#12 会社の先輩
「その切符をあの穴に入れるんです。分かるかな?」
人がちらほら出入りする日曜の改札を前に、湊は説明した。
「分かりました!向きはこっちですね?」
「どっちでも平気です。それで、向こうから出てきたら取ってください」
リリーが恐る恐る改札に切符を吸い込ませ、無事に向こう側に行くと、湊も交通系カードを改札に触れさせた。
「あの箱の中に人がいるのでしょうか?」
「ははは、子供の頃には俺も思いました。でも、いませんよ。電気の通う機械が自動で読み込んでるんです」
「はぇ〜…。飛空挺や汽車、水上バスはあちらにもありますが……勝手に切符を読み取る魔法はありません」
「そういや、あっちは電気もないですよね?」
「摩擦から生まれる静電気の理論で一時的に電気を呼び出すこともできますが、こんなに便利なものだなんて知らなくて誰も使ってないです!」
「まじで是正したい世界だなぁ。まぁ、今のままの方が浪漫はあるか」
そう言いながら、二人で駅の階段を上っていくと、「みっちー!」と声がした。
「――へ?あ、たっつぁん!」
湊が振り返ると、達郎が階段を一段づつ飛ばして駆け上がって来ていた。
「すげー偶然じゃん!どもー、タトロウです。今帰り?」
「そー。たっつぁんは――相変わらずバンド?」
達郎の背にはベースが背負われていて、ベースが入れられているソフトケースには好きなバンドのシールや、自分が出たライブのバックステージパスシールが大量に貼られている。パスシールはつるりと滑る化学繊維でできていた。
「そー。良いだろ〜?俺は青春を忘れないのさ」
「ははは、羨ましいわぁ。俺もなんか趣味作ろうかな」
「みっちーは良いじゃん。こんな可愛い彼女いて十分だろ?」
「……違うってーの」
「――これで?」
達郎が指をさしたのは、繋がれる湊とリリーの手だった。
「これはどっかに流されていきそうだから念のため。日本の交通網初乗りだから」
「まじかぁ!」
リリーはニコニコして二人の話を聞いた。湊の話しか分からなかったが。
三人が階段を上がり切ると、すぐに電車がホームに侵入してきた。
プァーッと脳天に響くような音を上げて快速急行が止まる。
「わぁー!こんな汽笛の音、初めて聞きました!」
「はは。原理的に汽笛ではないけど。――足元空いてるから気を付けて」
扉が開く。手を引いてやると、リリーは電車に乗り込みキョロキョロと辺りを見渡した。
「みっちー、まじで大事にしてんなぁ。良いなぁ……年下彼女……。人はここまで変われるのか……」
「……うるさいわい」
湊が悪態を吐くと、リリーは湊を呼びながら軽く手を引っ張った。
「湊様湊様。他の客車に向かい合う席はないんでしょうか?三人で座れると良いんですけど」
「あーそういうのはこの辺じゃ滅多に見ないですねぇ。長いベンチしかないですけど、座ります?」
「あ、いえ!外を見たいんで、横向きに座れないならここで平気です!」
リリーが扉の窓に張り付くと、湊はようやく手を離した。
「で、たっつぁんこれからライブ?」
「いえーす。良かったら見に来てよ。健太と敦も来るから多分楽しいと思う!」
「行きたい気持ちは山々だけどさぁ。ねぇ」
外を見て一々感嘆を漏らすリリーへ顎をしゃくると、達郎は残念そうに笑った。
「ま、そうだとは思ったけどねぇ」
「悪いね。また誘ってよ」
「もちろん。じゃ、俺次で降りるから!」
「ひゅー。サブカルタウーン。頑張れよぉ」
「みっちーもな!」
達郎が湊の胸を拳で叩くと電車は速度を落とし、『ドア開きます』と案内が聞こえた。
「ペネオラさん、ドア開くからこっち来てね」
「あ、はい!」
リリーが湊の隣まで下がり、ドアが開くと達郎は降りて行った。
「じゃあなー!ペネちゃんもまた会おうねー!みっちー、次は飲みに行こうぜ!皆誘ってさ!」
「オッケー!たっつぁん、幹事して予定立ててよ!」
「あぁ〜……ちょっとめんどくさいけどやるか!」
達郎が上腕二頭筋を見せつけるように肘を曲げ、扉が閉まる。
