#18 リリーの家族
「お分かりになりました?」
共同風呂の前で落ち合ったリリーに湊は頷いた。ここは独身男性寮だそうだが、家族が来た時のために小さいながら女性用の風呂もあるそうだ。
湊もリリーもパジャマではなく着ていた服に身を包んでいた。
「なんとか。お湯の温度設定とかないんですね」
「全部いっぺんに地下の魔法陣で温めてるんで、浴室では一定のお湯しか出ないんです。向こうは色んな温度にできてすごかったですよね!」
「ふーむ……。水と混ぜれば良いだけの話だけど……水道工事の免許取っとくべきだったか。そしたらリフォームできたのになぁ」
部屋に戻り、リリーが囲炉裏暖炉に火を入れ直し、光量が落ちてきている熱反応式のライトにも火を入れた。
「じゃあ、湊様。基本的な文字の書き方を少しやりましょう」
「……そうすね。今更新しい文字なんて覚えられるのかな……」
「できますよ!だって、ヘイバン様はあちらへ行かれて学ばれたんですから!」
「祖父ちゃんとは力量が違うような……」
「そんな事ありませんよ。湊様も尊敬できる素晴らしいお方ですもん!」
そんな言い方をされると弱い。湊は「ありがとね」と、少し疲れ混じりに答えた。
「じゃあ、お教えしますね」
いつもの紙を取り出し、リリーが基本的な字を書き始めてくれると――またしても扉がコンコンコン、と叩かれた。
二人は目を見合わせ、湊は扉へ向かった。
極力祖父を意識し、髪を後ろに送って端正に見えるようにしてから扉を開けた。
「はい」
「ヘイバン様!リリーは、リリーはこちらに!?」
切羽詰まった声音と表情に、扉の前に立っていた二人が何者なのか湊は理解した。
「いますよ。入ってください、ペネオラさん」
「ありがとうございます!失礼します!――リリー!!」
「リリー!!無事だったのね!!」
「お、お父さん、お母さん?」
父母は真っ直ぐリリーに向かい、リリーを抱きしめた。
「リリー、本当に良かった……!本当に……本当に……!」
「心配ばっかりかけて……!ずっと探してたのよ……!」
母親はぽろぽろと涙を落としていて、父親も涙ぐんでいる。
この人達の下へリリーを返す為に必死になったのだなと感慨深い気持ちになる。必死になりすぎてこんな事になっているが。
「お父さんもお母さんもどうしてヘイバン様の寮に?」
「あなたの部屋に行っても誰もいなくって……。一緒にあなたを探してくれていた安全管理委員のマクモンド様にどこか知らないか聞いたの……。それで間違いなくヘイバン様の下にいるって……」
「わ、そうだったんですね……。ごめんなさい。今は――ヘイバン様もまだ意識の混濁や目眩があるから……お側にいようと思って……」
「良いのよ。それも聞いたわ」
「ヘイバン様、掛けてください!さぁ、我々は結構ですから!」
父親にソファを勧められるが、湊はゆっくり首を振った。
「いえ、僕は庭に用事がありますから」
「そ、そうですか……?」
「湊様……?」
「ゆっくり過ごして良いんだよ」
湊はリリーの肩をぽんぽんと軽く叩くと、ロッキングチェアに掛けてある膝掛けと、壁に掛けてあるローブを手に外に出た。
寒い風が入らないようにきちんと扉を閉め、ローブを着込んで膝掛けを肩に乗せる。
ほぅ……と吐いた息は白く、この場所の気温の低さを湊に知らせた。
冷たいガーデンチェアに座り、向こうでは見たこともない満天の星空を見上げた。
どこかの部屋から談笑する声が漏れてくる。平文の部屋からリリーが会いたかったと泣きながら言う声がする。
帰る時辛そうな顔をしていたが、やはり彼女の居場所はここにある。
湊は自分のやった事をあまりうじうじ悩んでも仕方がないなと笑い、あちらで同じ星空を見上げる家族を想った。
(いつか帰るよ……。十年だ……。十年以内に必ず)
いつか帰ることができれば、母たちが心配して胸を痛める未来は確定しないはずだ。湊の肩には湊と家族の未来が乗っている。
