#3 リリの回想
「外国の人も来てるし、寿司でも取っちゃうか!」
父は張り切っていた。
和室にはちゃぶ台が二台出され、リリーが小さくなって座っている。
「ペネオラさん、生魚食べられます?」
「えっと、食べたことないかもしれません」
「祖父ちゃんは好きだったんだよ。多分気にいると思います。今夜魚でいいかな?」
「もちろん構いません。食べさせていただくんですから、なんでも頂きます」
「良かった。生魚で良いって」
湊が人差し指と親指で丸を作ると、父は早速電話をかけに行った。
すると、アルバムをまとめていた桜が顔を上げた。
「それにしても、ペネオラちゃんは多少日本語が分かるけど話せない、湊もペネオラちゃんの言葉は多少わかるけど話せないって特殊すぎるよね。何語だっけ?」
「……少数民族の言葉」
「なんでそんなもん分かんの?」
「……教授の趣味で教えてもらった言葉だから」
桜は胡散臭いものを見るような目をした。
嘘なので疑われても気分は悪くない。と言うかむしろ罪悪感すら覚える。
「まぁ良っか。――湊に翻訳させて話そうね!ペネオラちゃん!」
「ん……と、はい!」
普通に二人の会話は成立しているように見えるが、リリーは同意を求められたと思ってとりあえず相槌を打ったにすぎない。
「見てみて、お祖父ちゃまの写真。ハンサムでしょー!」
「これってここに来て何年くらいなんでしょう?」
「ん?こっちも格好いいよ!我が家で一番整ってるのはお祖父ちゃまだったからね」
「これも私が知ってるヘイバン様より歳を重ねてらっしゃいます」
「湊は似てるけど、なぁんかちょっと物足りないのよねぇ」
「湊様が何ですか?あ、ヘイバン様とすごく似てらっしゃいますよね」
「湊もお祖父ちゃまみたいになんか特技の一つもあればいいのね。そしたらもう少し顔も引き締まるんじゃない」
「この写真も似てらっしゃいます!」
成り立っているような成り立っていないような絶妙な会話だ。二人とも雰囲気で会話している。
特に桜はリリーが日本語を理解していると思い込んでいるので普通に話しかけている。
湊は頭が痛くなりそうだった。
「……俺ちょっと」
「あ、なに?どこ行くの?」
「どちらへ?」
リリーは不安そうに湊を見上げた。言葉の通じない場所に放り出される不安感は、別の言語があるこの世界の者よりも大きいだろう。
「すぐに戻ります。さっき話した鍵のかかった引き出し開けようと思って。父さんに鍵借りてきます」
「でしたら私も一緒に行きます」
リリーも立ち上がってしまい、桜は残念そうにリリーを見上げた。
「じゃあ書斎にいて下さい。鍵もらってすぐ行きますから」
「わかりました!」
リリーが立ち去って行き、湊も台所へ向かった。
寿司を頼む電話はもう終わったようなので、父は恐らく台所でデカイ顔をしているのだろう。
父は自身を味見番長と銘打っている。鬱陶しそうなものだが、母は姑と二人きりより気が楽でしょうと若い頃に気を遣ってくれた名残なのだと言って許している。
「父さーん、祖父ちゃんの机の引き出しの鍵貸してー」
「ん?そんなもんとっくの昔に祖父ちゃんが失くしたぞ」
振り返った父は予想通り煮物の味見をしていた。
「え?最後は父さんが閉めたんじゃないの?」
「祖父ちゃんがずっと自分で管理してたからなぁ」
「じゃああの引き出し開かないの?」
「開かないと思うけど、どした?」
「いや……んー……。じゃあ、祖父ちゃんの万年筆とか古い付けペンって本棚の上以外にある?」
「あー、そう言うことか。引き出しの中にはもう二、三本はあるだろうけどあれで大凡全部だぞ。万年筆は父さんも何本か欲しいから全部は持ってかないでくれるか」
