#14 二つの月
「つ、つきが……ふ、ふたつある……」
湊は胸に抱いたリリーの感触も忘れ、震える瞳を見開いていた。
その視界の中には、屋上にあるはずもない木が映り込んでいて、地面は硬く冷たい。
頭の中を整理しようとしていると、大きな声が響いた。
「ヘイバン!!」
「へい……え……」
「心配したんだぞ!!お前、連絡一つよこさないで!!この馬鹿たれ!!バウマン様もお前のことを探していたんだぞ!!」
リリを抱いたまま起き上がった湊の前には、全く見たことのない女性がいた。くすんだベージュの髪、たわわすぎる胸元。片膝をついて、心配そうに少しだけの涙を目元に湛えて湊を覗いていた。
「ヤ、ヤージャ様!?なんで!?こ、ここは……!!まさか……まさか魔術省の庭!?」
リリーの困惑する声が響くが、湊の耳には遠く入らなかった。
明日は出社すると吉田先輩に言っている。
やり掛けの実験がある。
来週は桜と時計を買いに行く約束をしている。
近いうちに達郎から連絡が入って、健太や敦と飲みに行く。
四十九日には平文の納骨がある。
湊は自分の犯した過ちを悟ると吐き気がする様だった。
パチン、と額に自分の手を当てる。
リリーが実家に初めて現れた時、不安で不安でたまらない顔をしていたのが思い浮かんだ。それから、祖父の家に帰りたいと言う言葉。
「――リリー!良かったぁ!やっぱりヘイバン様と一緒だったのね!!」
女の子が湊から離れたリリーに抱きつく。耳の後ろに一つづつ髪を結い上げたお団子が覗き見えていた。
「イシュワさんも……そんな……!そんな……!!」
リリーの顔が血の気を失って行く。
湊が見下ろした自らの手はわなわなと震えていた。
「ヘイバン様!ヘイバン様の洗礼の指輪と杖もここに落ちてます!!あぁ、良かった!本当に良かった」
ほとんど白髪の、湊と同い年くらいの青年が洗礼の指輪と付けペンを手に近付いて来る。
「さぁ、どうぞ」
湊は青年から平文の指輪と付けペンを受け取ったが、放心状態だった。
「ヘイバン、大丈夫か?髪の色も黒くなっているし……肌も少し焼けたか……?どれ、医務室に連れて行ってやろう」
そう女性に手を差し伸ばされたが、湊はそれを取ることはできなかった。
足元が揺らぎ、目の前が歪む様な、歪みの中に落ちて行く様な、そんな感覚だった。
リリーの顔は可哀想なくらいに真っ青で、湊は笑ってやらなければいけないと思えば思うほど、この状況への強い危機感が膨らみ口を抑えた。
連絡が付かなければ捜索願いが出される。
何日も無断欠勤すれば解雇になる。
祖母や両親は酷く心配するだろう。
桜もそうだ。桜は湊に懐いていたから、泣いてしまうかもしれない。
『……死なないでね』
桜のその言葉が何度も頭を過ぎる。
「さ、さくら……」
何とか声を捻り出していると、どんどん人が寄って来た。
ヘイバン、ペネオラ、そう呼ぶ声が辺りに響く。
湊がこれからどうしたら、そう思っていると女性が湊の腕を取って自らの肩に乗せた。
「立てるか?」
覗き込まれると、何か桃色の色が付いたような香りが鼻をついた。
「――あ、た、立て……。あの……立てます。すみません。平気です」
「無理をするな。せーので立とう。私の肩にしっかり掴まれ」
「いや……本当に俺……」
「……ん?ヘイバン、お前何か雰囲気が……」
そう言われ、湊が目を逸らすとリリーが首を振った。
「ヤージャ様。このお方はヘイバン様ではありません。ヘイバン様は――」リリーは泣きそうな顔をして胸を押さえた。「……もう……お亡くなりになりました……」
「……ペネオラ、お前は何を言っている?頭でも打ったのか?」
「リリの言う事は本当です。すみません、離してください。俺、違うんです」
湊が肩に組んでもらった腕を引くと、女性は戸惑いの目で湊を見つめた。
「……二人して記憶が混乱してるのか……?一体お前達はどこに……――いや、良い。続きは医務室で聞こう。兎に角立とうな?」
湊はどうしたら良いかリリーに視線を送った。
「湊様……今は一度医務室へ参りましょう」
「リリ……でも……」
