#20 疑わしい話
「……ヘイバン。今のは何だ?」
部屋に戻ると、ソファに座るヤージャに問われ、湊はイッサに付けペンを返した。
「ディーゼルエンジン……って分かります?」
「分からん。初めて聞く言葉だな。だが、お前が全快した様子だとは分かった。レオンがバウマン様まで忘れてるなんて言いに来た時には流石に焦ったよ」
「は、はは。まだちょっと記憶があやふやな所があるせいですね」
「そうか?余程強く頭を打ったのか……誤発が記憶に影響を与えたのかだな。バウマン様、ヘイバンはどうです」
イッサは付けペンを道具鞄にしまうと、首を振った。
「まだまだ万全とは言えないね。仕方がないから、私は暫くイズアルドといることにするよ」
「戦地はよろしいので?」
「優秀なのを置いてきてるから一週間くらい平気だよ。一応手紙も出すつもりでいるしね」
イッサはそう言うと平気で平文の執務机に座り、引き出しから紙を一枚取り出して手紙を書き始めた。
「ふぅむ。ヘイバン、少しでも早く良くならないとバウマン様が安心して戻れないだろう」
「――エライヤ、言っておくけど私は戻りたい訳じゃないよ。人殺しなんてつまらない仕事だからね。できれば魔術省にこもって下らない魔法を作りたい」
「これは失礼しました」ヤージャは一度机にいるイッサに頭を下げ、湊に向き直った。「だが、いつまでも師に心配を掛けるものじゃない。早く良くなれよ?」
「善処します」
「そうしろ。薬はちゃんと飲んでるか?サラニカはまだ公認魔術師になれて一年だが腕は確かだ」
マキナが囲炉裏暖炉のカウンターに放置していた薬が入る袋を覗いた。
「ヘイバン様、ひとつもお飲みになっていないんですか?」
「体調も良いし、頭もハッキリして来てるから……ね?」
「いけませんよ。頓服はまだしも毎食後の薬はお飲みにならないと。ねぇ?イシュワもそう思うだろう?」
「ん?んー、ねぇ?」
「何だい。君、ヘイバン様に早く良くなってもらいたくないのかい?」
「い、いや。そう言うわけじゃ……ないんだけどさ……」
イシュワは大きなメガネの向こうの目を泳がせ、ヤージャとイッサはその様子をジッと見つめていた。
「えーと……昼食を取ったら飲み始めるからさ。あんまり心配しないで。マキナ、ありがとう」
「ちゃんと飲んで早く良くなってくださいね」
湊は年上の男子に敬語を使われる居心地の悪さをひしひしと感じた。
「さて、そろそろ行くか。バウマン様はいるが、また何かあればいつでも私やサラニカを呼べよ。イシュワ、マキナ。帰ろう」
「はーい。じゃ、リリー頑張ってね!」
イシュワはガッツポーズを作り、マキナは湊とイッサに頭を下げた。
「失礼します。ヘイバン様、お体お大事に」
「それなら俺も上に帰るかな。バウマン様がそばにいるなら心配はなさそうだし」
レオもうんと伸び、一番に部屋を出て行った。
すると、廊下から「おぉ?ニカじゃねぇか」とレオが言う声がした。
「レオンさんこんにちは!皆、イズのお見舞いですか?」
「そうなるな。肝心の見舞われる方はもう新しい魔法作ってるよ」
「えぇ?もー。なんで大人しくできないかなぁ」
そんな会話が廊下から聞こえると、外からにょきりとボーイッシュな女性――ニカ・ドーリマンが顔を出した。
「やっほー!イズ!バウマン様やヤージャ様も揃ってて豪華だね!」
「バウマン様以外はもう帰るところだ。ではな、ヘイバン」
ヤージャが出て行くと、マキナも出ていき、イシュワだけは何度もリリーに振り返ってようやく出て行った。
一気に人口密度の下がった部屋で、湊は部屋に入って来てしまった新たな刺客に頭を下げた。
「えーと、ニカさん。こんにちは」
「ニカさんって相変わらず記憶があやふやなままなのかなー?」
この人は平文の一つ年上だらしいが、どうやらもっと砕けていても良いらしい。
「――そうかも。俺おかしいこと言うと思うんだけど、ごめんね」
「早速言ってるよぉ。イズは僕って言ってたのに、大丈夫?」
「僕って言ってたっけ……」
それは恥ずかしい。よほど心を許すのか、目上の人相手でないと僕なんて言いたくなかった。
