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#2 邂逅


 闖入者は身を守る様に顔の前でクロスさせていた手を下ろした。


 湊は思わず息を飲んだ。


 それは――非現実的に美しい少女だった。いや、少女というには少し大人な気がする。十八前後だろうか。乙女と呼ぶ方が合っているかもしれない。


 その子の目鼻立ちは平均的な日本人とは乖離していた。髪は灰を被ったようなグレーで、長く緩やかなウェーブがかかって胸元に降りている。瞳も黒とグレーだが、どこか紫がかっていて宵の輝きを宿すようだった。

 服装は夏だというのに長袖のブラウスを着ていて、袖がふわりと膨らんでいる。襟から覗くループタイを留める金具に着く石は、祖父の大切にしていた指輪に付いている石によく似ていた。下は脹脛まである長いハイウエストのスカートを履いていて、強い風は吹いていなかったのに強く巻き上げられ、やがてふわりと降りた。


 その子は呆然とし、自らの手と体を見下ろした。まるで体の無事を確かめるようだった。

 そして、すぐにキョロキョロとあたりを見渡し始めて、湊を見ると何かを言おうとスッと息を吸った音がした。そんな音が聞こえるような距離ではない。

 湊は完全に見惚れていた。

 美しい闖入者の声が聞こえると思った瞬間、火事だ火事だと騒がしい桜達が戻って来たところで湊はハッと我に帰った。


 弔問客を見送った様子の父と母が、和室に続く仏間の襖を開けて「火事?」と首を傾げている。

「あら、まぁ綺麗な子。桜ちゃんのお友達?」

 母の暢気な問いにバケツに水を入れて来た桜が首を振る。

「え…?違います。湊、火は?」

「……全部消えた」

「なーんだ。慌てて損した」

「どなたかしら。こんにちはぁ。迷っちゃったのかしらね」

 母は濡れ縁に並ぶ本を跨いで庭へ出て行き、闖入者と一言二言交わすと走って戻ってきた。


「み、湊!あんた英語話せる!?」

「俺より桜の方が話せるんじゃないの?現役女子大生頑張ってよ」

「えっ。無理無理。話せないわよ」

「良いから二人で話して来て!お母さんやお父さんよりは話せるでしょ!」

 湊は桜と目を見合わせると渋々庭へ向かった。

「分からない気しかしない」

「……中学英語で何とかするしかないわよ」

「……せめて高校英語で頼むよ」

 置いてある適当な突っ掛けに足を入れ、闖入者に近づいた。


 その子は不思議と湊に深い信頼を覚えている様な柔らかな笑みを見せた。

 近くで見れば見るほど綺麗だった。

 湊が何と声を掛けようかと思っていると「――少し驚きましたね」

 彼女はそう言った。鈴を転がすような声だった。

「あ、何だ。言葉平気じゃん」

「ヘイバン様、ここはどこなんでしょうか?それに、ヘイバン様のそのお姿は?」

「へ――?あ、平文。異人平文の弔問に来てくれたんですか?迷い込んだのかと思いました。それならこの家であってますよ」

 外国の人だからか発音が少し変わっているなと思いつつ、湊は今火を消したばかりの写真を乙女に見せた。


「弔問……?ヘイバン様、一体――」そう言って、闖入者は湊の顔と祖父の写真をよく見比べた。

「……あなたは……ヘイバン様じゃ……ない……?」

「……違います。俺は平文の孫です。確かにネットにはデビューした頃の写真がよく落ちてるけど」

 それにしたって三十歳や三十五歳の頃の写真ではなかっただろうか。そんなに老けているかと湊は落ち込んだ。

「ま、孫……?そんな……確かによく似てますけど……なんで……?」


 なんでと言われても血が繋がっているからとしか言いようがない。人の家の庭に入り込んでくる人なのだから普通なはずはないが、やはり変わった人だと思った。

 すると、隣にいた桜が湊の肩を叩いた。

「ね、何語?すごいね」

「は?日本語」