電車が動き、見えなくなるまで達郎も手を振ってくれた。
「良いお友達です!」
「はは、そうですね。犬にウマとか名前付ける変人だけど」
その後二人はしばらく窓の向こうを眺めて過ごした。
そして、次が終点の駅だと告げるアナウンスが響く。
「降りますよ。こっから人多くて危ないから気を付けて」
「はぁい。湊様、お荷物お持ちしましょうか?」
「……女子に持たせられないって」
「いえ!ヘイバン様のお荷物はよくお手伝いしてましたし、こう見えて荷物持ちには自信があります!」
「祖父ちゃん、よく物持たせてたなぁ……」
「後輩ですから!」
「……魔術師は体育会系か。俺たち理系人間と反対を生きる人種だわ。まぁ、省勤めとか言ってるし……公務員?官僚?勝ち組か」
ぶつぶつ言い、湊はリリーの手を取ると大量に流れていく人の波に従って乗り換え改札へ向かった。
改札の前でもう一度切符を入れる場所を告げ、リリーが向こう側に行くと湊は交通系カードで改札に触れ――改札はバタンと愛想もなくしまった。
「――げ、チャージが。ペネオラさん!その辺にいて下さい!」
「湊様?」
普段大して定期圏内から出ないせいで、残高確認をする癖がついていなかった。
都会の一部になれと神に命じられて生まれてきたのかと思えるような人々は軽々と向こうへ入って行く。
湊は後ろにいるおばさんに鬱陶しそうな顔をされながら、ペコペコと頭を下げて乗り越し精算機へ向かった。
この人混みにあれだけ目立つ子を置いておきたくない。湊は無駄に焦った。
『カードのお取り忘れにご注意下さい』
精算機がチャージ完了の音を立てると、小走りで戻り改札にカードを叩き付けた。
「――ペネオラさん?」
キョロキョロと見渡すが、人が多すぎて見つからない。
思わず電話をかけて呼び出そうなんていう考えが過ってしまうが、相手は現代の神器を何一つ持たない。丸腰だ。
「ペネオラさん!」
声を上げると、歩いている人達が湊を振り返って来て大変恥ずかしかった。
だが、誘拐されてやいないかと言う不安が汗になってたらりと背を伝い、恥だの外聞だのと言ってはいられなかった。
「――ペネオラさん!リリー!リリ、どこ行った!」
もう一度声を掛け――手に温かい感触が触れた。
「湊様、す、すみません」
振り返れば、リリーの手には小さな白いカード。
「あ、よ、良かった。誘拐されたかと」
「はは。誘拐なんてされませんよ。これだけ人がいるんです。でも、知らない方にこの紙を貰いました。何か困っているようだったんですけど……どうして差し上げれば良いのか分からなくて」
湊はリリーの持つカード――名刺を見ると自分のポケットにそれを捻じ込んだ。
「こりゃゴミです。行きましょう」
「え、ご、ゴミですか?」
「ゴミです」
湊は断言してリリーの手を繋いだ。
大混雑している巨大迷宮駅だが、人の流れを掴めば大したことはない。
すいすいと目的のホームへ移動していく。
階段を上りきり、ゴミ箱を見付けると先程の名刺を捨てた。
電車はやはりすぐにホームに侵入し、二人は乗り込んだ。
混雑する車内で湊の背負ってきていたボディーバッグは邪魔なので、足下の紙袋に放り込んだ。
ギュッと乗り込み、ドアが閉まる。
ドアさえ閉まればこっちのもんだ。
「――平気ですか?」
「へ、平気です。でも、すごく人がたくさんいるんですね」
扉に張り付くように立つリリーは湊に振り返って見上げた。
「本当に。皆どこ向かってんだってくらいですね」
苦笑する。ドアの外の世界は徐々に夜になって行き、赤かったはずの空は黒と紫の中間のような色になった。
夜と呼ぶには早く、夕暮れと呼ぶには遅い時間。
空には月が浮かび、地上には数えきれない星が落ちていた。高架の上を走る電車は乗っている人数に対して随分静かだった。
これだけ人がいると言うのに、隣の人の息遣いが聞こえるほどの静寂。何かを話すことも憚られるような車内だ。
車輪と線路はよくメンテナンスをされているせいで揺れは最小限。
