勇者と風と
あれから数時間。
シアンは風を読んでいた。
夜に吹く風は魔物の吐息と同じだ。
生気を伴わない冷たい風。
囁くような不気味な音を伴い、夜の闇へと誘う悪魔の指先。
この風は一体、どこへと向かうのか。
シアンは瞼を閉じ、指先を撫でる冷たい感覚に意識を集中する。
魔物は常に体内から魔力を放出している。
その残り香を掴みさえすれば――
「風魔、シルフィ……ッ!」
目前に聳える砂の丘の上。
白い椅子に腰掛けた異様な痩躯の少女。
白い肌に月光を受け神聖さすら感じさせるその少女は、そっと読んでいた本を閉じ、視線をシアンへと向けた。
「やっぱり、君ならすぐにでもここに来ると思っていたよ、勇者シアン」
赤い瞳は煌々と輝き、しかしその瞳孔の奥には漆黒の闇を湛えている。
彼女の軽薄な微笑みに、シアンは聖剣レーゼンアグニを引き抜く。
「魔王ネメスを殺す前に、お前をこの剣の錆に変えてやる」
「ふふ、鴨がネギを背負ってきた、というやつかな……。実はね、私はその聖剣、レイゼンアグニが欲しいんだ……」
シルフィは立ち上がり、砂の丘からシアンを見下ろす。
月を背負った風の少女の姿。
その威容を睨み、シアンはシルフィに斬りかかった。
刹那、砂の壁が彼女の前に立ちはだかる。
咄嗟に跳ねた勇者を砂の群れが追い、シアンの放つ魔導波によって蹴散らされる。
背後から現れた巨大な"砂の手"を斬り払い、横からの砂の拳を防御スキルによる光の壁で相殺する。
背後の気配に振り返ると、そこには風の少女とは正反対の巨躯の男が佇んでいた。
地魔ノーム、レベル800――
鑑定スキルで見えた相手のレベルにシアンは思わず息を飲んだ。
砂上に着地したシアンに対し、風魔の声が語りかける。
「驚いたかい? ノームには君とほぼ同等の適性があるんだ。君はこのレベルの魔族を目にするのは初めてだとは思うけれど」
直後、左右から巨大な砂の腕が襲いかかる。
シアンは解放したレーゼンアグニの炎でその腕を消滅させ、一度退いてシルフィとノームとの間合いを開けた。
風魔シルフィ、レベル14――
(風のほうは大したことがない。警戒すべきは地のほうだけか……)
その鑑定結果にシアンは僅かな安堵を感じた。
ノームのレベルはたしかに脅威だが、こちらとの差は80以上。
シルフィのレベルと合計しても、依然としてこちらの有利は揺るぎない。
シアンのその安堵を見て取ってか、シルフィは椅子に腰を下ろし、閉じていた本を開き、そちらへと視線を下ろした。
「どうやら、私は立つ必要もなさそうだ。ノーム、あとは任せたよ」
「あぁ、勇者は俺が殺す……!」
砂の腕の大群がシアンへと襲いかかり、彼女はひたすらにそれを薙ぎ払う。
月灯りの下、煌めく砂粒と銀の刃……。
レーゼンアグニの原始魔法の炎が砂を消滅させ、また新たな砂が彼女を襲う。
無限の砂の群れの中、勇者シアンは聖剣と魔法、スキルの全てを駆使して踊るように舞う。
静かな夜に響く戦場の交響曲。
それを聞きながら、シルフィは心地良く本のページを捲っていく。
「零と全とを繋ぐアグニの炎。その炎を宿した聖剣零全アグニ……。君の持つその剣にはこの世界の全ての理が秘められていると言っても過言ではない。それを得た物がこの世界の支配者になるとも言い換えられる」
ページを捲り、続ける。
「私はそのレイゼンアグニの炎でこの世界を焼き尽くしたい。跡形もなく、白も黒もなく全てを焼き尽くしたい。美しいものを、美しい姿のままに。老いていく悲しみとは無縁な、透明な世界へと導きたい……」
さらにページを捲る。
一枚、二枚、三枚と捲る。
「そこに争いはない。悲しみもない。誰かを失うことも、病に苦しむことも、敵を憎むこともない」
刃の音が近付いている。
シルフィは瞼を閉じ、月明かりを浴びて、心地良さそうに、歌うようにして語る。