「分かってます。湊様が何ともない事は。ですが、今は参りましょう」
リリーに手を伸ばされ、湊はそれを取って立ち上がった。
周りの人々は心配そうに眉をハの字に下げて湊とリリーを捉えた。
「こちらです。湊様」
この手にしか確かな物を感じられず、湊は引かれるままに歩きだした。
すると、女性もその後について来た。
「私達は医務室に行く。マキナとイシュワは、ヘイバンとペネオラが帰ったことを所長と安全管理委員に伝えに行ってくれ」
「分かりました!リリー、後でね」
「はひ、イシュワさん」
「行こ、マキナ」
イシュワと呼ばれたお団子頭が手招く。マキナと呼ばれた白髪の青年は首を振った。
「……いや、イシュワだけで行ってきてくれるかな。万が一ヘイバン様が倒れられた時にヤージャ様だけじゃ医伯の下まで連れて行かれない。だから、僕はヘイバン様のおそばに居ようと思う」
「そうだね。分かった!ヤージャ様、あたし行ってきます」
「頼む」
お団子頭が一人でどこかへ駆けていく。
湊はそれを見送りもせずに、リリーの向かう方に向かった。
辺りに見えている建物の壁に一列に書き込まれた金色の文章は一つも読めるものはなく、湊にこの場所の異常性を知らせるようだった。
建物に囲まれた中庭に硬い靴音が四つ響く。
地面は白地にグレーの繊細な縞模様が入る大理石が敷き詰められていて、まるで高級マンションのエントランスアプローチだ。
噴水の横を抜け、オクラの断面のような形になるように低木と高木がセンス良く植え付けられた植栽の脇を抜け、何本もの柱がアーチ状に天井を支える外の渡り廊下に辿り着いた。柱は特別な模様もない、愛想のないものだ。まるで西洋にある聖堂を最先端の無駄を削ぎ落とした現代建築で建て直したような具合だった。どの壁や柱にも何か文章が書かれているので、余計な装飾は不要と言ったところか。
湊の手を引くリリーは不安そうに湊を見上げた。
「み、湊様……。あ、あの……ここは――」
湊は軽く手を上げてそれを押し留めた。
「――分かってる。言わないで」
奇跡的に声は震えていなかった。
すると、通り掛かった青年が「イズ?ペネオラ君?」と声を掛け、湊はこれは誰だろうと思った。
海のような濃紺の長髪を一つに括り、前に垂らしている。端正な顔つきをしていて、瞳は透き通るグレーだった。
リリーが「プラーフナ様、この方は――」と答えかけ、ヤージャと呼ばれる女性が首を振った。
「二人は混乱しているんだ。二人とも重症だ。プラーフナ、お前の気持ちは分かるが後にしてやってくれ」
「……そうですか。ヤージャ女史、イズアルドを頼みます」
「当たり前だ」
「――イズ、良くなったら俺の研究室に来てくれ」
湊は肩を叩かれ、瞬いた。
「……イズって誰ですか?」
「湊様、ヘイバン様のお名前です」
「え、ヘイバンってファミリーネームだったんですか?」
「はひ、そうですよ。イズアルド・ヘイバン様です」
「わー……なんか、ずっと勘違いしてたな」
そのやり取りを見ていた紺髪の青年は目を丸くした。
「……イズ、本当に大丈夫か?もしかして俺のことも解らないのか?トクマ、トクマ・プラーフナだよ」
「い、いやぁ……すみません。俺、異人平文じゃなくて……」
「これはひどい……。早く医伯にかかったほうが良い」
背をそっと押されてしまい、リリーは湊の手を引いた。
「行きましょう」
建物の中に入ると、石造りの廊下を抜け、広いエントランスに出た。
たくさんの人が湊達を見て「ヘイバン!ペネオラ!」「帰ったのか!!」と声を掛けてくる。
円柱状の広い空間には会社のエントランスの如く受付があり、そこに座っていた者達も皆歓迎するような顔をして湊を見ている。受付嬢の中には涙ぐむ者もあった。
エントランスの天井はかなり高く、吹き抜け構造になっている。中心には地球と太陽、それから二つの月を象ったシャンデリアのようなものが星の輝きを放っていた。
地球が中心のような顔をしているので、湊の言葉で最も近しい物を言うのなら、巨大な天球儀のようだった。
湊は他人事のようにそれを見上げ、リリーに手を引かれて大きく弧を描く二本の階段の前を通り過ぎて行った。