「ん、分かった」
聞きたいことはもう聞けたので湊は早急に台所を後にした。
リリーはおそらく楽しみにしているだろうと思うと何とも気が重い。
渡り廊下が軋む音が上がり、湊は書斎に入った。
「すみません、ペネオラさん。祖父ちゃんが鍵無くしたらしいです」
「え。じゃあ、開かないんでしょうか?」
「解体すれば……」
「それは申し訳なくて出来ません。もーヘイバン様ったらどこに無くしちゃったんでしょう」
リリーは机の下やソファーの下を覗き込み、湊は窓枠に掛けてあるコートのポケットの中を探った。
「几帳面な方だったのに、歳っていうのはどうにもならないものですね」
「本当ですね〜。どこやったんだか」
一通り探したが見つからず、二人は一台だけ置かれている二人掛けのソファに座った。
隣から花のように良い香りがすると湊は少し離れて座り直した。
「後はどこかなぁ。祖母ちゃんなら思い当たるかな。流石に何十年も一緒にいたんだし。癖みたいなの知ってるかも」
「癖……」
リリーはソファから腰を上げると、一番左にある本棚の一番上の列に手を伸ばした。文学全集がみっしりと収められている。
「どれを見たいんですか?埃かぶってるから俺が取りますよ」
「あの、この三番目を」
「三番目ですね」
リリーの後ろから手を伸ばして本を取り出す。年代物の本なので、ハードカバーな上に紙の函のブックケースも付いている。
ふっと軽く埃を吹いてからリリーに渡してやると、リリーは本を函から引き出して開いた。
「――あった」
「え?」
本の真ん中はくり抜かれ、その中に大切そうにくすんだ金色の鍵が納められていた。
「うわ、何で分かったんですか……?」
「ふふ、ヘイバン様は失くしたんじゃなくて、隠してたみたいですね。向こうでも寮の合鍵はこんな風に仕舞われてました!」
得意げな顔だった。
半信半疑だった湊の中で、祖父が異界から来た人なのだと言う事が現実味を帯びていく。
祖父は若い頃から白髪になりかけの髪の毛だったと祖母は言うが――リリーのこの灰色の髪を見ていると、それは本当に白髪だったのだろうかと思える。
苦労した事は違いないだろうが、髪の色の訳は世界の違いだったのではないだろうか。
日本人は基本的には単一民族国家だが、同民族内で縄文系や弥生系と言った分け方があるくらい顔には差がある。髪質だってそうだ。所謂黒髪ストレートもいれば、チリチリの天然パーマもいる。
ある程度多様な顔の種類があるせいで祖父はうまく紛れてしまったのだろうか。
特に、あの激動と混乱の時代。流暢に日本語を話せる祖父の事を日本人だと思う事は当然だったのかもしれない。
だが、ここで一つの疑問が浮上する。
祖父は湊が生まれた頃には間違いなく日本語を話していたが、こちらに来たばかりの時に言葉が通じなければ日本にはいられないはずだ。
ならば、祖父はリリーと違って間違いなく誰とでもコミュニケーションを取れていたはずだ。
リリーは何故湊としか分かり合えないのだろう。
第二次世界大戦中、ある国は魔術やオカルティズムを真面目に研究していたし、昔はもっと魔法が世界に満ちていたのだろうか。
仮にそうだとして、湊がリリーの言葉がわかる理由は。
――不明。
湊がこの謎の事象に頭を悩ませる中、リリーは本から鍵を取り出し、引き出しの穴に入れた。
「開けても良いでしょうか?」
「はい、もちろん」
ぴったりの大きさの鍵を回すと、カチリと軽い音を立てた。
久々に開かれるであろう引き出しの中には――何本かの付けペン、万年筆、インク壺が入っていた。
中でも目を引くのは、大量に記された護符のようなものと魔法陣だ。
