#13 旅立ち
翌朝、出かけていく湊を見送り、扉が閉まるとリリーは短いため息を吐いた。
そして、気合を入れ直すように声を上げる。
「やります!」
自分しかいない異世界情緒溢れる部屋に少し声が響いた。
ノートを開き、護符との接続位置をもう一度考え直す。貰ったノートはもうじき、湊が子供の頃に記した所に追い付いてしまう。
一生懸命やっていると、ヘイバンの研究室にいた事を思い出せて幸福だった。それに、没頭すれば目前にしている別れから目も逸らせる。
ある程度納得がいくと、朝に湊が開いてくれた封印されていた缶とチョークを持って屋上に上がった。
この屋上に入る前の所にはチェーンが掛けてあって、何か札がかけられている。多分、本当は入ってはいけない場所なのだろう。
缶を開き、想定している魔法陣の一番端に湊の護符を置いた。それの上にヘイバンの杖を置く。
一方、湊の護符と一番遠くなる予定の場所に缶の蓋を置いて、それの上に指輪を乗せる。
リリーの魔法陣はその大きさから缶の中にしまう事はできない。
缶の蓋の魔法陣との接続方法も考えなくてはいけない。焼失していないので効果は継続中、もしくは最初から発動していない。
どちらでも大丈夫なように何パターンか考えて、兎に角書いてみるしかない。
屋上は猛烈な日射で、世界が真っ白と濃い黒い影の二色しかない様に見える。目が眩みそうだった。
空を見上げ、飛空挺が信じられないほど高くを飛ぶのを見送った。
(鳥みたいな形……)
変わった形だ。羽ばたいているわけでも、船の帆もないのに、どうやって風を掴まえているのだろう。
向こうに帰ったら、少し研究しても良いかもしれない。
――誰の下で。
リリーはチョークをギュッと握った。
(ヘイバン様……。あなたも湊様もいない世界に私は……)
湊。思わず浮かんだ名前を、首を振ることで消した。
よその世界で暮らすと言うことの厳しさ、難しさをリリーはこの八日間で痛感している。言葉がわかっても、荷物の受け取り一つですら難しかった。
判子を押してくれと言われ、印など持っていないのでインク壺に指を浸してそれを押そうとしたら驚かれた。
サインを求められ、仕方なくあちらの言葉で書けば、郵便屋は大層困ったように笑って帰って行った。
ここで暮らす様な事になれば、赤ん坊として全てを学び直すことになってしまう。
湊は面倒を見てくれると言うだろうが、それがどれほど迷惑なことなのかは想像に難くない。
それに、湊や桜のあるべき未来に異物が混ざる事で何かを邪魔したりしたくはない。
「やろ……」
しゃがみ込み、洗礼の魔法陣からあちらの神の力を借りられる様に魔法陣を書いていく。
それから、湊の話してくれた難しい"時間"と天上界――いや、"宇宙"の話をうまく転移の魔法陣に落とし込む。
あんな事を言う人はあちらでは一人もいなかった。
夢中で魔法陣を書いていると、日はどんどん高く昇っていき、リリーから伸びていた影は自分の真下に来た。
ぽつりと汗が顎を伝って落ちる。
気付けば空腹と脱水で倒れそうだった。
三分の一程は完成した。
リリーは一度湊の部屋に戻り食事にする事にした。湊はよほどチャーハンが好きらしく、チャーハンが三袋もあった。
今日はどれを食べさせてもらおうかと冷凍庫を覗き込む。
この冷凍庫もどうやら電気で動いているらしい。あちらで冷凍庫と言えば、買ってくるのか、自分で書くかした温度を下げる魔法陣を庫内に貼り付けて使うものだ。月に一度は取り替えなくてはいけない。
一生効果が継続する冷凍庫なんて、一体いくらするのだろう。恐ろしい値段がしそうだった。あちらで作るならかなり巨大な魔法陣が必要そうだ。
湊の部屋は小さいが、ものすごく高価そうな道具がゴロゴロしている。
リリーはスパゲティの絵が描かれている袋を手にすると、ハイテクそうな冷凍庫を閉めた。
湊の書いて行ってくれた数字の一覧を見ながら、スパゲティを電子レンジで温める。
この機械は魔法にかなり近いのではないだろうか。黒い箱の底に丸が書かれ、その中に何か一言書かれているから。
リリーはあちあちに温まった昼食を食べ、たっぷりの水を飲むと再び屋上に上がった。
また集中して書き込んでいく。
日はどんどん頭上から移動を始め、西へ沈んで行く。
汗を拭う。照らしてくる眩しい陽が落ちれば落ちるほど、焦りから汗が出てしまいそうだった。
