#27 マキナ
湊の背に鈍い痛みが走った。
一瞬息が止まるかと思うほど、強く壁に背を打ち当てられ、思わず苦痛のうめき声を上げてしまう。
「ッウ……。マキナ、何を――」
振り解こうとすると、襟をギュッと持ち上げられ、湊の気道は細く狭くなった。
人が手で人を窒息させるなどよっぽどの怪力でなければできないが、手で首を包むのではなく、壁に背中を押し付けながら拳で喉を潰せば不可能ではないのかもしれない。
「お静かに。このまま痛い思いをしたくなければ、大人しくしてください」
「お前……本当にお前が……。お前……俺が大人しくしたら……殺すんだろ……」
「おやおや。ご存知でした?大人しくしてらした方が痛みは少ないと思いますよ。意識が落ちた後に殺してあげようと思ってるんですから。血とか嫌ですし」
マキナの細められた目は三日月のように細く、口は裂いたように横に広がった。
ギュッと捻りあげられると、湊はマキナの両手首を掴んだ。離させようとするが、びくともしない。
「お前……魔術師のくせに……腕力狂ってんな……」
「ふふ。お師匠も体まで鍛えた方が良いとよく仰るんじゃないですか?」
「生憎……俺を育てた人は……体の事までは言わなかった……」
「あらら、それは戦争屋失格じゃないですか?人を殺すならちゃんと体も鍛えないと」
「俺は人を殺す気なんか……ないんだよ……」
祖父も人を殺す気はなかっただろうし、湊がそうなるなんて思いもしなかったはずだ。
「あぁ、ヘイバン様は僕やバウマン様と違って直接殺しにいかなくても良いですもんね。羨ましいなぁ。転移の魔法陣かぁ。とんでもないものを作ったもんですねぇ。推定殺害人数四百万人って僕のパトロンが言ってましたよ?」
「あれは……あれは人を殺すために……できたもんじゃない……!」
「はは、あまぁい。口説かれてるのかと思うくらい甘いセリフですね。言っておくけど、あんたの作ろうとしている魔法陣は間違いなく歴史上類をみないほどに人を殺す事になるんだよ。責任取れもしない事しないで貰えますかねぇ」
マキナの手には一層力が篭り、呼吸が困難になる。
そう言えば、ポケットの中に祖父の魔法陣が――いや、着替えてしまったので全ては鞄の中だ。
鞄は壁と湊の体に挟まれて開けられるような状態じゃない。
この世界は魔法があるくせに今一便利じゃないなと湊は思った。
いや、空を飛ぶ船はすごいし、インクを付けていないのにものを書けるペンもすごい。湊にはとてもできない。それに、傷の治りを早める事もあちらの技術では限度がある。
ここはすごい。人の知識が少し足りていないだけで。
湊は頭が朦朧とし始めると、マキナの手首から手を離した。
「そうそう、大人しくして偉いですね。僕もね、本当は荒事なんか嫌いなんですよ。でも、戦争と関係のない人達がたくさん犠牲になるよりはよっぽど良い」
湊はこのまま殺されるくらいならば、と覚悟を決めると――震える両手を顔の前に上げ、左手でC、右手でOをそれぞれ人差し指と親指で作った。そして、残りの三本指を立てる。
「バカにしてるんですか?」
謎の行動にマキナから苛立つ声が上がる。
湊は出来る限りの酸素を吸い込み、両手の伸びている三本指の先端を重ねた。
そして、目的の言葉――知識を口にする。
「しぃ……おー」
マキナが「おー?」と繰り返して首を傾げた瞬間――湊の両手からは神火が吹き上がった。
「――ッな!?」
マキナは突然の眩しさに目を丸くし、息を吸うと同時に「ッウ!」と苦しげな声を上げた。
締めてくる手が緩んだ一瞬の隙に、湊は息を止めて神火の上がる拳を握りしめる。
手の形が変わると同時に神火は消え去り、辺りに夜闇が戻った。
持てる筋力の全てを総動員し、湊はマキナの顔へ向けて拳を振るう。