二人が立つのとは反対側の扉が何度も開いては閉じる。
人が追加で乗り込んで来ると湊はリリーを体で押しつぶすようにギュッと押した。
「す、すみません」
「い、いえ……」
圧迫感のせいだけでなく、何故か息苦しい。
早く降りたい。
そう思っていると、隣を電車がすれ違って行き、電車の窓に二人の姿が映し出された。
(……早く降ろしてくれ)
湊は目を逸らすように瞼を閉じた。すると、前にどこかで嗅いだ良い匂いがした気がした。
そこでようやく目的地に着くアナウンスが流れた。
「――次降りますからね。ざらっと出るから足元気を付けて」
「は、はひ……」
間も無く到着すると言ったくせに、電車は無限に到着しないように感じた。やはり、時間の流れは一定ではないらしい。宇宙の真理。
湊は無駄に鳴り響く自分の心臓の音がうるさくてうるさくて堪らなかった。
(あぁ〜……。相手は小娘だってば〜……)
自分の歳を弁える男は自分に言い聞かせた。
そして、扉が開くと、二人は少し早足で降りた。
どんどん人が流れ出ていく。
「――はぁ。か、帰ろうか」
「は、はは。すごかったです。息止まるかと思いましたぁ」
またホームを出るために階段を降りる。
家には何も食べるものがないので駅ビルに入るスーパーに寄った。
「えーと……。俺、ろくなもんはカレーくらいしか作れないんですけど、良いですか?」
「香辛料の煮込みですね!大好きです!」
カレーは聞いたこともない料理名になって返ってきた。しかし、いちいち突っ込んでいては話が進まない。
「一応参考までに聞いておきますけど、魔法陣どのくらいでできそうですか?」
「お察しの通り、今日中と言うのは難しいと思います。明日か……明後日か……。すみません……」
「あ、いやいや。俺は構わないですよ。じゃあ、取り敢えず三日分食うもん買っておきましょう――って言っても三日カレーだけど。えーと、予定的には俺は明日は会社に行って調子悪そうな顔してきます。明後日と明明後日は葬儀の疲れが出たってことにして風邪ひきますから。その先のことはまた考えましょうね」
「ありがとうございます……。私、以前湊様に少しだけお金をお渡ししましたけど、もっとお渡しします。使い物にはならないかもしれないんですけど……せめて心付けに」
「はは、良いよ。どうせ使い道もそんなにない金ですから。それに、祖父ちゃんの後輩だって聞いてる手前格好つけたいの」
カートを取り出し、下の段に紙袋を押し込む。上の段にカゴを載せると二人は適当に店内をうろついた。
感嘆しながら野菜を眺めるリリーを放っておいて、玉ネギ、ジャガイモ、トマト、ニンジン、シメジ、グリーンリーフをカゴに入れた。
そのまま肉のコーナーへ行き、鶏肉をチョイスする。何となく高い方が美味しいかと思い、国産の鶏にした。
肉のコーナーでもリリーは感嘆していたが、特に何も突っ込まずにグラノーラとカレールゥをカゴに放り込む。
最後に豆乳を二本調達するとレジへ向かった。
「袋はご利用ですか?」
「あ、お願いします」
「二三一六円です」
カードでさっさと支払いを済ませ、作荷台で袋に詰めた。
荷物で両手がいっぱいになった帰り道、リリーは湊の周りをちょろちょろと歩き回った。
「湊様?私もお持ちします」
「いや、平気ですよ。それより、危ないからちゃんと前見て」
リリーは終始申し訳なさそうに隣を歩いた。
借りているマンションまでは駅から十五分歩く。大雨が降るとたまに氾濫する川を渡り、静かな住宅街を行った。
三階建てのコンパクトマンションに着くと、リリーはそれを見上げ「豪邸です!」と言った。
「いや、うなぎの寝床です」
エレベーターは付いていないので疲れた体で階段を登って
行く。
三階に辿り着くと、湊は一度荷物を置いて鍵を開けた。
「散らかってますけど、どうぞ」
リリーはすぐに地面に置かれた荷物を手にして頭を下げた。
「お世話になります」
「はーい」