「湊が日本語なのは馬鹿でも分かるわよ。あんたじゃなくて、その子。弔問に来てくれたの?」

「……意味わからん。まぁ、異人平文に会いに来てくれたみたいだよな」

「それなら取り敢えず上がって貰うように伝えた方が良いんじゃない?」


 湊は自分で言えば良いのにと思ったが、その子を手招いた。

「と言うわけで上がってください」

 その子は戸惑っている様だったが、不安そうに歩き出した。

 桜は先に母屋の方に駆け戻り、母たちに「お祖父ちゃまの読者さんだった」と伝えてくれた。

 母たちも「こんなに早くわざわざ来てくれたなんてねぇ」と嬉しそうだ。祖父の愛された証に胸を熱くしてしまうのは湊も同じだ。少し変わった子だが。

「ちょっと散らかってるんですけど」

「いえ……」


 父は美女の登場にあからさまに浮かれていて、濡れ縁に干してある本を楽しそうに寄せていた。

 湊が適当に突っ掛けを脱ぐ横で、その子も一度家族たちを見渡してから茶色い編み上げのブーツの紐をほどき、靴を脱いで上がった。

 母達がどうぞどうぞと手招き、闖入者は訪問者に変わった。

「あの……ここって一体どこなんでしょう?」

「あ、えっと、ここの住所ってことですか?」

 疑問に疑問で返していると、湊の袖がツンツンと引っ張られた。


「湊!お嬢さんなんて言ってるの!」

「は?ここはどこって言ってんじゃん」

「バカ言わないで。お祖父ちゃまのファンの方なんでしょ!どこの国から来てくれたのかしら。本当に嬉しいわねぇ」

 母がキャイキャイと喜び、叔母も一緒になって喜んだ。姉妹でもないと言うのにこの二人は無駄に仲がいい。

「――これ……。ヘイバン様の……」

 乙女は開かれたまま転がっている誰も読めないノートを拾うとそれに視線を落とし――読み始めた。


「……ニホンに来て初めての誕生日を迎えた。暦が異なるが、ニホンに来てからの日数を数えているので間違いないだろう。これで二十六歳になってしまった。まだ帰る方法は見つからない。だが、医師であるヨコミゾ先生が親切にしてくれているので今のところ困窮状態には陥っていない。ヨコミゾ先生には感謝してもしきれないだろう。私にイサミという新しい名前も与えてくれた。ヨコミゾ先生の、戦争で死んでしまった御子息の名前だそうだ。初めて駅でヨコミゾ先生に話しかけられた時に記憶障害があるようだと言われてしまったが、それが返っていい方向に転じている。今は必死でニホン語を書く練習をしている」


 呆然と聞いていたが、湊はブンブン顔を振って我に返った。

「よ、読めるんすか?」

「……読めます。この字は確かにヘイバン様の物に間違いないようですね……」

「はは、やった!実は誰にも読めなくって困ってたところだったんですよ!他にもたくさんあって、もし良かったらなんですけど、いくつか読んでもらえませんか!」

「……読みます。いえ、是非読ませてください」

「あぁ、ありがとうございます!良かったな!祖母ちゃん!」

 祖母は手を胸の前で組み、ここ数日で一番良い顔をしていた。


「読んでくれたのよね!なんて書いてあったんですって?」


「……ちゃんと聞いてなきゃだめだろ?横溝先生が親切にしてくれて助かったってさ。日本に帰って来て初めての誕生日を迎えたって。それから、戦争のせいかな。記憶障害だったって。横溝先生が戦争で死んだ息子の名前をくれたらしい。祖父ちゃん、戸籍も勇って名前だったけど、恩を感じてその名前にしたのかな?それとも名前も忘れちゃったのか…?」


「まぁ…そうだったの……。勇さん……本当に大変だったのねぇ……。もしかしたら、家の場所は教えてくれないんじゃなくてうまく思い出せなかったのかもしれないわねぇ……」


 聞いていた父はどこか誇らしげに口を開いた。

「そう思うと、親父はよく頑張ったよ。最後はちょっとボケちゃったけど、ずっとハッキリしてたんだから。もしかしたら、最後は自分の本当の家の場所を思い出してたのかもな」