その様はある種異様だった。
「こ、こんなに……」
湊が喘ぐ様に呟く。
リリーは魔法陣の上に乗る黒銀色の付けペンを取り出した。ペン軸には骨董品のように細緻な金細工が施され、星空の輝きを切り取ったようだった。ペン先は万年筆のようにインクを溜める切割りがある訳ではなく、筆の穂首のようにぷくりとした形をしていて、ぐるりと一周全体に溝がある。昔風鈴職人が生み出したガラスペンがもっとも近い形状だ。
「ヘイバン様の杖です!間違いありません」
「良かった。……それにしても、祖父ちゃんはよっぽど帰りたかったんだなぁ……。こんなに転移の魔法陣……」
リリーが魔法陣を何枚か取り出す。
「……湊様、これは違います。転移の魔法陣ではありません」
「そうなんですか…?」
「えぇ…。こんな魔法陣は見た事がありません。それに、こっちの魔法陣の字は……?」
魔法陣の中に書かれている文字をじっとリリーが見つめる。湊はそれを覗き込んだ。
「――漢字だ。日本語の魔法陣って。うわぁ……オカルトって感じするな」
日本語の魔法陣はよく見ると、円すら漢字で書かれている。まるでレース編みのコースターのように中心の一文字へ向かって字が迫る。
「これ、何て描かれているんですか…?意味はお分かりになるでしょうか?」
湊はリリーから受け取った魔法陣を眺めた。
「いやぁ……水とかくらいはわかるけど……後は気とか嵐とかかな……?旧字体みたいでよく分かんないんですよね……。ここにある梵字みたいなのに至ってはさっぱりです。そもそもこれ、意味なんてあんのかな?」
「湊様。魔法の使い方や魔法陣の形は地域によって異なります。私の世界ではと但し書きが付きますが……魔法とは知識を修め、知識を――」
「――知識を魔法陣に書き込むことによって初めて利用できる世界創造の力の一端……」
湊が祖父の本に書かれていた文を思い出して呟くと、リリーは頷いた。
「その通りです。魔法を使うためには世界創造に必要な知識を世界に刻まなくちゃいけません。魔法陣は力を取り出す門の役目を持っています。私達の世界は言葉は通じても、場所によって書く文字は違います。知識の体系も違うので、魔法を発動させるのに必要な陣の形も文字も違ってきます。私達は丸い魔法陣をいくつも繋げて、時に絵も織り交ぜて魔法を使いましたが、中には四角の中に数字を書き込むだけの国や、文字を記号に割り当てて簡素化させていた国もありました」
湊は謎の魔法陣、漢字の魔法陣、護符の様な物、全てを見比べた。
「……つまり、ここにある円になってないのも含めて皆魔法陣で、これこそここの場所にあった魔法陣の形ってことですか?」
「恐らくそうです。ヘイバン様は魔術学に精通されていましたし、ずっとここで使える魔法を探してらっしゃったはずです。そして至ったヘイバン様の答えがこれなんだと思います。この世界と神に則した魔法陣」
「神社の護符とかも満更嘘っぱちじゃないわけか。まぁ、こっちの世界にはもう魔法はないと思うけど……」
「いえ、ここにだって今も魔法はあるんだと思います。そうでなければ、私やヘイバン様が来られる訳がありません。でも、正しく使える人は減っているかもしれませんね」
「正しく使える人かぁ…。神社に行って帰り道に迷わない様にする護符を神主さんに書いてもらった方が良いかもなぁ。祖父ちゃんのあの護符は書けないとしても役に立ちそう」
「神殿があるんですね!きっと神官様なら強力な魔法陣を書いてくださいます!」
「今時の神主さんにそんな力あるかは怪しいんで、あんまり期待はしないで下さいね。ペネオラさんが自分で魔法陣書いた方が芽がありそうって思います」
