#15 省の人たち
何となく嫌な予感がする。
湊は廊下にいる人々が平文に用があるわけではない事を心中で祈った。
が、祈りは虚しく、自然と人だかりの視線は湊へ向き、共に歩いてきた者達は止まった。よく見れば、先程庭で見たお団子頭もいる。そういえば何かを連れてくると言っていた。
一人のナイスミドルが一歩前へ出てくる。丁寧に切り揃えられた髭が印象的だ。もみあげから顎まで繋がる髭は、口の上の髭とも繋がっている。ただ、サンタほど長くはないのでそう老けては見えない。
「ヘイバン君。よく帰ったね。君なら必ず戻ると思っていたよ。何でも、転移出口の魔法陣から戻ったとか?」
「そ、そうなんです。ご心配おかけしました」
「いやいや。これで転移の魔法陣は運用が確かめられたんだ。最初は誤発したようだが、安定して使えるようになれば世紀の発見になるよ」
背をバンバンと叩かれ、湊は取り敢えず笑顔を作っておいた。
「それにしても、髪がすっかり変わってしまって……顔もどことなく変わっているね……?転移して出てしまった場所での苦労が伺えるようだ。道具鞄もなくなってしまったのかな?」
なくなったと言っていいのか。それともどこかにあるのか。湊は分からず、答えることが出来なかった。
そこに救いのようにヤージャの声が響いた。
「本当だな。ペネオラ、ヘイバンは道具鞄がないんだ。早く部屋を開けろ」
「あ、はい!」
リリーは慌ててウエストバッグから棒状の銀色の美しい装飾品を取り出した。
湊は一瞬それが何かわからなかったが、それを扉にある穴へリリーが入れる事で鍵だということを理解する。
つまむのに適した頭部分があるが、鍵穴と噛み合うはずの溝があるべき所があまりにも複雑な形をしていた。まるで平べったい棒付きの飴の、棒の先に蔦と草が絡まり付くような形をしていたのだ。
リリーは重厚な二枚扉の片方を開けると中へ入り、扉を開けて待った。
「皆様、ヘイバン様の研究室です。お入りください」
湊はここが平文の部屋かと軽く中を覗き込んだ。
「どうした?ヘイバン、お前が入らないと皆入れないだろう」
「っあ、そうですよね。はは。えー、目眩が少ししたもんで」
「……立っていると危ないな。早く入って座れ」
座れと言われても……そう思いながら部屋に進む。
湊はこの部屋は祖父の匂いがするという事に気が付き、ぐるりと部屋の中を見渡した。壁には天井付近に金で何らかの文章が書かれている。
今入って来た扉のついている壁には道具袋やコート――いや、ローブという方が正しいのかもしれない――が二つ掛けられていて、空いているところにはびっしりとメモが貼られていた。
扉から見て左手の壁には本棚があり、ずらりと本が並んでいる。小さな黒板がイーゼルに乗せられ、ある点と点を曲線で繋げる人の目のような二角の図形が書かれていた。
一方扉から見て右側の壁には、隣の部屋に続く扉の付いていないアーチ状の開口があり、応接セットのようにソファが二台向かい合わせで置かれている。
最後の一面、扉の正面の壁には縦長の観音開きの窓が三対並び、二つの窓の間に執務机がエル字に二台置かれていて、一番右の窓はバルコニーのように半円状にせり出していた。
せり出しているところには翡翠色のカフェテーブルと、一人掛けソファが二台。
湊が部屋を見渡していると、リリーが手招いた。
「み――ヘイバン様、こちらへ。こちらにお掛けください」
リリーの指し示す応接セットに向かう。日本人的感覚で下座に座ると、隣にはリリーが座り、上座には先ほど話した髭と、長いグレーの髪をした色黒な人が座った。湊はそれが女性なのか男性なのか一瞬分からなかった。
「ヘイバンさん。実証実験は成ったようですが、一度目に誤発した理由は分かりますか?」
長髪の人の発した声は低く、確かに男性のものだった。歳の頃は四十代ぐらいだろうか。
長髪からの問いに、湊は前に洋間でリリーの話した事をしっかりと思い出しながら、言葉を選んで答えた。
「え……と、魔法陣が完成する前に……んと……勝手に発動してしまった……。……ですよね?……なので……分からないです……多分……」
