両手いっぱいの祝福で
「魔王ちゃん……」
破れた空白の中へ行こうとするその背に、聞き慣れた声が聞こえてくる。
ネメスは歩みを止め、振り返る。
「破壊神ちゃん……」
錆び色の髪が揺れ、彼女は暫し逡巡し、それから続く言葉を紡いでいく。
「本当に……リスタート計画を実行するの?」
「うん。もう全部準備は整った。ここまで来て引き返せないでしょ?」
「それは……そうだけど。でも、魔王ちゃんはそれでいいの? 新世界を青き炎から守るために、世界そのものを魔王城にして、その城壁で外界の悪意から世界を、みんなを守る……。でも、それって……」
「私はみんなの盾になる。青き炎を封じて、世界を守るための機構になる」
「でもそれじゃあ魔王ちゃんは……ずっと、青き炎と戦い続けるってことだよね……? みんなと一緒に、暮らせないんだよね……?」
それを聞き、魔王ネメスはにこりと微笑む。
「うん。でもそれは破壊神ちゃんもそうだったでしょ? 世界の均整を保つために、誰かが人柱になる必要がある。その一番の適任者が私だから。だから、破壊神ちゃんは新しい世界で普通に生きていいんだよ。……今までありがとう。私、もう満足出来たから。みんなが、たくさん愛をくれたから」
「……」
何も言えずにいる破壊神に背を向け、魔王ちゃんは裂けた空白の中に足を踏み入れる。
そこは、真っ暗な世界だった。
魔王ちゃんは空白の世界を振り返り、破壊神と顔を見合わせる。
「それじゃあ、やるね」
「魔王ちゃん……!」
悲しげな顔の彼女に魔王ちゃんは微笑む。
だけど、その微笑みは少しだけ、苦しそうだった。
「私……魔王ちゃんと会えてよかった! 私のこと、助けてくれて……本当に感謝してる。だけど、私魔王ちゃんに何もしてあげられない……」
「いいんだよ。破壊神ちゃんはリスタート計画の手助けをしてくれたから。……もう、行くね?」
「……うん。魔王ちゃん、今まで、ありがとう……」
ネメスはリスタート計画の術式を発動し、空白の世界そのものを魔力徴収する。
これで、元々世界に存在していた魔力は全て魔王ネメスのものとなった。
「……行こう」
ネメスは暗闇の中を進んでいく。
無限の無音と、無限の孤独の中を。
この先にいる、自らの最大の敵……"世界"そのものに勝利を宣言するために。
「私は勝った……。全てを成し遂げた……。私が幸福を掴もうとして、その代償として与えられた全ての不幸を、克服した。世界はもう一度やり直す。優しくて暖かくて、綺麗で美しい……そんな世界に……」
魔王ちゃんは目の前に現れた漆黒の扉を前に息を整える。
この扉の先にいるのが、魔王ちゃんを貶めた諸悪の根源。
それは言うなれば「世界そのもの」であり、「悪意そのもの」とも言い換えられる。
魔王ちゃんは手を伸ばし、重い扉を開く。
そして、玉座に腰を下ろした一匹の小さな魔物を前に、立ち尽くす。
それは、魔物と言っていいのかも分からないような、不完全で不安定で、とても小さな生き物だった。
それどころか、この暗黒空間においては生も死も存在しない。
故に、この小さな"悪意"は、生物ですらないのかもしれない。
悪意は魔王ちゃんを見上げ、怯えたように震えている。
こんなに小さくて、弱くて、臆病な存在が、世界の全てを恐怖に陥れた"悪意"……。
罪魔を作りだし、青き炎を作り出し、領域戦争を巻き起こした災厄。
「これが、私たちの"神"……」
こんなくだらないちっぽけな存在に、今までみんなは苦しめられていたのだ。
魔王ちゃんはその悪意に対して、奥歯を食い縛り、手を上げた。
悪意はその手に怯え、玉座の隅に縮こまる。
「そんな、弱そうなフリをして……!」
この手を振り下ろしたところで大したダメージはない。
剣で斬るわけでも魔法で焼くわけでもない。
でも、魔王ちゃんはその手を振り下ろさずに、呆然と、その悪意を、自らを生んだ神を見下ろしていた。
「もしかして……あなたも、私と同じなの……?」
魔王ちゃんは手を下ろし、目の前の、弱くて小さな悪意を見て呟く。
「あなた……ずっと一人でここにいたの?」
悪意は何も答えない。
ただ一人で、玉座の隅で怯えるだけだ。
「あなたは……ずっと寂しかったの?」
悪意は何も答えない。
ただ一人で、玉座の隅で震えるだけだ。
