控えていた。
翻訳するわけではないが、魔法どうこうや祖父が異界の人だったと言う事をうまく伏せて話す方法を考える。認知症になる前の手記をありのまま伝えれば、湊の翻訳能力を疑われてせっかくの祖父の手記を皆がきちんと聞くことができない。
「湊、難しい?」
母が心配そうに訪ねた。
「む、難しい。えーと……つまり……祖父ちゃんはもっと字を色々書けるようになったら、本を書こうと思うって。それが似た境遇の誰かの希望になるかもしれないって」
家族達は明るく笑い合った。
「次、良いですか?」
「お願いします」
リリーはページをめくり、読み上げ始めた。
「――ここの世界であちらの魔法陣は一切使えないが、この世界特有の魔法の痕跡だと思われる物は散見された。こちらの神のことは早急に調べるべきだろう。祈り、力を借りる神が違えばやり方も異なるのは必然なのだから。こちらの言葉も早く覚えた方が良い。今のままでは自分の中にない価値観を正しく理解する妨げになる。言葉を覚えるなんて、全くおかしな言葉だ。あちらの皆に聞かせたら笑って馬鹿を言うなと言うだろう」
湊は頭を抱えた。これはまるごとダメではないか。メモ帳とペンを置いて溜息を吐いた。
「……ごめん。ちょっと休憩していい?」
「あらら。それはそうよね。何だか簡単にリリーちゃんとお話ししてるみたいに見えてたから。疲れたわよね?」
「疲れた……」
「今日はここまでにしたら?お風呂新しく沸かし直す?」
「いや、良いよ。――ペネオラさん、今日は読み上げは終わりにしましょう。俺風呂入って来ます」
「はい。お疲れ様でした。これ、読んでいても?」
「もちろん。祖父ちゃんの部屋も好きに使ってくださいね」
「ありがとうございます」
ぺたりと床に手を付いて頭を下げたリリーはまた湊の中学時代の服を着ている。
少しだけ濡れた灰色の髪は電気に照らされてキラキラと光っていた。真珠のようで美しかった。
皆ガヤガヤと今日も面白かったなーと笑い、リリーに「おやすみなさい」「今日も本当にありがとうね」と頭を下げてそれぞれの部屋に行った。
叔母は一度帰ってしまったので、桜が一人で布団を敷き始めると、リリーも読むのをやめて布団を敷いた。
湊はほぼ水のシャワーでさっと体を洗い、今日最後の風呂だったので湯船の栓を抜いてあっという間に風呂を上がった。
適当に髪を拭き、しめじの書かれたティーシャツと高校時代のジャージを履いた。
部屋に戻ると、桜はスマートフォンをいじって今日の写真を楽しげに見ていた。
リリーは――いなかった。
(離れかな?)
そう思い、今日神社で手に入れて来た戦利品を手に渡り廊下へ向かうと、渡り廊下の途中に電気も付けずにリリーが座っていた。吐き出し窓を開けて、三角にした足を抱えて座っていた。
「どうしました?電気分かんなかった?」
「――あ、湊様。電気の付け方は分かりました。でも、月がひとつしかない空なんて珍しくって。空を見ながら……帰り方について考えていました」
リリーの隣には平文のノートが置かれていた。
「月?あ、そうか。あっちは月が二つあるんだっけね。双子の女神か」湊は祖父の小説を思い出しながら、リリーの隣に座った。「それで、これ。今日神社で貰ったお守りとお札。それから、御朱印です」
御朱印を渡してくれた青い袴を履いていたお爺さんに、これにはどう言う力があるのか聞いたところ、神様のサインだと思ってくださいと言われた。
よく分からないが有り難いには違いない。
ちなみに、リリーは神官ならば言葉がわかるかもしれないと話しかけたが、言葉は通じなかった。神が違うせいだとガクリと肩を落としていた。
「お守りって本当は開けちゃいけないんですけど、開けてみます?何かこっちの事が分かるかも」
「いえ。いけないならこれは開けないでおきます。今日、あそこに座す神様に世界を渡るお手伝いをお願いをしました。不義理はできません」
