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魔女と踊り子と酒場の店主

魔女が魔法を使って色々なお仕事をするお話です。たまにグロい描写があるので、苦手な方はご注意ください。

 冬から春へと移ろい始めたある日、アルメリア大陸の東方に位置する小国エルニースのとある片田舎の村に、一人の女が訪れた。丈夫そうな旅装は泥に汚れ、歩みはふらふらと覚束なく、今にも倒れそうであった。村人の多くは見て見ぬフリをした。

 しかし一人、酒場の店主であるロックは、不運なことにその女の存在にフリではなく気が付かなかった。井戸で水汲みの最中だったのだ。女はロックの背後まで辿り着いたところで力尽き、倒れ、その際に伸ばした手がロックのズボンの裾を掴んだ。

「うおっ!?」

 ロックは驚き、仰け反り、勢い良く振り向いた。女の手には力がこもっておらず、裾は簡単に放された。ロックはキョロキョロと数回周囲を見回してから、ようやく足下の女に気付く。

「お……お……」

 女が呻く。ロックはおののいて数歩後退る。が、どうやら何か言っているらしいと勘付いたロックは少しだけ近づき、耳を傾けた。

「お……おなか、すきました……」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「へえ。所属していた旅の楽団が、野盗に襲われてねえ」

「ふぁい、もぐもぐ、ほうあんれふよ、もぐ、ほんろいほうはいへんへ、もぐもぐもぐ」

「喋るか食うかどっちかにしてくれ」

「もぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

 開店前の酒場で、女はロックの作った料理を口いっぱいに頬張っていた。ロックはお人好しというわけでもなく、タダで料理を振る舞えるほど生活に余裕があるわけでもなかったが、女の様子があまりにもあんまりだったために良心を刺激されたのだった。

「んぐ、んぐ……ごくん……ぷはぁーっ、生き返ったぁ!」

「大した食いっぷりだこと」

 女はただの井戸水を、まるで天上の美酒であるかのように飲み干して、木樽ジョッキを豪快にテーブルに叩き付けた。満面の笑みを浮かべて口元を拭う女の前に積み重なった大量の空き皿を見て、ロックは呆れた声を出す。大の男三人分は平らげていた。

「す、すみません、こんなに食べちゃって。もうホントお腹ペコペコだったもので。あの、おいくらでしょうか」

「なんでえ、金あんのかい」

「そんなに多くは……ないですけど。なんとか持ち出せた分が」

 女は服の胸元をくつろげて、豊かな胸の谷間に手を差し込んだ。ロックの両目がクワッと見開かれ、視線がその光景に釘付けとなる。男のサガであった。そんなロックの様子を知ってか知らずか、女は不安げな顔で胸元から小さな袋を取り出した。

「足りますかね」

「あ、ああ……待ってな」

 袋を開けて差し出され、ロックは我に帰る。受け取った袋の中身をテーブルに出すと、薄汚れた銅貨ばかりであった。あまり稼ぎの良い楽団ではなかったのか、それとも持ち出せたのがこれだけなのか。

「ひい、ふう、みい……」

「……」

 銅貨はそこそこの量があったが、店を経営しているロックにとって、金勘定は手慣れたものだ。すぐに数え終える。

 顔を上げると、女が目に涙を湛えた、縋るような表情でロックを見つめていた。

「……足りねーわ、ちょっとだけ」

「うっ!」

 その視線に一切怯むことなく無慈悲に事実を言い放つ。女は衝撃を受けたように大きく仰け反った。開きっぱなしの胸が強調された。これにはロックも少し怯んだ。

「足りねー分は……どうすっかな」

 ロックは頬杖をついて考える。

 実を言うと、別にこのまま受け取って終わりでも良かった。足りないのは僅かであるし、正直ちょっと良いもの見れたし。しかし、素直にそう言うのはもったいない気がしたのだ。

 女は必死に野盗を振り切ったのだろう、全身泥だらけだったが、それでも見間違いようのないほどの美人であった。鼻や顎はすっきりと細く、眉は丁寧に整えられ、大きな紫色の瞳は宝石のように輝き、少女の可愛らしさと女性の美しさを両立していた。

 泥の隙間から覗く肌は透き通るように白く、背中に流した髪は汚れてもなお光を失わぬ白銀で、どちらも生まれ持った素質を入念に手入れしてきたことが伺える。

 仲間の男たちを誘惑しないためか、着ている服は随分と地味で野暮ったいが、しかしその努力は不足であると言わざるを得ないだろう。高めの身長と長い手足、厚手の外套の上からでもわかる胸の膨らみ。肢体から立ち上る色気をまったく隠しきれていなかった。