「……ヘイバンさんにもそのくらいしか分からないのですね。では、戻って来るのに使った魔法陣は書いている途中でまた別の誤発や力塊誤作動を起こしたりはしませんでしたか?」
「しませんでした」
それは湊でも解る。即答だ。机の脇に立っている人々は手元にさらさらとメモをして行った。
すると、隣に座っていたリリーが口を開いた。
「レイズ所長、マクモンド委員長。ヘイバン様の転移の魔法陣は理論も発動性も確かでした。当日に誤発した理由は……残念ながら私達には分かりません。ですが、私はヘイバン様の理論と魔法陣を信じて戻って参りました」
そうだ。リリーはまた誤発するとは思っていなかった。あちらで平文が書いた出口に出られた事もあるのだろうが、必ず成功してこちらの魔法陣に繋げられると信じていたのだ。
リリーの真っ直ぐな瞳に、湊は眩しさを感じた。
そうしていると、マキナとお団子頭がお茶を出してくれた。
マキナはそれぞれ皆に茶を勧めると、不安そうにお盆を抱いた。
「……レイズ所長……。転移の魔法陣は危険すぎます……。やはり、我々人間には過ぎた力だったのではないでしょうか……」
「ベルガメント君の言いたい事も解るけれどね。こうしてヘイバン君たちが無事に戻ったことから言って、私はそう危険すぎるものでは無いと思うんだよ。マクモンド君はどう思う?安全管理委員会の長として」
マクモンド委員長が口に手を当て悩み始める。
湊はカタカナばかりの名前を必死に覚えようと努めた。彼らが名乗らず、平文の名前を知っていると言うことは、お互い知っていて当たり前の存在同士と言うことになる。
「私はベルガメント君の言う通り危険だと思います。今回の誤発が、例えば書き順誤発だとするとたまたまハズレを引いた時に皆どこかへ飛ばされてしまいます」
「書き順誤発……。滅多に起こらないからその可能性を忘れていたよ。複数の知識を数人で統合しながら書くことによって、一つの知識だけが発動してしまう誤発のことだね。それが一番怖いね。しかし、書き順誤発だとしたら今回二人が戻って来た時の書き方に則って仕上げると言う方法もあるんじゃ無いかな?」
「それはそうですね。では、今回戻ってきた時の書き順を二人が覚えている場合に限って、安全管理委員会は転移の魔法陣の実験の継続を許可します。それから、実験で転移させるものは最初は無生物と言う決まりも設けさせて頂きます」
それを聞いたマキナは俯くと、とても辛そうな顔で震えた。
「レイズ所長……。これで……もしもまたヘイバン様やペネオラがいなくなってしまったら……僕は……」
湊はその姿に、平文をこんなに思ってくれる人がいるんだなと胸を熱くし、同時にこれほど帰還を望まれた祖父がもう二度と戻って来ない事を思うと申し訳なくなった。
「ふーむ。ヘイバン君、戻って来る時の転移入口の魔法陣の書き順は覚えているかな?確実に書けると言う自信があるかが重要だよ。ベルガメント君の心配を押し流してあげないとね。彼だって可愛い後輩なんだから」
「ん、俺――いや、僕はここに来る時に転移の魔法陣は書いていないので。ペネオラさん、覚えてます?」
「えっと……ヘイバン様……それは……」
「ペネオラ君が一人であれだけ大型の魔法陣を?よく力塊誤作動を起こさずに書き切れたね?もしかして簡易化に成功したのかな?危険な部分が削ぎ落とせたなら、より一層運用したい。ペネオラ君、どのくらいで書き切ったのかな?」
「あの……えっと……」
リリーは困ったような焦るような顔をしていた。
「どうしたのかな?」
「その……二日掛けて……書き上げました……」
「寝ずに、休憩もせずに……?」
「眠りましたけど……あのぅ……」
「君の話はあまり要領を得ないね?二日も掛けて、それも睡眠までとって魔法陣が力塊誤作動を起こさないなんて事がこの世にあるとは思えないが……。ヘイバン君、どうなのかな」
湊は勝手に喋らなければ良かったと思った。リリーはこう言うことにならないように、向こうで祖父の手記を直接家族に読み聞かせないと決めていたのに。
仕方がないので、湊は眉間を抑えると俯いた。そして、伝家の宝刀を抜いた。
「……う。目眩が……」
そう言うと、ヤージャが咳払いをした。