あの日湊が護符を書いてくれた時と同じ様に、ヘイバンは魔法陣を書きながらたくさんの話を聞かせてくれた。それは学校で聞いたこともたくさんあったが、他の知識と結びつけて教えてもらえる全てが新鮮で、学校で習った必要か必要じゃないか分からないようなことも何もかもが色付いて見えた。
『リリ、一度休憩しよう。無理矢理頭に詰め込んでもすぐに忘れてしまうからね』
優しく導いてくれていた声がまだ聞こえてくる。
リリーがもっとやると言うと、いつも困った様に笑っていた。
『リリは少し頑固だね。だけど、それがリリのいい所なのかな』
そう言ってくれたヘイバンの姿が――『リリは少し頑固だね』と月明かりに照らされる廊下で笑った湊と重なる。
よく似た相貌、よく似た色の瞳、よく似た心根。
湊のことを去って行ってしまったヘイバンに重ねて見る事は、まるで湊本人を見ていないようで失礼な話だ。
湊は湊で、ヘイバンはヘイバンだと言うのに。
それでも、二人はいちいち似ていて重なってしまう。ワタルはイロハに似ていたのに。
太陽はまるでリリーを置き去りにする様に沈んで行った。
空には数えられる程度の星が昇り、孤独そうなたった一つの月がリリーを見下ろした。
ここの世界は何でも二つ同時に何かが存在する事を許さない。
ヘイバンとリリー。ヘイバンと湊。湊とリリー。
あちらの世界よりも、余程残酷なルールに縛られて存在している。
リリーは帰りたいのに帰るのが辛くて泣いた。
故郷には親も兄弟もある。友達も、仕事も、生活も、恩も、思い出もある。頼まれた渡さなければならないものもある。
何度考えても帰らなくてはならないと思う。
だが、心の中に住む少女の部分がむずかって仕方がない。
どうして世界同士を繋げる事はこれほどまでに難しいのだろう。二つ在る事を許してくれないのだろう。
こちらの世界の門を開ける時に湊という強力な生体一式魔法陣が必要だったように、もし、あちらからこちらに来たければ、あちらの世界の門をこじ開ける生体一式魔法陣が必要となるだろう。
それは、誰かの命を燃やして捨てる事に他ならない。
もし今冷徹になると決めても、湊のように大切に育て、多くの知識を与え、願いを込めて育んでしまった愛子を魔法陣の一部として使うことができる者なんてこの世にいるのだろうか。
神はいつどんな時代でも場所でも大きすぎる願いを叶える時には生贄を欲するものだ。
リリーは魔法陣の前に座り込み、ぽつぽつと雨の様に涙を落とした。
「……湊様……」
誰も返事をするはずもない言葉に唇を噛んでいると――
「――大丈夫?」
その声にリリーはハッと振り返った。
見上げた視線の先には、この薄明るい夜空よりも、満点に輝く星空よりも、ずっと深い闇の色をした髪と瞳があった。
「ただいま。うまくいかない?」
リリーは静かに首を振った。
「……うまく、行きます……。だから、辛くて」
「はは、怒るかもしれないけど、そう思ってくれるのが嬉しいよ。俺もそう思うから」
「湊様……私、すごく辛いんです……。ここにまた戻ってくる方法を考えたり、あっちの家族や友人の事を考えたり……ぐじゃぐじゃです……。余計なこと考えてないで早く完成させて離れないともっと辛くなるだけだと分かっているのに……」
「そうだね。全部よくわかるよ」
湊はまだリュックを背負ったままで、帰ってきてすぐに屋上に来た様子だった。
リリーの隣に座り、頭をわしわしと撫でると割り切れないような辛そうな顔をして笑った。
「ペネオラさん、俺達も俺達の世界も明日にはきっと離れ離れになるけどさ。別れも言えない別れよりは幸せなんだって、僕はずっと思ってるんだよ。お祖父ちゃんの最期の時に僕はそばに居られなかったし、別れも言えなかった。後悔しちゃうよね。でも、君にはちゃんと僕の言葉で元気でねって言えるみたいだから――良かったって思う」
「私も……そんな風に思いたいです……。でも、思い切れないんです……」
「まぁ、僕も百パーセントはそう思えてないよ。人間だもの、ってやつだね。でも、少しでも良かったって思えるようにしたいって思う。お祖母ちゃんはさ、お祖父ちゃんに最後に元気でねって言ったんだ。二度と触れないお祖父ちゃんを、そう言って見送った。一番大切な人に言う挨拶ってどんな時もそんなもんなんだなって、なんかあの時思い知った。――はは、何言いたいのかよく分かんなくなっちゃった」
