#19 初めての魔法
寒い。とても寒かった。足も指先も冷え切っている。
しかし体の下だけが温かいし柔らかい。甘い良い香りもする。
下敷きにしているぬくもりをしっかりと抱きしめ、ほっと息を吐いた。
しかし、ぬくもりが動こうとすると迎えたくもない目覚めの時が湊を襲った。
「……さむ……」
目を開けると、囲炉裏暖炉で燃えている火はもう殆ど消えかけていた。それを見ると、ここが日本ではないという実感が襲って来て、未来に向こうへ帰れなければ――無断欠勤二日目という事実に胃が痛くなりそうだった。
現実から逃れようと湊は柔らかいぬくもりに顔を擦り付けて目を閉じた。
「み、みなとさまぁ……」
ふと、湊の下からリリーの声がした。
「ん……?」
徐々に頭の中に血が通って行くような錯覚の中、湊はこの下敷きにしている温もりが何者なのかをぼんやりと理解し始め、それがはっきり形になった瞬間飛び起きた。
「――っえ!?」
仰向けでソファに転がるリリーは顔を真っ赤にしていた。無性に犯罪的な絵面に見え、湊の中の焦りと混乱は一瞬で最高潮に達した。
「ご、ご、ごめん!!俺寝てた!!なんかあったかくて、ごめん!!」
格好のつかないことを主張すると、リリーは頷いた。
「は、はひ。わ、分かってます。お気になさらないでください」
「あっちにいた時もだけど、夜の勉強は程々にしましょう!時間を決めてちゃんと終わりにね!!」
「はは、そうですね。お勉強は十一時までで、必ずおしまいにしましょう」
「そんな遅くまでやったらペネオラさん帰れないから今日からは夕方には終わり!送ってあげたら俺が帰れないからそうしよう!?」
「湊様、私は帰りません。あなたがこちらの文字を覚えて魔法を堪能に使えるようになるまで」
「そりゃ百年かかるぞ!?」
「では百年ここにいます」
リリーはまだ少し赤い顔で微笑んでいた。リンゴのような頬は甘そうだった。
「いかん……。一刻も早く文字と魔法を覚えなきゃいかん……」
湊は昨日練習した紙を拾い上げた。その隣でリリーが一度深呼吸してから立ち上がった。
「ところで湊様。昨日ヘイバン様が買っておいた卵が冷蔵庫にあったんですけど、朝ごはんに食べてもいいでしょうか?」
「あ、もちろん。俺、何か作りましょうか?」
「いえ!私がご用意します。湊様はお勉強してて良いですからね。百年かかると大変ですもん。朝のお茶は食後にしましょう!」
「はは、ありがとうございます」
リリーは消えかけの火を大きくし、火の隣に石の板のようなものを置いて昨日買ったプチパンを乗せた。
その隣でスキレットに卵を割り入れほぐしながら焼いて行く。
原始的だが何とも良い光景だった。
だが、見惚れていないで軽く片付けと勉強をする。また父に「見惚れてないで」と言われてしまいそうだから。
魔法陣は食事中に誤って触ると危険なので湊の鞄にしまっておいた。
朝食を済ませ、また字の練習をして行く。
「――湊様、そろそろ魔法陣を書いてみませんか?」
「……また力塊誤作動おこしそうだからなぁ」
気が重かった。家具に歪まれると取り返しが付かない。
「大丈夫です!簡単な物からやってみましょうね。それに、光路線を宙に引けるのかも試してみなきゃいけませんし」
「光路線?――あ、付けペンから出てくる綺麗なやつか」
「はい!光路線は紙になら大抵誰でも引けるんですよ。杖はそうなるように作られた魔法道具ですから」
だから昨日湊がわざわざインクを付けて紙に物を書こうとしたときにマキナはメモをするなら羽ペンもあると勧めてくれたのかと湊は納得した。魔法陣を書くなら普通はインクは不要なのだろう。
「試しに紙に書いてみるか……」
紙と祖父の付けペンを用意した。
「最初は何も意味を持たない丸を書くと良いです。絶対に力塊誤作動おこしませんから!」
「丸ね……」
つぃー……と紙の上を滑らせると、ペンの先から青白い光が走った。
「ちゃんと出ますね。次は宙に書いてみましょう。湊様は魔法陣を自らの内から生み出す事ができるんですから、きっとできると思います!」
「でも俺公認魔術師の下でちゃんと魔法習ったりしてないですよ……?」