「そう言うもんですか?じゃあ、これはこのまま渡しておきます」
「ありがとうございます。なんだか、これがあれば帰れるような気がします!」
リリーは片時も外しておかないウエストバッグにお札を差し込み、お守りを着けた。お守りは交通安全が青色、厄除けが金色だ。
たった二日しか一緒にいないが、二度と会えないと思うと湊は無償に息苦しさを感じた。
胸を押さえ、俯く。
リリーは心配そうに顔を覗き込んだ。
「……大丈夫ですか?」
「……大丈夫。ありがとうございます。じゃあ、祖父ちゃんの書いた魔法陣、確認しましょうね」
「はい」
二人は祖父の机の引き出しを丸ごと抜き出し、床に座って魔法陣を確認して行った。
湊は古い漢字辞典を引きながら、日本語で書かれた魔法陣の中身を翻訳してメモに書き取った。湊がそれをしてどれ程の意味があるのか分からないが、リリーに少しでも情報を伝えるために行った。
そんな事をしながら、全ての魔法陣を出してよく見ると、湊の読めない文字の魔法陣と漢字の魔法陣は同じような形をしているものがいくつもあった。
「……これも、これと同じだ」
「多分これもこっちと同じです」
二人で魔法陣を組にして行く。
ある魔法陣でリリーは手を止めた。
「……空の星から命の方舟。衝突は世界創造の始まり。齎される命の源は水」魔法陣の中に書かれているらしい文字を読むと、リリーは少し震えたようだった。「これは……水の魔法陣?」
それに似ている漢字の魔法陣を見付けて文字を読んでいく。それは以前水、気、嵐と書いてあった物だ。
他には――「海、晴、祖、宙、空、星、隕、闇、雨、凍……。確かに水の魔法陣なのかな?水の創造って感じですね」
もしくは宇宙の魔法陣。
「湊様、ご存知ですか……?水を作る魔法を使えるのは神だけなんです」
「……神?どう言う事ですか?ファイヤーボールの水バージョンみたいなのってできないんでしたっけ?」
湊は祖父の小説や話の中に出てきた魔法について思いを巡らせる。確かに水の魔法はなかったかもしれない。だが、火の魔法や風の魔法などが当たり前に出ていたので大して気にしたこともなかった。
「できません。水は世界と生命創造の要です。私達人間には制御できない頂なんです……」
「まぁ、母なる海っていうくらいですもんね。でも意外だな。火や風や土の魔法は使えるのに。火の反対といえば水に感じるけど」
「大まかに言うと、火は暖めたり摩擦で起こす事ができます。風も煽れば起こります。土も、何かが死んだり、何かが糞をすれば生まれます。時には岩や石が砕けてできることも。でも、水だけは生み出せません。雨が降ると言う事をどれだけ研究しても使えないんです。精々動かす事が精一杯。だから、水を生み出す魔法を研究する人達はたくさんいますけど、皆道半ばで挫折しています」
「……世界の理を真に理解する者だけが魔法を使えるとすると、水は火より難しいのかなぁ」
「難しいなんてものじゃありませんよ。世界に水の魔法を使えた人はただの一人もいないんです。でも……この魔法陣は……今まで誰が作ってきた魔法陣とも全く違います……。書かれている理論も……全く理解できません」
祖父は子供向けの科学の百科事典や科学の優しい本を読むのが好きだった。
祖父なりに何かを突き止めようとしていたのかもしれない。
「祖父ちゃん、そんな難しい魔法よりもっと簡単な魔法からチャレンジしてみれば良かったのに」
「もちろん簡単なものもいくつか入ってます。でも、これだけは……まるきり神話の魔法陣のようです」
「それが使えたら世紀の大発見なんですね。良かったら持って帰って下さい」
「よ、宜しいのでしょうか…?」
「いいですよ。向こうで水が出るといいですね」
「でも……ヘイバン様が水の魔法を使えるだけの魔法陣を生み出していたとしても、持ち帰るのが私なんかじゃ……魔法陣を世界に曝すのが私なんかじゃきっと魔法は発動しません……。私は水の理の何も分かっていないから……」