「そだよ?ね、それよりさ。お昼でも一緒に食べに行かないか誘いに来たんだけど……バウマン様もいるし難しいかな?」
昼ごはん。そう思うと、突然腹が減ったような気がした。
「――ニカ。せっかく来てくれて悪いんだけどイズアルドは本調子じゃないから難しいね」
と、イッサが答えると同時に湊の腹が鳴った。
「あ……と。はは」
「食欲はあるんだね!外が難しいなら、お昼作ってあげよっか。皆の分も!」
「あ、ありがとう」
イッサに確認するように視線を送ると、イッサは頷いた。
「それは助かるね。お願いするよ」
「任せて下さい!じゃあ私、ちょっと買い物行ってくるからさ。待っててね」
ニカがそのまま扉へUターンしようとすると、リリーも駆け足でその後を追った。
「あ、ドーリマン様、私もお手伝いします!」
「本当?ありがと!」ニカが答えるが、イッサが咳払いをした。
「リリ、君は残りなさい。少し話がある」
「バウマン様?」
「分かるね」
リリーは目を泳がせ、ニカはその背を叩いた。
「私一人で大丈夫だよ。師匠の師匠の話、聞かせてもらいな」
「ドーリマン様、すみません」
「いーよいーよ」
ニカはピースを振って部屋の扉へ向かった。
(……私もイズかバウマン様の研究室だったら良かったのに……)
ニカはそう思うが、研究室の移動なんて聞いたことがない。別に今いる研究室と先達に文句や不満があるわけでもないので諦めるしかないだろう。
つまんないの、と思いながらドアのノブに手をかける。
「あ、ニカ。待って」
一番求めた声からの呼び止めにニカは胸を熱くした。
「――な、何?何か食べたいものあった?」
調子が良くなったからやっぱり二人でどこかに食事に行こうと言って欲しい。そう心中で祈った。
しかし――「いや。お金渡さないと悪くて」
期待外れの心遣いだ。
だが、一度も呼び止められもせずに行くよりはずっと気持ちが良い。
ニカは笑った。
「いーよ。今日くらい甘えてくれて。じゃね!」
スキップしたい気持ちを抑えながら階段を駆け降りていく。我ながら大変単純だった。
そして、ニカが寮から出ると――寮の道の向かいのカフェにイシュワを見つけた。
テラス席の椅子の上に靴を脱いで立ち上がり、首を長くして二階のヘイバンの庭を覗こうとしていた。カフェの店員は迷惑なものを見るような目をしている。
「イシュ、何してんの?」
「え?っうわ!!ど、ドーリマンさん!!」
転げ落ちそうになりながらなんとかバランスを保つと、イシュワは「あーと、えーと」と口ごもってからようやく言葉らしい言葉を発した。
「えっと、ドーリマンさん、来たばっかりでもう帰るんですか?」
「いや?私はイズに昼ごはん作ってあげようと思って。イシュって趣味覗き?」
「ち、違いますよ!私はここで昼食を取ろうと思ってるだけです!――すみませーん!」
イシュワが店員を呼んでメニューを開くと、ニカは「そ?」と一言だけ返してから買い物に出かけて行った。
一方ニカもいなくなった部屋で、湊とリリーはソファに、イッサはロッキングチェアに座っていた。
「リリーの話もよく分かったよ。受け止めたと言う意味でね。理由や原理は全く分からないけどね」
「バウマン様は湊様がヘイバン様を名乗られるのをお許し下さるのですか?こう言っては失礼かもしれませんが、体制側にいらっしゃるはずの主席公認魔術師なのに……」
「そりゃあ魔術省としてはダメだろうけどね。だけどイズアルドの忘れ形見を捨てられるほど私は冷たい男じゃない。それに、湊は芽がありそうだ。身元不詳の男になられると困る」
「み、身元不詳……」
なんともガックリ来る響きの言葉だ。
「湊も分かっているから下手くそなイズアルドの振りをしているんだろう」
「……どんな若者だったのかもしらない祖父の真似なんかできないですよ」
「それはそうか。ともかく、私はしばらくここに泊まるよ。一つは私が湊にでーぜるえんじんを習うため。一つは私が湊に魔法を教えるため。そして、一つは君がイズアルドではなかった以上、犯人が確定するまで守ってやるためだ」
