#1 別離
――いつか、本当の家に帰りたい。
口癖のように言っていた祖父が死んだ。大往生だった。
その日は祖父の葬式だった。
葬儀は一方通行の標識が立ち並ぶ、入り組んだ狭い道の先にある寺で営まれた。お盆の直前のその日は蝉が激しく鳴いていた。
彼――漆沢湊は本堂の中で住職の唱える経が焼香の煙と共に昇り、四方に広がっては消えていく繰り返しをただ茫然と眺めていた。
身内の初めての死に心が追いつかず、時間はまるで泥水のようにゆっくりと流れた。
そうしていると、ふと分かる筈もない読経の終わりを悟り、目頭が燃えるように熱くなるのを感じた。これが終わると祖父はいよいよ去ってしまう。突然襲って来た別れの実感は、黒曜の瞳に湛えられた泉から一粒こぼれ落ちた。
それまではっきりと意識したことなどなかったというのに、湊は自分が祖父へ崇敬に近い思いを抱いていたことに初めて気が付いた。二度と言葉を交わせなくなってからと言うのが実に皮肉だった。
祖父は湊が大学に上がった頃から認知症が進行しはじめ、最後には自分が何者なのかも、どこにいるのかも分からなくなってしまった。そんな姿を見るのが辛くて実家に帰っても離れまで会いに行く事をやめていた。後悔せずにはいられなかった。
「……使って」
隣に正座する母から差し出された白いハンケチは濡れていて、母の胸の痛みを物語るようだ。
「……良い。持ってるよ」
着慣れないブラックスーツのポケットにはハンケチが入れられたままだ。だが、湊はそれも取り出さず手の甲で乱暴に涙を拭った。
この涙も、本堂の中に響く鼻を啜る声も、祖父の愛されていた証だ。冷たくなったハンケチも証の一部だ。そんな一部に触れていると胸の痛みと向き合わなければいけないようで辛かったのだ。
住職は経本を閉じると一度咳払いをしてから立ち上がり、釈尊のありがたい教えをいくつも話してくれた。
だが、湊の耳には遠く入らなかった。
「――では、最後のお別れをして下さい」
住職の促しに皆が棺桶の中に眠る祖父に花を手向けていく。
祖父の顔は実に安らかだった。自分がどこにいるのか分からなくなってしまっていた間よりも昔の溌剌としていた祖父の顔に近いかもしれない。
堂内に祖父の好きだった百合の香が立ち込める。花に埋もれる祖父へ祖母が最後に手を伸ばした。
「勇さん……。お元気でね」
死者へ送る言葉ではないかもしれないが、愛に満ちている気がした。
親族全員で静かに合掌し、祖父の棺は閉じられた。
火葬まで葬儀全てが滞りなく終わり、帰りに住職から渡された位牌には「平文院釋勇説居士」と刻まれていた。
祖父は異人平文と言う筆名の児童文学小説家だった。
剣と魔法の世界の話をこの世にいくつも送り出したのだ。祖父の書く話は全て一つの世界を題材にしていて、まるで見て来たかのように事細かに描写されていると高く評価されていたそうだ。
小学生の頃、祖父の本に読書感想文推奨図書のシールが貼られて書店に並んでいたのを見たくらいだ。
住職に挨拶をし、呼んでいたタクシーで祖父と暮らした家へ帰る。行先だけを告げ、誰も口を開かない車内は運転手が不憫になる程に静かだった。窓の外に見える桜並木は、まるで命そのもののように青々と萌えているのに。
ふと祖母が吐息のようにつぶやいた。
「お爺さんのお部屋…片付けないとねぇ」
その言葉が耳の蝸牛から脳まで届くか届かぬかの内に、車は昔ながらの日本家屋の前に泊まった。湊の実家だ。
玄関をくぐり、家に入るとまだ祖父の匂いがした。
祖母は骨壺を持って真っ直ぐ仏間へ向かった。
夕暮れが近付き涼しくなり始めた外の空気を取り込むために母が窓を開けていく。
喪服を着ている母はいつもよりいくつも歳を重ねたように見え、想像してきたよりもずっと身近に存在する死と言う人間のタイムリミットについて考えさせられるようだった。
「――湊、いつまでお休み取れたの?」
「ん、お盆休みとくっ付けてもらったから一週間はいられるよ」
湊は二十四歳。会社ではまだまだ下っ端だ。化粧品会社の研究室で働いていて、普段は一人暮らしをしている。
「そしたら、お祖父ちゃまの部屋の片付け手伝って。明日雪子さんとサクちゃんも手伝いに来てくれるから」
「雪子叔母さんは分かるけど桜もぉ?桜が来たらどうせ進まないだろ。良いよ、父さんとやるから」