 独り身の男として、ちょっとくらいは役得があっても許されるのではないか、とロックは考えた。そのために恩を着せるような言い回しをしたかった。しばらく考え、良さそうな台詞を思いついたロックはひとつ頷き、口を開く。しかし声が出るより僅かに早く、満面の笑みで女が言った。

「じゃあ、体で払いますっ!」

「………………え?」

 ロックは開けた口を閉めることができず、マヌケ面を晒すこととなった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その夜、ロックが営む酒場はかつてないほど賑わっていた。その理由は簡単にして明快だ。普段はむさい男どもの溜まり場であるこの酒場に、今日はなんと、王妃の寝室に飾られる花々ですら恥じらい萎れてしまうのではないかというほどの美女が居たからだ。

「あいつ、踊り子だったのか」

 カタリナと名乗った女は、あの後井戸の水で体を洗い、大事にしまっていた衣装に着替え、どうやって不足分を払うのかを説明した。今ではその説明通り、所狭しと並べられたテーブルをいくつか退けて作った空間で、情熱的な踊りを踊っている。

 別の意味でかなり期待していたロックは正直ちょっとがっかりしたが、しかしこれはこれで悪くないと思い始めていた。

 彼女が身に纏う衣装は布地が少なく、しっかりと隠れているのは胸くらいのもので、腰は外からでは前後に布を垂らしているだけのように見え、他は肩や手足が薄暗い店内でも簡単に透けて見えるほど薄いヴェールに覆われている程度だった。

 布地は目の覚めるような鮮烈な赤、ヴェールは柔らかな白で、全身のところどころに身に着けた金銀の装飾品はさすがに本物ではないようだが、それでもかなりの金をかけ、カタリナのために仕立てた衣装であることは明白だった。

 観客たちは皆、踊りに合わせて揺れる胸や、翻る腰布の奥に見えそうになる尻に夢中であった。カタリナもそれをわかっており、わざと見せつけるように、それでいてギリギリ見えないように踊っていることは間違いない。それでもまったく下品には感じさせず、むしろ気品すらあり、素人目にも極めて高い技術を伺わせた。

 当然、ド田舎の寂れた酒場に楽器などなく、あったとしても扱える者もおらず、その洗練された踊りに見合うような音楽など流れてはいない。だが誰もそれを惜しみはしない。カタリナのステップにより奏でられる靴音と、驚嘆に値する技術と体力と肺活量に支えられた歌声だけで十分だった。

「おいおいおいおい、どうしたんだよロック! こいつはなんの冗談だ? なんだあの踊り子は? いったいどうなってやがる?」

 ロックとは古い付き合いであり、常連客でもあるアンドレイは、溢れる疑問を次々に言葉にした。ロックはうんざりした顔で答える。

「俺が聞きてーよ。今日いきなり来て、腹減ってるっつーから飯食わせてやって、そしたら金が足りねーから働きますとか言ってさ、わけわかんねーよ」

 客入りは凄まじいが、誰も彼も目的はカタリナの踊りで、酒や料理の注文は思ったほどではなかった。それでも普段の数倍ではあるが、こうしてアンドレイの話に少しだけなら付き合う余裕はまだあった。アンドレイ自身、タイミングを計ってロックに声をかけたのだ。

「ふざけやがって、なんでもっと早く言わねえ? 事前に知ってりゃ、ばっちりめかし込んで来たってのによ!」

「やめとけ、やめとけ。牛がいくら綺麗な服着てたって、滑稽なだけだろ」

「ガハハハ、ちげえねえ!」

 アンドレイは妻子持ちで、屈強な肉体を持つ石工だ。その顔が牛のように大きく目だけが不釣り合いに小さいことは本人も自覚しており、よくもまあ結婚できたものだとしばしば村人からも笑い話にされている。

 そんな彼だからこそ、妻も子も深く愛しているし、どれほど美しかろうと妻以外の女に恋することなど有り得ないと、ロックは知っていた。先の言葉も本気ではないとわかっているからこそ、軽く流すことができたのである。

「ロック! ブドウ酒追加だ!」

「おっと、悪いな」

「ガハハハ、また後でな!」

 別の席で木樽ジョッキが掲げられ、ロックは安物のブドウ酒を抱えて早足に向かった。こうして一度注文が入ると、他の客たちもテーブル上の皿やジョッキが空であることを思い出し、次々注文が入るのだ。今日だけで何度も繰り返された流れであった。