湊とリリーは目を見合わせ、首を傾げた。
「犯人?なんかあったんですか?」
「あったよ。故意に魔法陣の一部を書き換えてイズアルド・ヘイバンとリリー・ペネオラを転移の魔法陣に巻き込んだ誰かがいるようだ」
「……ん?誤発って狙って出来るものじゃないんですよね?」
「そうさ。だから、これは誤発事故であって誤発事故じゃあない。君達を消してやろうと思った何者かが仕組んだことだ。二人が戻った以上、抹殺の計画は続いていると見ている」
「そんな奴がいるんですか!じゃあ、その犯人が見つかったら俺は帰れんだ!」
湊はこんなに早く帰る方法が見つかるなんて、と瞳を輝かせる。
だが、イッサは静かに首を振った。
「いいや。誤発であって誤発じゃないと言うのはそこなんだよ。犯人もまさか別の世界にイズアルドとリリが出るとは思わなかったはずだ。まぁ、リリはイズアルドと湊が引っ張り上げたようだがな。おおかた天上界か海の上にでも放り出してやろうと思っていたはずだ。だが、イズアルドが書く転移の魔法陣との繋げ方が悪かったか……神の悪戯か、犯人の作ろうと思った魔法陣は誤発してイズアルドは異世界に飛ばされた」
「……結局誤発は誤発なのか」
「そうなるね。再現は無理だと思った方が良い。だが、湊。よく聞くんだ」
イッサは湊の瞳を覗き込むようにロッキングチェアから身を乗り出した。
「――万が一犯人が狙って今回と同じ誤発を誘えるようなことがあれば、今度は湊がいた世界とも違う世界に飛ばされてしまう可能性もある。行き先を指定しないと言うのはかなり危険な行為だ。そんな事になれば今度こそ死ぬかもしれんし、どこにも戻れないかもしれん。だから、君が異世界から来たなんて事は絶対に知られちゃあいけない」
こことも日本とも違う場所に飛ばされる。それはあまりにも恐ろしい話だった。
「知られさえしなければ、犯人は同じことは繰り返さないだろう。この世界のどこかに出て結局また魔法で帰って来られればハイリスクノーリターンだからね。だから、今後イズアルドではない別人じゃないかと言われても徹底的にしらばっくれるんだよ。幸い顔はほとんど同じだからね」
「わ、分かりました。そうします。でも、なんで祖父はそんな……命を狙われるようなことになってんですか?」
「転移の魔法陣はよその国からすれば脅威以外の何者でもない。それが完成すれば、戦地にいる私は毎日首都タルキアに――つまりバラミス共和国のこの街に帰ってこられるし、万全な魔術師が戦争に出ることもできる。悪い使い方をするなら敵陣や敵国の空に転移の出口を超上空から鳥達に運ばせて、爆発する魔法陣を複数人で大量に放り入れれば簡単に何千人も殺せる。出口は入口と繋がらなければ焼失しないことが分かっているからね。何もかもが覆る歴史的な魔法だ」
「そんなの……まるで戦闘機だ……」
「あぁ、とても戦闘向きの魔法陣だね。だが、魔法陣は原理が分からなければ動かすことはできない。歴史に残る魔法陣だが、あまりにも複雑だ。原理を詳しく説明でき、最悪一人でも書き上げられるイズアルドを消したい者がいるんだろう」
「……一つ聞いても良いですか?」
イッサは無精髭の生えた顎をしゃくった。
「祖父は人を殺すために魔法を作ってたんですか……?」
「違う。はっきり言っておこう。今は戦争なんてしているが、魔術省は新しい魔法を作り、有用な魔法を後世に伝えて人々の暮らしを良くする為の機関だ。イズアルドは優しい男だったから……私が文句を言いながら戦争に出ていたのをいつも気にしていた。転移の魔法陣は皆がいつでも帰って来て、会いたい人に会えるようにしたいと言う優しい心根から生まれた魔法陣だ。だからイズアルドは必死になって一刻も早くそれを完成させると意気込んでいた。その願いが戦争の役に立つと気付いた奴が、私も含めあちらこちらにいただけだ」
最初から人を殺そうと思って新しい技術を生み出す人がこの世にどれだけいるだろう。
湊は心の底から納得してから頭を下げた。
「――イッサ様、ありがとうございます」