また廊下を行き、一つの扉の前で立ち止まった。
ヤージャが扉を叩く。
「――失礼するぞ。サラニカ、転移実験で姿を消していたイズアルド・ヘイバンとリリー・ペネオラが帰った。二人とも極度の混乱状態だ。診てやってほしい」
「まぁ!ついにお帰りになったのですね!さぁ、お入りになって」
部屋の中で手招く女性は茶色い髪を一つの太い三つ編みにしていた。光が当たった場所が薄緑色に光る。
これはどう言う原理で、どうやって色を出しているのだろうと湊は注視した。言葉は悪いが蝶の鱗粉や玉蟲の背の輝きに似ている。
こんなヘアカラーを作れれば売れそうだ、企画にいた訳でもないが湊はそんなことをぼんやりと思った。
踏み入った部屋の中は大量の植物やガラス瓶が置かれていて、医務室と言うよりも温室のようだ。
見渡していると医務員に椅子を勧められた。
「さぁヘイバン様とペネオラさんもお座りくださいましね」
「あ、どうも……」
「失礼します……」
二人が座るとヤージャも手近なところにあるカウチに座った。
「ペネオラはヘイバンが死んでいると思っている。ヘイバンに至っては自分の名前すら覚えていない……」
「まぁ……酷い混乱ですわね。ヘイバン様、私が何者かは覚えておいでですか?」
「いや、覚えてるも覚えてないも、俺は平文じゃないんです。ここじゃない世界の、ヘイバンの孫なんです。だから分かりません……」
医務員は痛ましげに目を細め、手元のカルテに何かを書き込んだ。
「――では、ヘイバン様。いえ、あなたの本当のお名前は?」
「漆沢湊です……。俺、兎に角あっちに帰らなきゃならないんですけど……」
「落ち着いて下さいね。まずはそのお名前の意味を教えて下さいますか?」
「……意味?」
「そうです。お名前の意味です」
「船出の水門の意味で……湊ですけど……」
「湊様、ですわね。ありがとうございます。私はサラニカ・クボイ。純白のカケラを意味します。どうですか?思い出せますか?」
あくまで相手は湊を平文として扱うらしい。何から説明するべきか湊は悩んだ。
「いや……本当に違うんです。転移実験が誤発して平文は俺の世界に来ました……。そこで俺の祖母と出会って、結婚して……父や叔母を産んで……俺が産まれました。俺は向こうでリリに会ったんです。平文が死んだ後に」
聞いていたリリー以外の者達は瞬いた。
「ヘイバン様?それでは貴方様は時を超えたことになってしまいますわ。時は不可逆でございます」
「そんな事は俺も分かってますよ。だけど――」
「落ち着いて下さい。しー……。大丈夫ですわ」
サラニカに膝の上に置いていた手を撫でられ、湊はこれは完全に頭がおかしくなったと思われていると悟った。
もし向こうで誰かがそんな事を言い始めたら、精神に異常をきたしていると思うに決まっている。特に、元々いた人と顔が似ていて、同時に行方不明になった者と揃って戻れば尚のこと荒唐無稽な話に聞こえるのかもしれない。
魔法のある世界なのだから、当然信じてもらえると思ったが――魔法は何でもかなえる力ではなく、理論の上に成り立つ科学の仲間だという事を思い出した。
信じてもらうには相当骨が折れる。正直、信じてもらえずに病人に分類されて終わる未来すら見える。
「クボイ医伯、湊様のおっしゃる事は本当です。湊様はヘイバン様によく似ていらっしゃいますが、全く異なるお方です。こちらを見ていただければご納得いただけます」
リリーがウエストバッグを開く。写真を見せようと言うのだ。
「ペネオラさん?あなたも落ち着いて下さい。もし本当にこの方がヘイバン様ではないのなら、省にいて頂く事はできません。ヘイバン様は死亡による退職になりますし、省の寮も片付けてご家族に弔意金をお渡しする事になります」
湊はそれを聞くと、バッグの中からリリーが取り出した写真の入った封筒をサッと取った。
「湊様?」
知らない場所で、家も職も、何もかも持たない状態で放り出されるのは御免だ。何も出来なくても仕事中の事故なら席は確保されるだろうし、雑用まで落とされても小額でも金がもらえれば生き延びられる。