「そんなこと言わないの。本や資料がすごくて人手がいくらあっても足りないんだから。それに、少しは遺品も分け合わないと。――じゃあ、母さんはお祖母ちゃまと着物脱いでくるから。あんたもいつまでもそんな格好してないで背広掛けなさいよ?床に座るとどうせすぐ寝たくなるんだから」
「背広――あ、ジャケットね」
「それからお父さん帰ったら今夜はもう店屋物取るからお店選んでもらって」
「へーい」
気怠げに手を振ると、母は仏間から出て来た祖母と共に奥の部屋へ消えて行った。
湊はよく光を吸収する黒いジャケットを脱ぎ、長押に掛けてある――おそらく父の喪服がかけられていた――ハンガーに掛けた。
扇風機を付けると外からの生ぬるい空気が家に流れ込む。
ネクタイを引っ張りながら黄色く焼けた畳の上に座ると、鼻をつく井草の香りをたまらなく懐かしく感じた。
どこにでもある、普通の日本の夕暮れだった。いや、令和の時代には少し古風か。
蝉の合唱がいつしかひぐらしの高い声に取って代わられようとする頃。
「ただいまー」
親戚たちを送って行っていた父の帰宅の声がした。無遠慮な足音が鳴り、すぐに湊のいる和室に現れた。
「あれ?母さんたちは?」
「着物脱いでる。今夜は出前にするからなんか店選んでって」
「そうか。湊は何食べたい?」
「何でも良いよ」
「じゃあ祖父ちゃんの好きだった天丼にするか」
「えぇ……重くない?」
「何でも良いんだろ。蕎麦もあるから好きなの選べ」
「蕎麦ねぇ……」
挿絵ひとつ付いていないメニューは市外局番から下の番号だけが書かれた昔ながらのものだった。薄水色の紙からは昭和の残り香のようなものを感じる。
湊は何となく考えるのも億劫で、メニューを少し弄ぶとちゃぶ台に放った。
「湊。お前いつから会社始まるんだ?」
「それ母さんにも聞かれた。今週いっぱいいるよ。片付けでしょ?」
「そ。お前、欲しいもんあったら先に見ておけよ?明日桜ちゃんと雪子が来たらあれこれ欲しがるだろうから」
「んー…欲しいもんって言ってもねぇ」
「見れば欲しくなると思うぞ。万年筆とか古い時計とか、執筆資料とか……後は原稿とかな」
「原稿なんかまだあんの?」
「あるよ。山のようにな。ただ、祖父ちゃんが色々分からなくなってからどれもごちゃごちゃにしちゃったから、ちゃんと順番になってるのもあれば滅茶苦茶なのもあるんだよ。紙魚が沸いて食っちゃってるのもあるだろうし、本も原稿もちゃんと一回全部虫干ししなきゃな。取っておくもんは取っておくようにして、もう必要ないもんは手放すようにまとめないと」
「手放すって原稿も?」
「原稿もいくつかはな。昔祖父ちゃんがお世話になった編集さんとか、欲しいって言ってくれてる人もいるから。お前はいくつか書いてもらってるし、欲しいのたくさんあるだろ?全部持って帰ったって良いんだぞ」
「――ん?書いてもらったって?」
ネクタイを襟から抜いていた父は呆れたような瞳で湊を捉えた。
「お前忘れたのか?祖父ちゃんの本の主人公、何冊かはミナトって名前にして貰ってただろ。まぁ、祖父ちゃんの名前のイサミって言うのも随分あったけど」
「え?知らないよ」
「知らないわけないだろ。初版はちゃんと全部取ってあるんだから」
湊は記憶の整理を行い、少し唸った。
祖父の本は割とあれこれ読んだと思ったのに。
それに、祖父の語る世界の話を聞くのも大好きだった。祖父は朝起きて一番にお茶を淹れておはぎを食べていたので、湊もよく早起きをして一緒におはぎを食べて祖父の話に耳を傾けたものだ。
「んー……と、おはぎの事は覚えてるんだけど。はは」
「はぁ……。父さんは一回も書いてもらった事なんか無かったって言うのに」
「……あー……ごめん」
「良いよ。原稿や本見たら思い出すかもな」
父はさてと、と声をあげて立ち上がった。
「――父さんも着替えて来るから、湊も着替えなさい。あ、お前の部屋今父さんのゴルフのもん置いてあるから着替えるついでに仏間に布団持って来ておけよ」
「え!?ちゃんと定期的に帰って来てたのに!」
「大学の頃からずっと一人暮らしなんだからもう良いかと思ったんだけど……ダメだったか?」
「ダメに決まってんじゃん!こんなにでかい家で何でわざわざ俺の部屋使うんだよ!」
「空いてて使ってない部屋は湊の部屋しかないだろ?」
「ここは!」
「ここは祖母ちゃんと母さんの着付け教室に使ってる」
「あっちの茶室は!」
「茶室もお茶の教室に使ってるだろうが」