「少ないながら、世の中には公認魔術師の下で修行していなくても宙に魔法陣を書ける人がいるんですよぉ。国に抱えられるのが嫌で、資格があっても洗礼の指輪を受け取らないなんていう人もいます!」
「はは、その人の気持ちちょっと分かるな」
取り敢えず目下の不安は無くなり、湊はやるぞ、と心の中で気合を入れた。
湊が使った事があるのは魔法護符だけだ。あれを書いていた時の集中感を思い出しながら湊はペンを顔の前に出した。
(お祖父ちゃん……あの時はペネオラさんを助けるためだったけど……今度は僕を助けるために力を貸して……。ここで僕が暮らせる様に……。お祖父ちゃんの名前を貶めないように……。)
湊はゆっくりとペンを動かし始めた。
ペンの軌跡には――何も起こらず、現実はそんなものかと苦笑した。
リリーも流石にダメだったかと苦笑しているようだ。
祖父の物語の主人公のミナト君はシラユリに最後に魔法の付けペンを返してあちらに帰るのだから、ミナト君にはできたのに。
そう、ミナト君ならできる。
(そうだ……。できる。できるはずだろ)
湊は平文の祈りを一身に受け、神が奇跡のように完成させてくれたあちらの生体一式魔法陣。祖父はあれだけ物語の中で湊に魔法を使わせてくれていたのだ。
湊のいた世界には祈りと言葉だけで願いを叶えられる究極の魔法がある。魔法陣を使わなくても、人々の祈りと言葉が世界を変え続けて来た。
きっと、祖父からの湊に魔法を使えるようになって欲しいと言う祈りだって、聞き届けられているはず――!!
湊がそこまで考えたところで、ドッとペン先が光を吹き上げた。
庭を大きく超えて遠くの海からでも見えるほどの閃光は辺りを真っ白に染めた。
「――ッウワ!?」
「――湊様!!」
二人があまりの眩しさに目を守ろうとした。
まるで超新星爆発を起こした様に、一瞬で目の前がホワイトアウトする。
耳がキン――と遠くで音をならした。
湊はその時、何かとても遠い存在に触れられた様な気がした。それが神と呼ばれるものなのか何なのかは分からないが――まるで、あちらの世界にいた時のような安心感があった。
あちらでリリーが言っていた、洗礼の指輪の向こうに元の世界の気配を感じると言う、あの言葉。
湊はこの感覚かと悟った。あれだけ彼女が興奮していたのもよく分かる。
昨日来たばかりだと言うのに妙に懐かしく、果てしなく遠く、とても愛しかった。
光は溶けるように消えていき、部屋は元の明るさに戻った。
まるで光が上がった事が幻だったかのように感じた。
二人は目を見合わせ、そして湊はリリーの横から飛び上がるように立ち上がった。
「――リリ!鞄から火が!!」
「へ?――っはわ!燃えてる!」
湊はそれを叩こうとし――「あ、神火だ……」の一声で手を止めた。
「え?神火?」
「はい。これ、神火です」
「鞄から……?入れたままだった魔法陣が動いた?」
「いえ、全部出しました……。今は湊様が全てお持ちです……」
リリーは勢いを増して燃え上がっていく道具鞄を熱がりもせずに体の側面から正面へ回した。
神火だと理解したリリーはどうとも思っていないようだが、湊は見ているだけで熱いので何となく隣に座り直せなかった。人は痛いと思っただけで痛みを感じるし、死ぬと思っただけで死ぬので湊がこれに触れれば火傷しそうだ。
「……これです」
リリーは鞄を開けて中から御朱印と心願成就の護符を取り出した。
それはどちらも凄まじい火を上げていて、二つの紙からはどんどん文字が消えていった。
「神社で貰った神札が……」
「湊様、これは何と書かれているのですか?」
「心願成就だよ。神様への願いが叶うって言う護符。まさか本当に力があるなんて――。いや、リリ、神社に行った日、こっちに渡る手伝いを願ったって言ったけど……」
「願いました。湊様が魔法を使えるようになって、私も転移の魔法陣を完成させて……こちらへ帰れるように……」
「……だから今……そう言うことか」
「そうですね……。私は魔法陣を完成させて、こちらに帰ってきました。――そして、湊様が十分に魔法陣を書けるだけの力をお持ちになったところで、焼失したのでしょう」
