#17 曽祖父
太陽が姿を隠した部屋の中は薄暗く、廊下に続く扉までうまく見えなかった。
しかし、声は明確に聞こえた。
「――リリーちゃん。いつもイズアルドがお世話になってます」
「――イズアルドは庭かな?本当に少しは休めば良いものを。リリーちゃんにまた世話を焼かせて」
「いえ。お父様、お母様、私こそヘイバン様には……本当にお世話になって……」
「あら?あらら?どうしちゃったの?」
「っうぅ……申し訳ありません……。申し訳ありませんでした……。ヘイバン様の大切な……大切な湊様を……私はッ……」
「おい!イズアルド、そんな所に立ってないで入ってきたらどうだ!リリーちゃんが泣いちゃってるだろう!!」
顔の見えない人が湊を手招く。
湊は覚悟を決めると道具鞄を手に庭から部屋の中に入った。
近くまで来れば見える。曽祖父の顔は――平文に良く似ていた。
「お、お祖父ちゃん……」
「お祖父ちゃん……?ん……?君は……」
優しげだった視線は困惑に彩られていった。
「――君は……誰だ……?」
「お父さん?何言ってるんですか。イズアルド、灯りを付けてちょうだい」
湊は付け方が分からない。
「わ、私が……私がやります……」
「まぁ……リリーちゃん……そしたら、おばさんがやるわ」
「いえ……やらせて頂きます」
リリーは目元を拭ってから紙を道具鞄から取り出し、ごく簡単な魔法陣を書く。短い文章をくるりと囲むだけのものだ。それをソファの前の囲炉裏暖炉の中に放ると、魔法陣からは火が上がった。
それは明確な温もりがあるので、神火ではなさそうだ。
脇に置かれた薪を何本か焚べ、壁にかけてある丸い球を取った。中に火種を入れると、球は火種の大きさ以上の明かりを漏らした。
熱に反応して光が生み出される仕組みのライトのようだ。
まるで電気を付けたように明るくなった室内で、曽祖母も困惑するように湊を見つめた。
「……イズアルド……?」
「あの……俺……」
「どなたなの……?」
家族の平文ではないと言う確信の語は強い不安感を呼び起こすと同時に、どこか湊を安心させた。
「お父様、お母様……。このお方はヘイバン様ではありません……」
「リリーちゃん、分かってるわ……。あなた、可哀想に。座って」
曽祖母に手を引かれてソファに座らされると、湊は何と言葉を紡ぐべきなのか必死に頭を回転させた。
「大丈夫よ?怖がらないで」
「お祖母ちゃん、俺……僕は……平文の孫で……ここじゃない地球から来て……それで……戻れる見込みがなくて……生きるためには祖父ちゃんの名前使わないと……僕……」
「一体何を……?どういう事なんだ……?」
父とそう歳の変わらなそうな曽祖父は湊を得心のいかないような顔で見つめた。
リリーは鞄から写真を出して見せた。
「お父様、お母様。ヘイバン様は転移実験の失敗によってこことは全く異なる世界に踏み入れてしまいました。そこで、お帰りになろうとはしていたのですが……あちらにご家族をお持ちになり、あちらで暮らす事を選ばれ、あちらでお亡くなりになりました……。ただ、ずっとお父様とお母様に自分の無事を伝えようと魔法陣の開発は続けてらっしゃいました……」
リリーと家族で撮った写真、湊と桜とリリーで撮った写真、二人で別れの前に撮った写真、老いた平文の写真。
曽祖父に当たる人はそれを手に、何度も全ての写真を見比べた。
湊は蹴り出される事を覚悟した。そして、リリーに写真と遺骨を託した自分の浅はかさに笑えた。
リリーはこれで絶対に信じてもらえると言ってくれたが、リリー一人がそんな事を魔術省や家族に言っても、きっと誰も信じなかっただろう。
顔を両手で包み、これからどうすればと頭を悩ませた。