だが、帰る時には本当にリリーとの別れが来る。ここで平文を愛してくれる全ての人とも別れる事になる。
それで良いのだ。湊は平文の幻に過ぎない。
湊は本当に綺麗な星空だと思った。
「――湊様、すみません。お戻りください」
扉が開く音とともにリリーの声がする。
「もっとゆっくり過ごしたって良いんだよ?」
「いえ、ありがとうございました。寒いでしょうから、お入り下さい」
扉を開けて待ってくれているので、湊は部屋に戻った。リリーの両親は部屋の中で微笑んでいた。
「ヘイバン様、お気遣いいただきありがとうございました」
「いえいえ、無事に帰せて良かったなと今はそれだけです」
「誤発した転移先からお戻りになるのはそれはそれは大変なことだと安全管理委員のマクモンド様に伺いました……」
「ほどほどに。苦労はしましたが、それだけの甲斐があったと思います。お父さんとお母さんの顔を見て心底そう思いました」
「ああ……。リリー、ヘイバン様に感謝するんだよ……」
「はい、み――ヘイバン様……。本当にありがとうございます。あなたの魔法陣が無ければ私の帰還は叶いませんでした。本当にありがとうございました……」
「僕の方こそ君には助けられてばかりだよ。ありがとう」
「ヘイバン様……」
「さて、そろそろ帰ろうか。リリーもあまり長くお邪魔しては悪いだろう」
父親が促す。確かにリリーは自分の家があるのだから一度帰るべきだろう。勉強はまた明日でも良いはずだ。送って行けば湊が帰ってこられない可能性があるので、親と帰れる時に帰ってもらうのが一番だろう。
「ペネオラさん。また明日。気を付けて帰って下さいね」
湊が膝掛けとローブを肩から下ろすと、リリーは首を振った。
「今日はこちらにお泊まりします」
「リリー?」
「この方はあちらに行った時、不安だった私を片時も一人にしないでいてくれました。だから、私もそうします」
「それは本当に有難いことだけど……帰って来られたんだからあまり長居してはむしろお邪魔だろうに。ほら、行くよ。早くローブを着て」
「……帰れないんです。だから、帰りません」
リリーは湊が帰れないから帰らないと言っているのだろうが、父親にそんな事が分かるはずもなく呆れ返っていた。
「バカを言って。すみません、ヘイバン様。お疲れだと言うのに」
リリーは悩むように口元に手を当て、そうだと閃いたような顔をした。
「違うんです。ヘイバン様はまだ目眩や意識の混濁があるから、お側にいてお助けしないといけないんです。今のヘイバン様は火も起こせないんですから」
「火も……?」
祖父の小説曰く火は十二歳で起こせる基本の魔法だ。
「……はは、それはそうなんですよね。戻ってきた時に頭を打ったみたいで。居てもらえると助かりはするんですけど」
「……大変だ。では、私が一晩側におりましょうか?」
父親としては当然の反応だった。だが、それだけはやめて欲しい。
「いえ……大丈夫です」
「むしろご迷惑です。お父さんは帰ってください」
「お前もご迷惑だろう……」
「迷惑じゃないようにします。なんと言われてもリリはここに泊まります」
参ったと父親の顔には書いてあった。若干の湊への不信も覗ける。
一方母親の顔には笑顔が浮かんでいた。
「良いじゃありませんか。リリーの思うようにやらせれば」
「……しかしだな」
「しかしもカカシもありません。皆いつかは大人になるんです」
「そうです。リリはもうとっくに大人です。十八ですよ?お父さん、娘離れして下さい。それに、それに私は十年以内に旅に出るんですから、その練習です」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げたのは湊だった。十年と言うのは湊があちらに帰る予定のリミット。
リリーは真っ直ぐに湊を見つめた。