「研究すればいいじゃないですか。祖父ちゃんが……あっちでやりたかったはずの研究を引き継いで。そうすれば、祖父ちゃんの心残りも……またもう少し減ります」
「……私にできるでしょうか。ヘイバン様や三賢人と呼ばれる人達でもできなかった事が……」
「できるよ。世界すら渡って帰る君ならきっと」
リリーは湊を見上げ、どこか覚悟を決めたような顔をして頷いた。
二人は散らばる魔法陣を眺め、大切にひとまとめに戻した。
「ペネオラさん。もし欲しければ魔法陣は皆持っていって下さい」
「ぜ、全部ですか…?」
「……少し惜しいけど、俺達には多分ペネオラさんより有効活用する事はできませんから」
リリーは床に手と額すら付けて深く深く頭を下げた。
「湊様。この御恩は生涯忘れません。本当にありがとうございます」
「はは、いや。大袈裟ですよ」
「いえ。私にも何かお返しできる事はないでしょうか。なんでも仰って下さい」
その言葉に、湊は数度口を開き、閉じ、また開き――閉じた。
「湊様。私にできる事なら、何でも致します。お気を使わずに」
「……ペネオラさん、そこまで言ってくれるならさ。君の世界の何かをくれませんか。二度と会えない君や祖父ちゃんがここに来たことが夢じゃなかったって分かるように」
リリーは自らを見下ろし、ずっと持ち歩いているポーチを開けて何か良いものがないか探った。
「お金……なんて味気ないですけど、お金でも良いでしょうか」
「ありがとうございます。それだって十分ですよ」
湊の手に硬貨が一枚、二枚、と次々置かれ、湊は途中で手を握りしめた。
「これだけ貰えれば十分です。俺の祖父ちゃんがいた世界の……祖父ちゃんが生まれた場所の……物……。祖父ちゃんが……帰りたかった場所の……ぅ……お祖父ちゃん……」
湊が硬貨を握り締めて肩を振るわせると、その背に温かい手が触れた。
「湊様……」
「ペネオラさん……きっと……俺の、僕のせいなんだ……。お祖父ちゃんがどんどん色んなことを忘れちゃったの……本当は僕のせいなんだよ……」
「それは…どう言う……?」
「僕は大学に入って……お祖父ちゃんの側を離れた……。お祖父ちゃんが魔法の話をするのは僕だけだったのに……。その頃から物忘れが始まって……気付いたら、どんどん色々な事を忘れて……。僕は帰って来なくちゃいけなかったのに……お祖父ちゃんが別人になって行くみたいで怖かったんだ……。だから、話しかけもしなかった……。きっと、きっと……知らない世界で寂しくて、辛くて孤独だったんだ……。僕がもっとそばにいてあげれば、お祖父ちゃんはもっとちゃんと全部覚えて長生きもできたかもしれないのに……!君もお祖父ちゃんに会えたかもしれないのに!!そしたらお祖父ちゃんは安心して帰れたのに!!僕は……僕はぁ……!!」
湊は声を奥歯が割れるほどに噛み締めて泣いた。罪悪感と後悔。祖父に愛をくれた恩を返したいと思うのに、あんなに大好きだったのに、もう今更何もできない。
感情は喉を突いて口から溢れ出た。
「湊様、違います。湊様のせいではありません。そんな事言わないでください。湊様、ヘイバン様はお幸せでした。そうだったはずなんです。大切な湊様もいらっしゃいましたし、あなたが一人立ちされてからもイロハ様に愛され、ワタル様とカオリ様がいて、幸せじゃなかったわけがないじゃないですか」
「本当に幸せだったら、どうしてこんなにお祖父ちゃんは帰りたがってたんですか……!僕達と積み重ねた時間は……この世界と国は……あの人にとって……あの人にとって……!」
リリーは顔を片手で覆う湊の頭を何度も撫でた。
「湊様……」
「お祖父ちゃん……何でだよぉ……。そばにいてほしいって言ってくれれば僕は……僕は……!それとも僕じゃ……埋め合わせにもなんないのかよぉ……」