「……その子の名前はなんて言うんだね?」
「ウルシザワ・湊様です。意味は人々が旅立ち、そして帰ってくる船出の水門。ヘイバン様がお付けになったそうです」
「……イズアルドが……」
「はい。……こちらにヘイバン様のお遺骨もあります……。これは湊様にお父様とお母様へ渡すように言われたものです」
黒い巾着をリリーが曽祖母に渡す。曽祖母はそれを開いて、小さな白いカケラ達を見ると息を飲み、手を震わせた。
「本当はそれを持って私一人がこちらに戻るはずだったのですが……私が湊様のお側にいたいと言ったせいで……湊様は私のために書いた帰り道の魔法陣に共に飲まれてここに……」
曽祖父はリリーと湊を何度も見比べた。湊は顔を押さえて俯くばかりだった。
「……このお話を信じて下さる方は魔術省にはいませんでした。ですが、私はヘイバン様のお父様とお母様なら、必ず信じて下さると確信しています」
深いため息。曽祖父は老いた平文の写真を見つめ、誰に聞かせるでもなく口を開いた。
「……転移の実験なんてやめろと言えば良かった。そんな物が人間にできる訳がない……。親不孝者が……」
「……ですが、転移の魔法陣と誤発があったからこそヘイバン様の愛した湊様が生まれました。それに、ヘイバン様の発明は後世に残ります」
「リリーちゃん……魔法陣が残ったところで倅はもう戻らない……。たった二十五だったのに……」
「……ヘイバン様は二十五で亡くなったわけではありません。幸せにあちらで歳を重ねられたのです。場所は違えど……二度とお会いできなくても……私はヘイバン様の幸せを思うと……それだけで良かったと……思います」
リリーは何度も目元を拭いながら話した。
「……そうだね。それはそうだね……」
「……お父様、お母様。どうか湊様にイズアルド様の御名を名乗る事をお許しください。私のせいでイズアルド様の大切な湊様は世界を渡る事になってしまいました……。湊様はイズアルド様の名を名乗らなければ、身分も国籍もない浮浪の者になります。いえ、皆がイズアルド様が狂ったと指をさすでしょう……」
「……立ちなさい」
それが、自らに掛けられた言葉だと理解すると湊はゆっくりと立ち上がり、また俯いた。
「……湊君。顔を見せて」
顔を隠すように巻きつけたマフラーを外し、湊は曽祖父を見た。
「イズアルドに本当に良く似ている……。君は今いくつなんだね」
「……二十四です。本当に……すみませんでした……。勝手に祖父ちゃんを名乗って……祖父ちゃんもここに帰せなくて……何もかも……」
曽祖父はゆっくりと首を左右に振った。
「イズアルドは良い家族に恵まれて帰る事をやめたんだろう。それを君が気にやむ事はない。バカ息子が勝手にやったことだ。だけど、そんな中でも君がこうしてイズアルドの幸福だった一生を伝えてくれて嬉しいよ……。本当にありがとう……。イズアルドもあながち親不孝者でもないかもしれないな……」
「ひい祖父ちゃん……」
「はは、ひい祖父ちゃんなんてなぁ。早く孫の顔を見たいなんて思ってたのに、こんなに大きくなったひ孫を見られるなんて思いもしなかったよ。参ったな」
笑う曽祖父を前に、湊はどんな顔をすれば良いのか分からなかった。
「湊君、こっちで困ることがあれば言いなさい。君は確かにイズアルドの子らしい……。共に暮らした事はないが、君も私達の家族だよ。立派に大きくなってくれて本当に嬉しく思う」
湊は泣きそうになるとギュッと口を結んで、震える瞳で曽祖父を見た。
「私は君にイズアルドの代わりになってくれとは言わない。だけど、君がここで無事に暮らすためにイズアルドの名前が必要なら使いなさい」