日本人として当たり前に持ち合わせる「人を傷付けてはいけない」と言う意識が湊の動きを止めようとするが、ここでマキナを屈服させられなければ――次はリリーだ。
湊は生まれて初めて人を殴り付けた。
ガツン、と湊の手に衝撃が走ると同時に、マキナの顔は痛みに歪む。
「――ッ!?」
声にならない声。マキナは殴られた勢いのまま壁に背を強打し、ずるりと座り込んだ。
湊はようやく自由に呼吸が出来た。
だが、酸素を堪能している暇はないし、ここの空気をあまりたくさん吸いたくない。急いで鞄から杖と平文の魔法陣を取り出す。
「一体どうやって!?魔法陣は描かれていなかったはずだ!!」
「――COだって言ってんだよ。CとOを価標で三重結合させる。一酸化炭素の構造式くらい覚えとけ」
湊の手からは一酸化炭素が出たはずだ。どれ程の濃度をマキナが吸い込んだかは分からないが、マキナは今頃頭痛や吐き気に襲われているはず。一酸化炭素と言えば高濃度で吸い込めば一瞬で失神するほどの有毒性だ。
湊も呼吸を開始するのを恐れたほど。
ただ、この魔法は博打だった。
死ぬよりはましだと思って試してみたが、失敗していれば指が歪んでいたし、早急に魔法陣を破壊していなければ手が焼失して無くなっていたかもしれないと思うと、絶対に二度とやりたくない。ただの記号として手を使っただけで、生体を捧げる魔法陣だと認識されなかった事に感謝しなくては。
「意味のわからない事を!!」
マキナの口の端は切れ、綺麗な顔には血がついていた。
湊の手もジンジンと痛みを放っていて、人を殴ると言う罪を思い知らせるようだった。それに、指先が赤い。神火がハンドサインを焼こうとした形跡だ。
マキナが立ち上がろうとすると、湊は平文の魔法陣を杖で指し示した。
「動くな。"このまま痛い思いをしたくなければ、大人しくしてください"――だ」
マキナに言われた言葉をそのまま返す。マキナは口の中に溜まる血をペッと吐き出し、冷めた口調で尋ねた。
「……ヘイバン様。そんな訳の分からない文字の魔法陣を使えるので」
「使えるさ。俺の第一言語だからな」
「……また意味のわからない事を」
言語は統一されているのだから第一も第二もないのだろう。第一文字と言う方が正しかったかと思うが、湊は特別訂正しなかった。
「マキナ、お前はどうしてイズアルド・ヘイバンを殺そうとする。あの日の魔法陣を書き換えたのもお前なんだろ」
「だとしたら?大量に人を殺す魔法陣を完成させないためなんだから仕方がないでしょう」
「……そうか。お前はここと戦争してるって言う国の人間なのか?」
マキナはふん、と鼻を鳴らした。
「違いますよ。僕はここ、バラミスの生まれです」
「じゃあなんで。お前生まれた国が大事じゃないのか」
「言っておきますけどね。守ってくれもしない国に愛着なんか湧くわけがないんですよ。助けて守ってくれた場所と、金のために僕は働いてんです。貧乏は懲り懲りなので」
「アルケリマンに助けられたのか?」
「どうでしょうね。僕はお喋りは好きな方ですけど――ここまでですよ!」
マキナは背中の後ろから炎を取り出して湊に向かって思い切り投げ付けた。炎を上げている魔法陣が書かれた紙ごと迫ってくる。話している間に後ろ手に魔法陣を書いていたか。
湊はこんな物理的な使い方の炎の魔法があるかと内心舌打ちをした。
どう見ても熱いそれを除け、祖父の魔法陣に触れる。
――その瞬間、湊の本能が危険だと警告を発した。
これは人に向かって使うようなものではない。
悟るも、魔法陣は光を放ち、神火が上がり始める。
「ええい!ままよ!」
走り出そうとしたマキナに向かって魔法陣を手裏剣かブーメランのように投げると、神火は一際強く燃え盛った。
同時に、魔法陣は効果をしっかりと発動した。
雲一つない空から、まるで龍が舞い降りたように激しい雷撃が降り注ぎ、魔法陣が書かれていた紙を貫いた。