 アンドレイもそれを察し、豪快な笑顔でロックを見送る。忙しそうな友人の姿が嬉しくて、適当な味付けの鶏もも肉のソテーがやけに旨く感じた。そんなことには気づくこともなく、ロックは客席と厨房を何度も往復している。

 そうしていると、カタリナの歌と踊りはクライマックスに入り、駆け抜けるような律動を刻み始めていた。その歌も踊りもわからない客たちにも終わりが近いことは容易に察せられ、店内の盛り上がりは最高潮に達する。最後に一層高らかに踵を打ち鳴らしポーズを決めると、酒場は一瞬の静寂の後、爆発のような歓声に包まれた。カタリナは玉のような汗を飛ばし、笑顔で手を振り歓声に応える。

「はァい、手拍子ありがとー! みんな上手だね、私も楽しく踊れたよ!」

「いやァ、カタリナちゃんがノせるのが上手いのさ!」

「カタリナちゃん! もっかい踊ってよ!」

「アンコール! アンコール!」

「ええー。でも私、今日はここの踊り子だし。タダで踊るわけには──」

 最後まで言うのを待たず、最前席でかぶりつくように踊りを見ていた若い男たちが一斉にロックを振り向いた。ロックにはこの先のことが簡単に予想できた。

「ロォォック! ブドウ酒もう一本追加だ!」

「こっちはビールだ! じゃんじゃん持ってこい!」

「俺は、ええと……な、なんでもいいから一番高い料理を!」

「わーい! みんな、ありがとー! じゃ、次の踊り行きまーす!」

「「「うおおおっ!!」」」

「……やれやれ」

 おおよそ、ロックが危惧していた通りの展開であった。彼らはロックと同じく独り身で、女に対しアンドレイほどの落ち着きは望めない。こうなるであろうことは目に見えていたと言っていい。カタリナの腕前を知っていれば、少しは加減するよう事前に注意もできただろうが、後の祭りだ。

 矢継ぎ早に飛んでくる注文を必死に覚え、しかし別に少しくらい間違っても気づきゃしねーだろと思い直して、ロックは適当に酒を出し料理を作り始めた。

「そんなだから繁盛しねえんだ!」

「うるせー」

 それを見抜いたアンドレイが笑いながら言うが、ロックには構う余裕はない。こんなにも大量の注文を受けたことはなかったからだ。適当に作ると決めたものの、作らなければならない料理の数自体が減るわけではない。

 厨房でフライパンを振り回す彼の耳に、明るい歌声が届く。先とはまた違う、安らぎと元気を与える声だ。

「まったく。俺も見てーよ、ちくしょうめ」

 ぼやきながら、ロックは大急ぎで、いつも以上に雑に料理を作っていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「………………ぬぁっ?」

 カタリナが目を覚ますと、そこは見慣れぬ部屋だった。とはいえ、町から町へ渡り歩いていた彼女からすれば、そもそも見慣れた部屋などない。強いて言えば野宿の時に使うテントくらいのものだ。

 カタリナは寝起きの、少しぼんやりする頭で考える。ここ数日は、そのテントすらない野宿の日々だった。真夜中に野盗に襲われ、すぐ傍に置いてあった荷物だけ掴んでテントを逃げ出し、方角も考えずにひたすら走り続けた。追跡を振り切ったことに気付いた時には完全に道に迷い、荷物の中にあった僅かな食料だけで森の中を彷徨っていたのだ。

 獣に襲われることもなく、また飢えて死ぬ前に村に辿り着けたのは大きな幸運であり、加えてそこで食事にありつけ宿まで借りられたことは最早奇跡と言う他あるまい。

「……ええと。あれからどうしたんだっけ」

 食事代が足りず、代わりに踊ることになって。客はカタリナからしても見慣れぬほどに盛り上がり、さすがに踊り疲れて休憩しようとした時、客たちが酒と料理を抱えて、寄って集って飲ませ食わせたのだ。

 カタリナは酒に強い方ではあるが、いくらなんでも酒の量と種類が多過ぎた。次から次へと注がれる酒を飲み干していると、あっという間に踊れないほど酔ってしまったのだ。

「……はっ!」

 そこでようやくカタリナは気付き、自身の体を改める。服は踊っていたときの衣装のままで、特に暴行を受けた形跡がないことはすぐにわかった。この格好のまま寝るのはカタリナにも衣装にもあまり良いことではなかったが、あの場に居たのが男ばかりだったことを考えると、着替えさせられていないのはむしろ気を遣われたのだろう。