二人掛けのソファ、ちゃぶ台、テレビ、パイプハンガー、ベッド、小さなパソコン机、本棚くらいしかない部屋だ。ただ、ちゃぶ台の上には充電して放置してあるゲーム機が何個か乗っていた。パイプハンガーには取り込んだままの洗濯物が引っかかっている。
「わぁ〜ここはここで異世界っぽいですねぇ」
「はは、そうっすか?」
狭いワンルームで必要な動きは最小限だ。
たった数歩歩くだけで辿り着ける二口だけIHの付いた対面のキッチンで、学生時代から使っているオンボロ冷蔵庫を開ける。
豆乳を冷蔵庫に放り込み、殆ど酒しか入っていないような有様に苦笑した。
ただ、冷凍食品は大変充実している。明日の昼ご飯はこれを食べてもらおう。
「じゃあ、俺カレー作るんで作業してて良いですよ」
「はい!本当にありがとうございます」
ぺたりとリリーが床に伏せ、湊は得意でもない料理を始めた。まずは米を炊飯器にセットする。その後は肉と玉ねぎだけ炒めて、後の具材は皆鍋に放り込んで放置だ。
リリーは湊の書いた護符――いや、式や漢字や梵字が書き込まれた謎の紙を広げ、ノートを手に一つ一つの理論の確認をしているようだった。
「――湊様」
「ほい。どしました?何か分からない事ありました?」
「いえ……あの、言いにくいのですが、湊様のお家にご実家のようなお庭はないでしょうか?」
「……ないっす。庭がどうかしたんですか?」
リリーは本当に言いにくそうに口を開いた。
「ヘイバン様は転移出口の魔法陣を簡素化する事に成功されていたようなんですが……私がヘイバン様と書いていた転移実験の魔法陣はこの部屋と同じか、これより大きな魔法陣でした。私に魔法陣の簡素化を行えるだけの力はなくて……その……」
湊は数度瞬き、その言葉の意味を理解した。
「……あれか。広い場所か八畳近くある紙を用意しなきゃならないってことか」
「はい……」
「……思いもしなかったな。祖父ちゃんの魔法陣はどれもこれもコピー用紙程度か、精々コピー用紙二枚程度のサイズだったのに」
「申し訳ありません……」
「あ、いえいえ。気にしないで下さい」
とは言うが、どう解決すれば良いのか湊はよく分からなかった。公園で魔法陣なんか書いていたら子供が寄ってくるだろうし、完成する前に人に踏まれて壊される。力塊誤作動は起こさないが、いつまで経っても発動しない賽の河原の石積み状態になる。シンプルに言えば地獄だ。
しばらく唸り、「あ」と声を上げた。
「庭はないんですけど、ちょっと付いてきてください」
湊が手招き、リリーはその後を追った。
玄関に揃えられもせずに脱ぎ捨てられていたスリッパを履き、リリーにもサンダルを勧める。
二人で上がってきた階段をさらに一階分上がっていくと、「関係者以外立ち入り禁止」と言う札の下げられたチェーンが掛かっていた。
(無関係者ってわけでもないし)
湊は自分に言い訳をし、それを跨いだ。
リリーも気を付けて股ぐ。
登り切った先は屋上だった。たった三階建てなので周りの建物より特別高いわけでもないが、空はよく見えたし、ある程度広かった。
周りには住宅の屋根が並び、色とりどりのカードを敷き詰めたようだ。遠くに見える大きな電波塔が二本滲むように光っていた。
湊は何とも微妙な景色だと思ったが、「わぁ!綺麗ですねぇ!」
リリーのその言葉を聞いて心を入れ替えた。
「うん、まぁ綺麗かな。ここなら書けそうですか?」
「はい!十分すぎます!」
「じゃあ、今日チョーク買っておくんで明日届いたら……荷物って受け取れます?サインして、箱受け取るだけなんですけど」
「受け取れると思います!」
「じゃ、ポチりまーす」
二人は階段を引き返した。
部屋に戻ると、ちょうどご飯の炊けた音がした。
ただの煮物状態のカレーにルゥを放り込み、サラダを千切ってる間に少し煮込んだ。
「飯にしましょう」
「はーひ!」
二人はカレーとグリーンリーフだけのサラダを食べた。トマトはカレーに入れてしまっている。
部屋にソファはあるが、湊は基本的にソファは使わない。
リリーと揃って実家にいた時と同じように床に座って食事をした。