湊は自嘲じみた笑いを漏らし、リリーはゆっくり首を振った。
「……すごく、よく分かりました。ありがとうございます。でも、やっぱり辛いですよぉ」
笑ったリリーのまつ毛は濡れていて、瞬くごとに涙が落ちた。
二人は出来かけの魔法陣の前で座り、肩を寄せ合って笑った。
同じ場所で生まれて来られたら楽だったのに。
「――湊様、私はあちらに帰ったら、きっとあちらの世界の法則をこじ開ける魔法陣を書いてみせます。生体一式ではない魔法陣を」
「じゃあ、俺もこっちで転移の出口と入口の魔法陣を――いや、ダメか。そうすると入口は書いて渡さなきゃいけなくなるか。そしたら、俺はそっちの世界に空いた穴をこっちに繋げて固定する魔法陣を作るよ。なんて、また変な護符が出来上がりそうだ」
「ふふ、変じゃないです。私の大切な道標の魔法陣ですもん。湊様……私とヘイバン様が旅立ち、そして帰ってくる場所」
リリーは湊の肩に少しだけもたれると静かに目を閉じた。
「……帰って来てくれる頃には俺もきっとお爺さんだろうなぁ」
「私も大お婆さんです!」
「ははは。じゃあ、どんな人生を送ったのか発表し合わないといけないな」
「幸せになってなかったら怒りますよぉ!」
「――じゃあ、明日これが完成したら、幸せな旅立ちに乾杯するか」
「私、未成年ですよぅ」
「……何?異世界なのに成人年齢二十歳なの?」
「こっちも二十歳なんですか?」
「はははは。変なの」
「ふふ、変なのはこの世界ですよぉ」
二人はどちらともなく立ち上がり、書きかけの魔法陣の上に置いてあった缶の蓋や湊の護符を手に部屋へ戻って行った。
◇
「すみません、本当。明日は普通に行けるんで。――はい。――はい。――いえ、疲れが出ただけだと思うんで。――はい。――ありがとうございます。失礼します」
湊が虚空に向かって何度も頭を下げる。
リリーは何をやっているんだろうとその様子を眺めた。
「……ふぅ。すっごい罪悪感」
「湊様、大丈夫ですか?」
長い休みを取った後に追加で休みを取る罪悪感よ。
ただ、二日も体調不良のお膳立てをしたのが効いていて、今日だけじゃなくもっと休むか聞かれた。
流石に一昨日、翌日難しいかもしれないと言ったのに昨日出社しただけはあった。
「大丈夫ですよ。じゃ、やりましょうか」
「――はい。どうぞよろしくお願いいたします」
リリーは祖母がやっていたように床に膝と手をつき、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、平文をよろしくお願いいたします」
湊も足を一度きちんと畳み、深々と頭を下げた。
二人はほとんど同時に顔を上げた。
「行こう――って言いたいんですけど、ペネオラさん。その前に、一枚良いですか?」
湊がスマートフォンのカメラモードを立ち上げるとリリーは頷いた。
「もちろんです!それ、私も……あの……欲しいです」
「もちろん。じゃあ、これ撮ったら俺印刷しに行くんで、一枚お渡しします」
「ありがとうございます!高価なものをたくさん頂いてしまって、わがままをたくさん聞いて頂いて、本当にありがとうございます」
「いやいや、本当に高価じゃないですよ」
湊はスマートフォンを本棚に乗せ、セルフタイマーにした。
今日の服は、なるべく平文の物に身を包もうと、平文のベージュのお洒落パンツにバンドカラーのシャツ、若干暑いが揃いのベージュのジレだ。ジャケットは貰って来なかった。
馬鹿げた発想かもしれないが、祖父のものを多く身に付けている方が魔法が成功しそうだと言う――一種の願掛けだ。
二人は少し畏まってカメラの前に立ち、シャッターが切られるのを待った。カシッと音が鳴る。
「どれどれ」写りを確認し、湊はどこか寂しげに笑った。「――これも宝物だ。じゃあ、俺はちょっと先にコンビニダッシュしますね」
「商店ダッシュですね!私は上で昨日の続きを進めています。よろしくお願いいたします!」
「はーい!」
二人は玄関を潜り、湊は階段を降り、リリーは登って行った。
リリーが屋上に辿り着けば、昨日必死に書いた魔法陣は朝露でふやけたりする事なく、輪郭を強固に保っていた。もしふやけていたら下手に触れずに乾くのを待ち、多少緩んだ場所の修正をしようと思っていたのに。
(――まさか魔法が?)