「いい人たちだなあ」

 盛り上がり過ぎた観客に襲われかけた経験もあるカタリナとしては、紳士的な対応に感心することしきりであった。散々飲んだが特に二日酔いなどもなく、目が覚めてきたカタリナはしっかりした足取りで部屋を出る。左右を見回して階段を見つけ、一階に降りると、ロックが皿をテーブルに置くところだった。

「あ、おはようございます」

「おう」

 ロックは無愛想に返事をする。彼が置いた皿の上には焼き上がったばかりの鶏肉があり、立ち上る肉の香りにカタリナの腹が鳴った。

「昨日あれだけ食って、もうか」

「え!? いやあのっ、えっと!」

「ま、かなり疲れるんだろうしな、踊りってのは」

「あはは……ところで、これは……?」

「朝飯。そっちはお前の分」

「え? いいんですか?」

 カタリナは困惑した。ロックは彼女が現在文無しであることを知っているはずだ。食事代は当然払えない。ロックは苦笑して答えた。

「昨日、お前のおかげでめっちゃ儲かったからな。その礼さ」

「あ……ありがとうございます!」

 カタリナは感動して、席に着こうとした。それをロックが手を翳して留める。

「その前に、だ。着替えてこい。服、もう乾いてるだろ」

「あ」

 カタリナは踊り子の衣装のままだ。泥だらけだった服は昨日、開店前に洗って二階に干してある。思い出したカタリナは慌てて部屋に戻り、着替えて戻ってきた。ロックは自分の分の朝食を半分ほど食べ終わっていた。

 カタリナは再び感謝を伝えてから、遠慮せず鶏肉にかぶりついた。肉の質も使っている調味料も、ついでに言えば振るわれた技術もあまり良い物ではなかったが、カタリナには十分だった。温かい食事にはそれだけで価値がある。

 すぐに食べ終えて、カタリナは真剣な表情を作り、ロックを見る。

「ええと、ロックさん。あのですね、ちょっと相談があるんですが」

「ダメだ」

「まだ何も言ってないのに!」

 叫ぶように言うカタリナに、ロックはしかめ面で答える。

「どーせ、しばらく働かせてくださいってんだろ? 金もねー食いもんもねーじゃ何処にも行けねーし、人探しなんざできるわきゃねーもんな」

「そ、そうですけど」

 図星であった。カタリナとしては楽団の仲間が心配なのは当然だ。散り散りに逃げたため、生きているか死んでいるかもわからず、仮に生きていたとしても何処にいるかなど見当も付かないが、それでも探したいのだ。

 だがそのためには金がいる。行く先々の村や町で今回のような幸運に助けられるとは限らない。とりあえずいくらかの食料が買えて数日宿を借りられるくらいの金は欲しかった。そしてロックが想像した内容も、概ね同じであった。

「正直、働いてくれんなら助かるよ。わかったと思うが、ここはそんな繁盛するような店じゃねー。ほんの何人かの常連に頼ってどうにかやっていけてるようなチンケな酒場さ。だがお前が居れば、酒や料理がカスでも客は来る」

「なら──」

「でもダメだ」

 ロックは強い語調で言った。カタリナは少しだけ怯んだ。

「今な。この村、ちょいとヤベーんだよ」

「ヤベーんですか?」

「ああ。村の外れにあった廃屋にスワンプスパイダーが住み着きやがってな」

「……?」

 カタリナは聞き覚えのない言葉にキョトンとした。ロックは少し驚いた表情を作る。

「……知らんのか。余所には居ねーのかな、この辺じゃたまーに出るんだが」

「ええっと、魔物ですか?」

「ああ。沼地とか湿原とかに居る、人間サイズのバカでかい蜘蛛さ。詳しいことは知らん、専門家じゃねーし」

「……その、スワンプスパイダーが、この村に?」

「外れも外れ、本を集めるのが趣味の偏屈なジジイが大昔に建てて住んでた家で、村の端っこみてーなとこだが」

 ううむ、と唸って、

「それでも村の中には変わりねー。今は大人しくしてるみてーだが、バケモノが何考えてるかなんてわからん。ある日突然人を襲い始めるかもしれんし、みんなそれを不安がってる」