「湊様もお料理上手です!」
「はは、食品会社に感謝しまーす」
もくもくと食べ、リリーの口の端にカレーの色が付くと、湊は自分の頬を指さした。
何かと口の端に触れ、カレーがついたリリーは恥ずかしそうに笑ってそれを舐めた。愛らしい妹だ。
食べ終わり、湊が片付けをしている間もリリーはノートにあれこれと書き込んだ。
(――そういや実家で出した客用の歯ブラシ持ってくんの忘れてたな)
湊はそう思うとマグを一つ手に歯ブラシの買い置きか、ホテルで貰ってきた物がないかなと洗面所へ行った。
使い捨てじみた歯ブラシを見つけるとそれをマグに入れて立て、自分の歯ブラシの入るマグと並べる。
心の中でよしよし、と呟き部屋に戻った。
「ペネオラさん、俺明日一応会社行くんで、申し訳ないんすけど今日は風呂入って寝る準備しますね」
「あ!そうされて下さい!どうぞどうぞ!」
「ありがとうございまーす」
湊はちゃっちゃと風呂に入り、ダサくない――と思っている――服を着て部屋に戻った。
「お先でしたー。風呂どうぞ」
「あ、はい!いただきます!」
「お湯も張ってないけど。あ、使い方分かるかな?」
「大丈夫だと思います!」
「タオルと着られそうなパジャマ出してありますから使って下さいね。後、歯ブラシも包まれてるやつ使ってね」
リリーが心得たと頷きウエストバッグを外して廊下に出ていくと、湊は平文の付けペンをバッグから引き抜かせてもらって諸法無我の護符を用意した。缶の中に改めて指輪とカオスを封印しなおす。
諸法無我のお札は平文が貼ったものと合わせてこれで三枚目だ。やはり燃えてはいないが、これは満更無意味でもなさそうだと思っている。
寝る準備を済ませると、ベッドに転がりたい気持ちを抑え、ソファに転がった。
静かにしているとシャワーを浴びる音がし、それを聞かない様に顔にクッションを乗せた。
肘掛けの上に足を放り出すと寝心地の悪さに残念な気分になる。
(絶対腰痛くなるやつぅ……)
そんな事を思いながらも湊はすんなり眠りに落ちた。
◇
翌日目を覚ますと――筋が緊張する体を伸ばした。何となくまだ休み気分だ。
くぁっとあくびをして伸びる。
目をゴシゴシと擦りながらベランダに出る掃き出し窓の前に鎮座しているベッドを確認すると――「え?」
誰もいなかった。
「ちょ、え!?」
何かがあってうまく帰れてしまったんだろうか。
いや、屋上に行っているのかも――そう思って慌てて立ち上がると、ちゃぶ台の向こうに動く影を見つけた。
首を伸ばして確認すれば床で寝るリリーがいた。
「な……なんで?」
せっかくベッドを開けていたと言うのに。
湊はリリーがベッドを使っていない事への疑問をこぼすと同時に、まだこの人がいた安堵に息を吐いた。
最後は離れ離れになるとしても別れくらいは言いたい。
ともかく、まずは指輪を封印した缶から取り出すことだ。蓋は簡単な力で開く。その割に、やはり護符はぴたりと隙間なく張り付いていた。
指輪を首にかけ、リリーが目を覚ます前に電気ケトルに水を入れて一つも揃っていない皿を二枚と、マグを二つ取り出す。
昨日買った乾燥フルーツの入ったグラノーラをザラザラと二皿に入れ、冷蔵庫からは豆乳。
牛乳はすぐに痛むが、豆乳は寿命が長いため一人暮らしの強い味方だ。
お湯が沸くのを待つ間に顔を洗って髭を剃り、朝の身支度を済ませてパイプハンガーに掛けっぱなしのシャツの袖に腕を通す。せっかくなので、昨日貰ってきた祖父の地味目のスラックスを履いた。服装は割と緩いので多少パンツが洒落てても良いだろう。
湊は半袖のシャツは持っていないので長袖をまくった。通年着られないものを買うのが面倒くさかった。桜が聞いたら発想がダサいと言いそうだ。
身支度を済ませるとグラノーラに豆乳をかけ、インスタントコーヒーにお湯を注ぐ。
お盆なんて上等なものはないので、キッチンと机を往復した。
「ペネオラさん。飯ですよー」
声を掛けると、ハッとリリーは目を覚まし、起き上がった。顔にはラグの跡がついていた。