「あなたは……愛されたかったの?」
悪意は、何も答えない……。
それを見て、魔王ちゃんはぎゅっと拳を握り締め、俯いた。
このちいさな漆黒は"悪意"だ。
この世界に蔓延る罪と罰と悪の集合だ。
全てから憎まれ、全てから嫌われ、全てから忌避される。
そんな世界の悪意を前にして、魔王ちゃんはそっと優しく微笑んだ。
「あなたは、自分が存在する意味を知りたかったんだね。誰かに肯定して欲しかったんだね。こんな暗闇にずっと一人ぼっちだったから、自分のことを理解してくれる人が欲しかった。だから、私を作った。罪の悪魔……魔王ネメスを……」
ネメスは膝を曲げ、玉座の悪意と視線を合わせる。
そうしてその漆黒の悪意を優しく撫で、そっと持ち上げると、自らがその玉座に座った。
悪意を膝の上に乗せ、魔王ちゃんは優しい声で言った。
「大丈夫。私はあなたの"敵"じゃないよ。だって、あなたは自分の理解者が欲しくて……罪の魔物を作ったんでしょ? 私はたくさん、あなたの悪意に晒された。正直、凄く辛かったし、恨んでるし、怒ってる。だけど、もう、あなたはそんなことしなくても大丈夫でしょう?」
魔王ちゃんの言葉に、悪意は、何が起きているのか理解出来ないでいる。
魔王ちゃんは今、自らが生まれた理由を、なぜこれだけの苦痛に苛まれたのかを知った。
それは、この子が必死に、自分を分かってもらおうと頑張ったからだ。
「私はあなたの悪意を知っている。そして、それを肯定する。あなただけひとりぼっちなんかにしない」
魔王ネメスは、自らの魔力を両手に集中させる。
そして、この世界の全ての魔力を悪意に見せ、それから悪意に笑いかけた。
「私はずっと、あなたを世界から隔離しようとしてた。そうすれば、みんな悪意に晒されずに済むから。だけど、私はあなたも含めて『みんな』笑顔にしたい。だから、この神の座には、私も一緒に座ってあげる。あなたを仲間はずれになんかしないよ。私が隣で、あなたが悪いことをしようとしたら止めてあげる」
ネメスは悪意を撫で、それから最後の術式を解放した。
自らの術式の中に世界を再編し、領域戦争も、青き炎もない……
だけど、ほんの少し悪いことが起きたり、悲しいことも起きたりする……
だからこそ、みんな前を向いて、希望を見つけて、進んでいける。
そんな素晴らしい、みんなが笑っていられる、幸せな世界を!!
「これが、私のリスタート!!」
魔王ちゃんが両手を広げると、魔力の虹が視界いっぱいに弾けた。
希望と未来、愛と喜びと友情と……ほんのちょっぴりの悪意!
それをみて、「世界の悪意」は魔王ちゃんの膝の上で飛び跳ねた。
「そうだよ!! あなたもいていいの!! この世界は、みんないていいの!!」
それが、魔王ちゃんの願う世界の在り方。
本当はちっぽけで、自分の存在すら肯定出来ない悪意の神。
そんなちっぽけな悪意が、最大限の努力で作り出した、罪の悪魔・ネメス。
罪の悪魔は、一度は自らを生んだ悪意を否定した。
だけど、その悪意があったからこそ、罪があったからこそ……魔王ちゃんは、みんなと出会って楽しかった。
「あなたがいてくれたおかげで、私はみんなに出会えた!! 楽しかった!!」
魔王ちゃんは神を赦した。
そして、その悪意と共に新たな世界を創世した。
魔王ちゃんの最後の罪は、この世界に悪意が残るという罪だ。
だけど、魔王ちゃんはその罪を受け入れる。
なぜなら、過酷で残酷な世界だったとしても、魔王ちゃんの出会ってきたみんなは、希望をもって進んで行けると知っているから。
「みんなが幸せで、みんなが笑顔でいられる世界……それは、私ひとりで作るものじゃないからね」
魔王ちゃんは悪意と顔を見合わせ、にこりと笑った。
リスタート計画は、この世から悪意を隔離する計画だった。
だけど、魔王ちゃんは新世界に悪意が混入することを許容した。
だから、この計画は不完全な形で成就してしまった。
きっと、この世界では、過酷や残酷や困難がみんなの前に訪れる。
「だけど、私はみんなが頑張ってくれるって信じてる!!」
罪を受け入れることで、前を向けると魔王ちゃんは知っている。
虹の彼方、光の先、奇跡と魔法、そして笑顔。
無限に広がっていくこの新しい世界に、たくさんの愛が溢れますように!!