「この世界には調がある。予め決められた運命という名の楽譜がある」
刹那、砂の幕が破れ、彼女の前に獣が躍り出た。
血に塗れ、牙を隠すこともなく、刃を煌めかせた獣。
勇者という名の獣が、決死の形相で彼女の首元へと刃を振りかざす。
「その楽譜の作曲者を、恐らく魔王ネメスは肉眼で観測している――」
シルフィは瞼を開き、シアンのその瞳にふっと笑った。
刃が袈裟斬りに振り下ろされ、彼女は真っ二つに両断される。
時空が歪んだかのような、異様な光景だった――
魔力と風とが瞬時に解けて、シルフィだったものはその場から揺らぎ、薄れ、消えていく。
シアンは右手の剣の手応えの無さに背筋の凍るような感覚に襲われた。
解けた"それ"の向こう側、真実の光景を前にして、勇者シアンは目を見張る。
これはレンズだ。
遥か向こう、今斬った虚像とそのままの姿で、その少女は立ち上がり、心底残念そうに呟いた。
「勇者シアン、どうやら君はここまでのようだ。魔王ネメスと私との戦いに、君はついてくることが出来ない。さようなら。終末の先でまた会おう」
彼女が指を鳴らすと共に、大気の屈折によって隠されていたそれらが姿を現す。
ゴースト、レベル999――
ゴースト、レベル999――
ゴースト、レベル999――
ゴースト、レベル999――
ゴースト、レベル999――
・
・
・
・
「馬鹿な……こんなこと、ありえない……ッ!!」
頭上を覆い尽くすゴーストの群れに、勇者シアンは叫ぶ。
人族の中で、死々繰によってこのレベルに到達出来たのは自分一人だけだった。
王宮地下の魔物たちも、この領域には達せなかった。
これは自分にしかない特別な才能で、世界でただ一人許された、神の恩寵だったはずだ……。
目の前の光景にシアンは過呼吸を起こしそうになる。
目眩で現実が直視出来ない。
そんな彼女の様子を見て、シルフィは声を上げて笑った。
いたずらが成功した子供のように。
「人族は本当に愚かだね……。私が死々繰の完成形をそのまま提供するわけがないじゃないか。君達にあげたのは、あくまで外交用のお裾分けだよ」
勇者シアンと魔王ネメスが戦っている間、シルフィには死々繰の研究を進める時間はいくらでもあった。
そして、シルフィは遂にこの領域において神にも匹敵する力を手にしたのだ。
「私は神を引きずり下ろす。ネメスの目的も恐らくはそれだ。そして、この世界を私たちのどちらかが完全に掌握する。私は魔王と神に挑戦する! 君はその礎だ……!」
シルフィが指を鳴らすと共に、全てのゴーストが勇者シアンへと特攻する。
白い輝きに、思わずシアンは目を見開いた。
あの発動エフェクトは"自爆魔法"だ……。
体内にある魔力を全て解放し、対象を巻き添えに自らの生命を終わらせる究極の魔法。
レベル999相当の爆発――
これほどの威力の通常魔法は、おそらくは歴史上……いや、この星の誕生以来、一度もなかったことだろう。
最期の瞬間、シアンはシルフィのほうへと視線を向けた。
「太陽のない夜なら私に勝てると踏んだのかもしれないけれど、相変わらず君には頭が足りてない。魔族は闇夜に潜みし者だ。それに……既に死々繰は完成している。コントロールは万全だ」
彼女のどろりと濁った瞳の奥に、シアンはこの世のものとは思えない邪悪を見た。
シルフィは、生命の持つ"自我"の領域にまで手を伸ばしている――。
それを悟り、勇者シアンは絶叫した。
「このクソ魔族がぁああああああああ!!!!!」
その瞬間、このテリトリーにいた全ての人族と魔族が、この戦場の一幕を目にすることとなった。
白い輝きが夜を蹂躙し、ネヴィリオ自治区は一瞬だけ昼になった。
直後、強烈な熱波と砂嵐が付近の町々を襲い、再び地上に夜が訪れた。