ピシャッと稲妻の迸る音の後、火薬工場が爆発したのかと思うほどの轟音が響いた。
鼓膜が破裂するかと思うほどの音に、耳の奥がキン――っと痛みを放つ。
直撃はしなかったが、マキナは生み出された凄まじい衝撃に弾かれて前のめりに転んだ。
湊は両手を顔の前でクロスさせて何とか転ばずに耐えたが、舗装タイルが砕け散り、破片がいくつも頬と手を切って飛んで行く。細かな切り傷だらけになる痛みに表情が歪む。
辺りは酷い有様だ。
地面が抉れ、酷く焦げ臭い。美しかった地面の石タイルはめちゃくちゃにひび割れていた。
地面に転がるマキナから「うぅ……」とうめき声が上がる。
雷はかすりもしていないが、頭を打ったようで額から血が垂れていた。
「――マキナ!大丈夫か!?」
流石にそこまでするつもりはなかった。彼が平文をこの世界から追い出した張本人なら――湊の命の恩人なのだから。
この思いはここまでの湊の意思決定に大きく影響を与えていた。誰が犯人だったとしても、湊が生まれたのはその犯人のおかげだ。殺されるつもりはないが、できれば犯人とはゆっくり話をして見たかったし、誰が犯人でも許してしまうと分かっていた。
湊は慌ててマキナの肩を抱いて起き上がらせてやると、コートに入りっぱなしだった平文のハンカチで額をぬぐってやった。
すると、すぐさま手は弾かれた。
「やめろ!やっぱりあんたは存在しちゃいけない!こんな魔法――!!」
「ごめん、あんなになるなんて――」知らなくて、と言おうと思ったが、湊は雷の威力を理解していた。
そうでなければ魔法は発動しない。数億ボルトすら生む雷が危険じゃないわけがない。だが、湊は未だに魔法と言うものを正しく理解してない。
ちょっとゲーム感覚で雷が出れば良いな、くらいの軽い気持ちだった。
「……ごめん、痛かったね。俺が軽率だったよ」
「バラミスの無能魔術師が……お前達はいつもそうだ……」
マキナが捨てる中、すぐにあたりは騒がしくなって来た。あれだけの音と衝撃。人が来ない方がおかしい。道の向こうから「こっちだ!」「早く!」と叫ぶ人の声が響いてくる。
「……マキナ、ここを離れよう。行くぞ」
湊はマキナに肩を貸してゆっくりと立ち上がった。道を直す金を出せと言われると困る。最悪曽祖父母に頼ることになるが、それはあまりにも心苦しい。
「……ヘイバン様、僕を軍に突き出しますか」
「突き出したらどうなる?」
「ふ、どうなる?そりゃあ有り体に言って死刑でしょうね。全く、この世は本当に地獄ですねぇ。死んだ後にたどり着く場所はここより酷い場所ではない事を祈るしかないか」
「死刑……死刑か……」
湊は口の中でその言葉を反芻し、マキナを引きずるように足を進めた。
「――マキナ、何がお前にそんなことをさせるのか教えてくれないかな……?」
マキナは肩を貸す湊を睨み付けるが、目眩がしているのか足下はフラフラだし、視点も定まらない様子だった。脳震盪を起こしているのかもしれない。もしくは、軽度の一酸化炭素中毒。
「良いでしょう……。どうせ逃げられないようですし、話してやりますよ……。精々僕に同情して下さいね……。見逃がしたくなるほどに」
「考えとくよ」
「それは何よりです」
マキナは静かに息を吐き出すと、話を始めた。
「すべての事の発端は、アルケリマンとの間に起きた第一次魔鉱戦役です。……僕はあれで血の繋がる者全てを失いました。僕はたった十歳だった。まだ火も起こせない、なにもできない子供だった」
初めて聞く戦争の名前だが、湊は口を挟まなかった。
「戦禍が村を襲ったとき、僕は友達と一緒にアップライトピアノの箱の中に隠れて震えていた……。軍や魔術省の無能な魔術師共や騎士団が助けに来てくれると信じて……」
「……誰も来なかったのか?」
「来ましたよ。僕達は不幸にもその場で死ねなかった」