「――あ!そうか!すみません、これとかも読めませんか?認知症になってから書いたんで、もしかしたらめちゃくちゃかもしれないんですけど」

 湊はごっそりと新しい原稿を渡した。


 そこで、母が一つ咳払いをした。

「んん。その前に、お茶をお出ししましょうね。お線香も上げてもらいましょう。湊、お伝えして」

 だから自分で言え、湊はそう思った。

「線香上げに行きましょう。え……と。その前に、何さんでしたっけ?」

「リリー・ペネオラです。香る白き花の意です。あなたは…?」

「へぇ、綺麗な名前ですね。リリーって百合か。俺はミナト。漆沢湊。祖父ちゃんが付けてくれたんです。船出の水門の意味。たくさん人が集まるようにって」

「湊様。湊様も綺麗な良いお名前です」

「はは、ありがとうございます。湊様、なんて柄じゃないけど。じゃペネオラさん、仏間こっちなんで」


 手記を抱えたままリリーは湊の後に付いてきた。

 そして、仏壇に置かれる若い頃と、歳を取ってからの祖父の写真をじっと眺めた。

「……本当に……。信じられません……」

「本当ですよね。俺もまだ受け入れられないですよ」

 家族達は隣の和室から覗き込んでいる。

 湊は仏壇の脇に座り、マッチを擦って蝋燭に火を灯した。

「お線香、上げ方わかります?」

 これだけ日本語がペラペラなのだから分かりそうなものだが、リリーは首を傾げた。

「真似して下さい」


 線香をリリーに渡し、自らの分も用意して火に翳す。線香から軽く火が上がると左右に降って火を消した。

「ここに刺して、おりんを鳴らして――」リーンと澄んだ音が鳴ると、湊は手を合わせた。

「合掌。おしまい。祖父ちゃん、良かったな。こんな若い子にお線香上げてもらえて」


「……これがここの弔い方なんですね。ヘイバン様……御身が神の御許に辿り着けることを祈ります」

 リリーは同じ様に線香をあげ、手を合わせてくれた。

「じゃ、良かったらお茶でも飲んでください。それで……手記、たくさんあるんですけど……」

「いくらでもお読みします。先程申し上げた通り、私もそうしたいので……」

「ありがとうございます。俺、他にもあるやつ持ってきますね」


 湊の母がお茶を持ってくると、湊は入れ違いで離れへ駆けていった。

 渡り廊下に出してある物をごっそり抱えて引き返す。本棚の中からもノートを引っ張り出せばあるかもしれないが、とりあえず出ている物を持った。これは意味を持たないと思っていたので、資源ゴミに出そうと縛ってしまった分だ。

(お祖父ちゃん、良かったな。家の場所が分かったら、連れて行ってあげるよ)