「離れは!」
「離れは祖父ちゃんの書斎と祖父ちゃん祖母ちゃんの寝室だから空いてない」
「洋間とかあんじゃん!」
「洋間は母さんがお友達とお茶会するんだから散らかしたら恥ずかしい。覗こうとすればお隣からも見えるし」
「あーもー!」
湊は頭をわしわしと掻くと、長押に掛けておいた喪服を手に自分の部屋へ駆けた。その背中に「それ父さんのハンガー!」と声がかかったが、止まらなかった。
湊の家は割と裕福だ。そして、家は大層古風だった。
母は祖母の開いていた着付けの教室に通っていた生徒で、家の中で父と出会ったらしい。
とんとん拍子に話は進み、父母は結婚した。父は普通のサラリーマンだが、祖母と母のやっている教室には今も生徒が通っていて月謝を払ってくれるのでトリプルインカムと言っても過言ではない。
湊が自室の扉を弾くように開けると――中はゴルフセットが置いてあるなんて言う可愛らしい表現では全く追いつかない量の荷物が置かれていた。
父の物だと思われるものから始まり、どこから出して来たのかも分からない骨董の箱がずらりと並んでいた。それに、乱れ箱や、着物を入れる桐の深い衣装箱まで置かれていた。
つい三ヶ月前に春に帰って来た時には自分の城だったと言うのに。
湊はがっくりと肩を落とした。
「――湊、お蕎麦でいい?混む時間になると時間かかっちゃうからもう頼むわよ?」
何の悪気もなさそうな母が部屋を覗いて来ると、湊はまるで油を差していないブリキの人形のようにギギギ…と振り返った。
「母さん、これ何」
「もうお祖母ちゃまは高いところから物取ると危ないでしょ?天袋に入ってた物全部ここに出したのよ」
「いやここ俺の部屋!」
「湊はもう一つ家があるんだから良いじゃない。ずっと使ってないんだし。それより、お蕎麦でいいのね?」
「……天丼にする」
「はいはい、天丼ね」
マイペースな母は電話の子機を手に引き返して行った。
一人になるとどっと疲れが湧いてきたようだ。
散らかされている荷物を跨いで行き、子供の頃に買ったチョコレートについて来ていたシールが大量に貼ってある箪笥を開ける。
高校時代からアップグレードされていない箪笥の中身はいまいちな雰囲気の服が並んでいた。
目についた適当な部屋着を引っ張り出して着替えを進める。
今日は一人暮らしをしている家から直接喪服で来たので何も持って来ていないし、部屋にも立ち入らなかった。昨日の通夜は昔臭く、祖父の友人達が夜通し別れを惜しんだので一度帰ったのだ。一人暮らしはしているが、そう実家が遠いわけでもない。
狭くされてしまった部屋でもそもそと着替えを済ませると喪服をハンガーに丁寧に吊り直して部屋を後にした。
湊は家族のいる和室を通り過ぎ、離れの祖父の書斎に向かった。
(見れば欲しくなる……ねぇ?)
離れへ続く渡り廊下はひやりとしていて心地良い。祖父の部屋の扉を開けると――ここも大層散らかっていた。
認知症になってからは祖父は自分でこれをあっち、それはこっちと物の場所を殆ど変えてしまっていた。そして探し物が見つからなくなっては不安そうにし、どんどん参って行った。
湊は祖父の香りがする部屋で革張りの椅子に腰掛けた。
「……お祖父ちゃん」
机に乗っている新しそうな原稿は全く読めない。もはや日本語になっていないのだ。自分が何者なのか分からなくなっても、字を忘れても、それでも何かを書こうとしていたのは、実にあの祖父らしいではないか。
湊はきちんと紐で留めてある古そうな原稿を手に取った。
「――この世界に言葉は一つしかない。どのような生き物も知能さえあれば皆同じ言葉を喋る。いや、一つの言葉と云う表現はある意味間違っているかもしれない。伝えようと思う気持ちがある時、どのような言語を話したとしても相手に正しく伝わってしまうのだ。その昔、双子の月の女神がバラバラの言葉を話していた生き物を哀れに思い、言葉を一つにまとめてくれたためだ」
最初の数行を読むとそれだけで懐かしくなった。
原稿はきちんと本棚に収めてある物もあれば、泣き別れになってしまっている物もあるし、床に平置きにされてしまっている物まである。そして、本が山の様に積まれていた。
湊は床に落ちている原稿を拾った。
「――世界の理を真に理解する者だけが魔法を使える。この世界に於いて、魔法とは無条件に利用できる便利な力ではない。知識を修め、知識を魔法陣に書き込むことによって初めて利用できる世界創造の力の一端だ」