「あなたがお出になる時、私もご一緒します」
「い、いや。せっかく帰れたのに……やめておきな?あんまり今の感情を間に受けない方がいいよ。責任感とか罪悪感で今はそう思うかもしれないけど……あっちに行ったらまた帰りたくなるだろうし、何度もうまく行くとは限らないんだよ?」
今回のは神様がたまたま奇跡を起こしただけかもしれないのに。
「失礼、ヘイバン様はどちらかへ旅に?」
「えぇ……。行くつもりではいますが、そうできるかはまだ分からないですから、今はただの絵空事です」
「必ず絵空事じゃなくします!私はこの方のそばに居ます!さぁ、お父さんはもう帰ってください!」
「り、りりぃ……」
「早く!ご迷惑です!!」
リリーが父親の背を押し始めると、母親は楽しげに笑い、一度湊に頭を下げた。
「一晩お世話になります。言い出すと聞かないんですよね」
「はは、それはちょっと分かります。少し頑固ですね。だけど、それがリリのいい所なのかな」
リリーはパッと振り向き、湊に笑った。
「はい!リリの良いところです!」
「ほら、こんなにリリーの良い顔を見てうだうだ言うなんてみっともないですよ。あなた、行きましょう」
「し、しかしだなぁ……」
「お早く」
父親は渋々玄関へ向かった。
「……リリー、お前はソファで寝なさい」
「当然です。よくヘイバン様と研究室に泊まってたんですからソファで寝るのには慣れてますし、ご迷惑はお掛けしません」
「はぁ……ヘイバン様、よろしくお願いします」
男として、何となく釘を刺されたような気がした。
「は、はは。任せてください」
「私の可愛いリリー?帰る前に一度抱きしめさせて」
母親が腕を広げるとリリーはその中に入り、二人はそっと抱き合った。
「頑張ってね。あなたのやりたい事をやり遂げて」
「頑張ります!お母さん、ありがとうございます」
母親と離れると、リリーは一応父親とも抱き合った。
「はぁ……頑固者が」
「――それがリリの良いところだと、ヘイバン様も湊様も仰って下さいます」
「みなと?」
「さ、お帰りください!お父さん、お母さん。おやすみなさい」
「ヘイバン様、くれぐれもよろしく頼みます。それでは」
「失礼いたします」
両親が帰って行くと、リリーはふんすと鼻息を吹いた。
「では湊様、字の勉強をしましょう!」
「詰め込みはやめましょうね……?」
「もちろんです!」
リリーは勇足で平文の机に立ち寄り、羽ペンを二本とインク壺を回収し、ソファへ向かった。
「では、まずは基本の字から行きますよ!」
「はぁーい……」
リリーが羽ペンであれこれと低いテーブルに色々書いていく。
若干の不安感は否めないが、言葉は言わば日本語のままで良いので難易度は下がる。湊の感覚では漢字をそのまま別の文字に置き換えればいい様なものだ。文字と言葉をセットでゼロから学ぶよりは楽だろう。
「まず、こちらの文字列。何だと思います?」
習ってもいないのにその質問は辛い。湊は目の前の謎の文字をジッと見つめた。
「……リリー・ペネオラ?」
「惜しいです!答えはイズアルド・ヘイバン、です!」
「うわー、そうか。ちょっと文字数少なめなのに」
「ちなみに、リリー・ペネオラはこう書きます」
リリーがさらさらと文字を書き連ね、湊はそれを覗き込んだ。
「ペネオラさんの字の方が多いんだ……。まぁ漆沢湊も音に反して短いもんなぁ」
「湊様のお名前も書いてください!」
「俺の?使い道はないと思うけど」
「私もまたニホンに行くのですから、覚えておいた方が良いに決まってます!」
「……今はそう思うかもしれないけどさ」
人の気持ちなんかいつ変わるかわからない。あまり真に受けないように気を付けようと思いながら、湊も名前を書いた。
「わ、たった三文字ですか?」
「そう。これは漆。漆器を塗る樹液を出す木のことだよ。あ、漆器ってこっちにもあります?耐水性を上げる奴」