 服の中で揺れる指輪に祈る様に伝える。

 部屋に戻ると、待ってましたとばかりに家族が振り返った。


 リリーは一人、黙々とノートを読んでいた。

「湊!それ解くのは父さんがやるから、早くお話しして!」

「自分で話せば良いだろ。桜と大して歳変わんないんだろうからそんなに緊張すんなよ。ペネオラさん、今お幾つなんですか?」

「私は今十八です」

「桜が二十二だから……わ、思ったより若いな」

 湊がまいったな…と呟くと、リリーははっと息を飲んだ。

「湊様は本当にヘイバン様に似てらっしゃいます。見た目だけでなく、話し方も。最初、ヘイバン様がおかしな格好をされているのかと思いました」

 湊は自らの出立ちをちらりと見下ろした。白いティーシャツの胸にchopstickと書かれ、その下に二本の棒が描かれている。


「……俺の格好のことは置いておいて、話し方って、ペネオラさんは祖父ちゃんに会ったことがあるんですか?」

「……信じられないでしょうけど……長く共におりました」

「それでわざわざ会いに……。祖父ちゃんにこんな若い友達がいたなんて知らなかったな。せっかく来てくれたのにこんな事になってて……何と言うか……申し訳ないです」

 リリーの正面に湊が座ると、また祖母が「何だって?」と尋ねた。


「……あのさぁ、ちゃんと聞いてなきゃ失礼だろ。何度も聞き直して」

「仕方ないじゃない。お祖母ちゃん達は日本語しかできないんだから」

「そうよそうよ」

「ケチケチしないでちゃんと教えてちょうだい」

 家族がそーだそーだと声を上げる。

「だから――」日本語だって言ってんだろ、と言いかけ、湊は何か強烈な違和感を感じた。

 助けを求めようと思った父は縛られている手記を慌てて解いていた。


「……え?何?皆ペネオラさんが何言ってるか分かんないの……?」

 皆頷き、桜が溜息を吐いた。

「分からないわよ。湊は第二外国語何取ったんだっけ?語学堪能アピールやめてよね。その格好じゃ何言っても格好良くないし」

 高校時代の服いじりすら耳に入らない。

 リリーは祖父のノートをぱらぱらと見ていたが、一つのページで手を止めた。

「ま、魔法が使えない世界……?」

 小説のメモでもあったのだろうかと湊が思っていると、リリーは胸ポケットから随分アンティークな雰囲気の懐中時計を取り出し、それをすぐにしまった。

 そして、腰に着けてあるウエストバッグから白紙を一枚取り出し、バッグの側面に差してあったネジくれた付けペンを引き抜いた。


 インクも付けずに紙に何かを書こうとし――諦めた。

「湊様。申し訳ないのですが、ペンをお借りできないでしょうか」

「あ、はい。もちろん……。ごめん、桜。そこのペン取って」

 桜は転がっているペンを慌てて差し出してくれた。皆尊敬するような目をしている。

「……え、今のも皆わかんないの……?」

「連絡先書いてくれるって?」

「本当にふざけないで真面目に言ってる……?ドッキリとか言ったらキレるよ」


「何……?英語じゃないんだし分かんないよ。湊どうしたの?なんか変だよ」

 桜は冗談を言っている雰囲気ではないし、リリーも本当に家族が何を言っているのか分からない様子だ。

 湊が取り敢えずペンを渡すと、リリーは軽く礼を言ってから何かメモを書いて丸で囲み――しばらく様子を見てペンを置いた。

 美人は何をしていても絵になるらしい。この日本家屋にはあまりにも似合わなかった。

「……ここは一体どこなんでしょう」

 リリーが呟く。日本語だった。日本語にしか感じない。湊はリリーを注視した。

「湊様、ヘイバン様と私が来たこの世界は一体……」

 そう言ったリリーの口は――言われてみれば日本語の口の形ではなかった。


「え、えぇ……?俺頭おかしくなったのかな……」

「……どうかしました?」

「ペネオラさん、俺の言ってること分かるんですよね?」

「分かりますけど……」

「家族の言ってることは?」

「すみません、よく分かりません……」

 その口は相変わらず日本語以外の言葉を紡いでいる。

 よく考えてみればリリーは最初から何か違う言葉を話していたような気がする。だが、日本語で話しかけられているのと全く同じ様に言葉の意味が解った。湊には日本語だと思えるほどに、軽やかに意味が染み込んでくるのだ。もはや日本語になって耳に入ってくると言っても過言ではないかもしれない。

 生まれた時からリリーの話す言葉が分かっていたような奇妙な感覚は湊の足元をぐらりと揺らした。何かおかしな世界に迷い込んでしまったようだった。


「……湊様、大丈夫ですか?」

「あ……はい。何だろ。なんか気持ち悪い感覚ですね」

「分かります。私も戸惑います……」

 湊は答えの出ない迷宮に入り込んだ。

「ねぇ、湊もちゃんとその――ペネオラさん?の言葉で話してあげなさいな。戸惑ってるじゃない」

「……無理。話せない」

「はぁ……もっとよく勉強する様に言えば良かったわ……。本当ごめんなさいね……」

 母が頭を下げるとリリーは首を振った。

「あれ?分かる?」

「雰囲気で分かります。話せない事を気に病んでらっしゃるようでしたから。気にしないでくださいとお伝えください。おかしいのは世界の方です」

 全くその通りだ。世界は突然おかしくなってしまったらしい。

 家族に説明してこの状況を理解してもらう事はまず無理だろう。湊は言葉を選んだ。


「……ボディランゲージで分かるから気にしないで良いって」

「そうなの…?じゃあ少しでも分かりやすい様にしてあげてね」

 湊は二人のすれ違いを訂正もせずに頷いた。

「――あの、そちらのものも読んでも良いでしょうか?」

 リリーが指さしたのは、前後不覚になってからの祖父の手記だ。原稿に書かれているせいでバラバラなので、湊は適当な一枚を渡した。

「……お願いします」

「はい。では……――ここが何処なのか、帰り方も分からない。親切にしてくれる人はたくさんいるが不安だ。一つも魔法陣が発動しない。何を書いても力塊誤作動すら起こさない。神と切り離されたようで恐ろしい……」