祖父は魔法と言うものが本当に好きな人だった。
よく湊に「魔法を使いたかったらたくさん勉強して、世界の成り立ちをよく学ぶんだよ」と教えてくれた。
地球が生まれた時にたくさんの小惑星が地球にぶつかることで水がもたらされたとか、水素が生み出されたことが助けになったとか、そんな事でも良いらしい。
湊は子供の頃、祖父の話を真に受けて魔法がいつか使えるようになると思っていたので、何でもよく調べる子供だった。
それが高じて理学系の大学に進み、今では研究職の端くれだ。化粧品のだが。
祖父のこの書斎には子供向けの図鑑や図録、科学百科などもたくさん置いてある。執筆資料だ。
よくここで二人で図鑑を開いたものだ。
湊はすぐ足元にあるハードカバーの大きな図鑑を開いた。背表紙はもうぼろぼろで、頁を止めている糸が一部見えたりしている。
そうしていると、父が「見れば欲しくなる」と言った意味がよく分かった。
今のところ、目についたものは全て欲しい。いや、捨てて欲しくないと言った方が正しいかもしれない。
人は命を落とした時と、忘れ去られた時の二度死ぬと言うが、祖父の二度目の死には耐えられそうにない。
湊は祖父と眺めた図鑑をめくりながら、愛しい体温を思い出した。
◇
翌日の朝。
ネギと刻み海苔が乗せられた納豆と白飯、味噌汁、サラダ、目玉焼きをかき込むと湊は再び祖父の書斎を訪れた。
「桜と雪子叔母さん何時に来るって?」
「朝から来るって言ってたけど何時とは聞かなかったなぁ。朝から来るなら昨日から泊まれば良かったのにな」
「着るもんないし無理でしょ」
「父さん桜ちゃんにならパジャマくらい買ってあげるのにぃ……」
父がうふっと可愛こぶったような顔をすると、湊はそれを無視した。
「……桜が来る前に図鑑まとめようかな。あいつ遊びたがりだし、何でもかんでもじっくり見ようとするからまじで進まなくなる。絶対部屋汚いタイプでしょ。片付けてると漫画読み始めるやつ」
などと言いながら図鑑を拾い上げると、湊の頭に勢いよく手刀が降りた。
「――っつぅ…!」
「おや、桜ちゃん早かったね。いらっしゃい」
父が呑気に手を振る。
湊が振り返ると、湊に微妙に似た顔をした女が立っていた。
「誰の部屋が汚いのよ!見なさい!」
目の前に差し出されたスマートフォンには、インテリア雑誌の一室のように片付けられた部屋が写っていた。
写真を撮るために片付けたんだろうと思ったが、湊は余計な事は言わなかった。
「うわー。ばえですわねぇ」
「分かれば良いのよ。湊の物置部屋と一緒にしないでちょうだい」
得意げに仁王立ちする従妹は肩口で切り揃えられている茶髪を払った。まだ大学四年生。大人の見た目をした子供だった。
「いや、あれ俺のせいじゃないし!」
「言い訳は良いわ。それより――それ私も見たぁい」
床にしゃがみ込んで図鑑を一ページから丁寧にめくっていく様子は湊の想像通り、とても捗らなそうだった。
これに付き合っていると一年あっても終わらない。
湊は図鑑の収集を一度諦めた。虫干ししたかったので本当は一番に回収したかったというのに。
代わりに散らばっているバラバラの原稿を拾って集めていく。きちんと話になるように並べたいが、それは親たちに任せれば良いだろう。時に達筆すぎて読めないところもあるし、原稿に書かれているのが物語ではなくただのメモや手記だったりもするので精査は後回しだ。
父はあちこちにある写真を拾い、アルバムを手に部屋を出て行った。写真は壁に貼ってあった物や写真立てに収められていた物も含まれ、種類はカラーも白黒もあった。
湊もひとまず目につく場所にある原稿の回収を終えると、それを廊下に置いた。我を忘れてから書いた全く言葉になっていないものは捨てるために一つに縛った。
桜は相変わらずしゃがんでいる。今度は図鑑に挟まれていた様子のメモを読んでいるようだった。
「桜、細かい精査は後にして取り敢えず物をグループ分けしようぜ。終わんないからさぁ」
そう言って肩を叩くと、顔を上げた桜の瞳にはたくさんの涙が溜まっていた。
「……湊、これまとめちゃったら……最後は捨てられちゃうのかな……」
湊の胸の内はギュッときつく締め付けられるようだった。