湊は意味が分からず、眉を顰めた。
「助けに来て欲しかったのに……死ねなかった……?」
「あそこで死んでいれば少なくとも僕は人でいられたんでしょうね。僕達は無駄な正義感だけはある魔術師共にピアノの中から出された。奴らはその後まで責任を取りもしないのに、無駄に手を出された」
「せっかく助けてくれたのにそう言うなよ……。お前の親を殺したのはアルケリマンなんじゃないのか……?それを何でこの国を恨む……」
「助けた?おかしなことを言いますね。確かに親を殺したのはアルケリマンです。でも、そんな事は僕にはもうどうでもいい。バラミスの魔術師と騎士団は、大人も子供も殆どいない村に僕達を置き去りにした。つまり、本当の意味では助けてなんてくれなかったんですよ。生き残った人達も皆多くを失っていて、他所の子供の面倒なんか見られるような状況じゃなかった。僕と友達は誰の救いも受けられず、食べて行くために村を出るしかなかった」
額からツ――と血が垂れ、湊が拭いてやろうとすると、その手は再び弾かれた。
「やめて頂けます?正直、虫唾が走るんですよ。本当はこんな風に肩も組まれたくない」
「ご、ごめん」
額から垂れた血がマキナの目の下まで伝って行く。
マキナは涙でも拭うように血を払い、フンッと鼻を鳴らした。
「さぁ、同情ポイントですよ。僕は友達と働ける場所を探した。たった十歳の僕達を雇ってくれるような場所は一つしかなかった。分かるでしょう」
湊は十歳でできる仕事とはなんだろうと考える。
お刺身の上にタンポポ――タンポポではないが――を乗せる仕事なら、或いは。
そんなお気楽な考えはマキナのこれ以上ないほど恨みを抱いた声で吹き飛んだ。
「男娼として十から十三まで、三年間働きましたよ。毎日毎日来る日も来る日もね。家畜以下の生活に死を選ぼうかと思ったとき、アルケリマンの魔術師達が娼館に来ました。バラミスの国籍を持ち、親のいない子供を譲ってくれと言って」
マキナは自嘲なのか、誇らしいのか、フッと笑いを漏らした。
「僕はあそこより酷い場所はないと思っていたから、すぐに自分がそうだと言って檻みたいな所から必死に手を伸ばしましたよ。当時は第二次魔鉱戦役の只中で、僕以外の子供は皆怯えていましたね。長くゴミ溜めにいすぎたせいで、ゴミ溜めも悪くないなんて勘違いを始めてたんでしょう。友達も誘いましたけど、友達は行かないの一点張りで、僕は友達を見捨てて一人地獄を抜け出してアルケリマンに渡りました」
湊はかける言葉を持たなかった。平和一色の日本に生まれ、彼の言う通りに同情すべきなのか、共に怒るべきなのかも分からない。
何を口にしても薄っぺらく、彼をもっと傷付けるだけのような気もした。
それに――彼がそう言う状況にならなければ湊の未来はまるで違うものになっていたのだから。
湊の存在は、この男無くしてあり得ず、その生い立ちに感謝すらしてしまった。
「渡ってからは、アルケリマンの軍が持つ施設で魔法も教えて貰いましたよ。温かい食事、優しい先生、綺麗な寝床。何もかもをアルケリマンは僕に与えてくれました。バラミスの中核に入り込めるバラミスの国籍を持つ者として、大切に育てて貰いました。利用されているだけですが、まぁありがたい話です。僕は祖国を裏切る事でようやく畜生から人間になれました」
幸せそうな笑みだった。
二つの月が二人に二本の影を生み出させる。
「さて、ここからはつまらない普通の話です。ご存知の通り七年前、僕が十八歳になった時に三国魔法戦争が始まりました。魔法戦争が激化する中、バラミスが作る新しい魔法を調べてくるようにと言われましてね。僕はバラミスの魔術省に入るためにアルケリマンで必死に学び、二十歳で一度バラミスに拠点を戻しました。ただ、その時には魔術省試験に落ちました。鳩で送られてくる金に頼って、親の死んだ家で勉強して二十三にしてようやくバラミスの魔術省に入り込むことができたんです」