 家族が期待を込めてこちらを見る。湊は少し悩んでから口を開いた。

「帰り方がわかんないって。呪文も使えないって言ってる」

 湊にとっては、まるで日本語を日本語で繰り返す様な奇妙な行為だった。

「ははは、親父らしいなぁ。魔法が使えないってよく言ってたもんなぁ」

「自分の名前でたくさんお話書いたものね。記憶が混ざっちゃうのねぇ」


 家族が盛り上がる中、リリーは震える手で次の手記をめくった。

 そこからは他言語を練習するときに行うシャドーイングのようにぴたりとリリーの言葉にあわせて繰り返した。


「「いつからここにいるのか分からない。自分の手記を読むと不安になる」」


 次へ。


「「自分が何者なのか、もうよく分からない。だが、ヨクモク草原の草の香りだけは思い出せる。美しきバラミスの水のせせらぎ。帰りたい」」


 それは祖父の小説の中に出てくる場所のはずだ。家族も同じことを思っているようだ。


「「この世界に神はいないのかもしれないと思ったが、世話を焼いてくれている人達こそ神なのかもしれない」」


 湊が繰り返すと、家族は笑った。


「「そうでなければ、魔法を使っていないのに魔法の様なことを行える説明が付かない。魔法は天地創造を行った神の御業(みわざ)を借りることなのだから。では、私は神の下へ来られたのだろうか」」


 リリーは次の紙を見ると辛そうな顔をした。


「「今はとにかく、あの時共に魔法陣の上にいた――リリが心配だ」」


 復唱してから、湊は疑問を口にした。

「――え?リリ?」


「もしかしたら、彼女は魔法陣が発動すると共に陣の上から逃れたかもしれない。だが、全く異なる危険な場所に出てしまっている様なことがあれば、魔法も使えないこの混乱した世界でリリは無事に過ごせるだろうか」


 湊はそれを繰り返して家族に聞かせる事を忘れ、呆然とリリーを見た。彼女が嘘を吐いているかどうかなんて、湊には分からない。


「――ああ、本当の家に帰りたい。どうにかして世界を渡る魔法陣を完成させなければ。まずはあの日発動した魔法陣の出口になり得る魔法陣を作って、どこかに出てしまう前のリリを呼び寄せる。次にあちらに書き残してきた出口の魔法陣に繋がる魔法陣を作る。魔法陣は今のところ一つも発動しないが、とにかく何かをやってみる。無事でいてくれ。私の大切なリリー・ペネオラ」


 リリーはそこまで読むと、ぽつぽつと涙を落とした。リリーの涙はまるで螺鈿細工のように美しかった。

 何も分かっていない母達がその腕を優しく撫でた。


「……ヘイバン様……」

「……君……一体何者なんだ?」

「……私は十六で学校を上がってから……バラミス共和国の魔術省に入り、ヘイバン様の下で学ばせていただいていた者です。でも……ついさっき書いていた魔法陣がいきなり発動して……そう思ったのに……どうして……こんな……」