「もちろん私も発動させられそうな転移の魔法陣を書きます!このヘイバン様の杖で!」
杖というより付けペンだ。
もしかしたら、彼女は魔法を使う道具という意味の言葉を発している為に、湊の耳に杖と聞こえてしまうのかもしれない。
神社も彼女には神殿と聞こえているようだ。神を祀る場所という意味で神社と口にしたせいかもしれない。逆に彼女の考える神社は湊の考える神殿に近いようで、湊には神社ではなく神殿と聞こえてしまう。神主も神官と来た。
便利だが、微妙なニュアンスの違いは存在するらしい。
リリーはそんな事も当たり前だと思っているのか、何も感じていないようだ。
「そしたら、明日護符を貰いに近所の神社に行きましょう。この辺で一番デカいところ。ご利益ありそうですから」
「湊様、ありがとうございます。帰れる道がもう見えて来た気がします!」
「本当ですね」
祖父の積み重ねたものがあるお陰で、割と早く帰り道が見つかりそうだ。
湊は軽くデスクを撫でた。
「……ペネオラさん、向こうに帰る時は祖父ちゃんのことも連れてってあげて貰えませんか」
「――と申しますと…?」
リリーは首を傾げた。大きな瞳で見上げられると、何となくこそばゆい。
「納骨はまだなんです。俺が夜にこっそり祖父ちゃんの骨を少しだけ巾着か何かに入れますから、それ持って行って欲しいんです」
「……分かりました。是非そうさせていただきます」
リリーが力強く頷くと、渡り廊下から足音が響いて来た。
魔法陣だらけの引き出しを一度閉じると、桜が顔を覗かせた。
「お寿司届いたよん!」
「まじ!ペネオラさん、飯ですって!」
「わぁ、とってもお腹すきましたぁ!」
「めっちゃ腹減ってたってさ」
「湊様、私は腹減ったじゃなくてお腹が空いたって言ってるんです!」
「はは。ちょっと違ったか」
帰れる手立てが見つかりそうだからか、リリーは明るく笑った。
◇
足を伸ばせる浴槽には銀色の蛇口が伸びていて、蛇口の先で鈴の様に丸くなった水滴が落ちる。
水の跳ねる音にうっとりと耳を澄ませる者が一人。
「はぅ……」
極楽の吐息が浴室に響く。
鎖骨のくぼみにわずかな水が溜まり、肌の上を玉の滴が流れる。
そこに再び湯を掛け、鎖骨にまた水が溜まる。
「……本当に魔法が使えないのに魔法みたいな所」
リリーは呟いた。
「……ヘイバン様、あなたはこちらで幸せになれたのですよね。こんなお屋敷をお持ちになって……優しいご家族に恵まれて……」
湊は明日、神殿に行こうと言ってくれたので、帰る助けになるものが何かしら見つかる気がした。
もしかしたら神官なら言葉も通じるかもしれない。
言葉は神によって統合されたのだから、別の神でも神に仕える者なら或いは。そう思った。
「……誰も言葉分かんなかったらどうしよう……」
魔法以外何もできないリリーはとにかく不安だった。そして――寂しかった。
「ヘイバン様……。もう私をリリとは呼んで下さらないのですか……」
コツン、と浴槽の縁に頭を預ける。
初めてヘイバンの魔術研究室に入った時、ヘイバンはリリーにいくつなのか尋ねた。十六だと伝えたら『わぁ、思ったより若いお嬢さんだね。参ったな』と複雑そうに笑っていた。
その時は拒絶かと思って落ち込んだし、自分だって二十三やそこらじゃないかと思った物だが、そうではなく、何でもよく気遣ってくれるヘイバンの他意のない感想だったと知ったのは翌日、再びヘイバンの研究室に入った時だった。
部屋に入ると同時に、一番に翡翠色のカフェテーブルへ手招いてくれた。バルコニーのように迫り出した大きな観音開きの窓辺で、バラミス共和国をたっぷりと見渡すことができた。国の魔術研究機関である魔術省は議事堂の隣にあるので一等地に位置した。