「……信じられん。俺は確かに君を神社に連れて行ったし、何かの助けになるんじゃないかとは思った。だけど……そんな……まさか……今時の神社で買える神札にそんな……」
「湊様、湊様はお腹が痛いのを神様が治してくれないとよく言ってましたが、神は本当に困った時にだけ、ほんの少し手を貸してくれるものです」
「……本当だね。俺、なんか……あぁ……お賽銭死ぬほど入れれば良かった……。万札とか、銀行の通帳とか……」
リリーの差し出す、もはや何も書かれていない御朱印のあった紙と、心願成就の札を受け取り、湊はそれをじっと見つめた。
「……神様……本当にごめんなさい……。俺ずっと疑ってた……。神様なんかいないって……。腹痛治してって一生に一回のお願いをしょっちゅうしてすみませんでした……」
「湊様のお願いはちょっと馬鹿げてます」
「……何も言えねぇ。あ、この二つが消失したってことはお守りも?」
リリーは鞄につけている青い交通安全のお守りと、金色の厄除けのお守りを二つ外した。
「字は残ってるみたいです。焼失してないのかも」
「いや……お守りは中身に効果がある――はず。だから、開けて中のものがなくなってるかどうか確かめないと分からないな……」
「これ、開けちゃいけないんですよね?やめておきましょう。中を確認するために開けることで術式に不具合が出れば、こちらにいる以上、力塊誤作動を起こすかもしれません」
「そうだね……」
「湊様、こちらはお渡ししておきます。あちらへ帰る時の助けになるかもしれません。あの日の洗礼の指輪のように」
「ありがとう……。厄除けはリリが持ってても良いんだよ」
「いえ、こちらもお持ちください。これはあちらの力が込められた大切な呪具です。私はここにいればここの神々の祝福を受けられますから」
買ってあげたお守り二つを差し出され、湊はそれに一度手を合わせてから受け取った。
「ありがと。ごめんね、あげたもん返してもらったりして」
「とんでもないです。物はあるべきところにあるべきなんですから」
「はは、難しい言葉だね」
二人が笑っていると、扉が激しく何度も叩かれた。
部屋の向こうの扉から『イズアルド!!開けろ!!』とレオの声がした。
「ちょっとごめん、今のは流石に派手すぎたな」
湊は急いで扉へ向かい、鍵を開けた。
「レオ、ごめ――」
「イズアルド!?また誤発か!?無事なのか!?」
鍵を開けた瞬間、扉をもぎ取る様に開けられ、レオが部屋の中に顔を突っ込んだ。
レオと初めて並んで立ったが、レオの背は湊よりずっと大きかった。こうして見ると何故かお兄さんなのだなと実感した。
「ぶ、無事だよ。誤発じゃなくて、なんていうか……光路線が出過ぎたみたい」
「はぁ!?何言ってんだ!?いや、公認魔術師だとあんのか!?」
「……多分、あるんだよ。インクもいっぱい出たりするでしょ」
「全く納得行かん。でもお前、ヤージャ様にしばらくは魔法使うなって言われてんだから少しは自重しろ」
「そうだね。うんうん。その通り。レオの言う通りだよ」
「……お前、研究はやめられないとか言わないのか?」
レオの問いに、今のは平文らしくなかったかと湊は言葉を選んだ。
「いや、一回ペネオラさんも巻き込んでるからね。慎重にやらないと」
「……そうか。それでお前はちょっとやさぐれたわけだな」
「……うるさい。俺は別にやさぐれでなんかいない」
「やさぐれてんじゃねぇか!」
「やさぐれてない!!」
「いつもみたいにお上品ぶらなくて良いのか!?」
「上品ぶってんじゃなくて本当に上品だったんだよ!」
湊は祖父の悪口を前に、また口を滑らせた。すぐにお口にチャックをした。
「……イズアルド、お前自分で言って恥ずかしくないの?」
「……うるさいわい。じゃ、そう言うことだから」
「お前が勝手に魔法使ったってヤージャ様に言っておくからな。次はバウマン様にもチクる。覚えとけ」
「バウマン様ね。バウマン様。怖いなぁ」
知らない人だが怖い存在と言う雰囲気なので適当に合わせて湊が頷くと、レオは目玉が溢れそうなほどに目を見開き――湊を担ぎ上げた。