「それ……祖父ちゃんが最後に書きたいって言ってたイサミの話……。イサミはそれでこっちに帰ってくるんだって……」

「せめてヘイバン様と同じ時間に行けたらよかったのに……ヘイバン様……。」


 湊の理解を遥かに超える言葉ばかりだった。

 家族達は祖父を思い出して涙している様だ。もらい泣きだが、まさかこんな事を言っているなんて思いもしないだろう。

 言葉がわかったところで、とても家族達に説明できることではない。

 リリーは涙を拭い、湊を見上げた。


「無礼を承知でお頼み申し上げます……。どうか、ヘイバン様が過ごした時を見させてはいただけないでしょうか……」

「……来てください」

 湊が立ち上がると、リリーも先程のメモをした紙とペンを手に立ち上がった。

「あ、どこに行くの……?もう帰っちゃうの?」

「……いや、祖父ちゃんの部屋。見たいんだって」

「あぁ、いくらでも見て頂いて。ちょっと散らかってるけど」

「ありがと」


 母に返しながら、湊は信じ切れない気持ちでいっぱいだった。

 この子には本当はまったく違う名前があって、ただの熱烈な異人平文のファンで、世界観に没入しているだけなのでは。もしくは、書かれていた名前を自分の名前に変えて呼んだのか。

 ――いや、それだけでは家族に言葉が通じない理由が分からない。


 湊は頭が痛くなりそうだった。

 リリーと共に踏み入れた離れの祖父の部屋は――先程までと違って知らない場所のようだった。

 古い日記や手記を出しては渡す。

 多くは日本語で書かれていたが、ノートの隅にクシャクシャっとまるでペンの書き心地を確かめるようにしてあるものを見てはリリーは手を止めた。


「……いつか、本当の家に帰りたい」


 それは日本語ではどこにも書かれていない、祖父がよく漏らした言葉だった。

「ペネオラさん。祖父ちゃんは……日本なんか好きじゃなかったんでしょうか」

「……分かりません。でも、とても戸惑われたようですね……」

「そりゃそうか……」

「……私はどうしてこんなに遅くここに来てしまったんでしょう。ついさっきまでヘイバン様と一緒にいたのに……。信じられません……」

「祖父ちゃんが死んで、ペネオラさんのこと呼んだのかな」

「ヘイバン様……」

 ソファに座ってノートに読める文字がないか探すリリーを眺める。


 そうしていると、リリーはあるページで手を止めた。

「これは……転移実験の魔法陣の出口……?簡素化されてる……。試作第九号……?」

 湊は首を長くしてそれを覗き込んだ。見開きニページを使って魔法陣が描かれていて、いくつも陣があり、陣同士を結びつける線が伸びている。


「少し形が違うけど、さっき燃えた奴に似てるな」

「燃えた……?発動した魔法陣があったんですか?」

「発動とかは分かんないですけど、ちょうどペネオラさんが来る直前に燃えちゃいました。この真ん中に護符みたいなのを置く場所があって、護符の湊って言う一文字を完成させて納めたら一気に」


