過去1
世界に一斉にダンジョンが出現した日。
世界から同じ数だけの人間が消えた。
嫌な暑さに目を覚ましたそこは、自室では無かった。
周囲を見れば、草一つ生えていない赤茶けた地面と、亀裂の入った大地。人よりも大きな亀裂の中には沸々と沸き立つ溶岩の海が見える。
それを認識すると同時に、身体中から汗が吹き出して来る。暑い。思わず着ている服を脱ごうとして、服を着ていないことに気がついた。
そして、生まれたままの姿の身体は、これまで慣れ親しんできたモノとは別物になっていた。
丸みを帯びた身体と、確かな膨らみ。そして消失した下の物。
明らかに異常事態であるというのに、こんなものかという感想が浮かび上がって来る。まるで、初めからこれが当たり前だったかのように。
思い返してみれば、昨日までの自分の行動は分かるのに、親の顔も自分の名前も、友人の事も、おおよそ自分を定義する周囲の環境の全てが思い出せなかった。なのに恐怖心は湧いてこない。これも、当たり前に思ってしまっている。
どちらにせよ、行動を起こさなければ。
周囲は人の住めるような環境では無い。食糧も無ければ、水も無いのだからここに留まっていてはいずれ死を迎えるだろう。
立ち上がって、一歩を踏み出して、地面のあまりの熱さに飛び退いた。
ふと、地面を見れば何かの皮の上に座っていたらしい。この動物の皮らしきものが、熱さから身を守ってくれていたようだ。
移動が出来なければ、待っているのは死だけだ。助けなどという来るかも分からない曖昧なものに縋るのは、自分の命を賭けるにしてはあまりに分が悪過ぎる。
意を決して、焼けた鉄のように熱い大地を進もうとしたところで、振動を感じた。ズシン、ズシン、と音を立てながらも、その振動の主は確実に近づいているようである。振動の方角を見れば巨大な亀のような生物がいた。まだ、遠くに見える程度だというのにその大きさは常識を覆すようなものであることが伺える。
迫る亀の目線はこちらを捉えているように見える。亀とは思えないほどの速さで、一直線にこちらに向かってきている。
拙い。直感で理解した。
俺は地面に敷かれていた動物の皮を持って直様走り出した。素足が地面に触れて、灼けたように熱い。だが、それも命に比べれば安いものだ。
振り返れば亀はやはりこちらに首を伸ばし、進路を変えて追ってきている。その足取りは心なしか最初に見た時よりも速くなっているように感じる。
時折、小さな亀裂を飛び越えながらも走る、走る。亀を振り払うどころか、その距離は徐々に縮まっているように感じる。
周囲の景色は一向に変わらない。途中から、足裏の熱さは気にならなくなってきた。だが、尖った石が何度も突き刺さって火傷と裂傷で足元はひどい有様になっている。それでも止まる訳にはいかない。
距離が近づいたことでか、亀の口元に生える牙がハッキリと見えるようになった。追いつかれたら、あの牙で丸かじりにされてしまうのだろうか。
途中、子供ほどの大きさの鼠が亀に弾き飛ばされ、溶岩の海に沈んでいくのも見た。喰われなくとも死が待っていることは確かだということが分かる。
どれだけ走ったのだろうか。息が苦しくなってきた。そして、絶望が目の前に広がった。
……行き止まり
走った末にたどり着いた場所は高台の行き止まり。下を見れば溶岩の海が広がっており、奥のほうに新しい大地が見える限りである。
引き返そうにも、ここまで一本道。その道も巨大な亀に塞がれてもう戻れない。止まったことにより、亀の姿がよく認識出来るようになった。
鋭い牙の生えた獰猛な口元。甲羅の代わりに巨大な山のような岩石を背負っている。その姿は家を想起させるほどに大きく、獲物を追い詰めたと言わんばかりにこちらを見定める瞳が細められる。
奴はもう逃げられないだろうとばかりに、ゆっくりと距離を詰めてくる。
心臓がドクンドクンと早鐘を打つ。
ジリジリと距離を詰めてくる。
心臓の動きがより早くなる。
距離を詰めてくる。
まだだ。もう少しだ。
もう目と鼻の先だ。
ッ!
俺は手に持っていた動物の皮をバッと広げて、亀の視界を塞いだ。瞬間、結果を確認することも無く走る。後ろから亀の咆哮が聞こえてくる。その音だけで身体が竦みそうになる。
走った先は亀の真下。この巨体、身体の大きさからして駆け抜けてしまえばすぐに方向転換は出来ないはずだ。
亀の真下をくぐり抜けて、目指すのは視界の端に見えた白亜の扉。そこにあるのが不自然なくらい綺麗で、それでいて違和感の塊のようにポツンと扉だけがそこにあった。
走っている時は気付かなかったが、亀に追い詰められてから気付いた。
地団駄を踏み始めた亀の足を死ぬ気で躱して、なんとか抜ける。扉はもう目の前だ。
そして、扉を乱暴に開け放った瞬間、左手に激痛が走る。その中に転がり込む。そして、見えた光景は……。
首だけを伸ばし、俺の手を咥えて悔しそうな表情を浮かべる亀の姿だった。見れば左腕の肘から先が無かった。幸いにも傷口は灼け爛れており、出血は無い。ひどい痛みを感じる。だが、死線をくぐり抜けて気分が高揚しているのか、もう足と同様に感覚が麻痺しかけているのか、取り乱すほどの痛みじゃなかった。
だから、俺は残った右手を使って、徐々に閉まっていく扉の向こうの亀に向かって、中指を立ててやった。ざまあみろ、と。
しかし、試練は終わらない。むしろこれからが試練と言わんばかりに、背後から別の咆哮が聞こえた。
振り向いた先にいたのは、身体中に炎を纏った、亀よりも巨大な白い蛇だった。