「良いよ。十七のイズアルドと話してるみたいな気分だ」
イッサが軽い調子で笑い、ここまで静かに話を聞いていたリリーが口を開いた。
「バウマン様、あの日魔法陣を私達と書いていたのはヤージャ様とイシュワさん、マキナさんです。信頼できる方達とやっていました。マクモンド様は書き順誤発じゃないかと仰っておりましたし、誰かが悪かった訳ではないのではないでしょうか……?」
「マクモンド君はその場にイシュワとマキナがいたからそう言ったんだ。敵対者にはまだ我々が気付いていると思わせない方が得策だ。手段を選ばずに襲われたらひとたまりもない。エライヤの事は私もマクモンド君も信用しているが、後の二人への信頼は一度捨てなさい」
イッサはキセルにまた新しい刻みタバコを詰め込み、湊に差し出した。
「湊、頼むよ。今度は控えめな火で」
「あ、はい」
湊は平文の付けペンが挿されている道具鞄を取ってペンを抜いた。
「魔術省に勤める魔術師なら道具鞄は常に携帯しておきなさい」
「分かりました」
そう言うものかと腰に鞄を着けると、何となく気恥ずかしく感じた。祖父に顔が似ているとは言え日本人には似合わない気がする。
「今度は摩擦で頼むよ。でーぜるは危なすぎる」
キセルを顔の前で振られ、湊は何と書こうか悩み、三角になるように摩擦、可燃物、酸素と書いていく。
相変わらず魔法陣らしくない。こんなもので火が出れば湊なら十歳程度から魔法を使える気がする。
仕上げに、中心に「火」とシンプルに書き込んだ時――火の字の上に人の顔より大きいくらいの火が上がった。
漢字達はじっくりと神火によって燃え始め、イッサはそれの下にキセルを当てて数度吸うことで着火した。
「少しでかいが……できるじゃないか。これで良いんだよ」
湊は宙に浮かんだまま燃える簡単な火の魔法陣――文字列と言った方が正しいかもしれない――が消え去るまで眺めた。
「さて、話の続きだが、イシュワかマキナのどちらか、乃至はどちらもがイズアルドとリリを消してやりたいと思っているかもしれないと言うことはエライヤも知っている。それをマクモンド君に聞かされた時には頬を引っ叩いたらしいが、今は冷静だ。だからエライヤも私も弱っているイズアルドの話を漏らさないようにしていた……。だと言うのにさっきここにあの二人は来ていたな?リリ、あの二人はいつ来たんだ」
「……バウマン様と湊様がお庭で話し合われてた間に、お見舞いだと言って二人で揃っていらっしゃいました。道でばったり会ったのだと」
「どちらも怪しいな。やれやれ。ここにいるのがイズアルドなら放っておいても自分で何とかしただろうが、右も左も分からないひよっこ二人じゃ心許ない。エライヤもイズアルドが不調なままだと思えば気が休まらないだろう。嘘でも快調と言うべきだったか」
「バウマン様……。私、信じられません……」
「私も信じ切れないが、状況証拠だけで言えば可能性は高い。まぁ、よその国の存在がよく入り込めたものだとは思うよ。魔術省に入るには生まれた時からバラミスにいる戸籍が必要だって言うのに。だが――本来の戸籍の持ち主を殺して戸籍を乗っ取ってから引っ越すという手もある」
怖いのか辛いのか、リリーが胸に手を当てて少し震える。湊はその肩にそっと手を置いた。
「……ペネオラさん、帰ったって良いんだよ」
「できません!湊様が逃げられないのに、私が一人で逃げるなんて」
「湊、リリ。むしろ私のそばにいないと危険なんだから下手に帰ろう、帰らせようなんて考えない方が良い。一週間だ。一週間だけ二人とも我慢してくれ。私が向こうに戻るまでの一週間で解決させる」
湊は軽く唇を噛んだ。
「湊様、そんなお顔をなさらないでください。第一、字を書ける様になって下さらないと私は家には帰らないんですから」
「……はは、そうだったね」
笑っていると、扉が叩かれた。
「――あ、ニカが戻ったかな」
湊が立ち上がって扉を開けると、予想通りニカが立っていた。両手いっぱいに紙袋を抱えて嬉しそうに笑っている。
「ただいまぁー」
「うわ、結構買ってきたね。貸して」