「――っうわ!?お、おい!レオ!降ろせよ!!」
「ヤバい。今すぐバウマン様呼んでやるからお前は寝て待ってろ」
「なんだよ!?そんなに俺が怒られるところ見たいのか!!」
じたばたしているとベッドに放り投げられ、こういうのは女がされるもんじゃないのかと湊は尻をさすった。
「いつつ……。なんちゅー真似を……。魔術師は体育会系しかいないのかよ……」
「リリーちゃん。こいつ、バウマン様のこと忘れてる。今から呼んでくるから大人しくしてるように見張っててくれ」
「あ、あの、それは――えっと……」
リリーは何かを言おうとするが、うまく言葉にならない様子だった。レオはそんな様子を気にもせずに部屋を出て行ってしまった。
「……俺、何かおかしかったですか?」
「はひぃ……。イッサ・バウマン様はヘイバン様の師です。後輩は皆自らを導く先輩を親のように尊敬しています。イッサ様とずっと呼んでらしたので……多分、ああ言う反応に」
ベッドから足を下ろしながら、湊はそりゃまずいと背に汗を流した。
つまり、レオに"バウマン様"とおうむ返しをしたのが悪かったらしい。
「……どうしたら良い?」
「話を合わせるくらいしか……。私もバウマン様とはそう何度もお会いしたことは無いんです」
二人の顔には困ったと書き込まれていた。
無為な時間を過ごしていると、廊下の外が騒がしくなり――
「イズアルド!バウマン様呼んできたぞ!!あとヤージャ様も来てくれた!!」
レオが二人も連れて部屋に入ってきた。
湊はドヤドヤと入ってくるレオ達がここにたどり着く前に軽く身なりを確認した。
「――イズアルド、誤発で記憶がごっそり削られたそうだね」
そう言ったのは深い茶髪をライオンのように伸ばした五十代くらいの男だった。顎と口に無精髭が生えていて、シャツの胸元はこの寒いのに大きく開いていた。頬には大きな傷痕。
優しく理知的な口調に反して、その見た目は傭兵か狂犬のような印象だった。
「……イッサ様。俺、覚えていないことが多すぎて――」
そこまで言い、湊は言葉を切ってイッサを見つめた。
湊はこの人をたしかに知っている。
――平文の書いたイサミの話に出てきた人だ。
日本から迷い込んだイサミに手を貸し、日本に帰りたいと言うイサミを魔術省に引き入れ一人前に育てた人。魔法を覚えたイサミはイッサと一時的に分かれ、バラミス共和国を出てこの世界中を旅して帰る方法を探す。
平文は言っていた。イサミは帰る方法を見つけられず、最後にはあちらでの暮らしに身を落ち着ける覚悟をし、魔術省に戻りイッサと共に働いて沢山の後輩を持つのだと。その日々の中で、研究室で書いていた魔法陣がいきなり発動して、イサミは強制的に日本へ戻されてしまい全ての冒険は夢と消えると。だが、この最終話は編集に反対され、世には出回らなかった。
「どうした?言葉も忘れたなんて言わないだろう?」
「……イッサ様、あなたは毎朝お茶を飲む時に必ずキセルをお吸いになる……。研究室でその姿に憧れて吸ってみようと思ったけど……あんまりにもキツい匂いに咽せるんだ……。あなたは泣くほど笑って……小僧の吸うものじゃないなんて格好付けるけど……自分だって中身は小僧だって……」平文が書いていた。
そうだ。イッサはイサミに言うのだ。私達の名前は似ているじゃないか、まるで親子のようだ、と。
それは祖父が横溝先生に貰った勇という名前をすんなりと受け入れた事の気持ちを謳うようなものではないかと湊は思った。
リリーは目を丸くして湊を見ていた。
「懐かしい話だね。まだ十七だった君にキセルは早すぎた。君はあれに懲りて二度とキセルを吸おうとはしなかったな。覚えているよ」
イッサは優しい瞳で湊の両頬に触れ、湊は知らないはずが知っているその人を見上げた。
「髪の色や造形が少し変わってしまったようだが……力塊誤作動に巻き込まれたか?だが、相変わらず黒曜石みたいに綺麗な瞳だね」
イッサがそう微笑んだ瞬間――湊は両頬をぐにっと横に伸ばされた。
「イッ!?」
「だが私は小僧なんかじゃなかったぞ!小童のくせに!そんな事を思っていたのか!!」