「ロックさんも?」

「当たり前だろ。でなかったらお前に働いてもらうよ」

 カタリナは感動した。ロックは昨日出会ったばかりの自分を心配してくれているのだ。

「……なんとかならないんですか? やっつけちゃうとか……」

「一応、村長が近くの町に、軍を派遣するよう要請送ったらしいんだが……」

 ロックの表情から察する。あまり期待できないらしい。エルニースでは珍しくないことだった。

「うーん……」

「つーわけだ。もう村から逃げる準備してるような臆病……いや、賢い奴までいるくらいだ。やめといたほうがいい」

「ロックさんは逃げないんですか?」

「逃げてどうするんだよ? 学もねー金もねー才能もねー、村唯一の酒場の店主が死んで、たまたま縁があってその店を譲り受けただけのアホが、僅かな金を手に故郷を離れて生きていけるとでも?」

「……」

 カタリナは押し黙る。ロックの顔には諦観があった。絶望しているわけではない、しかし希望があるわけでもない。日々を無為に過ごすことに慣れきってしまった者の顔だ。恩人がそんな顔をしていることが悲しかった。

「……ま、お前としちゃあこのまま放り出されてもどうしようもねーだろうし。二、三日ならいいぜ。さすがにそんくらいで何か起こることもねーだろうし、どっか別の村なり町なりに行くくらいの金は出せるだろ。お前ならそこでいくらでも稼げるさ」

「……ありがとうございます」

 項垂れるカタリナに、ロックは居心地の悪さを感じた。彼は赤の他人から心配されることに、あまり慣れていなかった。

「……あー……なんだ。日が暮れる頃に店開けるから、そしたらまた昨日みたいに踊ってもらうからよ。それまで村の様子でも見てきたらどうだ。ただし、さっきも言ったように、村外れの廃屋……方角で言やあ西だな、そこには近付くなよ」

「はい……」

 元気のない返事をして、カタリナは立ち上がり、店を出た。ロックはばつが悪そうな顔で見送った。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 カタリナが酒場を出ると、村は既に目覚めており、あちこちから労働の音が聞こえてきた。

 土を耕す鍬の音、卵を産む鶏たちの鳴き声、鋸が丸太を削る音、荷物を運ぶ男たちの掛け声。活気に満ちている、とは言い難いが、のどかな村であるように感じた。

(……でも、魔物がいるのか……)

 全身を現したばかりの太陽に背を向けて、遠くにポツンと建っている家を見た。他の建物から離れたあの家に、得体の知れぬ魔物が棲み着いている。カタリナは魔物を見たことはほとんどないが、その恐ろしさは嫌と言うほど聞かされてきた。

(なんとかできないかなあ……)

 カタリナはロックの顔を思い出す。人生に目的のない人間の顔だった。日々の糧を得るためだけに働き、それにすら必死にはなれない、ただ死んでいないだけの人間の顔だった。

 だが、決して悪い人間ではなかった。積極的ではないかもしれないが、困っている見知らぬ他人に手を差し伸べ、心配することもできる人間だった。

 何か力になれないだろうかとカタリナは思った。店の売り上げに貢献するにしても、できるのはあと数日だけだ。もっと根本的な、ロックが少しは前向きになれるようなことはできないかと。

「うーん……」

 カタリナは腕を組み、頭を捻りながら村を歩く。しかし何を考えつくわけもない。彼女はロックのことを何も知らないのだから。

「おお、嬢ちゃんじゃねえか。おはよう」

「あ、おはようございます」 

 しばらくして、村人から声を掛けられた。名前は知らないが、昨夜に見た顔だった。確か、ロックと長年の友人のように話していた男だ。男は石にノミを打ち込んでいた手を止め、なんとも男らしい笑みをカタリナに向けた。

「昨日は楽しかったぜ。今日も踊るのかい?」

「はい、その予定です」

「ヒュウッ、そいつは楽しみだ! 安い以外に良いところのない店だが、あんたが居るなら倍の値段でも通うぜ俺は」

「あはは……」

 カタリナは返答に困り、愛想笑いでごまかした。カタリナはロックに恩を感じており、悪く言われて気分の良いものではなかったが、ロックの酒場で出される料理や酒が決して旨いものではないことも確かである。