リリーが荷物を置いて急いでテーブルへ向かうと、ヘイバンは『女の子が気にいるような物は何にもない所だけど』と笑いながら椅子を引いてくれたものだ。
生まれて初めてレディーとして扱われた様な気がして、少しだけ得意な気分になって椅子に掛けたのを覚えている。
そうしていると、美しい白いカップをリリーの前に置いてくれた。よく見れば、金の線で百合が描かれていた。
『これは?』
『僕の研究室はね。朝は必ずハーブティーから始めるんだ。僕のお師匠さんの教え。君もいつか誰かが下に付いた時にはこうしてあげて欲しいな』
わざわざリリーが着く前に用意してくれていたハーブティーは黄金色で、まるで蜂蜜を溶かしたように甘く芳醇な香りがした。
あの日のハーブティーの香りは今でもよく覚えている。
リリーは毎日どれだけ朝早く行ってもヘイバンより早く研究室に入れる事はなく、毎朝ヘイバンがハーブティーを入れてくれた。
ある夜忘れ物を取りに研究室に戻った時、応接ソファで寝ているヘイバンを見てそう言うことかと理解した。
負けじとその日はリリーも研究室に泊まった。
そして、ヘイバンが起きるよりも早くハーブティーを淹れようと決めて眠った。
翌朝――夜明けと共に目を覚まして起き上がると、ヘイバンが笑っていた。リリーの体にはヘイバンの服が掛けてあった。
『来てたなんて気付かなかったよ。おはよう』
そう言った彼の手元には、ティーポット。いつもの真っ白で可愛げもないものだ。
やられたと思い、慌ててそれを手伝った。
ティーセットを並べ、ヘイバンの椅子を引いた。
『すみません……いつもやらせちゃって』
『別に。僕も毎朝お師匠さんに淹れて貰ってたから。それに、君はお茶の淹れ方よりももっと覚えなきゃいけない事もあるからね』
魔法陣は書けば力を持つ。継続的に力を発するものは残しておけるが、書くと同時に力を発して消えてしまうものも多くある。理論が分かっていても、自分の中で魔法陣を組み立てるのはとても難しい事なので、消えてしまうものは先輩の下について一生懸命覚えるしかない。魔術師は国の要なので大切に育てられる。
なので――大切にされることはある意味当たり前だが、机にポットを置いた彼もリリーの椅子を引いてくれたことが忘れられない。リリーもヘイバンの椅子を引いていたというのに。
『座って良いんだよ』と促され、結局リリーが先に座った。
せめてお茶を注いで行く。ヘイバンのカップは、ティーポットとお揃いの真っ白で何の気も効かないものだ。だが、窓から入ってくるお日様に照らされるとカップの中に揺らぐ黄金が仄かに透けて美しかった。
それを飲む彼も――美しかった。
『リリ、君のことはちゃんと僕が育ててみせるよ』
そう笑ってくれたのに。
リリーは胸の内から込み上げる痛みが喉を突くと、小さな声で泣いた。
共にいたのはたった二年の日々。あれが恋の始まりだったのかもしれない。せめて何か伝えれば良かった。
毎日ずっとあの日常が続くと思った。
まさか先にこんなに歳を重ねて、急いで逝ってしまうなんて。
知らないヘイバンの人生を思うと苦しかった。
ふと、脱衣所の扉が開く音がした。
「――ペネオラさん、色々使い方大丈夫ですか?」
湊の声がすると、リリーは慌てて顔に湯を掛けた。
「はい!大丈夫です!ちゃんとお湯も出せましたし、問題ありません!」
「良かった。ゆっくりしてくださいねー」
「ありがとうございます!」
脱衣所の扉がまた閉まる音がし、リリーはまた湯に体を沈めた。