「い、ててて!や、やめ!やめてくらさいよ!!」
「私なりの愛だ!ありがたく受け取れ!」
パチンっと手を離され、湊は引っ張られて痛む頬をさすった。
リリーが心配そうに見上げてくるのに苦笑で返していると、イッサから握手を求めるように手が伸ばされた。
「よく戻ったな」
湊は頬をさするのをやめると、祖父が戻らないことを申し訳なく思いながら、その手を取った。
「いや……俺……ありがとうございます」
「お前なら当然戻れると思って――ん……?」
何かを確認するようにイッサは湊を見つめ、ちらりとリリーを見た。
「リリ、リリはずっとイズアルドといたのかい?」
「あ、あの……。はぐれたりも……しました」
「そうか。イズアルド、少し来なさい」
湊は握り返した手をそのまま引っ張られて庭に出た。日はかなり高くなって気温も上がっているがまだ寒い。
「イ、イッサ様?」
庭の一番端まで来ると、イッサは湊の手を離した。
「君はイズアルドの双子か何かか?その瞳は確かにイズアルドのものだが」
目を至近で指さされる恐怖で反射的に一歩後ずさる。
湊は何と説明するべきかと悩んだが、平文が親のように慕っていたと言うイッサを信じるしかなかった。
「俺はあなた達がイズアルドと呼んだ人の孫です。祖父は別の世界まで飛ばされて、戻れなかった。でも、あなたやリリの事は忘れなかったし、俺に色々教えてくれた……」
イッサは黙ってじっと湊を見つめた。
「嘘じゃ……ないんです。それに、平文が狂ったわけでもない……」
「……君はリリと時を越えたのか?」
「違います。世界同士に時間の繋がりはないし、時間は場所や重力で簡単に変わってしまう不確かなものです。もしかしたら概念に過ぎないかもしれない程に。俺たちは今から今へ来ただけなんです」
「時間が不確か……?そんな話は初めて聞いたな……」
イッサは口に手を当てて何かを考え始めたが、ヤージャが庭に出て来ようとするとそれを手で押し留めた。
「エライヤ、部屋で待っていてくれ」
「分かりました」
パタリと扉が閉まるとイッサは考えるようだった腕を下ろした。
「時についての答えは私にはすぐには出せそうにないが、よくやったとは言えそうだ。リリをよく無事に連れて帰ってくれた」
「……本当に信じてます?」
「信じているとも。私はイズアルドの先達だよ。君はイズアルドから私をどんな風に聞いてきたんだ?」
「何でもできる、ものすごい魔術師だって書いて――いや、聞きました」
「嘘じゃないだろうなぁ」
「本当ですよ。俺、やっと祖父の話に出てくる人にこっちで会えた……。なんか、妙に安心しました。知らないのに、知ってるみたいなおかしな感覚です」
「私も今の状況を奇妙に感じるよ。あぁ。君が私を知っているとは言え、まだ名乗っていなかったな。私はイッサ・バウマン。影響を与える者の意味だ。よろしく」
大きな手を伸ばされ、湊はそれを握り返した。
「俺の名前は湊です。旅立ちの水門」
「湊か。名乗ってもらって悪いが、私は多くの場合湊をイズアルドと呼ぶことになる。そうしなければ湊は狂人のレッテルと共に魔術省から放り出されて路頭に迷うか、イズアルドの親の所で穀潰しになるしかない。そうだろう?」
察しが早すぎて、ここに来た時に誰も湊が平文ではないと信じてくれなかったのが嘘のようだった。今となっては信じられなくて良かったのだが。
「ありがとうございます。祖父の名前で呼んでいただいて結構です。すごく助かります」
「良し。ところで、一応聞いておこうと思うんだが……湊は元いた世界に帰る予定はあるのか?」
「ある……と言えないくらいです。帰りたいとは思ってるんですけど……人間を使わないと難しそうなんです。だから、正直どうかな……。人を殺してまで帰るなんて……俺にはできない」
「……生体一式魔法陣が必要なのか。ではリリとこちらに来る時に湊は禁忌に触れたか」
「誰も殺しちゃいません。俺自身が祖父の作った魔法陣の一部だったから」
イッサの顔は一気に怪訝そうに歪んだ。