マキナから垂れる血が道に落ちていく。
まるでこの子の歩んできた人生が血塗られたものだった事を見せつける様だった。
「新しく開発されている魔法を調べて、その理論を鳩で送れってんだから、入ってからも毎日とんでもない勉強ですよ。でも、お給料は弾んで貰ってたんでやり甲斐はとってもありましたね。向こうも裏切られないように必死ですし、利害関係とは言え僕も一応恩もありますしね」
そこで一度言葉は切られた。
「さぁ、どうです?そろそろ見逃がしたくなって来ませんか?自分を地獄から救い出した――親殺しの国の犬になった可哀想な僕を」
湊はゆっくりと首を左右に振った。
「悪い。むしろ逃がしたくなくなった」
「……あなた、こう言う話に弱いタイプじゃありませんでした?とんだ薄情者ですね。どこへなりと逃げなさいとか言うところでしょう」
「お前、仮にそれで逃げられたとしても、もうアルケリマンから金貰えない上にバラミスの魔術省にも帰れないじゃんか。暮らしていけないだろ」
マキナは湊へジッと冷めた瞳を向けた。
「そんな心配はご無用ですよ。今回は初めての殺しの依頼だったので、お給料はドンと貰いましたし。逃亡資金ってやつですね」
湊はその言い分に、一つの疑問を覚えた。
「――ん?初めて?てっきり何人も殺したのかと思った。それとも逃がして欲しくて嘘ついてんの?」
見上げてくるマキナは目を細め、呆れるように続けた。
「……馬鹿ですか?新しい魔法を作った公認魔術師を何人も消したりしたら、軍が動き出して捕まるに決まってんじゃないですか。それよりも理論の横流しと、今後戦地で使われる魔法の情報をコンスタントに得る方がアルケリマンはずっと良いでしょう」
「あー……それはそうだね。俺の事もそうやって見逃してくれないかなぁ」
「はっきり言っておきますけど、僕もあんたは死ぬべきだと思いますね。位置転移の魔法陣はあまりにも危険すぎるんだ。あんたの研究を聞いた時、こう言う時のために殺法を叩き込まれて来たんだって確信したもんですよ。上に報告したら、案の定理論を理解してから、それを知る者を全員殺せって鳩が来ました。だから天上界に飛ばしてやったつもりだったんですけど……どうしてあなたは天上界に出なかったんですか?戻ってくるなんて最悪ですよ」
心底残念という気持ちが乗せられた言葉には、どこか自身を慰めるような雰囲気があった。
「……誤発だよ。マキナが書いた魔法陣は誤発したんだ」
「……本当に誤発したんですか?おぉ、やだやだ。理解が足りてなかったんですね」
「そうかもね」
「転移の魔法陣、恐ろしい難易度ですね」
おそらく、彼が理解できていないのは転移の魔法陣ではなく、天上界――いや、宇宙の方だろう。宇宙を天の上の神様か何かが住む別世界だと誤って認識しているから、同じ宇宙の別の世界に飛ぶ誤発を起こした。
湊はマキナの足に踏ん張りがきくようになっても腕も肩も離さなかった。
「……マキナ。俺に宇――天上界のこと教えてくれないかな」
「いきなり何の話ですか?そもそもあなたに教えられるほど詳しいわけがないでしょう。幸せに生きてきたボンボンのエリートが」
「良いから。あの日にお前が書いた理論も教えて欲しいんだよ。それが俺の作りたい魔法陣に必要かもしれないから」
「ほー?研究熱心ですね。それで軍に突き出さないと約束するなら良いですよ。どうします?」
檻に入れられれば絶対に話さないぞと言うようだ。
挑発的な顔をされるが、湊は素直に頷いた。
「分かった。そう言う契約ね」
「――ははははは!」
マキナは間髪入れずに愉快げな笑いを上げた。突然の笑いに、湊は訝しむように眉を顰めた。