「す、すみません。ちょっと今は混乱してて……えっと……俺、そうですよね。はは。ちょっとづつ分かって来ました。うんうん」
リリーが日本に暮らす事は紙一重だった。戸籍なし、健康保険なし、後ろ盾無し。それがどれだけ危機的状況なのか、あちらで何度も考えた。
こちらの世界にも戸籍や保険があるかは知らないが、確実に帰れる保証のない今、平文の身分を失う事はできない。
あちらだったら湊が必死に働いてリリーを大切に真綿に包むように守れたかもしれないが、この子に湊があっちでできただけの事ができるとは思えないし、そうされたいとは思わない。そうしてくれるとも――思えない。
「ヘイバン様は少し落ち着かれて来たみたいですわね。今は記憶に歪みが起きているようですが、時間をかけて思い出して、修正して行かれるといいと思いますわ。混濁もじきに治ります」
「は、はは。そうですね。リリも少しづつ良くなると思います。ね。大丈夫?」
リリーは信じられないものを見るような顔をしていた。
「湊様……」
「リリ、分かるね?」
湊は分かってくれと必死で心の中で願った。リリーとならば言葉がなくても分かり合えるはず。信じるしかなかった。
見詰めるリリーは数秒考え――そして、小さく頷いた。
「はい。ヘイバン様……」
「じゃ、そう言うわけで俺達はもう行きます。失礼しました」
湊はどこに行けば良いかもわからないが、リリーに写真を返して取り敢えず立ち上がった。
「あ、お待ち下さい。ヘイバン様、一応お薬をお出しします」
いらない。いらないが、湊は渋々座った。
「気分が優れない時にお飲みいただく物と、混乱が酷くなった時にお飲みいただく物、それから念のために頓服ではない毎食後にお飲みいただく物をお出しいたします。食後のお薬は心を休めると同時に朦朧状態になる事を抑えます。どこか他に問題のありそうな場所はございますか?」
「……いえ。それだけいただければ結構です」
「ペネオラさんもそれでよろしいですか?」
リリーは首を振った。
「私は大丈夫です。ヘイバン様に嗜められてはっきりして来ました」
「それは良かったですわ。やはり、最後に頼れるのは師ですわね。では、ヘイバン様の分だけ調合しますわね」
サラニカは立ち上がると、天井から吊り下げられているエアープランツのような物をいくらか千切り、魔法陣の書かれたガラスの箱の中にあるキノコを取り、紙の上に乗せた。
そして、戸棚の中にしまわれていた普通のシャーレより背の高い腰高シャーレを取り出し、中に培養される菌を白金耳で掻き取って追加する。腰高シャーレの蓋にはやはり魔法陣が書かれていた。
道具はやはり洗練されて特化して生み出されるので、多少文化が違っても似たような物が使われるのだなと湊は妙に感心した。
サラニカは腰のバッグから付けペンを取り出すと、紙の上に乗せられる草とキノコ、菌類の上、――中空にさらさらと魔法陣を書きつけて行った。
「わぁ……」
魔法陣の文字は青白く光っていて、湊はその幻想的な光景に思わず口を開いて魅入った。
「――どうかなさいまして?」
サラニカに問われ、湊はすぐに首を振った。
「い、いえ。ちょっと疲れてまして……」
「まぁ、申し訳ありません。すぐにお作りしますので、もう少しお待ち下さい」
書き込まれた魔法陣は素材の上にゆっくりと落ちていき、素材に重なるとボッと火を上げた。
湊は思わず身を引いて顔の前に手をやったが、誰もそんな真似はしていなかった。
「――ヘイバン、お前本当に大丈夫か?サラニカ、目眩の薬も出してくれ」
「かしこまりました。思ったよりもお悪いようですね。ヘイバン様、すぐにお作りしますのであちらでお待ち下さい」
サラニカに指し示されたのはカウンセリングオフィスのようになっている一角だ。
三人程座れるソファの前に一人掛けのソファが置かれていて、それぞれの手元にサイドテーブルがある。センターテーブルはなく、敷かれている丸い絨毯の魔法陣がよく見えた。
リリーがそちらへ向かおうと手を差し伸ばしてくれる。湊はリリーの手を取って立ち上がり、そちらへ移動した。