 何より男の口調からは、言葉の内容ほど悪意を感じず、咎める気にはならなかったのだ。

「アンドレイだ、よろしくな」

「アンドレイさん、ですね。私はカタリナです、よろしくお願いします」

 互いに名乗って、カタリナはアンドレイの奥、工場と思しき場所に積み上げられた石を見る。

「石工さん、ですか?」

「ああそうさ。もっとも俺も、ロックをバカにできるほど大した腕じゃないんだが」

 カタリナの目には、積み上げられた石はどれも均一に加工されているように見えるが、どうやらそうでもないらしい。正直良くわからなかったので、はあ、と曖昧な返事をした。

「ガハハハ、ま、俺のことなんかどうでもいいだろ。それよりカタリナちゃん、ロックとどんな関係だ?」

「関係と言いますか。あの、この村に辿り着いたところで空腹で倒れちゃいまして、そこを助けてもらったんです。それで昨日は、そのお礼に踊ってました」

「……それだけ?」

「はい」

「あのヘタレめ」

 アンドレイは舌打ちした。なんのことか察して、カタリナが苦笑する。

「まあいいや。それで、いつまで居るんだ? 俺としちゃずっと居てくれると嬉しいんだが」

「それなんですけど……ロックさんから、なるべく早く村を出るように言われまして」

「はあ? なんでまた……ああそうか、例のバケモノか」

「はい……」

 二人は揃って西を見た。いつから人が住んでいないのか、遠くに見える大きな家はただでさえボロボロで、そこに魔物が居ると思うと一層不気味に見えた。

「……それがいいかもな。残念だが」

 本当に残念そうに、アンドレイは呟いた。

「俺も家族が大事だからよ、家もあの廃屋に近いし、できれば逃げ出したいんだが」

「難しいですか」

「まあな」

 工房を後ろ目に見るアンドレイの姿に、カタリナにもようやくわかった。村に定住している人々は皆、多かれ少なかれ、簡単には持ち出せず捨てられない何かを持っている。根無し草の自分とは違う。気楽に逃げ出すことなど、できはしないのだ。カタリナはロックに対する自分の発言がいかに軽率であったかを思い知り、恥じてうつむいた。

「……ん?」

 しかしすぐに聞こえたアンドレイの訝しむ声に顔を上げる。彼はカタリナの後ろに目を向けていた。

「? どうしました?」

「いや、村長と……誰だあれ、どう考えても見たことねえ奴だな」

 カタリナはアンドレイの視線を追う。そこには例の村外れの廃屋へと繋がる分かれ道があり、そこで老人と、背の低い人物が話していた。

 老人の顔には常日頃から悩んでいることが伺える深い皺が刻まれており、恐らく彼が村長だろうとカタリナにも簡単に予想がついた。

 問題は村長と話している人物のほうだ。カタリナたちに背を向けており、顔はわからない。しかし華奢な体格と、カタリナより頭ひとつ以上低い背丈から、女性であることは間違いなさそうだ。

 そしてその人物が村人たちの視線を集めている理由は、単に見慣れぬ余所者だからというだけではあるまい。格好が、村の情景から明らかに浮いているのだ。

 艶のない黒いローブと、同じく黒の大きなとんがり帽子。それらと同じ生地を使ったと思しき肩掛け(ケープ)を羽織っており、腰にはローブの上から太い革のベルトが巻かれ、ベルトには右にカバン、後ろに分厚い本、左に細長いガラス瓶を複数差したホルスターを吊っている。

 何より目を引くのは手にある杖だ。どう見ても歩行を補助するための一般的な物ではない。歪にねじれた木が数本絡み合ったような気味の悪いデザインの、自身の身長を超える長さの杖を、その人物は持っていた。

 誰にとっても見慣れぬ姿ではあるが、しかし誰もが知っている。語り継がれる物語や歴史の中で、たびたび耳にするからだ。

 その姿は、まさに。

「……魔女?」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ロックの酒場は日が暮れる直前に開いた。暗くなり、手元が見えなくなって作業を中断した村人たちが、一斉に帰り始める時間だ。ただ、ロックのその日の気分により日没後しばらくしても開かなかったり、逆に夕方には既に開いていたりするが、今日はちゃんと「予定通り」に開店した。

 いつもは大半の村人が向かう先は自宅であり、わざわざロックの酒場に寄るのは独り身の寂しい男か、友人たちとの親睦を図ろうとする者か、嫁の料理がロックの料理以上によろしくない者か、夫への愚痴を垂れ流し合いにくる女たちくらいのものだが、今日は違う。