「……どうして信じて受け入れてくれるんですか。初めて会った奴が……行方不明になった息子の名前を使おうとしてるのに……」
曽祖父はうーん、と少し唸った。
「なんというか、血って言うのは不思議な物だね。君を見た時、イズアルドではないと言う事は分かったけれど……他人のような気はしなかったよ。だから、母さん――いや、ひいお祖母さんも湊君をあんなに心配したんだ。イズアルドを心配するようにね」
ソファで涙の跡の残る顔で笑う曽祖母は頷いた。
「湊君。受け入れられるのか不安で怖かったのね。大丈夫よ。私達、あなたの事は息子のように思うもの。ここに来る事は望んだ事じゃなかったかもしれないけど、私はあなたの姿を見られて本当に嬉しいわ。それに、リリーちゃんを帰してくれて本当にありがとうね。イズアルドのおバカがこんな若いお嬢さんを魔法事故に巻き込んだなんて……もう……。それを孫に解決させるなんてとんでもない話ねぇ」
「ははは。若かりし日の失敗を孫が解決してくれるなんてイズアルドが羨ましいなぁ」
「羨ましいなんて言っちゃダメでしょ。湊君は困ってるんだから」
「おっと。悪かったね。湊君、もし良かったら私達の家でイズアルドを名乗って暮らすかい?それで、ゆっくりここに慣れていくという事もできる。歓迎するよ」
湊はそれはとても楽なのではないかと思った。
リリーもどうするかと見上げてくる。
しかし、曽祖父達の明るい様子は、湊には強がりにしか見えなかった。受け入れ難い現実と、争えない血の痕跡と証拠を前に必死に自分を律しているようでもある。そして、湊の向こうに平文を求めるようだった。
だから――
「ありがとうございます。でも、やっぱり自分の力でできる事はしてみないと。祖父ちゃんの名前は使うけど、俺なりにやってみます。ペネオラさんも手伝ってくれますし。もしどうしても魔術省に馴染めなかったり、祖父ちゃんの名前を貶めるような事になりそうになったら、潔くやめて何か他のことをします。その時にはお世話になるかもしれません」
曽祖父と曽祖母はどこか残念そうな顔をしてから、諦めたように笑った。
「……イズアルドの孫じゃそういうと思ったよ。だが、無理は禁物だからね。いつでも私達の家に来られるように、住所を置いて行こう」
そう言うと、曽祖父は平文の執務机の上に几帳面そうに積まれている紙を一枚とり、置かれていた羽ペンでサラサラと文字を書き付けた。
「困ればここに来なさい」
「ありがとうございます。俺は読めないけど、ペネオラさんに読んで貰って行きます」
「……字が違うんだね。じゃあ、迎えに来てあげても良いよ。手紙をくれるかな。いや、週に一度は見にこよう。なんだかイズアルドが子供だった頃に遠方の友達の家に泊まりに行って熱を出した時のことを思い出すなぁ」
「ありましたねぇ。危ないから迎えに行ったんでしたね。懐かしいわぁ。じゃあ、湊君毎週見に来るわね」
二人は楽しげに話し、湊は聞いたことのない祖父の子供の頃の話に胸を熱くした。
「はは、そんなに見に来て貰っても俺何もできないですよ」
「湊君が顔を見せてくれるだけで良いんだよ。イズアルドの成長は見られなかったけど、湊君がもっと立派な大人になっていくのは見られそうだ。元気に暮らせているのか、イズアルドがこの場所で掴むはずだった幸せを掴めているのか、見させてくれるかな。今回の事故のせいでイズアルドはいなくなってしまったけれど、イズアルドは湊君を手に入れた……。私は立派に我が子と孫を育てたイズアルドを誇りに思うし、湊君の存在も誇りに思うよ」
「……ありがとうございます。本当に」
「ははは!もっと気持ちを楽にしなさい。お父さんって呼んでくれても良いんだよ。なんてね」