もやりと感じ続けていた全てがハッキリとした形になって湊を襲った。
祖父が認知症になった原因は湊だったんじゃないか。
祖父は家族を捨ててでも元の世界に帰りたかったのか。
祖父にそんな思いをさせていたのは湊だったのではないのか。
祖父の本当の居場所はここではなかったのか。
四つの痛みはごちゃごちゃに混ざり合い、絡まり合い、引く事なく湊の胸の中で疼き続けた。
「湊様、聞いて下さい……。今日は私、あなたの為にヘイバン様の全ての手記をお読みします」
「……もう、もう聞きたくないよ……。……もう……よく分かったよ……。お祖父ちゃんの本当の気持ちが……」
「そんな筈がありません。私がここに来た時、ヘイバン様の魔法陣が発動したんです。ヘイバン様はお帰りになる事もできたのに、わざとそうされなかった。私にはそう思えて仕方がないんです」
湊の涙は枯れたように引いていった。虚無を体の中に埋め込んだような虚しさだ。
「……お祖父ちゃんはもしかしたら自分が世界を渡るだけの魔法は生めなかったのかもしれないね……。宇宙のどこかに空いたワームホールの出口を繋げて、君を引きずり上げるのが精一杯だったんだ……」
「……うちゅ……?すみません、何と仰っているんですか……?」
宇宙という言葉が存在しないのか、リリーには伝わらなかった。
「なんでもない……」
「申し訳ないです……。湊様……。今夜、あなたの時間を下さい。私には分かるんです。ヘイバン様が湊様の思われるような事を考えてはいなかったと」
「……気休めなんていらないですよ……。放っといて下さい……」
「できません」
「……僕はきっと、今一緒にいると酷いことを言っちゃうと思います。だから……ごめんね。今日は寝てくれないかな……」
リリーは首を振った。動く様子がない。湊はまだ考え事をしたいが、仏間では電気をつけられないのでリリーにここを出て行って欲しかった。
書斎は湿気を吸いやすい紙が多いせいで、夜だと言うのにじっとりとしている。まるで湊を苛つかせる為に神がわざとこんな気候にしているようにすら感じる。
一度リリーの存在を頭の中から追い出すためにポケットからスマートフォンを取り出した。
別に何もすることもないが画面を開くと――日中に近所の公園で遊んでいた桜とリリーを撮った写真が表示されていた。
湊は公園の写真を閉じ、結局ポケットにスマートフォンを戻した。
あの公園にはよく祖父と遊びに行った。父は趣味がゴルフで、休日も朝早くからいない事が多かったので、しょっちゅう一緒に遊んでくれた。
木陰で本を読む祖父に虫を見せたり、木に登って上から手を振ったり、逆上がりを見てもらったり、土の上に簡単な魔法陣の書き方を教えてくれたり。
全ての記憶が愛しかった。
しかし、同時にあの時も帰りたいと思っていたかと思うと、記憶の空は黒く淀んだものに感じるようだった。祖父の笑顔を黒いマジックで滅茶苦茶に塗りつぶしたように感じる。
そして、自身の楽しそうに笑う顔が思い出せなくなる。湊は自分の顔も塗りつぶされたように感じると、顔を両手で押さえて震えた。
「湊様。どうか聞いて下さい……」
湊はため息混じりの息を吐くと床からソファに座り直した。
「良いですって……。どうせ明日からまた祖母達に聞かせるために嫌でも思い知ることになるんだ……」
「その時にあなたが傷付かないように、先に読まなきゃいけないところがあるはずなんです」
「……余裕があって良いですね。あなたは祖父に選ばれた世界の、選ばれた人だったんだから……」
言ってから、湊はこれは良くなかったと思うが、どこかスッキリもしていた。
「そんな事……ありません……」
違うと言わせる事がどれほど残酷なのか湊はよく分かっている。だが、今の湊には無駄な罪悪感を植え付けられたように感じて、少し不愉快な気分にさせられた。
「……もう早く寝て下さいよ」