 シケた酒場に突如舞い降りた女神の噂が狭い村全体に広がるには、一日という時間は余りにも長すぎた。カタリナの踊りを見ようと、昨日以上の村人たちが詰めかけて来たのだ。

 熱狂する村人たちの様々な情念が宿った無数の視線には慣れたものらしく、カタリナは花咲くような笑顔のまま踊り、歌い、靴音を奏でる。酒場中を魅了し釘付けにするのに必要な時間は、ごく僅かだった。

「美しい……」

「心が洗われるようだ……」

「俺、生きてて良かった……」

 ある村人たちは慈愛に満ちた歌声に日々の疲れを癒やされ、

「うおおお! カタリナちゃーん!」

「こっち見てくれー!」

「ちくしょう見えそうで見えねえ!」

 ある村人たちは扇情的な踊りに熱狂して目を血走らせ、

「たまんねえ、ちょっと一緒に踊ってくる」

「引っ込んでろバカ、ここは俺の出番だ」

「ざっけんなてめえらぶっ殺すぞ!」

 ある村人たちは今にも殴り合いの喧嘩を始めようとしていた。

 そんな喧騒を、ロックはどこか冷めた気持ちで聞いていた。嬉しくないわけではない。仮にも店を経営する身、その店が栄えて喜ばしくないわけがない。

 しかしそれは自分の力とは無関係で、しかもほんの数日で失われてしまう。一度極上の美味を味わった者は、粗末な食べ物を受け付けなくなると聞く。それと同じだ。カタリナが去ったこの酒場は、きっと以前にも増して寂れてしまうだろう。そんな未来を思うと、カタリナの存在がむしろ恨めしくすら思えてしまうのだ。

「きったねえ人間だな、おい」

 ロックは自嘲した。ずっと昔、物心ついた頃から変わらない己の人間性がつくづく嫌になる。何よりも嫌なのが、それを変えようという気が微塵も起きないことだった。

「ガハハハ、まあ、無理に変わる必要もねえんじゃねえか。別に悪いことしてるわけでもねえんだしよ」

「へっ。してねーだけさ」

 カウンター席からカタリナを眺めていたアンドレイが、つまみの干し肉をかじりながら言った。彼なりの励ましの言葉だったが、ロックには効果がなかった。

 本人は気付いていないが、ロックの顔が暗くなった。酒の席で辛気臭い顔をされて、気分の良い者はいない。アンドレイはどうにかして彼の興味を引けないものかと話題を探した。探すまでもなく、それは見付かった。

「……ああ、そういえば今日、すげえもん見かけたんだよ」

「またかよ。今度はなんだ?」

「それがさ。驚くなよ、なんとま──」

「ん?」

 アンドレイが話そうとしたその時、店の入口から音がして、ロックはそちらに顔を向けた。古い木の床がギシリと鳴ったのだ。客か? こんな時間に珍しい。思いながら、気怠い顔で出迎える。アンドレイもつい話を中断し、そちらを見た。

 カランと小さなベルが鳴り、扉が開く。

「おお、いらっしゃ……」

 そして二人は硬直した。入って来たのは村のどの住人ともかけ離れた、異様な人物だったからだ。

 一言で言うならば、魔女。

「あ、う……」

 呻くような声を絞り出すことしかできないロックを無視して、魔女は店内を軽く見渡した。他の客たちはカタリナに夢中で気づいていない。カタリナ自身もまた、少しでも皆を楽しませようと踊りに集中しており同様だった。

 魔女は喧騒の中心で目を止め、しかしそれも一瞬、すぐに歩き出した。カタリナの周りに客が集中しガラ空きとなったカウンター席に真っ直ぐ向かい、丸椅子を引いて腰掛ける。アンドレイは思わず少し距離を取った。

「訊きたいことがあるのだけど」

 魔女は意外にも澄んだ声で言い、腰に括ったカバンから銀貨を一枚取り出し、カウンターに置いた。

「村の外れに棲み着いたという魔物について、知っていることを教えて」

 ロックはまだ呆然としていた。返事がないことに気が付いたのか、魔女の帽子が僅かに揺れる。

「……ちょっと?」

「あ……ああ、悪い。だが人にものを尋ねるってのに、帽子も脱がないのはどうかと思うぜ」

(マジかこいつ、すげえ度胸してんな)

 この魔女がどんな顔をしているのか見てみたいという単純な好奇心で言ったロックに、アンドレイは戦慄した。言われた魔女はふむと頷く。

「……失礼、その通りね」

 魔女は特徴的なとんがり帽子を脱ぎ、隣の丸椅子へ置いた。ロックとアンドレイは目を見開いた。

 現れた顔は少女のそれであった。それもとびきりの、カタリナに勝るとも劣らない美少女であった。

 相貌は天賦の才を持つ彫刻家が生涯をかけて彫り上げたかのように整っており、女性的な丸みは少ないが、それがかえって、人間としてではなく芸術品のような美しさを強調していた。