「何を言ってるんだ?イズアルドはそんな真似をする男じゃない。私が育てたんだ。それに君がそうだとしたら発動していないじゃないか」
「俺の世界の魔法陣は焼失しないんです。代わりに自分で焼かなきゃいけない。それに、向こうは魔法陣なんか書かなくても願いを捧げるだけで形になる事もあるんです。祖父は思いがけずに俺をそうした。でも、こっちの魔法陣と同時に使う事で焼けることを恐れてくれた……」
「……信じられないな。そんな話が現実にあるのか……。だが、真実だとすればイズアルドにその魔法陣を使えるはずがない……。だから戻れなかったのか……」
「そう思ってたって、確実には言えないんですけどね。他界した後に全てが始まったんです」
「そうだったか……。イズアルドの事は残念――いや、湊を育てたんだから、残念がる必要はないのかもしれないな。良いものを残す者の一生は良いものに決まっているのだから」
「……ありがとうございます」
だが、ふぅ――と息を吐いたイッサはとても残念そうだった。曽祖父母もイッサも言葉では納得したように言うが、諦め切れないように遠い目をする。
帰ってきて欲しかったと言ってしまうことが、湊が平文と重ねた時間や、湊という存在が生まれることを根本から否定する事だと理解しているのだろう。
あちらへ行った祖父も辛かっただろうが、残される者達も辛いのは当然の話なのだから。
「……一服したいな」
「あ、吸ってください」
「じゃあ、これを吸ったら戻ろうか」
イッサは道具鞄からキセルと刻み煙草の入れられた箱を取り出し、刻み煙草をキセルの火皿に入れるとそれを湊に差し出した。
湊は吸わせてくれようとしているのかと一瞬思ったが、吸い口は彼の方に向いている。
「何ですか?」
「ん?頼むよ」
「頼む……?」
「……孫お。一回しか言わないからな。火、付けて?」
キセルをくぃくぃと数度振られるが、マッチもライターも持ち合わせはない。やはり魔術師は体育会系だ。
「いや……すみません。俺、火種持ってないんです」
イッサの口がぱかりと開く。
「……湊、お前、魔法は……?」
「使えないんです。リリをこっちに連れ帰るために世界に穴を開けためちゃくちゃな奴しか使った事ないし……。正直あれも自分で使ったって自覚ないし……」
「そんなとんでもない魔法陣を書けて火が起こせない訳がないだろう。やってみなさい。早く」
イッサはン、と年季の入った付けペンを差し出し、無理矢理湊の手に握らせた。
「や、やって見てって言われても……こっちの字書けないし……」
「字なんかどれだって構わない。あっちで書いていた文字を書けばいいじゃないか」
「でも俺、一回魔法使おうかと思って書いてみたらめちゃくちゃな力塊誤作動起こして……」
「それは間違った考えだったのか、理解が足りていないから起きたことだ」
間違った考え――。向こうと神が違えば仏の教えを書いてもダメなのだろう。
「仕方がないから、子供向けの授業をしてやる。まず最初に考えなさい。火はどうすれば生むことができる?」
「……物同士を擦る摩擦、鉄を石で打つ、レンズで太陽光を集める、電気でスパークを起こす……。あとは……エンジンの点火に使う圧縮加熱?」
イッサはほーう、と声を漏らした。
「電気を出してくるとは思わなかったよ。最後のは私も知らない言葉だったな。せっかくだから最後の方法で行こう。その方法で火を起こすのに必要だと思われるお前の文字と、門の形はなんだ?」
「……自分の言葉でいいんですよね?」
「それで良い。今じゃ皆先達に陣形を教えられて覚えて真似てなんてやっているが、私がまだ見習いだった頃は皆自由に魔法陣を書いていたもんだよ。ま、自由にやりすぎてたせいで力塊誤作動が多くて危なかったからな。知識を身につければ確実に使える魔法陣を覚える方が効率が良いって言うんで、今じゃ皆判明している魔法は人の真似ばっかりだ。だが、魔法陣に本当は決まりなんかない。知識を形にさえ出来ればそれで良い」
これが祖父の師かと、何となく見直した。
湊は書いてみるかとペンを立てたが、可燃物もないのに本当にできるのかと思った。
悩んでいると、イッサが思いついたように紙を差し出した。