「レイズ所長、マクモンド。ヘイバンとペネオラには記憶の混濁が見られます。まだそう細かいことの聞き取りができる状況ではないんです。ペネオラなんて、ヘイバンに引っ付いて出口の魔法陣から出てきたって言うのに、ヘイバンが死んだなんて言っていたくらいだ。この辺りが今の二人の限界です」
レイズ所長とマクモンド委員長は目を見合わせ、頷きあった。
「まだ帰って間もなかったのに、あれこれ聞いたりして申し訳なかったね。ヘイバン君、ペネオラ君。今は少し休むと良い。マクモンド君、行こう」
「そうですね。ヘイバンさん、ペネオラ君。またお話を伺いにきますので、今日のところはこれで」
「……すみません。お二人とも」湊はとりあえず頭を下げておいた。
「良いんだよ。兎に角、君達の無事な姿は見られたんだからね」
所長は本当に嬉しそうに笑い、出してもらったお茶をくい、と飲むと席を立った。
「幸い明日明後日は安息日だ。ゆっくり休みなさい。それで、週明けには報告書を書いてくれるかな?出た先のことも合わせて書いておいてね」
「安全管理委員会にも顛末書の提出をお願いしますね。これは出していただけるまで転移実験は一時的に凍結となるので気を付けてください」
湊はファンタジーのくせにそんな物を要求するのかと表情を固くした。すると、立ち上がった所長は湊の肩を数度叩いた。
「――ヘイバン君?何も君を責めているんじゃ無いからね。ただ、安全性の確立のためだから、後続の者達のためにも悪いけどお願いするよ。本当なら一刻も早く転移実験に戻りたいところだと思うけど」
「い、いえ。分かりました。とりあえず……週明けですね」
「もし体が優れなければ無理をしないでいいよ。それじゃあ、また」
ぞろぞろと人が出ていく。
ふと、マクモンド委員長が立ち止まった。
「――あぁ、エライヤ。君は後で私の部屋に来てくれるかな」
エライヤとは誰だ。湊が思っていると、ヤージャは首を傾げた。
「……何故だ?今回の事はヘイバン達が戻る前に散々話しただろう。これ以上お前と話すことなど私にはないはずだ」
「はは、冷たいな。たまには二人で夕食を、と誘っているんだよ」
「断る。そんな時間はない」
「ヘイバンさんの転移実験を潰されたくなければ、嫌でも来る事だね」
「な、マクモンド!お前はクズか!?」
委員長は肩をすくめると部屋を出て行った。
廊下でマクモンド委員長を待っていた所長は苦笑した。
「女性を誘うなら、もう少しやり方があるんじゃないかな」
しっかりと扉が閉まった事を確認すると、委員長は自らの道具鞄から杖を抜いた。
「……それより、レイズ所長。お体に変化は」
「うん?変化?何ともないが……どうかしたのかな?」
「……それなら良いのです。とにかく、ここを一度離れましょう」
早足でマクモンドが歩き出すと、レイズもそれに合わせて歩き出した。
六人分の足音が響く。二人の後ろについて来ている魔術師達は転移魔法の可能性にどこか浮き足立つようにあれこれと話をしていた。
だが、マクモンドはそんな気分になれないままレイズに小声で問いかけた。
「レイズ所長。へイバンさんはあの場で何か聞かれたく無いことがあるようではありませんでしたか?」
「いやぁ、どうかな?記憶の混濁で答えられなかったんじゃ無いのかな?」
「……私はどうもそうは思えません。ヘイバンさんは誤発の理由を尋ねただけで何故あれほど狼狽えたんでしょうか」
「怒られるのが怖かったんじゃ無い?」
所長はハハ、とお気楽な声を上げた。
「彼は若いけどそんな男じゃ無い。彼の言った事をよく思い出してください。ヘイバンさんはペネオラ君が書いた魔法陣に今回とは異なる誤発や力塊誤作動はなかったと断言しました。即答ですよ?少なくとも、書いているのを近くで見ていたはずです。ペネオラ君にはまだあの魔法陣を書き切れるだけの力はないのだから、指示も出していたでしょう。でも、わざわざ指示を出すならば普通は一緒に書く。魔法陣が書けなくなるほどの目立った外傷もありませんでしたしね」
「うーん、それはそうだけどね」
「――きっと、ヘイバンさんには誤発の理由をあの場で言えない事情があった。しかし、転移の魔法陣の確実な信頼性は訴える必要があった。私にはそう思えてならないのです」