「あります!エルフのタリアリル王国の特産品です!」
「……それって耳尖ってる人達?」
「そうです!エルフは流石にあちらもいましたよね?」
「いません。あの尖った耳ってやっぱりダーウィン結節が折り畳まれなかった進化の形なのかな」
「……湊様?また難しい事を仰ってます」
「難しくないよ。耳の上に小さい突起あるでしょ。いや、ない人もいるんだけどね」
「耳ですか?」
リリーが耳の側面に触れると、湊は「これだよ」と言いながら外耳上部の少し内側に折れているところに触れた。
「うん、ペネオラさんもダーウィン結節あるね」
「っはゎ……み、みなとさまぁ」
顔を赤くして耐えるように震えるリリーに湊は瞬いた。
「ど、どした?」
「くしゅぐったいですよぅ」
ふるふると小動物のように堪えている。湊はドンッと胸の中を何か衝撃が走ると耳を揉んでいた手をパッと離した。くすぐったくもないのに顔が赤くなりそうだった。
「あ、ご、ごめんごめん。そうだね」
「これが何だって言うんですかぁ」
リリーはムゥ……と頬を膨らませ、自らの耳を引っ張りながら回してくすぐったさを分散させることに努めた。
「あーと、猿の耳って大きいでしょ?あれって人の耳より少し尖ってるんだよ。多分、エルフって人種は目よりも耳に頼るような場所に住んでたから、猿から進化する時に耳を短くしなかったんじゃないかなーって」
「湊様ぁ、湊様もさっきシルキーを元に人が生み出されたって納得してくださったのにまたお猿さんですかぁ」
そう言うリリーの顔はどこか呆れ混じりだ。
湊はシルキーは進化する前の人類かも知れないと言うのは思ったが、創造論を支持した覚えはなかった。
(……ガリレオ・ガリレイはこんな気持ちだったのか)
小市民があれ程偉大な人物のことを分かったように言うのは滑稽だが、「それでも生き物は進化の産物だ」と叫びたかった。
だが、証明もできないので湊はしばらく進化論は口にする事はやめておこうと思った。
少なくとも宇宙は何某かの神によって生み出されたらしいし、宗教戦争は望むところではない。
「湊様、次の字も教えて下さい」
湊は一度科学文明を捨てるように首を左右にプルプルと振った。
「はい。漆沢のこの字は沢です。流れる川の沢です」
「ウルシザワ……漆沢さん。流れる川を溜める器ですね!湊は水門。湊様のお名前は全部水に関係してます!」
「ん?本当だね。知らなかったな」
「知らなかったんですか?すっごく神聖なお名前です」
「はは、そんなこと初めて言われた。そっか、こっちは水は神様だけの力なんだもんね」
「はひ!」
リリーが嬉しそうに笑う様子を眺めながら、湊は祖父の水の魔法陣かもしれないものを思い出した。
「――そういや、祖父ちゃんの魔法陣。あれってどうなりました?」
「あ、勝手に発動してませんね。確認して見ましょうか」
リリーがウエストバッグから畳まれた紙を大量に取り出す。その手つきは中の魔法陣に触れないように気を付けていた。
「こっちがニホン文字の魔法陣です。魔法陣に触れないようにして下さいね。意味を分からずに触れるとまた力塊誤作動起こしますから」
「はーい」湊はじっと魔法陣達を見下ろした。「――ふーむ、これが一番分かりやすいかもな」
同じに見える魔法陣を並べればその語に相当する文字がもう片方に書かれているので、字の練習になった。
「こりゃいっぺんに魔法陣も字も覚えられそうだ」
「本当ですね!」
湊は日本語の魔法陣を見ながらこちらの文字を書き、リリーはこちらの魔法陣を見ながら日本語を書いた。
何となく魔法陣を書く時の法則性を掴み、いくつかの字を覚えると、後は平文の書いた名前の上に紙を置いてそれをなぞって練習した。金庫破りを企む泥棒の気分だった。
二人で徹底的に文字を書き――いつしかリリーの肩に頭を預けて眠った。
明日は絶対魔法使うぞ!絶対使うんだからなあ!!