「良いよ、イズは寝てて。全部で四人分だからたくさん買って来たんだぁ」
ニカは荷物を抱えたまま部屋に入ってくると、扉のすぐ傍にあるミニキッチンに向かった。
「ドーリマン様、お手伝いします!」
「リリーちゃん、ありがとね。そう言えば出かける時にイシュが庭を覗こうとしてたよ。イシュってたまに変わってるよねぇ」
それを聞くと湊とイッサは目を見合わせた。
イッサはロッキングチェアから立ち上がり、キセルを取り出して部屋を出て行った。
庭でキセルを吸うような顔をしながら監視者がいないか確かめている様だった。
「イズ、バウマン様に外で吸わせてるの?」
「――ん、いや。そう言う訳じゃないよ。綺麗な空気を吸いながらの方が美味しいんじゃないかな」
「はは、空気に綺麗も汚いもあるの?」
「あるよ。俺はそう言うのあんまり感じないタチだと思ってたけど、空気中の塵が少ないから光の反射が抑えられて遠くまで見える。まぁ、冬だから対流活動が少ないせいもあるだろうけどね」
「うーん、よく分かんないなぁ。イズはそう言うのバウマン様に教えてもらったの?」
「……多分、祖父ちゃんが教えてくれたんだと思う。誰かに教えられなきゃ知るはずもないけど、誰が教えてくれたのか思い出せないから。そう言うことはほとんど祖父ちゃんが教えてくれたんだ」
「イズはお祖父さんのこと、好きなんだ」
「そうだね。多分、ニカも好きだと思うよ」
「え?私会ったことある?」
「どうかな」
湊は肩をすくめて庭へ向かった。
「あ、イズ!会わせてくれるってこと?イズってば!」
二度と会えはしない。湊は何も答えずに外に出た。
「イッサ様、どうです?」
「……いるな。だが、あれが敵対者だとしたら馬鹿なんじゃないか?」
「え……?」
キセルを手にするイッサが隣の庭の向こうへ顎をしゃくる。湊がそちらを見ると、ガス灯のような物に登っているイシュワがサッと顔を隠した。
「……あれ、違うんじゃないですか?」
「となるとマキナだと思うかい?マキナはイズアルドを随分心配するようだったけど、それは演技か。それとも、イシュワがわざと馬鹿っぽい演出をしているのかな。イズアルドが薬を飲むことに反対のようだったからね」
「そう考えると分からないですね」
「そうだな。とりあえず、昼は敢えて庭で取るか。大人数がいると見せ付けてやっておこうじゃないか。夜までどんちゃん騒ぎ。良いねぇ」
イッサは笑うと胸ポケットから懐中時計の様なものを取り出した。何かすごい魔法の道具だろうかと見ていると、キセルから燃え尽きた刻みタバコをその中にひょいと捨てた。単なる携帯灰皿だった。
「さ、そうと決まれば食事の準備だ。湊も手伝いなさい」
イッサが肩を回して部屋に戻ろうとすると、湊は一つの気掛かりなことを口にした。
「……イッサ様、待ってください。転移魔法陣の原理が分かってる奴を殺したいんじゃ、一緒に魔法陣を書いてたヤージャ女史は大丈夫なんですか?」
「大丈夫になるようにできるのが公認魔術師だよ。あらゆる場所に力を刻み、いつ何時でも神から力を借りることが出来る。エライヤは大丈夫だ」
「じゃあ、イシュワとマキナのどちらかが犯人ではない場合、どちらかに危険が及ぶ可能性は……?」
イッサは湊に振り返るとジッとその瞳を覗いた。
「エライヤが救えば良い」
「そんなこと……見捨てるみたいでできないですよ」
「よく聞きなさい。人一人に救える人数は自分とせいぜい後一人だ。マキナかイシュワまで面倒を見れば他の誰かを手放さなきゃならなくなる」
「イッサ様はすごい魔術師なのにできないんですか」
湊が詰め寄る様に尋ねると、イッサはハッキリと答えた。
「できない」
「な……。魔法なんてもんを使えるのに人も救えないんですか!それに、自分とせいぜい後一人じゃ、イッサ様は俺かリリのどっちかしか救えないじゃないですか!」
「私が救う対象に私は入っていない。私は転移の極意を知らないから対象外だ。だから私は君とリリだけを守る。それがイズアルドにしてやれる最後の事で、湊にしてやれる最初の事だよ」