リリーは確信する。この魔法陣は正しく書ければ発動すると。
昨日、まずヘイバンの書いた洗礼の魔法陣に沿うように書いていたことが功を奏したのだろうと思えた。あちらと繋がりながらも、一晩中途半端な状態で放っておいて力塊誤作動を起こさなかったのはこちらの世界故の奇跡。
いや――「遠き故郷の神々よ。そしてこの地の神々よ。優しきご加護に心から感謝いたします」
リリーは湊が買ってくれたお守りに触れ、感謝を述べた。
無機質な匂いのする風が、リリーの柔らかな髪を揺らした。
「頑張ります」
昨日想定していた所に湊の護符を置いて、その上にヘイバンの杖を載せるとリリーは魔法陣の続きを書き始めた。
もくもくとやっていると、今日もじりじりと温度が上がってきた。
汗を拭う。
――そして、「っひゃん!!」首筋に冷たいものが触れリリーは飛び上がった。
「っとと、はは。驚きました?」
振り返ると湊がアイスを咥えていた。
リリーの分のアイスの包装を解き、差し出してくれた。
「驚きますよぉ!もー!」
「ははは。ほら、食べて食べて」
「いただきます!」
すぐにアイスを受け取り、甘く冷たい食感にうっとりと目尻を下げた。
「湊様、私あっちに帰ったらこの味のアイス作ります!」
「じゃあ、俺もこっちで作ります。そんで、いつかまた会った時にどっちのアイスの方がうまいかバトルしましょうね」
「負けませんよ!」
二人は笑いながらアイスを食べた。
すごいスピードで溶けて言ってしまう様子に慌てて食べながら、湊は今印刷してきたばかりの写真をリリーを渡した。
「湊様はヘイバン様のお洋服がすごく似合います!」
「まじですか。もう祖父ちゃんの服だけ着て生きようかな」
話をしながらアイスを食べ終わってしまい、アイスの棒を屋上の隅に置いて続きを進めた。
どんどん日が昇り、気温が上昇して行く。
リリーは何度も額の汗を拭って書いた。
二人はもう一度会う日の話をした。止めどなくあれをしよう、これをしようと続いた。
その話の合間にリリーはこの魔法陣の内容を事細かに説明しながら書いた。
スマートフォンのメモ帳に説明される内容を書き残し、いつか湊が日本語で転移の魔法護符を作れる様にした。
ここに出口となる魔法護符を置いていき、リリーのこの魔法陣を再現してあちらへ行く。そして、あちらで入口となる魔法護符を発動させて帰ってくる。
全てはリリーが人体一式ではない魔法陣を作れたら、それにかかっている。その魔法陣ができたのかできてないのかなんてこちらからは分からない。向こうからこちらの世界の法則を捕まえる方法はない。だから、二人の話す「もしも」の未来の話は全て絵空事だ。
だが、「もしも」を追って必死になってみても良いじゃないか。湊もリリーもそう思った。
湊は止まる事なく書き込まれて行く魔法陣の写真を丁寧に撮り、後でもう少し大きな画面で見るために、パソコン用のメールに送って行った。
そして――湊の書いた護符に線がつながって行く。
二人はその時を無言で迎えた。
リリーは書き上がった魔法陣を見渡して深いため息をついた。
「――じゃあ、気を付けて帰るんだよ」
「……湊様……やっぱり……やっぱり…………私……」
リリーの途切れ途切れの言葉に、湊は魔法陣を見下ろした。
「……うん。やっぱり辛いね。はぁ……これは本当にどうしたら良いんだろうな……。こうならないように割と気を付けてたんだけど……」
残ってくれなんて無責任なことは言えない。もしここに残ると決めても、家族に別れも告げられずに来た事をきっと彼女は一生気にし続ける。祖父もずっと、別れを言えなかった苦しさと戦っていたのだから。
人にそれを求めてはいけないし、中途半端な湊がそれを言う事は許されないだろう。
数日だってそうだ。距離が縮まれば縮まるほど次の別れの痛みが今より深まる。
湊はぐるぐると同じ事を考え続け、隣でリリーが泣く声がすると一度思考を全て破棄した。
全てを一度忘れて、泣く彼女を抱き締めた。
「み、みなと……さま……」
「僕とお祖父ちゃんの大切なリリー・ペネオラ。元気で。いつまでも、いつまでも」
湊は背に手が回り、ジレをぎゅっと掴まれるのを感じた。胸が水を含んで冷たくなっていく。