「……何で?一緒に魔法陣を書いてた子達しかいなかったのに、どうしてヘイバン君は誤発の理由なんて重要な事を隠そうとするの?情報共有は基本中の基本でしょ」
「……報告書と顛末書を書く事も躊躇う様子でした。レイズ所長、ヘイバンさんはもしかしたら、自分は転移の魔法陣を書けないと言うことにしたいのではないでしょうか」
「あれだけやりたがってた実験を?マクモンド君、私には君が何を言いたいのかよく分からないな」
マクモンドは階段を降り切ると、後ろの四人に手を振った。
「皆は先に委員会室に戻っておいて。少し私は所長と話してから戻るから」
四人は心得たと頭を下げ、去っていった。残った長二名は廊下を進んだ。
「レイズ所長。今回のことは誤発ではなく、ヘイバンさんは何者かによって故意に魔法陣の効果を書き換えられたのかもしれません。あのペネオラ君の話はどう考えてもおかしい。二日も掛けて、一晩眠ってから魔法陣を書いたなんて」
「それは私もおかしいと思うけどねぇ。彼女一人で力塊誤作動起こす前に書き切れるような代物じゃ無いからねぇ」
「そうです。そこから考えても、ヘイバンさんが共に書いていないなんておかしいでしょう。でも、ヘイバンさんは自分が書いていない、記憶も混濁していると言う事で自らを守ろうとされているのでは?」
「……一体何から?」
所長はそう答え、二人は所長室に入った。
「……強いて言うなら、アルケリマン公国かミア連合からではないでしょうか。間者がこの魔術省に来ていて……転移実験をよく思っていないのでは」
「……もしそうだとして、ミア連合はウナ自治国を切り離すことで三国戦争から身を引いたのだから……アルケリマンしかあるまい」
ウナ自治国はバラミス共和国とアルケリマン公国、ミア連合の三国が交わる所に位置していた。昔から隣の国が畑を荒らしただとか、税を隣の国から不当に徴収されただとか、ここを通った商人が襲われただとかと、何かと争いが絶えない場所だった。だが、大きな湖と山があり、この辺で一番恵まれた位置に存在する土地なので人々が引く事はなく、諍いが絶えることはなかった。
戦争の始まりは、巨大湖――ウナ湖の周りの三分のニを有していたミア連合がその辺りの土地を全て我が物とせんと動き出した事から始まった。
戦争が激化する中、三国は必死で魔法の開発に取り組んだ。海に面するバラミス共和国とアルケリマン公国は飢えを知らず戦争に取り組めた一方、ミア連合は海を持たず、頼みの綱であるウナ湖の周りで戦端が開かれていたせいで国内の貧困と疲弊、多くの戦死者を以ってウナ地区を切り離して撤退した。事実上の降伏だった。
当初はミア連合も、補充の可能な湖のそばでの戦争により、兵糧の持ち込みなどの手間を省いてニ国を圧倒していたと言うのに。長い期間、ウナ湖で取れる全てをウナ湖周辺の戦地で消費していれば当然起こる結末だ。
勝てると言う思いが、ミア連合の魔法陣開発の妨げにもなった。
現在ウナ地区は永世中立を公言することでウナ自治国を名乗っているが、バラミス共和国とアルケリマン公国がウナ自治国を奪い合う形で戦争は続いている。
「転移の魔法陣が完成すれば戦争はバラミス共和国の有利に進みます。戦地への物資の搬入はもちろんのこと、どうにかして出口の魔法陣を持ち込めれば魔術施設への侵入も可能です。今回、出口の魔法陣は片割れである入口がなくても力塊誤作動を起こさず効果を有したまま三日間置いて置けました。これは大きな発見です。アルケリマン公国が面白く思うはずがありません」
マクモンドが言うと、所長は鋭い視線を送った。
「それはつまり、あの魔法陣を書いていた中の誰かが間者だと言うことに他ならないぞ。君はわかっているのか」
「当然です。だからこそ、エライヤの下に付く二人の淹れた茶を私は飲まなかったのですから」
「……マクモンド君、そう言うことは早く言ってよね」
「念のために用心しただけの話です。あの場で私やレイズ所長、もしくはヘイバンさんとペネオラ君を殺せば茶を淹れた二人のどちらかが間者と名乗るようなものです。なので恐らくそんな真似はしないとは思っていました」
「……君ってドライだよね」
「そうでしょうか。レイズ所長に何かがあれば、すぐに解毒しようと思っておりましたよ。クボイさんの下へお連れすることも考えておりました」