「――紙使うか?」
「あ、いえ。多分……宙に書けます。力塊誤作動起こしたらすみません」
「良いよ。火の魔法陣なら大したことにはならんだろうし、最悪私が吹き飛ばす」
「はは、すごいな。その時はお願いしますよ」
湊は宙にペンを走らせた。
するすると残る光の軌跡は美しく、いつまでも見ていたかった。
「うんと……冷媒……いや、気体の分子の圧縮……。着火に必要なガソリン……。ガソリンって何でできてんだ?あ、昔のプランクトンか……。え?じゃあ原油の生成もいるのか……?」
数式と漢字を合わせて書き上げていく。相変わらず格好のつかない物だが、昨日の夜多少魔法陣の勉強をした為、これまでよりも良い見た目をしている気がした。
だが、発動する気がしない。
取り敢えず全てを書き終わり、湊は分子を圧縮する範囲を決めるように、書いた物をぐるりと円で囲んだ。
円の縁が触れ合い閉じられるとじわりと神火が上がり――
次の瞬間、ドンっと激しい衝撃が二人を襲った。
「――ッな!?」
「っうわ!!」
湊とイッサの視界は一気に周り、背中を地面に叩き付けられる。空が青い事を確認するよりも早く二人は起き上がった。
湊が書いためちゃくちゃな魔法陣はボンっ!ボンっ!と何度も音を立てて衝撃と炎を吐き出していた。
新鮮な空気を取り込み、閉じ込めた空気を圧縮して発火する連続はディーゼルエンジンを透明にしたような光景だった。窓ガラスがそのたびにガタガタと揺れる。
一々派手に燃え上がるせいで、二人はあまりの熱を前に腕を当てた。着火を目的に書いた為か、火は一々消えては再燃する。
「うわぁ……エネルギー保存の法則を完全無視してる……」そう呟く湊の頭上に再びの強い衝撃と痛みが走った。「――イッてぇ!?」
見上げると、鉄拳を握りしめたイッサが良い笑顔を作っていた。
「湊、確かにあれを書けと言ったのは私だけどね。限度ってものがあるだろう?」
「あ、いや……初めてまともな魔法使ったからあんなになるなんて知らなくて……」
「知らなくて魔法陣が書けるか!!君はあれの威力を知ってるはずだろう!!」
湊は尚も爆発を繰り返す透明エンジンをもう一度眺め、僅かな間の後に頷いた。
「はは、確かに解ってたかも。すみません」
「はは、確かに解ってたかも。じゃないだろう!!君はあんなもんを不用意に書いて自分の腕が吹き飛んだらどうする!!私ももしあれに顔を近づけて火を着けようとしてたら顔がなくなってたわ!!」
「た、確かに。すみません」
「……はぁ。イズアルド。君の孫はとんでもないよ……」
イッサは遠い目をした後に透明エンジンを眺め、あれで火を付けることを諦めた。
仕方がなく自分で火を付けてキセルに点火した。
「湊。私は今日の夜イズアルドの顔を見て明日には戦地に戻るつもりだったが、諸事情から戦地に戻るのは少し先にする」
「戦地……?イッサ様、戦争行ってたんですか?」
「知らなかったか?私は今は前線送りを食らっている。危ない魔法陣を書ける魔術師は魔法戦争に駆り出されるのさ。だから、湊のあれを私に教えてくれないか?あんなものは初めて見た」
あれと指差されるのはもちろん透明エンジンだ。相変わらず一定のリズムで猛烈な熱を放っていた。
「いや、俺何にも教えられないですよ。逆に俺に魔法を教えてください」
「君の知る異界の魔法を教えてもらう交換条件だと言うなら、私も君に魔法を教える手間を甘んじて受け入れようかな」
癖のある香りの煙がフッと顔にかかり、湊はそれを払った。
「分かりました……。でも、大した事話せないですからね」
「ふふ、良いよ。おじさん嬉しいなぁ〜!」
イッサが楽しげに笑い、湊は透明エンジンへ視線を逸らした。
透明エンジンの魔法陣は神火に焼かれて消え、繰り返されていた爆発も消えた。
「――さて、煙草もおしまいだ。部屋に戻ろう」
「はい」
振り返った部屋の中には目を丸くするヤージャとレオと、憧れるような瞳をするリリーがいた。
それから、いつから来ていたのかマキナとイシュワもいて、マキナは何かを一生懸命メモしていた。
ちゅよい!!(IQ3