もう少し魔法を使う姿を見たかったが、あまりジロジロ見るのも不審に思われそうだった。
二人で広いソファに座ると、湊は大きなため息を吐き目元を抑えた。魔法陣の上は不思議と心が多少休まるようだった。そう言う効果があるのかもしれない。
「――ヘイバン様、平気ですか?」
そう声をかけて来たのは白髪の青年だった。
「……平気です。ご心配おかけします」
「……本当に記憶が混濁されているんですね。僕の事はお分かりになりますか?」
分からないので湊は首を振った。
「僕はマキナです。マキナ・ベルガメント。神を呼び出す仕掛けの意を持つ者です」
(……デウス・エクス・マキナか)
と言う事は、湊の耳にはマキナと聞こえているが、もしかしたら違う発音の言葉なのかもしれない。
しかし深く考えても疲れるだけなので思考を破棄する。先ほど名乗ってくれたサラニカは純白のカケラという意味らしいが、それに該当する言葉もサラニカと言う言葉も知らない。サラニカはここの神の翻訳に引っかからずに音として聞き取っていると言う事だろうか。頭が痛くなりそうだ。
取り敢えず湊は向かいに座ったマキナに頭を下げた。
「ベルガメントさん、またよろしくお願いします」
「……ヘイバン様。僕の事は前と同じようにマキナとお呼びいただいて結構ですよ。それに、敬語も結構です」
「そ、そっか……。マキナ君……」
「はは、君付けとは。ヘイバン様、僕と距離を取りたいので……?」
マキナの視線は何故か妙に冷たく感じ、湊は目を逸らした。
「い、いや……違うよ。ただ、まだよく思い出せないから。マキナ、ごめんね」
「……いえ。それにしても、ヘイバン様はペネオラとどちらへ行かれていたのですか?ヤージャ様は四次元に存在する亜空間か天上界に飛ばされたのではないかと仰っていましたが」
「まぁそんな所かな」
「ではどうやってお帰りになったのでしょう」
「世界に穴を開ける魔法陣を書いて――あ、いや……。その……」
「世界に穴を……?」
「はは、いや。混乱してるみたいだ。忘れて」
「……そうですか。教えて頂けないとは少し寂しく思います。ともかく、出口の魔法陣からお戻りになったと言う事は離れた場所で転移の魔法陣を書かれたのですか?」
「そうだね。リリがそうしてくれたよ」
湊が苦笑いを浮かべると、繋いだままだったリリーの手が震えた。
「ほ、本当に……本当に申し訳ありませんでした……」
「あ、いや。良いんですよ。俺が悪かったんですから」
湊は繋がれている手を親指で軽く撫でた。
そして、気付いた。湊は今、自分のことをたった一人だけ理解してくれていて、助けになってくれるリリーをとても特別な存在だと感じてしまっていることに。
この子もきっと、湊ではなく助けになった平文の孫として湊に懐いていた。それをここに来て痛感してしまった。
別れを見越してずっと距離感には気を付けて来ていたが、湊はまた距離を間違えないようにしようと考え直した。
この子の中に生まれていた湊の側にいたいと言う勘違いは、今後は「助けなくてはならない」と言う責任感に変わって行くだろう。
湊も分かってくれるリリーに縋りたいと思って行くだろうが、感情を履き違えないようにしなくてはいけない。
湊は繋いでくれていた手をそっと離した。
「みな――いえ……ヘイバン様……?」
「そんな顔しないで。まぁ、何とか解決しよう……」
「……そうですね。ヘイバン様の書斎には出口の試作品がありますし」
「……だよね」
とは言ったが、解決できるとは思えなかった。湊の頭の中は混ぜた後のビビンバの方がマシなくらい滅茶苦茶に感じた。
(……落ち着かないと。この子は……今の俺に似た状況で……それも最初は俺が魔法陣なんか作れないって言ってた状況で……あんなにちゃんとしてたんだから……)
少し考え直してみる。
必要なのは転移入口の魔法陣。転移出口の魔法陣。この世界に穴を開ける魔法陣の三つ。
入口の魔法陣はリリーに作って貰えば良い。