「……いつかは捨てることになると思う。でも、今は捨てないで済むようにするために整理するんだよ。さっき父さん、写真とアルバム持って出てったろ。あれは捨てるためじゃなくて収めるべき場所に戻そうとしてんだよ。ここだってこんなに昔は荒れてなかったろ。ちゃんと綺麗にできれば捨てられたりしないよ」
「……そうかな」
「そうだよ。祖父ちゃんのこと好きだったのは桜だけじゃないんだから。それに、このままにしておいて虫食いが増えたらそれこそ捨てなきゃならなくなる。な、やろう」
隣にしゃがみ、頭に手をポンと乗せると桜は小さく頷いた。
「分かった……。ごめんね……」
「いーよ。気にしないで」
「……湊、言ってることは良いのに、服がダサすぎるね……」
「……うるさい」
二人はテキパキとモノの分類分けを進めた。
ソファの上や床、机の上に散乱していたものの殆どを廊下に出すことに成功すると、叔母がやって来て渡り廊下の掃き出し窓を全て開けた。もわりと暑苦しい空気が離れを満たす。
「ミナちゃんおはよう。よく働くわねぇ」
「雪子叔母さん、おはようございます。って今何時すか?」
「もうちょっとでお昼よ。挨拶にこなくってごめんなさいねぇ。叔母さんあっちでアルバムの整理してたから」
「気にしないで下さい。俺も挨拶に行かなくてすみません」
「いいえ。それにしても、ミナちゃん昨日はとっても大人に見えたけど、やっぱり変わんないわねぇ」
うふふと叔母が優雅に笑うと湊はじっとりした目付きになった。これは遠回しに服がダサいと言っているのだ。この人はおっとりしている様だが割とズケズケと物を言う。桜によく似ていた。
「仕方ないんですよ。花の高校生だった時に買った服なんですから。わざわざ家から持って来んのもめんどくさいし」
「言い訳してるわね。湊、ダサい事を認めなさい」
「うるさいわい!」
桜はおかしそうに笑うと、置いてある突っ掛けに足を入れて図鑑を手に庭に出て行った。
母屋の濡れ縁への近道だ。
庭には道や隣地と敷地を隔てる生垣があって、手前には物干し竿が立てられている。広いわけではないがある程度日当たりはいい。暑苦しい風がそよと吹くと、いつの間にか洗濯されて干されていた湊のワイシャツと肌着が揺れた。
湊は遠回りだが渡り廊下から母屋の濡れ縁へ向かった。
本の虫干しはまだ祖父が健在だった頃に軒のある濡れ縁でよく行っていた。
本を軽く開き、立てて置いていく。
濡れ縁いっぱいに本を並べると、本の間からは何枚も祖父の写真が出てきた。ある程度歳をとってからのものがたくさんあり、まるで見たくないとでも言うような雰囲気だった。
「湊って若い頃のお祖父ちゃまそっくりだったんだね」
「まぁ割と似てるかなぁ」
二人が写真をまとめていると、洋室から母の声がした。
「ご飯にしましょー!」
「へーい」「はーい」
声を合わせて返事をする。
和と洋がごちゃ混ぜになった洋間にはクーラーが効いていて涼しかった。
母と祖母、叔母と桜が向かい合わせに置かれるソファに掛け、台所から運び込まれて来た臨時の椅子に父と湊が座った。二人はいわゆるお誕生日席だ。
先に座っていた母と父は、クッキーの丸い缶をいじっていた。
「あ、それ祖父ちゃんの好きだった奴。懐かしいなぁ!祖父ちゃんよく一人で食べたっけ。一枚ちょうだい」
「中身はクッキーじゃないみたいなんだけど、これが開かないんだよ。歪んじゃってんのかな」父は渾身の力を込めてクッキーの缶の蓋を引っ張った。「――っくぬぬぬ!ぐぐ…!!」
うんともすんとも言わない。
「貸して。俺がやってみる」
「はぁ、はぁ……。た、頼むよ」
父から受け取った缶は軽く、カラカラと中で何かが動く音がした。確かにこれにクッキーは入っていないようだ。
湊は力を込めて蓋を引っ張ろうとし――パコっと驚くほど簡単に缶は開いた。
「お!やったな!流石に若人は力が違う」
「いや、軽かったよ?」
「溶接したみたいに硬かったけどなぁ?何かいいところ引っ張れたのかもな。どれ、何が入ってるんだ?」
父が缶を覗き、湊も缶に視線を落とした。
缶の中には、大小二枚の紙と赤紫色の複雑な輝きを宿した石の付く指輪があった。
「あ、これ」
「親父がずっと大事にしてた指輪だな。こんな所にしまってあったんだなぁ。結構前から見当たらなくなってたけど、諦めないで開けられて良かったな。捨てちゃうところだったよ」