「ヘイバン様。あなた、本当は僕を逃がしたいんですね?僕を死刑台に送りたくない言い訳に、魔法の研究を盾にするとは!ははは!国の敵を逃がすんだから不憫な話だけじゃ足りなかったわけか!あんたみたいな及び腰の魔術師には免罪符までセットで必要だったんだな!」
勝手に納得されるが、湊には国や敵だとか、そう言うことには興味がない。もちろん、リリーとイッサが幸せに暮らせる国になってほしいとは思うが。
「うーん、そう言うわけじゃないよ。俺は純粋にマキナの思う天上界の理論を知っておかなきゃいけないのと、何より俺はお前に返しきれないでかい借りがあるんだよ」
「借り?あぁ、嫌味ですね。だから言うことを聞けと?」
「違うよ。本当に言葉の通り、お前の命を助けなきゃいけないだけの大きな借りがある。それが何なのかは話せないけど、感謝してるんだよ」
「全く身に覚えがありませんね」
「それで良いよ。マキナ、選んでくれ。軍に行くのか、俺の感謝を素直に受け取って俺の言うことを聞くのか。どっちかしかないよ」
肩を貸す湊を見るマキナの目は、初めて見る動物を眺めるようだった。
「……僕はあなたはもっと頭の悪い人だと思ってました」
「ん?頭の良い人じゃなくて?」
「前のあなたなら僕を脅して取引する事はなかったでしょう。天上界の話が今更何になるのかはよく分かりませんけど、単なる善人よりは多少信用できる気がします。感謝云々は意味不明ですけど、死ぬよりましですし乗ってみましょう」
確かに祖父なら軍門に降らなければ死刑台に送るなんて取引はしなかっただろう。湊は自分の心が汚れている気がして苦笑した。
二人は肩を抱き合いながらとりあえず握手を交わした。
「じゃあ、一先ずアルケリマンとは手ぇ切って貰えないかな。また殴ったりすんの嫌なんだよね」
「それについてはお断りですね。僕もアルケリマンに裏切り者として殺されるなんて御免ですから。なので、一先ずあなたの事は本当に記憶喪失だったとでも報告して、転移の極意は水の泡になったと伝えておきます」
「それなら……まぁ良いか」
「……良いと言うんですね。本当にあなた何なんですか?僕はいつあなたの寝首を掻くか分からないんですよ?」
「ははは、それはやめて欲しいな。お前も雷に撃たれたくなかったらやめときな。リリにもあの魔法陣は渡してあるんだから」
「最悪ですね。世界の害になるあなたの言うことを聞くしかないなんて。まぁ僕は自分が可愛いんで、死刑台に送られずにまともな生活ができれば何でも良いですよ」
湊はマキナの言い分にふと疑問を覚えた。
「お前、自分が可愛いだけならどうしてわざわざ危ない真似するんだ?大量に金がもらえるって言ったって、殺しなんてギリギリなんだろ」
「……どちらかに力が付きすぎて戦争がもっと悲惨なことになるのを見るのが嫌なんですよ。また街が蹂躙されて、子供が苦しむような事は御免です。両国の力を拮抗させておけば戦争屋同士が殺し合うだけで済むでしょう。――青臭いって笑いますか?」
「笑いやしないけど……でもお前、アルケリマンに転移の理論を覚えろって言われてたんだろ。向こうに転移の魔法陣を伝えたら、それこそバラミスで大量に人が死ぬことになる」
「……覚えましたけど、アルケリマンに教えるつもりはありませんでした。あなた達を殺したら分からなくなったって言おうと思ってましたからね。まぁ……言い訳でなく本当に真理の理解はできなかったみたいですけど」
「うーん、そうか。でも、だらだらいつまでも戦争してるとどんどん人は死ぬよ。どっちかがでかい力を持ってさっさと戦争を終わらせられれば、それが一番だろ」
そうやって無理矢理終りを迎えさせられた戦争があった。湊の言葉には実感があった。