出口の魔法陣はリリーが言う通り祖父の書斎にある。ただ、書かれているノートはしまわれているし、試作品と言うのが引っ掛かる。もし入口を潜って、出口が作動しなければいつどんな時代のどんな場所に行くかわからない。
それから、この世界に穴を開ける魔法陣は、あちらの世界の法則に穴を開けるものとは異なるとしか思えない。万一同じだとしても、湊という生体は利用出来ないので別途調達が必要だ。ちょっと試してみようなんて気楽に魔法陣を書いて、万が一力塊誤作動を起こせば湊は歪んでしまうし、発動しても燃え尽きる危険がある。
――いや、もしかしたらこちらであちらの魔法陣を使っても焼失も歪みもしないかもしれない。こちらに通用しない法則があちらにはあったのだから、あちらのものなら無事に何とかなるかもしれないのだ。
湊はそう思うと、さっき庭で渡してもらって尻のポケットに入れておいた平文の付けペンを取り出した。
「――何を」
マキナが身構えて付けペンを引き抜く。
湊は突然付けペンを取り出したりするのは悪いことだったかと苦笑した。
「いや、ごめんね。ちょっと試したいことがあって」
「試したいこと……?」
湊に中空に文字を書く力はないので、リリーに手を伸ばした。
「ごめん、ペネオラさん。一枚紙もらって良い?」
「……湊様……」
「だめかな?」
「……いえ。どうぞ」
「ありがとうございます。えーと、それから……インク……」
インクはないかと湊がキョロキョロと見渡すと、マキナが手元のサイドテーブルに置いてあったインク壺を渡してくれた。壺はまるで高級コロンの瓶のように凝った見た目をしている。
「何かメモなさるんですか?羽ペンならこちらにもありますよ。杖が汚れてしまいます」
「あ、いや、気にしないで。本当に」
湊はインク壺を開け、付けペンに少し吸わせると一度瓶を閉めた。
サイドテーブルを軽く引き寄せて紙にペンを下ろす。
カリカリと軽く紙を引っ掻く音がする。
(……狭い中で独立した世界同士を繋げる魔法陣。二つの世界の因果を繋げる……釈尊の教え……)
――諸法無我
その文字は書き込まれると共にぐにゃりと変形して行った。書いたはずのインクが紙の上で動いていくのだ。
不覚にも面白いなと思い眺めていると、書き込まれていた紙はまるでマグマに放り込まれた鉄板のようにどろりと歪み始め、隣のリリーが慌てて立ち上がった。
「み――ヘイバン様!破いて下さい!!」
「え?これですか?」
リリーを見上げると、横から手が伸び、歪み始めた紙は思い切り破り捨てた。
「ヘイバン!お前何書いてんだ!?」
怒りと焦燥感の混ざる声に振り向くと、ヤージャが顔を青くしていた。
「あ、す、すみません。ちょっと試したいことがあって……」
「馬鹿か!どんな強力なもんを試したか知らんが、見ろ!!」
指をさされたサイドテーブルは――まるで水面に水滴を落としたかのように天板が抉れてめくれ上がり、奇妙に歪んでいた。
「……こ、これが……力塊誤作動……」
「こんなに早く強い力塊誤作動を起こす魔法陣なんて、お前は一体何を書いたんだ!転移の魔法がうまくいかなくて焦る気持ちは分かるが、一度頭を冷やせ!!」
猛烈に怒られたが、湊はその凄まじい机の歪み方に少し感心してしまっていた。
「す、すみませんでした。以後気をつけます」
「以後気をつけますで済む話か!お前はまだ混乱状態だし、今は何も書こうとするな!魔法はお前の頭が治ってからにしろ!!大体、お前がいなくなって!お前達がいなくなって……!どれだけ……どれだけ私達が心配したか……!!」
ヤージャの瞳からはぽつ、ぽつ、と涙が落ち、湊はギョッとした。
年上の女性に泣かれると言う湊の人生切って初めての体験だった。
「す、すみませんでした。ヤージャ……さん?落ち着いて下さい……。本当、すみませんでした……」
ヤージャは目元の涙を払い捨てると、尚怒りを感じさせる目で湊を見下ろした。
「私はもう、二度とお前には会えないとまで覚悟をしたんだぞ……。お前は今日が何日か分かってるのか……」
「い、いえ……」
「九日だ。お前達が姿を消して三日経っているんだ……」
湊は思わずリリーと目を見合わせた。