曽祖父が楽しそうに肩をすくめると、リリーが口を開いた。
「……十年。湊様をおそばで見られるのは最長で十年です。お父様、お母様。そのおつもりでいて下さい」
「……リリーちゃん。それは……どうしてだい?」
「湊様の事は十年以内に必ずあちらへお帰しします。私の身を使ったとしても」
「……ペネオラさん?身を使うって――」
そんな事をして成功しても湊は一つも嬉しくないし、試す中でリリーが歪むようなことも受け入れられない。
「私が必ず責任を取ります。あなたは自らが燃え尽きる可能性を恐れずに私を帰してくださいました」
それはただ単にあちらでは魔法陣が焼失しない確かな証拠がいくつもあったからだ。
話を聞いていた曽祖母は不安そうに湊とリリーを見比べた。
「燃え尽きる……?湊君、リリーちゃんは何を言っているの……?」
「い、いや。何でもないんです。ただ、あっちから来るためにも、帰るためにも、生体一式魔法陣が必要そうで――って言っても、あっちから来る時は奇跡的に誰も焼失しなかったんです。だから、ペネオラさん、そんな事言わないで。危ない事はしないで良いんだよ……。君がそんな事になったら、もしあっちに帰れたとしても……俺も死んじゃうよ……」
リリーは唇を噛み、涙がこぼれそうになると、それを慌てて袖で拭いた。涙を見せる資格などないとでも言うようだった。
「……湊様。私は湊様がサクラ様やイロハ様、ワタル様、カオリ様、ユキコ様、シンジロウ様……それから、ご友人のタトロウ様に本当に愛されていらっしゃったのを見ています。あなたは私が帰りたくないとぐずった時、帰るんだ、君を待つ家族がいると言って下さいました。私の家族を大切に想って下さっている事がわかったんです……。だから、私もあなたのご家族を大切にします。あなたは帰らなくちゃいけません。何を踏み台にしても」
強い覚悟が瞳の向こうに覗けた。
「……す、すみません。ちょっと」
湊はこちらの家族に軽く頭を下げるとリリーの手を掴んで、ベッドの向こうの掃き出し窓の前まで移動した。
「……ペネオラさん、そんな事言わないで下さい。本当に……」
「湊様、リリはあなたに迷惑をかけてばかりではいられません。ご家族の皆さんに恩をお返しするはずが、こんな……恩を仇で返すような……」
「本当に気にしないで……。何か上手い方法を見つけて適当に俺は帰るから。もし見つからなきゃ、ここで暮らせば良いだけの話だよ。命までは取られないし、ひとまずは祖父ちゃんとして暮らせるんだから、リリが向こうで暮らすよりも多分簡単だよ。それに、リリが約束してくれた祖父ちゃんのあっちでの生活を俺のひい祖父ちゃん達に伝えてくれるっていうのは果たしてくれた……」
ギュッと一文字に結ばれた口は小刻みに震え、涙が流れるのを堪えようとしているようだった。
「……リリ、頼むから……。二度と自分を燃やすみたいな事は言わないで……」
「……本当なら……。本当ならあなたをお慰めしなくちゃいけないのに……。湊様……。本当に……本当に申し訳ありませんっ……!」
リリーが顔を押さえて泣き始めると、湊は躊躇いながらも自分より細く小さなその身を引き寄せて抱き締めた。
「……俺、ここに来て初めて君の不安が本当の意味で分かったんだよ……。すごく心細かったと思う……。君は今の俺と同じ気持ちでいたのに……向こうにもう少しでも残ってくれようとした……。俺、本当に嬉しかったんだよ……。その事実だけで、ここにいても割と慰められるよ……」
「みなとさまぁ……!」
湊の胸にしがみ付いて泣くリリーの頭をしばらく撫でてやっていると、こほん、と曽祖父が咳払いをした。
「じゃあ、ひいお祖父ちゃんとひいお祖母ちゃんは一度帰ろうかな?」