実家で着ていた中学の時のパジャマと違い、湊が現役で着ているシャツはリリーにはずいぶん大きかった。ゆるゆるの様子に、わしわしと自分の頭をかくとベッドの上にある薄手の毛布をリリーに放った。見て見ぬふりをしてこそ紳士だ。
「わっ!お、おはようございます!いつも湊様より起きるのが遅くてすみません……」
「……いや、そんな事は全く気にしてないから良いですよ。疲れが溜まってんだろうなってわかってますし」
「ありがとうございます。でも、明日は早起きします!」
「本当気にしないでくださいね。ふやけるから食いましょう」
「はぁい。ミューズリーがこっちにもあるんですね!」
聞き覚えのある言葉だが、それがどんな物かうまく思い出せない。この言葉は正しく聞こえているのだろうかと湊は思った。
二人で朝食を取ると、湊は冷凍食品の説明と電子レンジの説明をし、付箋に零から九までのローマ数字をデジタル調で書いてやった。
「――じゃあ、なるべく早く帰ってくるんで。屋上行く時はそこの鍵使って下さい」
「はい!お気を付けて」
靴を履き――湊は思い出したように自らの首にかかる指輪を渡した。
「荷物の受け取りだけお願いしますね」
「謹んでお借りします」
リリーがどこか恭しげに指輪を受け取ると、湊は頭をポンポン撫でてやり出かけた。
首に指輪を通したリリーはそっとそれを胸元で抑え――やるぞと気合を入れた。
◇
「なぁ漆沢君、自分調子悪いん?」
昼食時。社食で先輩に言われると湊はふっと目を逸らした。
「い、いやぁ……。休みの間、ずっと死んだ祖父の書斎の片付けとか葬儀とかで忙しくって全然休めなかったんですよねぇ。あー体調悪くなりそうだなー」
「えらい大変やなぁ。お祖父さん作家先生してはったんやろ。文豪?」
「児童文学って奴ですよ。大したアレじゃないんです」
「つまりは文豪やん」
「はは、ありがとうございます」
「自分も論文や報告書もっと情緒感出して書き?文豪の孫やろ?」
「吉田さんそんなもん読みたいですか?」
「いっぺん試してみたらええやん。研究の果てに見えるのは情緒やし。知らんけど」
「…….今朝は一段と暑く、研究室の冷房が身に染みる。いや、白衣に染みがある。その事実について、僕はここで述べる気はないし、何かを言う権利もない。だから、僕はゆっくりと序論を書き始めよう。……どうですか」
「おぉ!?絶対その方がええやん!!絶対そうやで!多分」
絶対なのか多分なのかはっきりして欲しかった。
「……吉田さん。今から標準語で話してください」
「え?あ、はい。頑張ります」
この人は標準語を話そうとするとなぜか敬語になるし、あまり喋らなくなる。
「じゃあ俺先に戻ります」
「はい。あ、朝のノート直しといて」
「えっと……直します?片付けます?」
「片付けといて下さい」
「はーい」
先輩はお気楽な雰囲気だが優秀すぎる人だ。天才と呼ばれる人達は紙一重。
湊は社食を出て自分のスマートフォンを確認した。
死ぬほどメッセージが入っていた。
「……誰や」と、怪しいイントネーションで呟く。
連絡を寄越してきていたのは桜だった。リリーがちゃんと帰れたのかとか、連絡先は聞いたのかとか、早く返事しろとか、大学生はお気楽だ。
メッセージを見た事を伝えるだけの返事を考えると同時に、どうやってリリーの連絡先を聞けなかった言い訳をしようと考えた。
(ヘタレて聞けなかったって言うのが一番良いか……)
残念ながら、実に現実味のある回答だ。
リリーが帰ったらその件について触れることにし、ひとまず『仕事中だから後で』とだけ返事を返しておいた。
更なる返事が素早く入ってくるが、無視する。
チームの先輩達が戻ってくる前に午前中の実験の様子を軽く見て、午後の準備を進めた。
時間が余るとブルーライトカット眼鏡を掛けてパソコンで論文を適当に読む。
午後の業務が始まると、祖父もどうやら魔法の研究をしていたらしいのて、同じくらいの歳の頃に同じような事を違う世界でやっていたのかなと思うと何となく感慨深かった。