「……寝られません。あなたの中のヘイバン様への思い違いを正さないと寝られません」
「……ペネオラさんは祖父のことなら何でも分かるみたいな感じですよね。でも、俺だって分かってんです。笑っちゃいますよ。こんなに好きだったのに……こんなに大切なのに……」
「湊様。あなたのお気持ちをヘイバン様がお分かりになっていないわけがありません。湊様は、本当にヘイバン様によく似てらっしゃいます。きっと、ヘイバン様は自分のことのように湊様の事を分かっておいででした。そして、湊様がヘイバン様を想われるのと同じか、それ以上に湊様を想ってらしたはずです。私には本当に分かるんです」
「そんなに祖父のことを何でも分かるなら……。ペネオラさん……祖父の好きだった花、知ってますか……」
湊の中で悪感情の炎がチリリと燃えたようだった。
床に座るリリーは何かを思い出すように少し考え、頷いた。
「毎週研究室に新しい花をお持ちになっていました。ヘイバン様は全ての花を愛してらっしゃったように思います」
湊はフッと諦めた様な息を吐いた。
「違う。あなたですよ」
「私……?」
リリーのきょとんとしたような顔から、湊は目を逸らした。
「祖父は白い百合が好きだったんだ。しょっちゅう切花を買って来たし、昔は庭にも植えてた。あなたに会いたくて仕方なかったんだ……」
「……光栄です。ですが――」
「ですがも何もないですよ……。ペネオラさん……あなたは一体うちの祖父のなんだったんですか……。大切なリリー・ペネオラ」
「……ただの後輩でした。本当に大切に育てて下さっていましたが、ヘイバン様は私に……何か特別な感情を持たれたことはないと思います。思いがけず魔法陣が動いてしまった時、隣で一緒に魔法陣を描いていた私も魔法に飲まれたのをご覧になったのでしょう……。心配して下さっていた事は確かでしょうが、それはこの私と言うよりも……自分の実験に関わっていた後輩への責任感です。たとえあの日飲まれたのが私でなくても、ヘイバン様は同じ心持ちだったと思います」
「……信じられないですよ」
「私じゃなくて、ヘイバン様を信じて下さい」
リリーはそう言うと、ソファに掛ける湊の隣に座った。大量の原稿とノートを膝の上に乗せ、随分と古そうなノートを手にした。
ぱらぱらとノートをめくっていき、速読するように目を滑らせると、手を止めた。
「――今日も神社の調査中に彼女に会った。何度も会っていたが、初めて話しかけられた。貼られているお札のメモを取っていた私の背中が寂しそうだったと笑っていた。また会ったら名前くらい聞くべきだろう」
湊はリリーのいない方に顔を背けて、ソファの肘掛けに頬杖をついた。
「――イロハさんは坂の下に住んでいるお嬢さんだそうだ。この神社の調査を終えたらもう会えなくなると伝えたが、次の神社には一緒に参拝にいくと言ってくれた」
彼女とは祖母のことだったか。祖母ともあんなに仲が良かったのに。それでも、祖母よりもこの娘の方が良かったのだろうか。
幼稚だが、そう思うと不愉快なので、湊は関係ない事を考えることにした。この本棚の向こう、隣の部屋では祖母が寝ているはずだ。
「――この間酷い台風が来た。梅雨前線豪雨と呼ばれていて、ヒョウゴ県とカナガワ県は被害が酷いらしい。イロハさんの家も大変な事になったそうだ。片付けの手伝いを申し出た。孤独な私のそばにいてくれた彼女のために何かをしたかった」
明日の朝、食事を取ったら一日片付けと整理をしよう。書斎が広がれば、ここに荷物を移動させて湊の部屋も取り戻せるかもしれない。
「――ヨコミゾ先生に家を出る事を伝えた。穀潰しだった私をよく置いてくれていた。イサムと呼べる息子がまたできて嬉しかったと言ってくれた。イロハさんとの祝言の為に着物まで用意してくれた。ヨコミゾ先生にはどれ程礼を言っても足りない」