それは生前祖父がいつも着けていたもので、記憶が飛び飛びになり初めてからもそれを眺めて過ごす時間があったほどだ。指が節くれて来てからはチェーンを着けてネックレスにしていたので、指輪だが首に掛けている所しか湊はほとんど見たことがない。
「はは、危ねぇ。祖父ちゃんの宝箱ってところかな。とすると、これは宝の地図か?」
湊は指輪と一緒に入れてあった大きい紙を開いた。二枚のコピー用紙をセロハンテープで貼り合わせてあり、テープは少し黄色く劣化し始めていた。
それは大きな手書きの魔法陣だった。
「地図ではなさそうだな」と父が笑う。
もう一枚の、二つに畳まれた一筆箋サイズの紙も開いてみる。こちらは護符のようなものだった。
護符は謎だが、魔法陣はおそらく物語の挿絵の参考図だったものだ。
湊は何故か無性に胸が騒めいた。まるで音が遠くに離れて行くような――そんな奇妙な感覚。
湊が護符を食い入るように見つめていると、湊の前に置かれた缶の中から叔母が指輪を取り出した。掛かっているチェーンがチャラリと音を鳴らす。
「これ懐かしいわねぇ」
「できれば一緒に焼いてあげたかったなぁ。きっと親父は持って行きたかっただろ」
「お仏壇に置いて来てあげなきゃね」
そう言って叔母が立ち上がろうとすると、祖母がそれを止めた。
「雪子、それ湊ちゃんにあげるわ」
「え?一番お父ちゃまが大事にしてたのに良いの?」
「湊ちゃんは忙しくってあんまり帰って来てお線香上げられないし、湊ちゃんがこれを着けてくれたら、きっとお爺さんは色々見られて嬉しいと思うの!ね!ずっと着けててくれるでしょ?」
祖母の目からはキラキラとした星の輝きが飛んでくるようだった。
湊は顔にいくつも星がコツコツとぶつかる幻覚を払った。
「一番懐いてたし、そうしましょうか。航兄さんも良い?」
叔母の問いに父はすぐに頷いてくれた。
「もちろん。湊、大事にしろよ」
「なんか一番良いもん貰ったみたいで悪いなぁ」
こんな大きな石の付いた指輪、乃至はネックレスをしている男とはどうなのだろう。祖父くらい歳が行っていれば貫禄もあって良いかもしれないが、何となくチャラついて見えそうだった。
「気にしないで良いから。ほら、無くさないようにもう着けて!」
勧められてしまい湊は苦笑した。指に着けるのは抵抗があり、通されていたチェーンで首にかけることにした。
長いチェーンなので、チェーンの輪を被って着けた。
「へー、湊、良いじゃん。可愛い」
「桜が欲しいならあげても良いけど」
「ううん。お祖父ちゃまは湊と一緒にいられる方が多分嬉しいだろうし良いよ。私お祖父ちゃまの興味ありそうなことしてないし」
「そう?」
「そ!それに、服には似合わなすぎるけど、顔には割と似合ってるよ」
桜が笑う。湊はペンダント状態の指輪を見下ろした。
「それ褒めてる?」
「褒めてるけど?」
「似合う似合う!良かったわね、湊!」
母は何を着ていてもこれなので当てにならない。取り敢えず片付け中にぶつけたり引っ掛けたりすると嫌なので服の中に入れた。
そして、怪しい魔法陣と護符だけが入っている缶には、先程本の間から発掘した祖父の写真達を一旦入れた。
「祖母ちゃん、大事にするよ」
「そうしてね!さぁ、ご飯食べましょ!」
祖母がいただきますと一言言うと、皆それに続いた。
昼食は山盛りの素麺だった。漆沢家の夏の定番で、夏に帰ってくると昼は毎食素麺を食べさせられる。子供の頃は正直好きじゃなかったが、大人になってみると素麺のさっぱりした喉越しは癖になる。
楽に食べられるし、帰りに買っても良いかもしれない。
麺つゆの中に落とされた氷が軽やかな音を立てる。
すると、玄関が開く音と「ごめんくださーい」と言う声がした。
「あら?誰か見えたわ」
「ご近所の人が弔問に来てくれたのかな?本当にありがたいなぁ」
近所の人とは言え勝手に玄関を開けるなんてどうかしている。湊はチャイムはどうしたと思った。
何の疑問も抱いていない様子の母と父は駆け足で廊下に出ていった。
「残り、食っちゃっていい?」
湊が素麺を示す。残った女性陣は皆もう箸を置いていた。
「食べて食べて。湊ちゃんたくさん食べて偉いわねぇ」
「はは、ありがと」
祖母の言葉はまるで小学生に宛てたような物だった。
残りの素麺をすくい、麺つゆに落とす。
かなり汗をかいているのでどっぷりとつゆにつけても良いくらいだ。
失った塩分をここぞとばかりに吸収した。
全て食べ終わり、ご馳走様、と一言呟いた。