リリーにとってヘイバンと一緒にいたのはつい先程のことだ。他の研究室の者達とも協力して総勢五名で一つの大魔法陣を書いていた。魔法陣は事故を防ぐために内から外へ向かって書くのが基本だが、五人がかりで書いていたので、リリーとヘイバンは細かくいつまでも内側で作業をしていた。その時書いていた転移の魔法陣は国内初――いや、世界初の試みだった。ヘイバンの唱えた理論上は上手くいくはずだった。なのに、何故。
疑問はむくむくと育って行くが、それの答えをこの場所で見つける事はできないだろう。
「……とにかく切り替えないと。私は帰らなきゃ」
ヘイバンのいない世界に帰る価値があるのだろうか。
そう思う気持ちもあるが、言葉が通じないなどと言う異常世界から早く逃れたいと言う思いも、家族に会いたいと言う思いもある。
やはり、帰らねば。
数度顔に湯をかけると、よし!と声をあげて両頬を叩いた。
「リリ、頑張ります!」
必ずあちらに戻り、信じてもらえないとしてもヘイバンの家族にヘイバンは幸せに生きたと伝えるのだ。そして、向こうでも弔う。
それがリリーにできる、ヘイバンへの精一杯の恩返しだ。
だが――もし、あちらに帰った時間がここのように何十年も過ぎていたら。そう思うと、温まりすぎた体も芯から冷え切るようだった。
「……大丈夫。世界同士の間に時間的な繋がりはない。そうじゃないと、私がこの歳のままここにきた理由がわからない……。あっちに書いて来た出口に繋げるだけで良い……」
魔術師に焦りは禁物だ。
きちんと真理を見極めなければ。
風呂を上がると、着てくれと言われている大きめの服に袖を通した。
「……この服……ヘイバン様の匂い」
目を閉じると思い出はいくらでも蘇って来そうだ。
髪をよく拭き、どれだけ証拠を見せられても何となく信じきれない気持ちが過っては消えていく。
リリーの横では水を溜めて洗濯する道具がゴウンゴウンと音を鳴らしていた。
(これも魔法道具じゃなくて……電気で動いてるんだよね……)
ヘイバンの日誌にも書かれていたが、ここは本当に神の国のようだった。神々は魔法陣を描かずとも容易に魔法を使えたと神話には書かれている。
バラミス共和国では洗濯は洗濯屋に出して洗ってもらうのか、自分で魔法を掛けて清潔にするのか、公共洗濯場で手洗いをするのか、魔法の掛けられた道具を使うのかだ。
リリーは大抵洗濯魔法道具を使っていたが、ヘイバンはしょっちゅう研究室に泊まっていたので、魔法で綺麗にしていた。
ぺたぺたと足の裏を鳴らし、木でできている廊下を行く。
実に異世界らしい出立ちの建物だ。見たことも聞いたこともない文化圏。
今日覚えた言葉。
フスマ。木の枠に紙が貼られた引き戸。
ホトケ様。この地の神の名前。
ブツダン。先祖や死んだ人、ホトケを祀る家の中に置く墓。
カミダナ。家の中に置く神の社。
イジン・ヘイブン。ヘイバンのこの地の名前。
ウルシザワ・イサミ。ヘイバンのこの地の名前。
ウルシザワ・湊。ヘイバンが孫に付けた水門を意味する名前。
サクラ。湊の従妹。
ユキコ。サクラの母。
カオリ。湊の母。
ワタル。湊の父。
イロハ。ヘイバンの妻。
難しかった。
人の名前は意味とセットで伝えるのが向こうでは当たり前だ。意味のない言葉を聞き取るのは難しい。
きっと、ヘイバンも同じように苦労したのだろうと思えた。
食事を取った部屋に着くと、布団が三組敷かれていた。
サクラが笑って何かを言ってくれるが、何を言われているのか分からない。
本当に良い人たちだった。
笑って頭を下げ、手招いてくれる場所に向かう。
一組だけ離して敷かれている布団を勧められた。
また何かを言ってくれている。
もし帰れなければここで暮らすのだ。ヘイバンはどうもきちんとここの言葉を話していたようだし、リリーも覚えなくては。