湊が入社した当時はまだ、まだらに自分の事が分かっていたのでとても喜んでくれたものだ。
その日の行程を全て終わらせると、器具の洗浄と片付けを徹底し、データの解析とまとめを行い、報告書作りに勤しんだ。早く帰ろう早く帰ろうと思っても、実験は急かしても早くは終わらない。
すると、「漆沢君、こんなんあかんやん」と吉田が告げた。
「え、すみません。どれですか?」
「ほんまに言うとんの?」
「は、はい……」
これは残業確定か。湊が肩を落とすと吉田は画面を指さした。
「文学抜けとんで?」
「っておーい!」
湊が声を上げると吉田はカラカラと笑った。
その後あれやこれやと残っている煩雑な仕事を終わらせ、会社を出る頃には八時を回っていた。早く帰るとは何だったのか。
無駄に大都会にあるビルを吉田と一緒に後にする。駅までは一緒だが、乗る路線は違うので改札の中ですぐにお別れだ。
「ほなまた。お疲れ」
「と――吉田さん。今めっちゃ調子悪いんで明日危ういかもしれません」
「嘘やん」
(嘘です……)
湊は心の中で返事をしてから自分の首の後ろを撫でた。
「えっと……すみません」
「かまへんでー。無理しいなや」
吉田と別れ、ホームに侵入してきた電車に適当に乗った。
背負っていたリュックを前に抱えてぼんやりと窓の外を眺めると、昨日この胸に触れていたリリーの温度を思い出した。
何を考えているんだと首を振る。
会社からのアクセスを第一に考えて借りた家までは電車一本で帰れる。湊は早々に最寄駅についた。
ちらりと金属のバンドの腕時計を確認する。ラボの中はスマートフォンを出せないのでこれを着けているが、手袋の着脱もあるため割と邪魔な存在だった。しかし、もうすっかり馴染んでいる。
(早く帰ろ……)
早足で家路につき、階段を登っていく。
鍵を開けて家に入ると、中は真っ暗だった。
(屋上か)
リュックを置き、湊はまっすぐ屋上に上がった。
階段を登り切った先に広がる光景は想像の百倍壮大だった。
湊は息を飲み、魔法陣の園を見渡した。
防水加工のされた濃いグレーの屋上には、大量の円と文字、時には図形が書き込まれていた。幾何学的な白い花がいくつも咲く様な、時計の文字盤の上に宇宙が存在する様な、とにかく見たことも聞いたこともない魔法陣が生み出されていた。
自らの生み出した花園で、リリーは呆然とするように魔法陣を見下ろしていた。
「ペネオラさん、帰りましたよー」
「あ――湊様!おかえりなさい!」
「すごいですね……これを一日で……」
湊は魔法陣を踏まない様に注意してリリーのそばに行った。リリーは首を振ると、足下にある魔法陣をシャッと消した。
「あ、良いんですか?」
「……丸一日掛けてこれを書いてましたけど、これじゃダメだってついさっき気付きました」
「……直感が来なかった?」
「いえ……まだ書き終わってません。でも、あれを見てください」
リリーが指を刺した所には花に埋もれる様に湊の書いたカオスが置かれ、上には文鎮代わりに祖父の付けペンが置かれていた。その隣にはクッキー缶の蓋。
「何かダメなんですか?」
リリーは平気で魔法陣を踏んで中心へ行くと、カオスを手に取り溜息をついた。
「全然ダメです……。ここまで書いて気づかなかったことが信じられないくらい初歩的なミスです。湊様から最初にヘイバン様の魔法陣の真ん中に護符をおいていたと聞いていたから、何となくそのつもりで書き始めてしまいましたが……」
要領を得ず、湊は首を傾げた。
「これじゃ……発動させる時に湊様に最後の文字を刻んでもらう時、湊様も魔法陣の上にいる事になります」
その意味を理解すると、湊は「あぁ〜…」と声を上げた。
「一緒にあっち行っちゃうってやつですね」
「はい……当たり前のことなのに……。すみません。明日はもっと良く考えてやります……」
「じゃあ、これ消して飯にしますか」
二人は一度湊の部屋に戻り、ボロ雑巾を手に再び屋上に戻った。