「あ……でも、ひい祖父ちゃん……。祖父ちゃんの事、まだ何も話せてないのに……」
「今日はもう十分だよ。な?」
「そうねぇ。また来週来るからその時に聞かせてね。それから、このイズアルドの骨は半分だけ貰っていくわね」
「……うん。分かりました。本当にありがとうございます」
「良いんだよ。次に来る時にはイズアルドが子供の頃に使ってた教科書を持ってきてあげよう。字の練習になるよ」
「あ、それ本当助かります」
「じゃあ、また来週。――湊」
「うん……ひい祖父ちゃんとひい祖母ちゃんも、気を付けて帰ってね」
「ありがとう」
「リリーちゃんをよろしくね」
二人が静かに出ていくと、湊はリリーを離して顔を覗き込んだ。
「……リリ、平気?」
「……はひ……。すみません……。みっともなくて……。それに、ヘイバン様のお父様とお母様も困らせちゃったみたいで……またご迷惑を……」
「気にしないで。あの人達、そう言う事気にする人じゃないって俺分かるからさ」
「湊様……」
見上げるリリーの瞳は潤んでいて、窓の外に浮かぶ二つの月を写し込んでいた。
「……リリ」
頬を撫でると胸の内に何かどうしようもない感情が湧き出て来そうになり、湊は目を満点の星空へ逸らした。
「――それにしても、月も星もすごいですね。こんなにすごいの俺初めて見たよ」
「はは……普通ですよ。湊様、私にウチュウのこと教えてください」
「良いよ。おいで」
手を引いて庭に出ると、部屋の中がかなり暖まっていた事を知らせるようにヒュオッと冷たい風が吹いた。
「寒い?」
「いえ、湊様の手が温かいから平気です」
「良かった」湊は空に指を伸ばした。「あの青白いのが祖父ちゃんの言ってたシリウス。上にある赤い星がベテルギウス、それから白っぽい子犬座の三つであっちじゃ冬の大三角って呼ばれてる」
「本当に同じ星空なんですね」
「そうだね。やっぱり、ここは地球なんだな。それに、座標も日本に近そうだ。もしかして、海も見えてるしここも島国なのかな?」
「いえ。ここは大陸です。島国は多分、アセイ=アケンと呼ばれるシルキーの暮らす国しかないと思いますよ」
「へ〜」
湊はそうかぁと思いながら、首を傾げた。
「しるきーって何ですか?人種?」
「あちらでは何と言うんでしょうか?ほら、手足の指の間に大きな水掻きがついている、水色の肌の人々ですよ。首に鰓の切れ目のある」
湊は目眩を感じ、ガーデンチェアの背に手をついた。
「……待って。ここ地球じゃないの?」
「地球だと思いますけど……どうかされました?」
「俺の知ってる地球に知的生命体は人間しかいないんですけど……」
「えぇ……?そんな馬鹿な事、ありえません。全ての人型の生物はシルキーを元に海の神であるカイカ様が作ったんですから。謂わば私達の祖先です。ほら、私達も手に水掻きの名残が」
リリーが指を開いて手を伸ばしてくると、湊は指の間に指を入れてそれを握った。手は温かかった。
「……これはシルキーとかそう言う生き物を手本に神様が作ったからあるんじゃないと思います」
「ではどうして水掻きがあるんでしょう?」
「うーん……どしてって言われても、昔海に住んでたからとしか言いようがないけど……」
「では、人はシルキーだったのですか?」
「いや……そう言うわけじゃないけど、生き物は皆海に暮らしてたんだよ」
「それがシルキーだったのでは?」
「……そうなの?」
「そうですよ?」
「……そうなのか……」
そうらしい。湊は深く考える事をやめた。
「まぁ……海で猿が暮らすようになって人間になったって言う人もいるにはいたしな……」
「お猿さんが人間に……?湊様、大丈夫ですか?それこそ、知的生命体じゃないです」