湊が食器をまとめ始めると、叔母がそれを押し留めた。
「ミナちゃんはお片付けに行って。大した量じゃないし叔母さんやるから」
叔母は食器を朱の鎌倉彫りのお盆の上に集めながら言った。
「助かりまーす。桜、行こうぜ」
「そうね。出てきた写真から片付ける?」
「そうするか」
写真を入れた缶を持って桜と祖母を連れて和室へ向かう。隣の仏間には来てくれたご近所さんと父が思い出話に花を咲かせているようだった。
和室の中には開かれたままになっている年代物のアルバムが二冊と、まだ何も入れられていない新しいアルバムが一冊。新しいとは言うが、恐らく湊が子供の頃に買っておいたようなものなのでデザインには年季が入っている。
アルバムの一部は何月何日という情報だけが書かれ、写真は歯抜けになっていた。
「あー、結構抜けてんだね」
「でも、見つけて来てくれたんでしょう?」
祖母は嬉しそうにクッキーの缶を引き寄せ、桜は軽くアルバムの中を確認した。
「これじゃまるっきりパズルね。お祖父ちゃま、本当あれこれ変えちゃったんだなぁ」
「祖母ちゃん、あそこのアルバムも?」
湊の指差した先には閉じられたアルバムが三冊程並んでいた。
「あれは私が子供だった頃の」祖母はそう嬉しそうに自分を指差していた。
「え!お祖母ちゃまの見てみたい!」
桜が一番手近な一冊を手に取って開く。
まだ赤ん坊だった祖母の写真が一ページ目にあり、後はおかっぱ頭で着物を着ている写真がたくさん入っていた。どれも今時の写真の半分くらいのサイズで白黒だ。アルバム本体も透明なフイルムで挟むタイプではなく、紙の台紙に直接写真が貼られている。
「ふふ、可愛い。あ、これひいお祖母ちゃま?」
「そう。桜ちゃんも湊ちゃんもあんまり会ったことなかったでしょう」
「へー、祖母ちゃんもこう言う感じだったんだぁ。時代だなぁ。そういえば祖父ちゃんの子供の頃の写真はないの?」
出てくる祖父の写真はどれもこれも成人してからのものばかりだった。それに、どんな子供だったと言う話も聞いたことがない。
「お爺さんは戦争で家族も家も戸籍も皆無くしちゃったそうでね。写真はないのよ」
「え?そうなの?戦災孤児?」
「孤児っていうにはちょっと大人だったかしらねぇ。私より七つ歳上だから。親と一緒に外国に行って、戦後の混乱期が終わって、最後の大きな戦後引き揚げの時に帰ってきたみたい。苦労したと思うわ。日本語は話せたけど書けない字も随分あったみたいだから。若い頃から白髪混じりで髪の毛灰色になっちゃっててねぇ。でも、私はそれが大人っぽくて素敵だと思ったものだけれど」
懐かしむ様に祖母の口からはふふ、と笑い声が漏れた。
「へー…知らなかった。あれ?でも祖父ちゃんって兄弟いなかった?よく手紙くれてたよね?」
「あれは食べられなくて困ってたお爺さんの面倒を見てくれてた横溝さんの所の息子さん。あの人ももう亡くなっちゃったし…いやねぇ…」
祖母はがっかりと肩を落とした。
「……そりゃあいつか本当の家に帰りたいって言うか」
「私も何回か探しに行きましょうって言ったんだけどねぇ。絶対に行き着けないから良いって言われちゃったの。頑固よねぇ。探してみれば跡地くらいあったかもしれないのに。結局最後まで県も教えてくれなかったのよ」
「はは、祖父ちゃん変なところで頑固だからな」
「お祖父ちゃまって結構目鼻立ちくっきりだったし、沖縄とかかな?もしくは青森?」
「割とイケメンっていうかハンサムだったよなぁ。もしかしたら手記みたいなやつに書かれてるかもしれないし、俺古そうなの探してくる」
湊はまた離れの書斎に向かった。
古そうなノートを何冊か本棚から取り出し、適当にページを捲った。ノートはあちらこちらに入れられ、順番がめちゃくちゃだ。
年代物のノートにはその日の晩御飯の味が書かれていたり、面倒を見てくれた横溝への感謝が書かれていたり、誰かへ宛てた手紙を書き写して控えていたようなものまである。
ここから調べるのは一苦労しそうだ。一部達筆で読めないところまである。
どんどん古いノートに目を通して行くと――一番古いと思われるノートにはミミズがのたくった様な文字がびっしりと書き込まれていた。
縦書きではないので、恐らく戦時中に過ごしたどこかの国の言葉なのだろうが、筆記体で書かれているせいで何一つ読めない。
そして、ふと思った。
