時を惜しめと、乙女たちに告ぐ その二
月の無い夜。
シルフィはうっすらと輝く魔法陣の前で、ゆっくりと精神を統一する。
彼女が魔法陣に手を翳すと、身体と土地との間に魔力のやり取りをする仮想のパイプが繋がれた。
死々繰の完成度は現時点をもって未だに六割程度でしかない。
魔力をその場に留め流動をコントロールするまでは良いものの、それを継続的に持続するには到っていない。
だからシルフィはこうして毎晩、術式の調整を行わなければならない。
この日課を欠かせば、苦労して作った食料プラントは一夜にして砂漠の夜の寒さに耐えられずに枯れてしまうからだ。
『まったく、いつになったらこの技術は完成するんですか? 私もう嫌になってきたんですけど……』
シルフィの口が無意識のうちに開き、同じ身体の同居人が文句を漏らす。
『これ、本当にあと十年ぽっちで完成するんですか?』
「分からない。だけど、完成させなければいけない。そうしないとみんなが困るからね」
シルフィはそう言って、魔法陣から手を離した。
「今日の調整はこんなところでいいかな……。手伝ってくれてありがとう、女神さん」
『別に……この技術が完成したらこんな身体とっとと出ていって、シルフィなんか、一瞬でぶっ殺してやりますけどね?』
「その時が早く来てほしいな……いや、来るように頑張らないと……」
『ツッコミ無しですか!? 私は"殺す"って言ってんですよ!?』
「はいはい、いつもありがとうね」
そう言ってシルフィは部屋を出て食料プラントのほうを眺めた。
シルフィの身体に女神が憑依してから約半年……。
彼女の力を借りることで、この死々繰の技術は大きな発展を遂げた。
なんたって、一日に数時間もかかっていた調整の時間がこうして数分で済むようになったのは、他ならぬ女神のお陰なのだ。
長年の研究で複雑になりすぎた術式をシンプルに整理し、魔力流動の効率化を図り、調整のための術式まで改良を加えた。
そのどれもが、シルフィの研究とは完全に別分野の知識だった。
「女神さんが私と同じ研究者で良かったよ。君のおかげで、死々繰の研究は一気に五年ぶんは進んだからね」
『別に……偶然知っていたことを教えただけです……』
そういう女神にシルフィは微笑み、彼女がこの地上へとやって来た経緯を思いだす。
彼女は天界……つまり、「空白の世界」の住民だった。
どこまで歩いても、どこまで見渡しても何も無い空白。
その中でただ一人、一枚の地図だけを携え、この世界を眺めていた存在。
この世界の管理者たる、魔族と人族が"神"と呼ぶ生物……。
彼女は燃えゆくこの世界を救うため、数百年にも及ぶ研究の末に、やっとの思いで地上界へと降り立った。
『何も無い空白の世界……当然、魔力すらありませんでしたからね……。世界を越境するための術式を考えても、それを実行に移すことは出来ませんでした。だから、ひたすら考え続けました。それが偶然、シルフィの死々繰にも使えただけです……。そう……レイゼンアグニの技術が……』
天界にいた女神は、地上界にひとつの特異点を見つけ出した。
それは明らかに異様な物体だった。
その物体を構成する魔力は、地上界に由来するどの魔力とも似ても似つかない。
異邦からやって来た、存在しないはずの物質。
『聖剣・レイゼンアグニ……』
それがどこから来たのか、何のために作られた存在なのかは分からない。
ただ重要なのは、「別の世界」から地上界へとやってきた物質がこの世に存在しているという事実……その一点のみ。
女神は地上の勇者をレイゼンアグニへと誘導し、その構造を勇者越しに解析し、術式の究明に努めた。
レイゼンアグニの術式は99パーセント以上が完全なるブラックボックスであり、内部で何が起きているのか女神の力を持ってしても解明することは不可能だった。
しかしその1パーセント未満の解析出来た術式だけでも、この世界に存在する全ての術式の総数を超えていたのだ。
このあまりにも途方も無い物体に女神は戦慄を覚えると共に、それと同じくらい大きな希望を見出した。
『レイゼンアグニにはこの世界の全てが……いや、それ以上のものが隠されているかもしれません……』
女神はレイゼンアグニを解析して得た術式を元に、空白の世界からの脱出を試みた。
しかし、所詮は猿まねに過ぎない。
解析したと言っても、その全ては考察の段階に留まっており、実際に証明に到ったものはひとつも無い。
だから、越境魔法は失敗した。
女神は肉体の全てを失い、地上へとやって来た時には魂の核しか残っていなかった。
この世界における肉体とは、地上と魂とを結びつけるための術式だ。
つまり、肉体を持たない女神はこの世界に留まることが出来ない。
女神は死に物狂いで砂漠を彷徨い続け、もはや魂の核すら崩壊しかけたギリギリのところで、偶然出会ったシルフィに助けられた。
女神は人族の神……魔族であるシルフィに嫌悪の感情を覚えたが、背に腹は代えられなかった。
しかし、この半年でその感情も幾分和らいできた。
それはシルフィが自分と同じ、この世界に抗うために"新たな術式"を作り出そうと奮闘する研究者だったからだ。
『死々繰はこの世界を変えるために役に立つ技術かもしれませんし、魔力の固定化が完全に完成すれば、私の肉体も生成出来るようになるはずです。それまでの間だけなら……まあ、少しだけ協力してやってもいいです……』
女神の言葉にシルフィは微笑み、食料プラントから視線を外した。
明日も朝早くから術式の改良を行わなくてはならない。
「死々繰さえ完成すれば……みんなが平和に暮らせる世界に一歩近付く……。そのために、頑張ろう……」
二人は部屋へと戻り、灯りを消した。
死々繰の完成までのタイムリミットは残り十年……このときの二人はそう思っていた。
しかし、運命は突然にやってくる。
絶望という名の悪意の嵐が、ゆっくりと育んできた畑を一瞬にして薙ぎ払い、戦の炎によって焼き払う。
ここは、始めからそういう世界だ。
「おやすみ、女神さん……。明日も一緒に頑張ろうね」
『まあ、自分のためでもありますし……。それに、世界を救うっていうのも一興かもしれませんからね……』
善意は悪意に変わり、好意は憎悪に変わり、全てがひっくり返る。
二人はまだ、そのことを知らない……。