「湊様……。本当にお世話になりました……。どうか……湊様もいつまでもお元気で……」
「ありがとう……。僕は毎日心から君の幸せを祈ってるから……」
「私も。湊様と……皆さまの幸せを祈っています……っぅ……」
リリーは震えて泣いた。この言葉の通じない世界で、たった一人だけ話す事ができてしまった湊を、平文に似てしまっていた湊を、特別なものだと勘違いしているのだと湊にはよく分かった。
この子が祖父に先輩だけではない特別な感情を抱いていたであろうことは、いくら色々なことに鈍い湊でも気付いている。
「ペネオラさん……。泣かないで……。俺たちまたいつか世界を繋げるんだろ……。それに、君の大切な祖父ちゃんを君は連れて帰るんだから……」
リリーがふわぁーん!と声を上げて泣き出すと湊も感情が喉をついた。
「湊様、湊様ぁ!私、私、帰りたいのに帰りたくないですよぉ!!」
「俺だって……!でも……でも……!リリの家族やリリの大切なものの事を思うと……!!君を必死で探してる皆のことを思うと……!!」
「み、みんな……!うぅ……会いたい、皆に会いたい……!」
湊は一度、リリーが壊れてしまうくらいに強く抱きしめ、この体の温もりを死ぬ日まで忘れまいとした。
そして、一つになってしまいそうなくらいに付いていた体は湊の手によって引き剥がされた。
「帰るんだ!帰るんだよリリ!!君を待つ家族がいるんだから!!」
リリーの顔は涙でボロボロだった。
これ以上何かを言っても別れが惜しくなるだけだ。
湊は泣くリリーの手を引いて魔法陣の中心へ歩いて行った。何度も目元を拭い、真っ赤になった目と顔は見ているだけで辛かった。
もっと嬉しそうな顔をしていて欲しかった。
湊は目を逸らすように魔法陣の外に出た。
リリーのぬくもりがまだ残る体で、床に膝をつく。
平文のペンを取り、実家から貰ってきたインク壺を開ける。その中にペン先をひたし――全ての動作がコマ送りのスローモーションに感じた。
もうこのまま時が止まれば良いのに。神様、いるならこの子とどうか引き離さないでくれ。
どれだけ願ったとしても、腹痛を治められない神が時を止めるなんて芸当をしてくれるはずもなく、湊はペンの先を護符に下ろした。
一画。
「湊様……!」
リリーの震える声がする。湊はぎゅっと目を閉じて最後の一画を――
「湊様……私……私やっぱりここに――」
リリーがそういうと、ドッと魔法陣は光の柱を吐き出した。それは神話の一頁のような光景だった。
「ここに残ります!もう少しでも、あなたのそばに、あなたと一緒に――!!」
白い手が湊の方へ伸びてくる。
湊はこれは都合のいい幻覚なんじゃないかと思った。
もし幻覚でないとしても、リリーが見ているのは湊であって湊じゃない。
彼女は湊の向こうにいる平文を見ているのだ。
もう少しでも祖父の影を追う彼女をここにいさせて、湊の中で目を逸らそうとして来た何かが形になってしまえば、次の別れはもっとひどい痛みが待つ。
だから、それはきっとものすごく馬鹿げた行動だった。誰の目から見てもそれは明らかで、湊自身も分かっていた。
湊は手にしていた何もかもをを放り出し、リリーに手を伸ばした。
「リリ!!」
リリーから伸ばされた手と湊の手が触れ合おうとした時――魔法陣から激しい炎が上がった。
湊はリリーの手を引っ張り寄せると肩を抱いて、魔法陣から出ようと地を蹴った。
二人の体はドザッと音を立てて転がった。
「……いっ……つつ……」
背中を硬い床に強打した。ほどほどに軽く、ほどほどに重いリリーの体が湊の体に半分乗っていた。
「う……うぅ……湊様……?」
「り、りり……。はは、や、やっちゃった……。ごめんね……」
リリーはすぐに冷たい地面に手をついて湊を見下ろした。
湊はそんなリリーに心底申し訳ない気持ちを乗せて笑いかけた。
リリーの瞳からボロボロと涙が落ちて、湊の頬に降り注ぐ。髪もさらりと落ちると、リリーは仰向けに転がる湊の首に縋る様に抱きついた。
「湊様ぁっ!!」
湊は心の底から安堵の息を吐いた。
真昼の済んだ空がすごく綺麗に見えた。
「は、はは。リリ、俺さ。君が――え?」
湊は眼前の光景に目を見開き、瞳を揺らした。
「つ、つきが……」
空に浮かぶ真昼の月は――
「ふ、ふたつ……ある……」