どうやって学んだのだろうか。言葉を学ぶなんてできるのだろうか。
そう思っていると、ズズン……と何かが落ちた音がした。
皆音の方へ駆けていくのでリリーも付いていく。
ちらりと部屋を覗くと、そこは物置部屋だった。
「いててて……」
湊の声を聞くと少し安心した。何を言っているのかよく分かる。
「大丈夫ですか?湊様。どうされたんです…?」
「あ、はは。いやぁ、ほら。例のアレ用意するためにね」
「例の――あ、お骨を入れる巾着ですね」
「それです。昔イヤホン入れてたちっちゃい巾着出そうと思って、天袋から引っ張り出したら……こんな感じに」
「いやほん……?ともかく、どこか打っていたら大変です。医伯のところに行かないと」
「いは……?――あ、いや。医者って程じゃないです。すみません、うるさくして」
「いえ……本当に大丈夫ですか……?」
「はは、すみません。大丈夫大丈夫」
リリーが手を伸ばすと、湊はリリーの手を取って立ち上がった。
「本当に平気ですか……?」
「大丈夫だよ。心配かけてすみません。やー、お恥ずかしい」
湊がはにかむと、ヘイバンを思い出した。
珍しく寝坊したと言って研究室に飛び込んできた時に、滑って転んだ彼は湊によく似た顔ではにかんでいた。
『大丈夫だよ。リリ、心配かけてごめんね。いやー恥ずかしいなぁ』
リリーはついさっきの事のようにヘイバンの声を思い出した。
湊は家族達に苦笑され、「ちょっとイヤホン入れ出そうとしたらさぁ」と恥ずかしそうにしている。
「――へいばん……さま……」
リリーは目頭が熱くなると、その場を走って離れた。
木の廊下を走り、書斎に飛び込むと声を押し殺して泣いた。
着せてもらった服だけでなく、ソファからもヘイバンの匂いがした。
「うっ……ぅぁ……ぅ……へいばんさまぁ……」
ふと、その肩に手が触れた。
肩を震わせて見上げると、湊の祖母がいた。
「――イロハ様」
イロハが何かを笑って話してくれる。背を撫でてくれる。
優しくて、温かくて、なんて良い女性なんだろうと思った。ヘイバンはこの人と幸せな一生を送ったのだ。
「ありがとうございます……。ありがとうございます……うぅ……ぅあ……あぁーん!ヘイバンさまぁー!!」
イロハに抱きしめられ、リリーはしばらく泣いた。
疲れてしまうほどに泣き、すんすんと鼻を鳴らすとリリーはその場で寝入った。
「――祖母ちゃん、大丈夫……?」
湊が顔を出すと、祖母はしー、と唇に指を当てた。そして、吐息のように小さな声で話した。
「大丈夫。お爺さんの事、こんなに大切に思ってくれてる人がいるなんて、お爺さんは本当に幸せだったわねぇ」
「……うん」
だからずっと帰りたかったのだろう。
この後輩が心配で堪らなくて、できることならば彼女を呼び寄せて二人で帰りたかったのだ。
湊は祖母の腕の中で眠るリリーを抱え上げた。
「――っう、お、重い…」
「何言ってるの、湊ちゃん。女の子に失礼でしょ」
「……羽のように軽いです」
「そうそう。ほら、連れて行ってあげて」
祖父の物語のようにうまくはいかないものだ。
何とか和室へ連れて帰ると――桜が何度も瞬いた。
「だ、大丈夫?」
「だい……じょう……っぶ……!」
大丈夫度ゼロな返事を返すと、桜は慌ててリリーの布団を捲ってくれた。
落とさないようにゆっくりとしゃがみ、そっと下ろした。
ほっと息を吐き、離れようとすると――クンッとダサいシャツが引っ張られた。
「……へい――さま――」
「……俺は祖父ちゃんじゃないよ。おやすみ」
捕まる手を離させ、桜の捲ってくれたタオルケットを掛けてやる。
