勇者ちゃん、敗北する
瞼を開き、まず目に入ったのは茅葺きの屋根だった。
荒い木材を組み上げて作られた質素な家。
首を横に向けるとそこには囲炉裏がある。
中火の赤い火の上で、金属の鍋の蓋の隙間から、グツグツと茹で汁が溢れている。
「ここは……?」
シアンは体を起こそうとして、激痛に眉根を歪めた。
一度体を毛布の中に戻し、それから鑑定を発動する。
勇者シアン、レベル2――
向こう側に屋根の見える半透明のその表示に、シアンは何も言えず、ただただ手で顔を覆った。
目覚めた場所が天界でないということは、あの時シアンは死ななかったということだ。
「クソ……」
シアンはシルフィとの戦闘を思い出そうとする。
上手く働かない頭の中、少しずつ今までの出来事をトレースしていく。
「確か私は……カンナビスに連れられて転移盤でネヴィリオに跳んだ。それから……そうだ、メチルたちと口論になって……それから……」
全て思い出し、シルフィとの戦闘を思い出す。
シアンはシルフィを斬り損なった。
シアンが斬ったのは、彼女の見せたレンズによる虚像だった。
そしてシアンは死々繰されたゴーストの群れによって意識を失った。
そこまで思いだし、シアンはシルフィの言葉を思い出す。
『実はね、私はその聖剣、レーゼンアグニが欲しいんだ……』
シアンはそれを思いだし、体が痛むのも無視して上体を起こした。
シルフィの目的はシアンの持つ聖剣だった。
シルフィは死々繰によって魔物のレベルを自在に操り、街を丸ごと焼き尽くすことが出来る。
そんな彼女に、もしレーゼンアグニを奪われたら……。
きっと、彼女は今まで以上に暴虐の限りを尽くす筈だ。
シアンは自らの腰をまさぐった。
腰に剣を佩いていない。
最悪の気分になりながら辺りを見回す。
青ざめた顔で部屋の中を隈無く探し、ようやくそれを見つけた。
黄金色に輝く豪鉄。
魔族を滅ぼし世界を救うための、人族に残された希望の剣。
聖剣・レーゼンアグニ――
シアンはそれを大事に抱え込み、その場にへたり込んだ。
全身が軋み、痛みに体が震える。
奥歯を噛み、静かにそのスペルを呟く。
勇者シアン、レベル1――
体から痛みは消えた。
しかし、シアンはその剣を抱えてうずくまった。
「私は負けた……私は、負けた……!! うぅううあああ……っ!!!」
ぼろぼろと涙が溢れる。
泣きたくないのに、こんな醜態など晒したくないのに……。
「私は……私は勇者だ! 勇者なのに……! 勇者なのに……っ!!!」
聖剣を抱え、シルフィの笑みを思い出す。
こちらを見下したような濁った瞳。
まるで相手にもしていないといった声音。
余裕の表情。
勇者シアン、レベル1――
視界の隅に映るその表示が、今の自分がどれだけ無力であるのかを示している。
シアンはレベル800あっても、彼女に勝てなかったのだ。
それが、今はたったの1だ。
「嫌だ……なんで……。なんでこんな……」
情けなさに涙が止まらない。
顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり、それから、シアンは聖剣を鞘から抜いた。
鋭い刃が囲炉裏の火を受け、赤く輝いている。
その刃を再び鞘に収め、シアンは深呼吸をした。
壁に背を預けぼんやりと向こう側を眺める。
シアンはシルフィに負けた。
為す術もなく完全に敗北した。
レベルは最低まで下がり、彼女に勝てる方法などはひとつも見当たらない。
だけど、聖剣だけは手放さなかった。
シアンのプライドはズタズタに引き裂かれたが、この聖剣だけは守り切った。
この聖剣のお陰で、彼女はギリギリのところで折れずに済んだのだ。
もしこれさえも奪われていたら……。
「……よかった」
シアンはぎゅっと剣を握り、震えながら囲炉裏の火を眺める。
「これだけは……守れて……よかった……」
そう言うと共に、玄関の暖簾が開き、この家の主が現れた。
二メートルほどの巨躯に薄い緑色の肌。
短く刈り上げた赤みがかった茶髪に、黄金色の瞳。
そして額に生えた赤い角……。
オーガ、レベル19――
「やっと目覚めたか……。どうだ、体のほうは大丈夫か?」
オーガは荷物を下ろし、こちらへと一歩踏み出した。
「嫌……いや……っ!!」
シアンは聖剣を抜き部屋の隅まで退がる。
今のレベルでは、このオーガにはとても敵わない。
ガタガタと震えながら、涙目で目の前の魔物に切っ先を向ける。
(死にたくない……!)
復活はレベル1からのやり直しだ。
もう一度ここからやり直したとしても、このオーガには絶対に勝てない。
ここで死んだらせっかく守った聖剣が魔族の手に渡る……。
そうしたら、この剣がシルフィの手に渡るのも時間の問題だ。
シアンのその姿を見て、オーガは肩を竦めた。
「おいおい……命の恩人に対してそりゃねえだろ」
近付いてくるオーガにシアンはレーゼンアグニを振るが、元より高いレベルにものを言わせた乱雑な剣だ。
簡単に手首を掴まれ、聖剣を取り上げられてしまう。
「やめろ……! 返せ! 返してっ!! お願い!! それだけは取らないで……お願いだからっ!!!」
シアンは必死になってオーガが取り上げたレーゼンアグニを取り返そうとするが、レベル1の筋力ではこのオーガに傷ひとつ付けられない。
それに相手の身長は二メートル以上もある。どれだけ手を伸ばしても届かない。
「別に取る気はねえよ。ほら、こっちこい」
泣き叫ぶ少女を連れ、オーガは彼女を囲炉裏の前に座らせる。
その膝元に、聖剣を鞘に収めて返してやる。
少女は必死に剣を抱え、うずくまり、何かを呟いている。
「神様……たすけて……。このままじゃ、世界が……」
そんな少女の姿にオーガは溜息を吐き、鍋の蓋を取った。
中身を器に寄せ、彼女の方へと差し出す。
「安心しろ、俺はお前の敵じゃない。まあ、これでも食って落ち着けよ。羊肉と鶏肉だ。これなら人族でも食えるだろ?」
差し出された器を受け取り、シアンはオーガを見上げる。
「私を……殺さないの……?」
涙目の彼女にオーガは呆れたように眉根を寄せた。
「なんで殺すって話になるんだ? いいから食え。折角作った飯だ」
「でも、魔族は人族を殺すでしょ……? そうしないと生き残れないから……」
「……まあ、そうかもしれねえな。でも、こうして目の前にいる相手に酷いことしようとは思えんだろ。ほら、いいから食えよ。旨いぞ」
シアンは手元の器に視線を移し、その暖かい香りに息をついた。
まだ彼女はこの状況を理解出来るほど冷静になれない。
だけど、その美味しそうなタジン鍋の香りは、僅かに彼女の心を安心させた。
震える手で器を口許に運び、舌に暖かさを感じる。
勇者シアンは敗北した。
しかし、聖剣だけはまだその手に残されている。
ここから彼女が何を見て、何を思い、何を成すのか。
レベルを失った彼女は、今一度自らの置かれた立場を考え直すことになるだろう。
勇者とは、一体何なのかを……。