 湊が説明すると、リリーは瞳を輝かせた。


「それを完成させた方はどちらにいらっしゃるんですか!会わせてください!」

「俺ですよ」

「すごいです、湊様!では、どうかその魔法陣をもう一度書いては頂けないでしょうか!」


「それが、祖父ちゃんが書き掛けにしてた文字の最後の二画を書いただけで、全然覚えてないんです。読めない字もたくさんありましたし」

「……それで魔法陣が発動したんですか……?」

「た、多分……」

「そんな事があるのでしょうか……?」


 さぁ…と湊は苦笑した。聞かれても全くわからない。

 リリーは少し悩んだが、答えは出なかったようでノートに書かれた魔法陣を紙に書き写し始めた。複雑怪奇だと言うのに、何か法則でもあるのかその手は休む事はない。

 眺めていても仕方がないので、湊もリリーが目を通し終わった日記を開いた。日記は毎日ではなく、気が向いたときにだけ書いていたようだ。


 それには祖母と過ごす日々が楽しいとか、今度本を出すとか、そんな他愛もないことが書かれている。

 小説が思うように売れないせいで祖母が茶道教室を開くことにした、なんて事が書かれているところでは思わず笑ってしまった。

 帰りたいなんて事はどこにも書かれていなかった。


 もう少し新しい日記には、子供が出来て(わたる)と名付けたとあった。

 自分で航路を見つけ、世界へ乗り出せるように。

 ――世界。

 それは、祖父の小説の世界へ渡りたいと言う願いを込めた名前だったのだろうか。

 では、祖父のくれた船出の水門の意を持つ(みなと)は――。

 湊は首を振った。考えても仕方がない。


 愛されていたし、愛している。それで良いじゃないか。

 だが、祖父がどうしても帰りたかったのだとしたら。

 そう思うと、もやりと胸の内に黒雲が広がるようだった。

 湊がノートを閉じる。

 リリーはまだ魔法陣を描いていた。


「ペネオラさん、仮に本当に他の世界から祖父ちゃんもペネオラさんも来たとして……ペネオラさんは帰れるんですか?」

「……ヘイバン様は帰れなかったようですし……。正直、あれほどの魔術師にできなかった事が私にできるとはあまり思えません。ですが、やるだけやってみます」

「ふーむ、祖父ちゃんは結構偉かったんですか?」

「もっと偉い方もすごい方もたくさん居ましたけど、私にとっては……ヘイバン様以上の方はいませんでした……。ヘイバン様の下に付けて本当に幸せだったんです……。ついさっきまで笑ってたのに……」

「そうかぁ……」


 リリーは息を吸い、溜息を噛み殺した。懸命に魔法陣を見ながら何かをメモする姿は親鳥を見失ってしまった哀れな雛のようだった。

 祖父の悲願である帰還。湊はせめてこの子の願いだけでも叶うようにしてやろうと思った。


「――ペネオラさん、しばらく泊まってって下さい」


「……そうさせて頂けると助かります。行き先か帰り方を見つけて必ず出て行くので、少しの間置いてください」


「じゃあ、親に泊まるって伝えておきますね。でも俺も今週いっぱいはここにいるんですけど……それ以降はここ出ちゃうからそれだけ困ったな……。せめて桜に言葉が通じれば……いや、会社には本気出せばこっからも通えるしここに居てもらって出勤するか……?」


「その時には私もこちらを出ますので大丈夫です!湊様とは通じ合えるんですもん。きっと、他にも言葉が通じる方はいると思います!心配しないでください!」


 その言葉は強がりのような気がした。


「うーん……。もし一週間で元の世界に帰れなかったら、俺がここ出るときにはペネオラさんも家に帰るって事にして一旦俺んちに行きますか。若い女の子がうろうろしてたら補導されますし。お金もないんですよね?」


 リリーは腰につけているウエストバッグから見たこともない紙幣と硬貨を取り出した。

「これは使えないでしょうか…?通貨としてではなく、例えば金の重りで取引とか……」

「………無理だと思います」

 ガクリと肩を落とし、今出した謎の金をしまった。


「……すみません。一週間で帰れるように頑張りますので……」

「俺もできる事はなんでも手伝いますから、そんなに落ち込まないでください……」

「ありがとうございます……。……ヘイバン様のお孫さんが手を貸してくださるなんて、すごく心強いです」

「はは、祖父ちゃん、よかったな。可愛い後輩にすごく尊敬されてるみたいだよ」


 湊が笑っていると、リリーはようやくメモが終わったようで、ペンを置いた。


「でも本当……まさか言葉が通じない世界があるなんて思いもしなかったです……」

 その呟きに、祖父の小説を思い出した。

「……あっちは双子の女神が言葉を一つにしてくれたんだっけ」

「どうしてそれを?向こうに行った事があるんですか?」

「いや、祖父ちゃんが本に書いてたから知ってるんです。こっちは逆に神様怒らせて言葉をバラバラにされたらしいですよ。まぁ、俺は無神論者だからそう言うの信じてないけど」

「……そうなんですね。でも、湊様にはきちんと言葉が通じるのが不思議です。ヘイバン様のご加護でしょうか」

「どうなんですかねぇ……。ペネオラさん、本当にうちの家族の言ってる事分かんないんですか?」


 リリーが申し訳なさそうに頷く。


「……祖父ちゃん、本当にあった世界の事書いてたならもっと早く言ってよ」


 湊は苦笑してから立ち上がった。どれもこれも家族に話したところで信じてもらえない様なものばかりだ。


「――俺、母さんにペネオラさんは祖父ちゃんの手記を全部読むために泊まってくれるって伝えて来ます。言葉は通じないけど、そう言ってあるって一応思っといてください」

「分かりました。ヘイバン様の書かれたものは全て読み上げさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」