「……それも納得できないですよ。邪魔だって思われたら、イッサ様だってどうなるんですか。この世界には魔法があるのに、危ないよ」
――戦争に出たら、イッサ様だってどうなるんですか。今の戦地は魔法が溢れてるのに、危ないですよ。
イッサは湊の向こうについこの間まで元気にしていた後輩の姿を幻視するようだった。彼がイッサの下から巣立つと、割とすぐにイッサは前線に送られるようになった。
「……君達は優しいんだね。だが、私や他所の先達と後輩の心配をしている暇があれば君自身とリリをどうやって守ればいいか考えなさい。君はイズアルドのように魔法を堪能に扱える訳ではないが、公認魔術師としての資格を持つ者なのだから。リリの事を守り抜くんだ」
「言われなくてもリリは守ってみせますよ。でも、俺は皆守れなきゃ嫌なんだ」
「湊?」
湊は街灯の影へ手招きをし、イシュワは猿のように張り付いていた街灯から慌てて降りて玄関へ向かった。
「おい!何をしてるんだ!!」
「部屋に来てもらいます」
「バカが!話を聞いていたのか!!貴様にはリリを守る義務があるんだぞ!!」
「守ります。でも、一緒にいればイシュワも守れる。一人でいさせるよりいいじゃないですか」
「あれが犯人だったらどうする!?無駄に危険を呼び込むな!!」
「一緒にいる時に俺を殺せば一発御用じゃないですか。さっき全員揃ってた時に何もしなかったんだから、人が多い時に何かするほど相手もバカじゃないはずです。犯人じゃなかったら大勢で一緒にいれば守れるし、逆に俺達も手も出されないです」
「そんなに甘い話じゃない!さっき私達が庭で話している時にエライヤが出てこようとしたのはあの二人の到着を告げるためだ!相手はお前含めて公認魔術師が三人もいると思えばこそ怪しい事はできなかったろうが、今はエライヤと言う目が減っている!腕力のあるレオンもいない!」
「魔法陣は書き溜めておけないんだから、書き上げるまでの時間がいるじゃないですか!何かを書き始めたら捕まえましょうよ」
「お前……戦争を舐めてるな。これは戦争なんだぞ」
「俺の世界だって世界大戦なんて呼ばれるほどの戦争がありました。負けた国も勝った国もあったけど、どっちだって痛かったんだ。戦争が切実で、必死なもんだって知ってる。俺は戦争を舐めてるつもりはないです」
「お前の言葉には過ぎ去った物を眺める傍観者としての重みしかない。ここの戦争は進行形だ。今まさに私達は絶えぬ痛みの中にある。お前は私やリリ、関係のないニカまで危険に晒している!」
「守ります。皆、必ず守ります。イッサ様のことだって」
イッサは首を振った。
「捨て身の覚悟で来られれば、魔法なんてまどろっこしいものは使わずにナイフを使えばいいだけの話だ。お前はリリやニカを人質に取った相手が魔法陣を書き始めたとしても対処できるのか」
「できます。俺には祖父ちゃんが付いてる」
そう言って湊が取り出したのは、平文の魔法陣だ。字の練習に使いたかったが、人を守るためなら消失しても良い。
漢字の物と、こちらの言葉の物を注意しながらガーデンテーブルに置いて行く。
「こ、これは……。イズアルドの字じゃないか……。この円の書き方の癖は……あの子の魔法陣だ……。知識を奪われた奴隷の子供でもないのにこんな真似ができたのか……」
「俺のいた世界は簡単には魔法は使えませんでした。とりあえず、昨日一通り全部の魔法陣に目は通しました。俺が触ればどれもちゃんと動くはず」
「……凄まじいな。アルケリマンも奴隷の子供達に書かせた魔法陣を戦地に大量に運んできて魔術師が最後の一文字を書いて使うなんて真似をしているが……元から知識を持つイズアルドが書いたものなら、確かに触れるだけでも発動するだろう……」
「何とかなりそうな気、して来ました?」
湊はイッサの顔を覗き込んだ。
「あぁ、して来たよ。誰が犯人でも、本当にここに居させる事が全員を守る手段になりそうだ。湊もイズアルドも大した奴だな」
イッサは嬉しそうに笑い、湊の肩を数度叩くと部屋に戻って行った。
祖父ちゃん魔法陣は心強いわね〜!