「転移の魔法陣が実用化されても戦争は終わりませんよ。多分、この戦争は百年後もやってます。ウナ自治国をどちらかが手に入れれば、またどちらかが奪い取る。そしてまた奪い返そうとする。二ヵ国が疲弊すれば、今度はミア連合が取り返しに出てくる。この戦争はね、始まった時から後には引けないもんだったんですよ」
よろよろ歩くマキナは呆れるように溜息を吐いた。
戦争が終わらないのは湊も望むところではない。それではイッサがいつまで経っても帰って来られないし、リリーが平和に暮らす事もできない。いつかリリーもきっと公認魔術師になって魔法陣を作るようになる。その時に、彼女が作る物が命を奪うのは嫌だった。
「……マキナ。俺、皆が二度と戦争なんかしたくないって思うだけの魔法陣を作ってみようかな」
「夢物語ですね。不可能ですよ」
「俺は必ず戦争を終わらせる事ができる人類の叡智を知ってる。……参考書もネットもないけど、書いてみるよ。流石にいくらなんでもすぐには書けないだろうけど」
湊は自らの国に二度も落とされた史上最悪の力を思い浮かべた。
自然には申し訳ないが、人がいない場所にでもあれを落とせば、戦争の馬鹿らしさが分かるはずだ。
「それほど自信があるんですか?そんなもん、書き上がった瞬間に自分も死にそうですけど」
「いや、そうならないように本体とは分けて引き金になる魔法陣を二つ組みで作るようにするよ」
例えば――祖父の作ったリリーを呼び出した時の魔法陣のように。
「……それ、どうやって完成させるんですか?結局あなたが完成させて死ぬでしょう。僕としては万々歳ですけど」
「そこは機械式で二つが重なるようにすれば良いでしょ。歯車くらいはあるんだろ?魔法に囚われすぎてると何も見えないぜ」
湊は肩を貸すマキナに笑って見せた。その頬に付いた血は乾いてカピカピになっていた。
「あなたは……一体……誰なんですか?」
マキナの瞳は揺れていた。
「ん、はは。何?おかしなこと言って」
「まるで別人のようです……。転移の魔法陣が出来上がれば皆が会いたい人に会えるとか寝ぼけた事を言ってたのに……いったい何なんですか?」
「んー……。戦争が終われば、いつでも誰もが会いたい人に会えるよね。……僕は大切な人達が幸せに生きられる手段があるなら、なんでも追求したいって思うんだよ。それに、マキナに幸せになってもらわなきゃいけない事情もある。戦争が終わればお前ももう変な仕事できないだろ」
「ヘイバン様……。あなたはまた眠たいことを……」
馬鹿だと思われている気がする。
湊は肩をすくめた。
「そう言うわけだからさ、俺は人類の叡智を書くよ。ただし、中身は誰にも教えない。マキナにもイッサ様にも教えない。戦争を終わらせるこの力は、全ての生き物が知るべきじゃない」
「それほどの力を研究していたなんて知りませんでした……。それ、なんて言うんですか」
「教えないって言ってるだろ」
「名前くらい良いじゃないですか」
湊は年上の青年に溜息を吐き、呟くように告げた。
「……核だよ」
「核?何の中心ですか?」
「うるさい。メモするな」
マキナが取り出し掛けていたメモを奪い取る。
「……返してもらえません?」
「軍に突き出されたくなきゃ諦めろ」
湊は自分のポケットにマキナのメモをギュッとねじ込むようにしまい、また歩き出した。
歩いていると、二人の後ろから走る音がどんどん迫って来た。
随分急ぐ人もいるものだと二人で道の端へ寄ると、「ヘイバンさまぁー!」とリリーの声がした。
「リリ?」
立ち止まり、振り返ると血相を変えたリリーとイッサ、ヤージャ。それからマクモンドがいた。
たくさんの憲兵と、見たことのない制服に身を包む者達を連れていて、皆杖を抜いていた。臨戦態勢だと言うことが湊にもわかる。
「……軍もお出ましとはね。じゃあ、一世一代の茶番を始めましょうか。ヘイバン様」
マキナはどことなく邪悪そうに呟いた。