せっせと魔法陣を消し、ようやく晩御飯を取った。
大きな魔法陣を書くと聞いていたので七十何本入りのチョークを買ったと言うのに、もう半分なくなっていた。
「多分、明日の朝から夜通し書いて、明後日には出来上がると思います!」
二日目のカレーを頬張りながらリリーが言うと湊は複雑に笑った。
「明日一日描いて、夜ちゃんと寝て、明後日の朝から昼にかけて書くのが良いんじゃないですか?」
「でも……あの……あんまり長くいるとご迷惑かと……」
「一週間も一日も変わんないですよ。詰め込みみたいなのは悪いくせなんでしょ。根を詰めすぎると誤発しますよ。――それに、あんまり朝早く出られると俺が書き込みに起きられない」
湊が肩をすくめるとリリーは安心した様な、何か困るような複雑な顔をした。
「……すみません。ありがとうございます」
「いえいえ。あ、昼なに食べました?」
「お米のやつにしました!」
「炒飯か。うまいですよね。あれ」
「感動的でした!」
「はは、分かります」
晩御飯を済ませると、今日はリリーに先に風呂を勧めた。
そして明日は休まずに会社に出て、明後日休む方が良さそうだと思った。もう一日調子悪いアピールだ。明後日はなんなら午後から出てもいい。
方針を決めていると、風呂からリリーが戻った。
「すみません。お先でした」
「あ、はい。――……いや、まじでパジャマ買うか」
パジャマは特にズボンがかなり緩そうで、少し引っ張れば落ちそうだった。
「平気です!もったいないですから!」
湊は心の中で「いや、危機感」と突っ込んだ。しかし、無駄な出費は避けられるなら避けたいし、リリーが帰った後にそれがこの家にあるのは――なんとなく耐えられない気がした。ヘタレなので捨てることもできない気がする。
「そう言ってくれるならお言葉に甘えさせて貰います……。俺も風呂入ってくるんで寝てて良いですからね。ベッド使ってください」
頭を下げるのを尻目に、キッチンのレンジフードの電気だけを付け、残りの電気を消して風呂に行った。
相変わらず湯は張らないのであっという間に上がり、薄暗い部屋に戻ると――リリーはソファの上で寝ていた。
(……律儀)
ベッドに移動させてやろうかと思ったが、家族もいない場所で女子に触れるべきではないと考え直す。
「――ペネオラさん。ベッド使って良いんですよ」
ソファの下にしゃがんでそう話しかけると、ソファの上で丸くなって寝ていたリリーはそっと目を開けた。
「みなとさま……。あなたが使って下さい……」
「俺はベッドで寝てもらったほうが気が楽なんです」
「……私もベッドで寝ていただけたほうが気が楽です」
「でも、明日も一日書くんでしょ。ちゃんと休んだほうがいいよ」
「湊様だって一日働かれるのに……」
「んー……。僕が君にしてあげられる事はもう残り少ないから、受け取って欲しいな。君が帰ってから、あの時こうしてあげれば良かったなんて思いたくない」
湊が顔にかかる髪を撫でて避けると、リリーは躊躇うように目を泳がせ、起き上がった。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「ありがと。これで安眠できそうだ」
湊は笑い、薄暗い中で今日も諸法無我の札を書いた。指輪とカオスの一時封印の準備が整うと、リリーに振り返った。
リリーはベッドの上で湊をじっと観察していた。
「じゃ、今日はもうこれしまうんで」
「はい……。おやすみなさいませ」
「おやすみ。また……明日」
その挨拶もあと何度言えるか分からない。
湊が缶を閉めてレンジフードの電気を消すために立ち上がる。
最後の電気を消してしまうと部屋の中は真っ暗になった。
半分勘でソファに辿り着き、肘掛けにクッションを斜めに設置して寝転がる。
ぼんやりと天井を眺めて取り止めもなくあれこれ考える。
早く返してしまわなければ――長く側にいれば辛くなる。だが、もし残ってくれと言ってみたら――いや、そんな事は言えない。
何一つ結論が出ないままに湊は眠りについた。