明日湊が片付けている間、リリーには帰る魔法の研究をして貰えば良い。どうせ魔法の使えない湊にできることなんかないのだから、ずっとそばにいる必要はない。
「――息子が生まれた。やったぞ。やった。どうやら神は私がここで暮らす事を許して下さるらしい」
言葉が通じなくたって一人で魔法陣を作るのには何の問題もないだろう。
「――あの日から作り、改良を続けた転移実験の魔法陣。ウチュウとソウタイセイ理論と言うものも学んで、少し形が見えて来た気がする。二つの世界は極限に離れているが、すぐ隣に在ると言うこともできる。そして、二つは完全に独立したものではない。ここの言葉でここの世界の法則に穴を開けることさえできれば、私の魔法陣も動く筈だ。リリ、君は無事だろうか」
せっかく関係ないことを考えていたと言うのに、思考は引きずり戻され、湊は大きなため息を吐いた。これは新手のマウンティングだろうか。
「もう良いって言ってるじゃないですか……」
「――いつか本当の家に帰りたい」
その言葉は湊の頭にカッと血を登らせた。
「やめて欲しいって言ってるじゃないですか!君が行かないならもういい!俺が行く!!」
湊がソファから立ち上がると、リリーは湊の手を取った。
「湊様、待って!どうか聞いてください!」
ギュッと握り締められた手を振り解く勇気も出ない。祖父の大切な人だろうがなんだろうが、そんな事ができるくらいさっぱりした男なら良かったのに。
祖父と訣別することもできない。自分より弱そうな人の手も振り払えない。何もできない。へたれだった。
湊はこれはまるで呪いだと思った。
頭を冷やすように息を吐き、感情を抑え込むように言葉を紡いだ。
「俺、もう嫌なんですよ……。本当に祖父ちゃんが大好きだったんだ……。離してくれよ……」
「分かっていますよ。大丈夫。座ってください。お願い」
リリーは繋いだ湊の手を軽く引っ張り、湊は力なくソファに腰を下ろし直した。
「湊様、見てください」
ノートを隣り合う二人の膝の上に置くと、空いているもう片方の手で湊には読む事ができない字を指し示し、読み上げと共に字の上で指を滑らせていった。
「いつか本当の家に帰りたい」湊の手は震えた。「――帰って皆に無事を知らせ、私の愛する家族を紹介したい。私の誇りを皆に見せてやりたいのだ。両親へ宛てて手紙を書こうと何度思ったことか。伝えられないことがこれほどもどかしいなんてここに来るまで知らなかった。私は幸せにやっているよと、ちゃんと伝えたい。今はあちらの皆にただただ長生きして欲しいと切に願う。どうか、私が行き来できるようになるまで待っていてくれ」
「……祖父ちゃん……向こうに行っても……こっちに帰ってくるつもりがあったのか……」
リリーは手近なノートを今開いているノートの上に乗せ、また読み始めた。
「――孫が産まれた。人に言えば馬鹿だと笑われそうだが、賢そうな子だ。孫は無条件に可愛いものだと聞いていたが本当だった。私の父達にワタルとユキコを見せてやれなかったことを悔やむ気持ちが大きくなってしまいそうだ。それ程に、愛しく愛らしかった。ワタルとカオリさんは私に名前をつけて欲しいと言ってくれた。だから――私はその子を湊と名付けた。私の新しい家族の名前は湊。人々が旅立ち、そして帰ってくる場所だ。湊は全ての人の道標になれる。私の帰るべき場所」
湊はそれを聞くとハッと息を飲み、瞳を揺らした。
そして、そのノートの上にまたノートが乗せられる。それは割と新しいノートだった。
「――ここに来てたくさんのことを学び、積み重ねた。すっかり老いさらばえたが、私は多分、世界に一時的な風穴を開ける魔法陣を完成させられるところまで来た。奇しくも思わぬ事で全てが揃ったのだ。だが、最後の鍵の事もあり、発動させる勇気が出ない。リリがどこかで震え、泣き続ける日々を重ねてしまうかもしれないと言うのに、私には出来ない。これを完成させればそうならずに救えるかもしれないのに。一刻も早くあちらのあの日の魔法陣に繋がる魔法陣を完成させなければならないのに。私は卑怯者だ。苦しんでいるかもしれない彼女を救う最後の一手を打てない。リリ、君は私を許してくれるだろうか」