「……私、今から一応クボイ君のところに行ってこようかな」
「下手な事をなさると間者に悟られます。何も起きていないのですから今はご自重ください」
所長はとても悲しそうな顔をした。笑いながら泣いているような様子だ。
「マクモンド君……私が死んじゃっても君は泣かなそうだよねぇ……」
「泣きます。ですが、今は間者が抹殺に失敗したヘイバンさんとペネオラ君の命と無事が心配です。間者の存在にこちらが気付いたと思われれば、あちらは手段を選ばないでしょう」
「……ヘイバン君達を呼んで気をつける様に言った方がいいんじゃない?」
「ヘイバンさんは気付いていると見て間違いないのです。わざわざ何かを言わずとも乗り切られるでしょう。記憶の混濁を言い訳に不用意にあれこれ口にされないでしょうし、ペネオラ君にも危害が加わらないようにして下さるはずです。自分から目を逸らすために彼女を使うのであれば、彼は死に物狂いで自らの初めての後輩を守るでしょう。いや、そうできる確信がなければあんな真似はしない」
マクモンドの瞳に浮かぶのはヘイバンへの信頼だ。
マクモンドはもう四十三歳。二十五歳のヘイバンより随分年上だ。だが、この転移魔法陣を完成させて行使を試みるために何度もやり取りをするうちに彼の気性はもう掴んでいるつもりだ。それに――ヘイバンの師であるイッサ・バウマンはマクモンドの師の友人だ。同じ者に育てられた程の親近感はないが、全く無関係とも思えない。
(……省に出ないで済むのだから明日からの休みを喜ぶべきなのか……省が閉まっている隙にヘイバンさんにちょっかいを出される危険性を恐れるべきなのか……)
マクモンドは窓に近付き、外を眺めた。
(少なくとも今夜中にエライヤに警告しておくべきだ。イシュワ・サワダリ、マキナ・ベルガメント。どちらが間者だとしてもエライヤには辛い話になる……)
嫌な役回りもあったものだ。後輩は家族の様なものだと言うのに。
「……マクモンド君?ここ、一応私の部屋なんだけど……」
所長は人差し指の先をちょんちょんと付け合い、小さくなってマクモンドに告げた。
マクモンドは無視して窓の外を眺め続けた。
◇
平文の研究室の扉がパタン……と軽い音を上げて閉じられ、リリーが鍵をかけた。
「では、申し訳ありませんが本日はお先に帰らせて頂きます」
湊はリリーと揃って面倒を見てくれていた三人に深々と頭を下げた。
「すみません。失礼します」
「あぁ。途中で目眩がすると危険だから、必ずペネオラと帰れよ。安息日はゆっくり過ごせ。何かあれば、いつでも尋ねて来い」
「ありがとうございます。心強いです」
「ヘイバン様、良ければ僕が数日ご一緒しましょうか?」
「マキナ、ありがとう。でも平気だから気にしないで」
頼むから着いてきてくれるな。それが湊の本心だ。
「リリー、頑張ってね」
隣でお団子メガネ娘――いや、イシュワがリリーの手を握った。
「……イシュワさん……。そう言うんじゃないんです……」
「バカ!こんな時だから頑張んのよ!乙女のパワーみせなさいって!ドーリマンさんに先越されるよ!」
バンッと背を叩かれ、リリーからは汗が飛ぶ様だった。
「じゃあ、ペネオラさん。行きましょう」
そう言って湊が歩き出すと、リリーが手を取った。
「み――ヘイバン様?お帰りはこちらです」
「……そ、そうだったね」
湊は頭を抱えたい気分になった。イシュワだけは嬉しそうな顔をしているが、ヤージャは心底心配でたまらんと言う様な目をしていた。湊はこのイシュワという娘は苦手だと思った。人の失敗を喜ぶ女子はダメだ。
「……ヘイバン、本当に気を付けて帰れよ」
ヤージャに言われると苦笑いを浮かべ、湊はリリーの引く手に任せて階段に向かった。
「――あ、ヘイバン!」
背に声が掛かる。湊はもう早く行かせてくれと思った。
「は、はい」
「新しい道具鞄は私が頼んでおいてやる。二つになると厄介だ。お前は道具管理委員に寄らなくて良いからな」
「ありがとうございます。助かります」――鞄がどれほど大事か分からないがとりあえず礼を言う。
今度こそ湊は階段へ向かった。
湊は奇跡的に着けていた腕時計を確認した。時刻は十五時を示している。