「……言っとくけど、半魚人説より猿から進化した説の方が俺は確かだと思うよ」
「えぇ……?私、初めて湊様より自分の方がお利口さんに感じました」
「……少なくとも俺の地球は猿が人になったし、人間以外に知的生命体なんかいない」
「あ!分かりました。もしかして、世界地図がまだ出来上がってないんじゃないですか?魔法がないと大変ですもんね」
「めっちゃ出来上がってるし衛星だって上がってますよ」
「エイセイってなんです?」
湊は苦笑した。苦笑せずにいられなかった。これは本当に赤ん坊か子供のようだ。
すると――上の階から口笛が聞こえてきた。
二人で頭上を見上げると、レオがバルコニーでご機嫌そうに口笛を吹いていた。
「お?イズアルド、気にせず続けてくれよ。自分の後輩と両手なんか握りあっちゃって。良い月夜だから踊るんだろ?音楽のお裾分けしてやるよ」
「……お前、まじで祖父ちゃんの友達か……」
「祖父ちゃん?今日祖父さんも来てたのか?」
「何でもない。お前もどうせ人間が神に作られたとか言うんだろ」
「……おいおい、反抗期?まじで大丈夫?バチが当たったり魔法が使えなくなったりしても知らねーぞ?」
「レオ……あんまり大声で庭で話すと迷惑だろう」
「お?はは!調子戻ってきたみたいだな。じゃ、迷惑にならないようにしますか」
レオはそのまま楽しげに口笛を吹いた。
「……あれは迷惑じゃないのか」
「湊様!せっかくですから踊りましょう!」
「踊りね。うんうん」
バルコニーを見上げていた湊はパッと視線をリリーに戻した。
「え?なんて?」
「踊りましょう!私、一度ヘイバン様と踊ってみたかったんです!」
「……いや、踊れません。ほら、もう寒いから家入りますよ」
「えぇ。平気なのに」
つまんないとでも言うようにリリーがぷくりと頬を膨らませると、湊は「ぷっ」と笑い声を漏らした。
「な、なんですかぁ」
「君、そう言う顔もするんだね。はは。なんか気が抜けるな。ほら、入りな」
「はぁい」
二人が部屋に戻っていくと、「青春だなぁ」とレオの声が少しだけ聞こえた。
湊は心の中で「うるさいわい」と言っておいた。恐らく平文はそんな事は言わないだろう。
「はー暖かいなぁ。体がまだ夏の気持ちでいるからめちゃくちゃ冷えるな」
「そうですね。あっちは本当に暑かったです。湊様、取り敢えずお食事になさいますか?」
「そうしましょうか。何したら良いですか?」
「お掛けになってお待ちください!」
「いやぁ……そう言うわけにも……」
「良いですから!行って行って!」
リリーに厄介払いされ、湊は渋々ソファに座った。字も読めなければテレビもないので、囲炉裏暖炉の火を眺めるくらいしかできない。
(……暇だな)
手持ち無沙汰にリリーを眺めていると、何かを切り始め、それを終えるとミニキッチンの上の戸棚に背を伸ばして皿とグラスを出そうとした。
よっこらせ、と声を上げ――おっさん臭いなと自嘲しつつ――それを取ってやった。
「あ!湊様はお座り下さい!」
「はは、じゃ、これだけね」
何か新婚ぽい気がするなと思い、すぐにぷるぷると頭を振った。
気楽にそんな事を考えている場合ではない。
一度あちらのことを考えてみる。
明日会社から連絡が来ても湊は出られない。最悪スマートフォンはあの直射日光に晒されてバッテリーが爆発しているかもしれない。
(……やめよ)
悪い想像ばかりが過ぎるので、湊は無心で火を眺めた。
そうしていると、リリーがスキレットに牛肉とカブを乗せて来た。
囲炉裏暖炉の周りを囲むカウンターに一度スキレットを置くと、ヤットコ鋏みで囲炉裏暖炉の中に立てかけられていた五徳を火の上に置き直す。
