魔王ちゃん、また死ぬ
夜に吹く風は魔物の吐息と同じだ。
生気を伴わない冷たい風。
囁くような不気味な音を伴い、夜の闇へと誘う悪魔の指先。
勇者シアンは人差し指を舐めると、それを暗闇へと差し出した。
この風は一体、どこへと向かうのか。
シアンは瞼を閉じ、指先を撫でる冷たい感覚に意識を集中する。
魔を斬り払うには、魔の本質を理解する必要がある。
それが勇者としての第一の資質。
闇へと溶け込み、人の視界から消えることの出来る魔族を斬るためには、大気の流れを正確に読み取り周囲の状況を把握する技法が必要不可欠となる。
魔物は常に体内から魔力を放出している。
その残り香を掴みさえすれば――
「斬――ッ!!」
一閃、血飛沫と共に、空気が揺らめいた。
透明が半透明に、半透明が不透明へと移り変わり、牛の頭を持った巨大な人型が姿を現す。
「お、お前……気配は完全に消したはず……!!」
豪鉄が袈裟斬りに振り下ろされ、その巨体は真っ二つに両断される。
激しい血飛沫と刹那の断末魔、体内から放出された魔力が大気を揺らめかせ、魔物は崩れるようにして床へと倒れ込んだ。
「は……魔族特有の汚らしい匂いが消せるわけないでしょう…………」
飛び散ったはらわたを避けて通り、シアンはいつもの扉の前へと立った。
薄暗闇に支配された夜の国の中心地。
魔王城の最深部、圧倒的な魔の香を発する、王の間との境界地点。
その扉へと手をかけ、勇者シアンは暗闇へと一歩を踏み出す。
「ひっ……ぁ、あ……」
シアンが一歩踏み出すと共に、玉座に掛けた魔物が肩を震わせる。
「な、なんで……? 今回はミノタウロスを三体も用意したのに……」
「ミノタウロス……? ああ、さっきの。確かにスライムよりは斬りにくかったわね」
シアンが魔物へと目線を向けると、魔物の頭上にステータスが表示された。
魔王ネメス、レベル36。
王宮に仕える精鋭騎士のレベルが15程度、先ほどのミノタウロスがレベル28だったことを考慮すれば、たしかに規格外の相手だ。
腰まで伸ばした黒い長髪に赤い瞳。
羊のような巻いた角は黒く煌々と艶めいており、白い柔肌と幼い顔立ちがその禍々しい角をより異質に引き立てている。
「倒したの……? ミノタウロス三体を……」
「ええ、さっきのミノタウロスの経験値でちょうど私のレベルが999になったわ」
その言葉に魔王ネメスは泣き出しそうな声で懇願する。
「ゆ、勇者ちゃん……! もうやめて!! 私だって好きで魔王やってるわけじゃないの!! 仲良くしよ……? 前だって王様にお手紙出して和平の交渉しようとしたんだよ? でもなんでかお返事がなくって!!」
魔王ネメスは震えながら必死に語りかけるが、勇者シアンは玉座へと近寄り彼女の頬を平手打ちした。
ネメスの頭上に「Critical!!」という赤文字が表示されると同時、HPゲージが一気に削られ残量「1」と表示される。
痙攣し気絶しているネメスにヒールを施し、胸倉を掴み壁に叩きつけて無理やり目覚めさせる。
「あ、ぅ……」
「なんでお手紙の返事がないか教えてあげる。その手紙は国王様へと渡る前に私が処分したからです」
「そんな……! なんでそんなひどいことするの!!」
「薄汚い魔族どもと一緒に暮すのが嫌だからだよバァーーーカ」
魔王はその言葉にぽろぽろと涙をこぼす。
「酷いよ……」
「酷いのはお前だ。お前がいるお陰で人々の暮らしは滅茶苦茶だ。この責任、どうやって取るつもりだ? ええ?」
「下級の魔物には知能がないから統制できないんだよ……だって魔物以外でもそうでしょう? 人間だってカラスやカエルに命令できないし……魔物だからって一緒にされてもどうしようもないよ……」
ネメスの言い分にシアンは大きなため息を吐いた。
手を彼女の首元へとやり、それをギリギリと絞めつける。
HPゲージが徐々に削られていき、表示が明るい緑色から、赤みがかった黄色へと変色していく。
「ぅ、ぁ……やめて! くるしいよ……」
「言い訳はそれで終わりか? 魔物は魔物、人は人だろ。畜生を引き合いに説得できると思ったか?」
「ちがうの……そんなつもりじゃ……」
「さすがは魔族の王だな。言葉巧みにこの勇者様を騙そうってわけだ。こりゃあ舐められたもんだ」
ネメスは自らの首を絞めるシアンの手にもがき、何も言えずぼろぼろと涙をこぼす。
HPのゲージが赤に入ったのを確認すると、シアンは少し手を緩めてやる。
「死にたいか? それとももっと長く苦しみたいか?」
「ごめんなさい……もう、許してください……」
シアンは再度首をキツく締め、HPが一桁になる頃合いを見てまた緩めた。
ネメスが苦しそうに、必死に空気を吸っている様子を見下ろし、シアンはにこりと笑う。
「魔王様が人に許しを請うとか情けないね。こんな奴に散々苦しめられる農民たちも本当に気の毒だよ」
「も……やめて…………」
「仕方ないなぁ……今回はこれくらいにしといてあげるよ。とっとと帰って宴会でもしたいしね」
そう言うシアンは豪鉄を振りかざす。
魔王を殺すために必要とされる伝説上の剣・レーゼンアグニ。
しかし、レベル999の勇者にはそんなものなど必要なく、軽く捻ってやるだけでも十分に魔王を殺せる。明らかにオーバーキルなその手段を選ぶのは、彼女のいつもの嫌がらせのひとつだ。
死ぬたびに死ぬことが怖くなる。
足音を聞いただけで震えが止まらなくなり、声を聞けば腰が抜け立てなくなる。
顔を見れば涙があふれて止まらなくなり、どうして自分がこんな目に遭わなきゃいけないのかと毎日を苦悩と共に送ることになる。
それが愉快で愉快でたまらない。
魔王を殺すのは勇者の特権なのだ。
「じゃあ、また殺しにくるね」
シアンは微笑み、その聖剣を振り下ろした。