「ありがとうございます。こっちこそお願いしますね」


 書斎を後にすると、真昼間だったはずが西陽が迫り始めていて、虫干ししていた本を皆が片付けていた。


「母さーん、ペネオラさん泊まってくれるって。祖父ちゃんが書いたの全部読んでくれるらしい」

「え!?そんな悪いわよ!」

「いや、宿も取らないで日本来たみたいだから、追い出さない方が良いと思う」

「大変、お客さん用のお布団とシーツもう一組出さないと!雪子さんと桜ちゃんと同じお部屋でも大丈夫かしら。それとも茶室が良いかしら……?」

「私たちは別に同じ部屋で構わないですよー。お母さんも良いよね?」

「もちろん。何か困ったことがあった時にすぐに手伝えるし、一緒が良いんじゃないかしら。――香織さん、お布団出すの手伝うわぁ」

「雪子さん悪いわね」


 母と叔母が準備に消えて行く。湊は一つの疑問を口にした。


「桜も泊まんの……?」

「なに。文句ある?」

「別に。叔父さんは家に一人でいるのかーと思って」

「平気平気。お母さんは明日で一回帰るしね。ま、また来るけど」

「そっか」


 湊と同じく祖父の孫なのに何故桜にはリリーの言葉が分からないのだろう。


「それより、ペネオラさんってどこから来たの?ホテル取ってないのに鞄とかはどうしたんだろ?」

「……羽田のコインロッカーでしょ。多分」

「わぁ、取りに行くのも一苦労ね……。でも、そっか。どこが異人平文の家か分からない中で探そうと思ってたんだもんね。あんま大きな荷物は邪魔か……」


 適当に相槌をうち、湊は離れに踵を返した。

 脳が現実逃避をしようとするが、考えれば考えるほど彼女は本の中の住民のようだった。いや、厳密には祖父が書き記した世界の人か。

 渡り廊下を戻ると、ペネオラは部屋の中を彷徨っていた。


「すみません。寝る部屋、桜とかと同じでも良いですか?それとも一人の方が良いですか?」

「あ、湊様。私はどなた様と一緒でも構いません。お世話になります」

「いえいえ。ところで、どうかしました?」

「ヘイバン様の魔法の杖を少し探していました。きっと大切にされてたと思うんですけど……」

「杖?そんなのあったかな」


 歩く時についていた杖は近所で買ったものだし、覚えがない。

 そう思っていると、リリーはポーチに挿してある付けペンを引き抜いて見せた。


「こう言うものなんですけど…ご存知ありませんか?もしかしたら、ヘイバン様の杖なら魔法が籠もりやすいかも……」

「あ……。付けペンで空中にも魔法陣が描けるってそういや書いてあったな」

「一流の魔術師ならできます。私くらいだとそこまでは出来ないので、こうして紙を持ち歩いてるんですけどね」リリーはそう言ってウエストバッグからほんの少し紙を出して見せてくれた。


「はは、本に書いてあった通りだな。万年筆や付けペンだったらこっちかな」

 認知症になってからは尖ったものも危ないので本棚の一番高いところにまとめて置いていた。

 軽く背伸びをして本棚の一番上からペンがまとめて挿してある箱を下ろした。


「こん中にあります?」

「え、と……ないみたいです」

「うーん、後はここかな」湊がポン、と叩いて見せたのは鍵穴のある引き出しだった。「――父さんに後で鍵開けてもらいます。多分ここですよ。きっと見つかります。そんでもって、帰れますよ」


 湊が笑うと、リリーも釣られるように少しだけ笑った。


「そうですよね。私がここに来たのがヘイバン様のお力なら、きっと帰れるんですよね」

「ですよ。じゃ、一回母家に戻りましょう。飯の相談もしたいでしょうし」

「はい!」


 二人は母家に戻って行き――リリーは一度離れの書斎に振り返った。


「ヘイバン様……」


 その呟きは寂しげだった。

挿絵にするほどでもない、漆沢さん家の間取ができました!

https://twitter.com/okbkkk/status/1336088350659211264?s=21

引き続きお付き合いください。

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