「うんしょ……」
五徳の上にスキレットを乗せると、囲炉裏暖炉のカウンターに一枚の紙を取り出し、もそもそと何か魔法陣を書いた。
「……大変そうですね?大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよぉ。ピクルス作ります!」
魔法陣が書き上がり、仄かな光を放ち始めると適当な大きさに切られたパプリカが瓶に詰められたものを乗せた。
すぐに神火が上がり、焼失と共にリリーは中を覗き込んだ。
「良さそうです!」
「今のは?」
「浸透圧の力で味を染みさせました!」
「ひゅー便利ぃ」
「ふふ、デンシレンジ程じゃないですよ」
肉が焼けて来ると、湊が先程出してやったプレートにセルバチコとトマトが乗せられ、パプリカのピクルスも盛り付けられていく。
湊の腹はグゥ〜と空腹を訴えた。
「あ、はは。すみません」
「いえ!そろそろ食べられます!」
リリーはせっせとローストしたカブとステーキを盛り付け、手のひらサイズのパンを何個か出してくれた。
「食べましょう!」
リリーが床に座ると、湊はそれを手招いた。
「ソファ座りな?」
「……じゃあ、失礼します」
隣にちょこりと座ったリリーは少し嬉しそうだった。
昼抜きでこの世界に来たのだから、二人とも空腹だ。
「いただきまーす」
湊が両手を合わせると、リリーもそれを真似て手を合わせた。
「いただきます、です!」
湊はこの世界初めての食事を噛み締めた。
「はぁーうまくて胃に染みる……。味覚が同じで良かったな……」
「ふふ、私もそう思います!」
「それにしても、ミニキッチンに蛇口みたいなもんありますけど、水道通ってるんですか?」
「公衆浴場や公衆洗濯場、大きな建物には通ってる事が多いですね。ここも一階の浴場には水道が通ってると思います。でも、流石に一部屋づつは通ってません。屋上に雨水の貯水タンクが乗ってるので、個室は基本的にはそれを使います。もしタンクの水が切れれば水袋に自分で水を汲んで来て使ったりですね。街の色んなところに飲料用の給水噴水があるんで」
「……あ、壁にあった水吐いてる彫刻か。来る時にも見たね。あれって清潔なんすか?」
「清潔ですよぉ。貯水タンクとあれには水質浄化の魔法陣が付けられてるんで安心してください。あ、でも、浄化の魔法陣がきちんと光ってる事を確認して下さいね。たまに水道屋さんが書き直すの忘れて焼失したままの事がありますから」
魔法が使える水道屋。湊はそれもすごい職業だなと思った。
「なるほど……。腹弱いから気を付けます。腹痛治してくれっていつも頼んでた神様もこっちにはいない気がするし」
そもそもあちらにもいたか怪しいが。
「神様が異なる問題、困りましたね」
「そこもおいおい調べないとなぁ……。諸法無我は思いっきり力塊誤作動起こしたし……」
「あの力塊誤作動、すごく強力だと思ってましたけど世界独立否定魔法陣だったんですね。あれで済んで良かったです。効果を思えば部屋丸ごと歪んで押し潰されてもおかしくないと思います」
「す、すみません。勝手に危ない真似して」
「いえ、あちらでは力塊誤作動は起こさないんだから当然です」
食事を終えたリリーはテーブルの真ん中に置いたブドウを一粒もいで口に放り込んだ。
湊も同じようにブドウを食べながら、日本のブドウの方がうまいと確信した。農家の弛まぬ努力に感謝を捧げながら、食事を終えた。
小さなキッチンでリリーが洗い物をし、湊が拭いて上部の吊り戸棚に戻していく。
「じゃあ、取り敢えずお風呂行きますか?」
「風呂!行きましょう!タオル探したりしなきゃな」
二人はもそもそとタオル探しをしてから共同風呂へ向かった。