寝ている姿はまさしく白き薫る花だ。
「ペネオラちゃん、本当大ファンだったんだね……」
「……それどころか会ったことがあるらしいよ」
湊は桜の布団の上にあぐらをかいた。
「まじ?いくつの時だろうね。サイン会とかかな」
「……さぁねぇ」
ため息混じりに答え、湊は少し悩んでから口を開いた。
「桜さ、お前魔法って信じる?」
「魔法?サンタクロースと同じくらい信じてるけど?」
それはつまり、ほとんど信じていないという事だ。
「そうだよなぁ…。俺もサンタクロースレベルで信じてたわ」
「変なこと言って……もしかして湊、ペネオラちゃんに惚れた?今更ピュアな心を取り戻そうとしてもピュアな子は振り向かないんじゃない?」
春ですわねーと桜が茶化すように言うが、そう言う気分にはなれなかった。
リリーがどうこうと言うより、祖父は何を思っていたのだろうとそればかりだ。
「……そう言うんじゃないし、この子はいつか遠くに帰る子だろ」
「別にSNSかメール交換すれば良いじゃん。あ、私明日聞こうっと!一緒に写真も撮りたいし」
「……教えられないよ。スマホ落としたんだから」
「っえ!?」
「桜、うるさい」
「と――ご、ごめん」桜ははっと口を塞いで小さくなった。「平気なの?だから場所もわかんなかったの?」
「……そう言うこと」――にしておく。
「明日交番行ったほうが良いよ。多分どっかに届いてるでしょ?」
「行くよ。朝一で出かける。帰って来てから手記は読んでもらおうな」
「そうだね。ペネオラちゃん、ドジっ子なんだなぁ……」
桜がよく分からない感想を口にし、湊は何となく気が抜けた。
「じゃ、俺ももう寝るわ。電気消してく?」
「あ、お母さんもう良い?」
「良いわよ〜」
顔にパックを張っていた叔母はいつの間にか布団に潜り込んでいた。
カチ、カチ、カチ、と三度紐を引っ張って電気を消す。
「おやすみ」と声をかけてからすぐ隣の仏間に入り、襖を閉めた。
欄間から隣の和室に光が漏れるので、電気も付けずに気配を伺う。真っ暗な和室でそうしていると今にも眠りそうだった。
適当にスマートフォンで時間を潰し、桜も叔母も寝たのを確認すると、湊はそっと骨壺のカバーを外した。
(お祖父ちゃん、ペネオラさんが連れて帰ってくれるよ。……でも、体の一部で許してくれるかな。……僕だってお祖父ちゃんといたいんだよ……)
人前では俺と言っているが、僕と言うのが抜けきらない。
湊は音が鳴らないように慎重に骨壺を開いた。
火葬場の人が丁寧に頭蓋骨の一部と頚椎を乗せてくれたのを蓋の上に退け、細かい骨を何欠片か拾ってイヤホンの巾着に入れた。
カサカサと、まるで枯れ葉のような音がした。
(……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)
猛烈に悪いことをしている気分だった。しかし、恐ろしさは感じない。愛した身内の骨とは気持ち悪い物ではない。
骨を入れた黒い小さな巾着を、明日着る予定のダサいと評される中でも最もマシな服の上に乗せ、骨壺を閉じた。きちんとカバーをかけることも忘れない。
世界に魔法があるのなら、祖父の話は正しく、神は存在する。
それが仏教の釈迦なのか、神道の八百万の存在なのか、はたまたジーザスなのかは分からない。いや、全てかもしれないし、全てではないかもしれない。
なので、湊は自分の知りうる全ての神に手を合わせた。
(合唱でも良いのかな……)
邪念を捨て、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とまた唱えた。
これじゃ仏教だと苦笑し、布団に潜り込んだ。