かけ離れた時刻ではない気がする。外はまだそう暗くはないし――そう思い、階段の踊り場の窓の外をちらりと確認した。
そして、窓の外をしかと見ると、湊の手は震えそうになった。
「……まじで船が飛んでる」
空には青い球を腹に抱えた帆船が行く。
この世には魔法があって、魔法には世界すらどうこうできる力があると教えられ、受け入れ自分の中で消化して来たと思っていたはずだというのに、湊は眼前の景色を受け入れられなかった。
いや、受け入れられないのは何もかもだ。
リリーの事は必ず帰してやると固く誓って、自分にできる事は全てやろうと尽力した。
だが、あれだけ全力で取り組んでいたというのに、湊はどこか魔法は自分とは無関係だと思っていたのかもしれない。
魔法陣を書いても、自分が魔法陣の一部だと言われても、リリーの言葉が自分以外に通じなかったとしても、最後は魔法は自分と無関係な場所にある事象だと思っていたのだ。平均的な日本人らしい価値観とも言える。正常性バイアスと呼んでも良い。
だから軽率に魔法陣を踏んでしまったのかもしれない。
避けきったと思ったのに、お笑い種だ。
軽率にため息を吐いてしまう。
「湊様……。私、あなたがお帰りになるお手伝いをします……」
隣で手を繋いでいてくれるリリーに言われ、湊は苦笑した。
「……できるのかな。書き順誤発とか言う言葉がさっき出てたけど、五人で書いてたんだよね?祖父ちゃんが書いてた所を俺が書けないから……誤発で帰ることは難しそうだ。いや、そもそも誤発って狙ってできないんだっけ……」
「できません……。中には誤発から生まれた魔法もありますが、この一七八四年の間でようやく両手で数えられる程度しかありません……」
「はは、望み薄だね」
「湊様……。ですが、必ずあちらへ戻れる魔法陣を作ってみせます」
「あんまり歳を取ってからだと……それはそれで帰れないって言うのが問題だな……。向こうに戻れるリミットは長くでも十年。それより長くここで歳を重ねると今の二十四の俺との誤差が大きすぎてあっちで生活できない気がする」
「……本当に申し訳ありませんでした……。私のせいで……」
「……いや、魔法陣を踏んだのは俺だし、俺が君と――」一緒にいたかったから。そう言いかけた言葉を湊は飲み込んだ。「――いや、何でもない」
長く一緒にいれば別れが惜しくなって、この妹への気持ちが形を変えてしまうかもしれないと思っていた。だから、一刻も早く帰そうと急いだが、急いだのが返って湊の覚悟を酷く揺らがせた。
それくらいなら、飽きるまで一緒にいて、気持ちよく帰ってもらえば良かったのに。
今更そんなことをごちゃごちゃ考えても仕方がないが、湊はやめられなかった。
こんな法則の違う世界でどうやって生きれば――そう思うと同時に、聞かなくてはいけない事を思い付いた。
「――ペネオラさん。俺、いや。祖父ちゃんの人間関係、教えてくれます?」
「はい。ですが、まずはヘイバン様の寮に行きましょう」
「そうですね……。道も覚えないとな……」
「大丈夫です。湊様がして下さったように、私がずっとお側に控えます」
「ありがとうございます……。でも、考えてみたら俺祖父ちゃんの部屋の鍵も持ってないんですけど……」
「合鍵は研究室の書棚に隠してあったのを出しておきました!きちんとお持ちしましたよ!」
「あ、ははは。心強いや。何でも知ってるね」
リリーはすぐに首を振った。
「とんでもないです。湊様こそ何でもご存知です。何も知らない私を導いて下さった……」
「……導き切れなかったよ」
「導いて下さいました……。でも、ここにいらっしゃる間は、私ができる限り――いえ、できる以上の事を重ねてお導きいたします」
「……ありがとう。ごめんね。またこんな事になって」
「とんでもないです。さぁ、参りましょう」
リリーが抱えていたローブとマフラーを一つづつ渡してくれる。
室内は暖かいが外は真冬らしい。庭にいた時は真夏の熱射に暖められすぎた体に心地よさすら感じたが、体のクールダウンと共に湊はじわりと冷えを感じ始めていた。
祖父の匂いがするローブに袖を通し終わると、リリーはまた手を繋ぎ直してくれた。
強く握られた手は温かく、湊は不覚にも心強いと思った。