湊はいつの間にかリリーの手を握り返していた。
「湊様。この字は学び。こっちは時の重なり。これが一人称。これは恐れと躊躇い。この字は私を示します」
他にも教えてくれようとするが、湊はリリーの読み上げた事を伝える為に繋いだ手を強く握り返した。
「……ありがとう。もう良いよ。よく分かったから。君の言ってた、本当の祖父ちゃんの気持ち……」
「良かったです。ヘイバン様はここにいる皆様が大切だからこそ、転移の魔法陣を完成させる事を躊躇っていたのです。もし間違ってまたあちらへ弾き飛ばされてしまったら、もうこちらへ戻れるだけの研究を重ねられる時間の猶予がないとお思いだったのでしょう。そして、ご自身の親も、あちらのご身分も、何もかもを捨ててここで生きていく事を決められていたんだと思います」
祖父に切り捨てられたのはどちらだったのか。リリーは分かっていたとでも言うように、今にも泣きそうな笑顔で笑った。
「……ペネオラさん……すみませんでした。本当に。俺……何て謝れば良いか……。本当に申し訳ありませんでした……」
リリーは静かに首を振り、俯いた。
「……謝らなければいけないのは私の方です。もっと早くヘイバン様が我を忘れる前の物をお読みしなくちゃいけなかったのに……。順序を間違えていたのは私なんです。読めるのは私だけなのに……」
「謝らないで下さい……。俺、本当に感謝してて……それを読んでほしいって言ったのは俺だったのに……。本当に……すみませんでした」
「……湊様、そんな顔しないで下さい」
湊は顔、と呟いて自らの顔を抑えた。そして、リリーの顔を見ると同じ事を言った。
「ペネオラさんこそ……そんな顔しないで下さい」
「はは」
二人はあまりにも不器用に笑った。
「また、頑張れますか?」
リリーに尋ねられ、湊は頷いた。
「もちろん……。でも、ペネオラさんは……」
もしかしたら、読めば読むほど彼女は祖父に切り捨てられたと感じるかもしれない。
「……私は大丈夫です。ヘイバン様の遺したものを読むことは、私が帰るために必要なことなんです。私が来た時の魔法陣は発動して焼失してしまっています。……湊様、どうか私に力を貸してください」
「もちろん……。何でもしますよ」
「ヘイバン様がお書きになったこの世界に穴を開けるこの世界の魔法陣。それを書いてください」
何でもすると言ったが、湊は数度瞬き、唇を噛んだ。
「……すみません。昨日も言いましたけど……俺、あの時の魔法陣に填まる護符に書かれてた字は、俺が完成させた湊の文字以外……覚えてないんです。それに、魔法がどう言うものかは分かってるつもりだけど……ダメなんだ。祖父ちゃんが教えてくれた魔法陣の書き方……もう覚えてないんだ……」
「大丈夫。私がヘイバン様の手記を読んで、それから、魔法陣の書き方もお教えします。……護符の書き方は分かりませんが、魔法陣でもできるかもしれません」
湊は口を押さえ、自分に問うように呟いた。
「……俺なんかにできんのか」
「あなたにしかできないことです。湊様」
握りっぱなしだった手に力がこもった。
「――やるよ」
家族と離れる寂しさは、祖父のそれを聞いてもう十分よく分かったつもりだ。
この子を家に帰すと最初から決めている。
「俺、何からするべきなんだろう」
リリーは少し悩むと、綺麗な笑顔で告げた。
「まずは、お茶を飲むことからです!」
2020/12/26追記 わぁい!へたれそうな湊君が描けたゾォ!(?
https://twitter.com/okbkkk/status/1342639850286018560?s=21