「た、たった三日だったか……」
「何がたった三日だ!!三日も経ったんだぞ!!誤発からようやく帰ってきたお前が今度は歪みの大きい力塊誤作動!?ふざけるな!!」
何となく理不尽な気持ちになると同時に、たった三日でこれだけ大騒ぎになるのかと思った。いや、ここをファンタジーの世界だとたかを括って少し下に見ていたのかもしれない。
あちらだって三日も人がいなくなれば、捜索願いが出されてしかるべき日数だ。
「まぁまぁ、ヤージャ様。落ち着かれて下さい。――さぁ、ヘイバン様。お薬ができましたわ」
サラニカが渡してくれた袋には処方箋の紙の封筒のようなものが四つ入っていた。
「――こちらが気分が優れない時にお飲みいただく物、混乱が酷くなった時にお飲みいただく物、目眩がした時にお飲みいただく物。こちらの三つは頓服ですので、ご自身で判断されてお飲み下さい。どれも一度飲んだら、四時間は間隔を空けられますよう。それから、食後にはこちらを。一日三回お願いいたしますね」
湊は取り敢えず紙袋を受け取った。一つも飲むつもりはない。
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
「いいえ。ヘイバン様、ヤージャ様は三日三晩、夜通しヘイバン様をお探しになっていらしたんですよ。安全管理委員会が査問にせっつく中で、本当に心配してらっしゃいましたわ。もちろん、ヘイバン様に色々教えていただいた私もずっと心配して参りました」
「そうでしたか……」その呟きは、祖父のかつてのこの場所での活躍を思い漏れたものだ。この女医も湊よりはいくつも年上のような気がする。
「……ともかく、一度研究室に戻るか。行くぞ」
ヤージャが歩き出すと、リリーは湊の手を取り、その後を追った。
「お世話になりました。クボイ医伯、失礼いたします」
「何かあればいつでもいらしてくださいね。ペネオラさんも、ヘイバン様も」
「ありがとうございます。じゃあ」
四人で再びエントランスのような場所に出ると、女性が駆け寄ってきた。灰色の短髪で紫と青の入り混じる美しい瞳をしていた。
「イズ!帰れたんだね!本当に冷や冷やさせてさ!」
「は、はは。どうも」
「ふふ、なんだ〜?どうもなんて、他人みたいに言ってぇ」
うりゃうりゃと小突かれ、困ったなと思っていると、ヤージャがしっしと手を振った。
「ニカ、ヘイバンは記憶がちょっとねじくれてるんだ。今は少しほっといてやれ」
「え?ヤージャ様、どう言う事なんです?」
「覚えてることと忘れてることがある。夢を現実だと思ってる感じもあるな。それに、見ろ。誤発の後遺症か髪もこんな真っ黒だし、何となく色々変わっちゃってるだろ」
「……イズ、大丈夫なの?」
湊は苦々しげに笑った。
「だ、大丈夫……です」
「ですって……もしかして私も忘れちゃった?ニカ・ドーリマンだよ?ちゃんと見て」
ニカはリリーが繋いでいてくれた湊の手を取ると、両手を引っ張り、至近距離で瞳を覗き込んだ。
こんなに近くで女性と見つめ合う事なんてない。湊はとりあえず頷いた。
「わ、分かってる……よ。大丈夫。大丈夫だよ」
「……本当かなぁ。取り敢えず、ゆっくり過ごしてね。少しくらい休んだって、誰も文句は言わないからさ。そのくらいすごい実験だったんだから」
「はは、ありがとう。そうさせてもらうよ」
「そーしろ。ヘイバンは今は何書いても力塊誤作動を起こしそうだ」そう言ってヤージャはため息をつくと、「行くぞ」と声をかけて歩き出した。
ニカは握っていた手をそっと解くと、惜しそうに湊を見つめた。
「じゃあね、イズ」
「う、うん。じゃあ」
手を振ってくれるので遠慮がちに手を振りかえしておく。
祖父の人間関係が全く分からないので湊は小さなため息を吐いた。
歩いていくと、受付の後方に広がる階段に差し掛かる。
階段の手すりは幾何学模様の集合体のようで、何となく触れる事は憚られた。
三階分階段を上がると、階段から四個目の扉の前には六名ほどの人集りがあった。
湊はあれが平文に用がある人々でないことを祈った。