この字は祖父の新しい手記の文字と同じではないだろうか。
もしそうなら、あれはただ滅茶苦茶に筆を走らせていたのではなく、何か意味のある言葉なのかもしれない。
渡り廊下に出しておいた意味を持たないと思っていた手記と、古いノートを並べて置いてみる。
滅茶苦茶に書いたにしては規則性がある。二つの文字はよく似ていた。
「アラビア語か……?いや、タイ語……?戦時中に日本人が家族連れて出張るところってどこだ……?」
アルファベットの筆記体も苦手だが、英語でなければより一層読める確率が下がる。少なくとも一人称は「I」では無さそうだ。
祖母に何語か聞いてみようと決め、古いノートとまだ縛っていない原稿用紙を手に、アルバムを広げている和室に戻った。
「祖母ちゃん、祖父ちゃんて家族とどこの国にいたんだろ?」
「思い出したくないみたいでね。教えてくれなかったのよ。でも、戦争の事は辛くて話したくもないって人、たくさんいるから仕方ないわね」
「そっかぁ…。ねぇ。これ、ボケちゃう前に書いてたのと同じじゃない?」
湊が今見つけたノートと最近書いたであろう紙を並べて畳の上に置くと、祖母と桜は覗き込んだ。
「ほら。同じだよ。これ何語なんだろうなぁ」
「あらまぁ…何語なのかしら……。ずっと意味のある言葉じゃないって思ってたわ……。こう言う字でしょっちゅうお話に出てくる魔法陣って言うの?あれ描いてたから。練習してたのかと……」
湊はクッキーの缶の底に残っている二枚の紙を取り出した。
大きい方を広げて確認すると、魔法陣を構成する文字は確かにこれによく似ていた。
「本当だ。同じだ。これが読めたら、祖父ちゃんが最後何考えてたのか分かりそうなのになぁ」
「まぁ!良いわねぇ!湊ちゃん、それ調べてみてちょうだいな!」
「分かるか怪しいけどネットで聞いて見ようか」
湊はそう言ってスマートフォンをポケットから取り出そうとし――魔法陣と護符が繋がりそうなことに気がついた。いくつも丸が書かれている魔法陣の中心には細長い四角が穴のように空いていた。
空白の中に護符を置くと、護符の中の装飾のような線と、魔法陣から伸びる回路染みた線はぴたりと合った。
もし二つが関わりのあるものなら、合わせて写真を取っておけば解読も早いかもしれない。
護符は漢字なので湊でも何とか読める。旧字体と梵字の様なものは読めないが。
「うーんと……願、宙、引、用、神、通、道、開、起、溜、四、捕、縛……」
「何?悪魔召喚?」桜は護符を手に取ってじっくりと眺めた。
そして――「あ、これ出来損ないになってる」
「何が?」
「ほら、ここ」
桜が指さしたところは「湊」の字の最後の二画だけが書かれていなかった。足のない「湊」の字は奇妙だ。ネットに上げるにしても、日本語の方もきちんとできている方が解析は早いだろう。
アルバムの整理のためにペンや糊は出しっぱなしになっているので、適当なペンで足りない二画を伸ばして完成させた。
「よし、オッケー」
今度こそスマートフォンを取り出す。
スマートフォンのカメラ越しに魔法陣と護符を見ると、魔法陣がキラリと光を放った気がした。
――瞬間、燃えた。
「え!?ちょっと!」
「は!?やばい!太陽の反射か!?」
畳と手記、出してある写真に燃え移る前に慌てて二枚を庭へ放り捨てた。全て無事かと思ったが、すぐ近くに置いてあった祖父の写真はよく乾燥していたせいで角に火が燃え移っていた。
庭に投げた紙も、燃え移りそうなものもないと言うのに一層燃え上がり、どんどん炎が大きくなる。まるで神社のお焚き上げのようだ。
ここまで三秒とかからなかった。
「お、お水お水!」
祖母と桜が慌てて台所へ向かい、湊は写真の角に付いている小さな火をふっと吹いた。
「あれ?」
火が消えたところは一切燃えた形跡がなかった。
おかしいなと頭を掻き、写真を顔の前から下ろす。
「――え?」
湊の呟きは玄関で弔問客を見送っている様子の母と父の楽しげな声にかき消された。
先ほどまで炎が燃え上がっていた庭には身構えている人がいた。闖入者だ。あり得ないが、炎の中から現れた様に見えた。
一章が終わるまで毎日投稿しようと思っていまぁす!
二章はまた書き上がり次第毎日投稿します。
割と早筆な方なのであまりお待たせせずにお届けできるかなぁ。
湊君の出会いと別れ、愛しい物を掴み取る冒険にどうぞお付き合いください!
ブックマークしてもらうと喜びます!