 うなじで纏められ、折り返して後頭部に結ばれている髪は金色で、磨き抜かれた黄金を糸にしたと言われれば信じてしまいそうなほど美しく、そして見てわかるほどに柔らかい。思わず指を通したくなる衝動に駆られたとて、一体誰がそれを否定できようか。

 だが最も印象的なのは、その眼であった。髪と同じ金色の眼は、しかし輝きがまるで違う。まるで死人のような、絶望に濁りきった眼であった。見た目から推し量れる年齢から余りにもかけ離れたその眼は、一体どのような光景を見てきたのか。村の中しか知らないロックには、そしてアンドレイにも、まったく想像がつかなかった。

「……何か?」

「っ!? い、いや。なんでもない……」

 深い隈の刻まれた眼を向けられて、ロックは一歩後退った。魔女は特に反応を示さない。

「ええと……スワンプスパイダーのことだっけか」

「何の魔物かはいいわ。素人の判断を鵜呑みにすると痛い目に遭うもの」

「……」

 魔女は事務的な口調で言った。顔の造形に似合わぬ、しかし眼には相応しい毒のある言葉であった。

「失礼。続けて」

「それを聞いてどうするんだ。退治でもするつもりか? あんたが?」

 ロックが何を言いたいのか、魔女は一瞬で察したようだ。片眉が侮蔑的に持ち上げられた。

「ええ。村長の依頼で」

「はァ!?」

「切羽詰まっているのもあるのだろうけど、縋る藁を選ぶだけ賢明と言えるわね。人を見た目で判断するあなたよりは」

「……」

 自分の半分も生きていなさそうな少女に言われ、ロックも少々カチンときたが、それで怒るのも大人気ない。ここは素直に謝るのが大人というものだ、と自分を落ち着かせる。相手が村長を味方につけているため分が悪い、というのもあった。

「……悪かったな。何せそんな格好してる奴は、みんなしわくちゃのババアだと思ってたんで」

「褒め言葉と受け取っておくわ」

「それで、スワンプ……いや、魔物の……何か、って言われても。何を話せばいいんだよ」

「いつから居るのか。実際に見たのか。見ていないのなら、見た人を知っているか。余計な解釈を挟まず、ありのままを」

「俺は見てねーが……」

 ロックはちらと、まだ呆けているアンドレイに視線を遣った。魔女もアンドレイを見る。アンドレイは自分に話題を振られたことに気付き、かじっていた干し肉を置いた。

「あ? ああ、見たよ……見たのは俺だ」

「詳しく聞かせて」

 魔女はもう一枚銀貨を取り出し、アンドレイの前に置いた。律儀な奴だ、とロックは思ったが、口には出さない。

「ええと、確か……八日、いや、九日前だったな。仕事の用事であの家の前を通った時に、クソデカい蜘蛛が家に入り込むのを見た」

「大きさは?」

「ああ、こんくらいの──」

 アンドレイは、魔女が直立していれば顎ほどの高さであろう場所で手刀を作りながら、

「──大きさの窓をギリギリ潜ってたな」

「蜘蛛で間違いない?」

「形は蜘蛛にしか見えなかったな」

「色は?」

「色ぉ?」

 意外な質問に訝しむ。しかしアンドレイも魔物に関しては素人だ、自分が知らないだけで何か重要な意味があるのかもと思い直した。

「色……赤っぽく見えたような気がするが、夕方だったからなあ……」

「そう。見えたのは一匹だけね」

「ああ、見えたのはな」

「ありがとう。十分よ」

 魔女は立ち上がり帽子を被った。そのまま立ち去ろうとする背中に、ロックは思わず声を掛ける。

「お、おい! 待てよ、今から行くつもりか?」

「そうだけど」

「馬鹿か! 夜中にあの家入ったらなんも見えねーぞ、せめて夜明けまで待てよ」

「あら。心配してくれるの?」

「当たり前だろうが、あんたがしくじったら次は俺が行かされるかもしれねーんだぞ」

 本心だった。軍が動かない以上、冒険者に依頼するか、村の人間で対処するしかない。そしてこの村に、冒険者は滅多に訪れない。

「それもそうね」

 魔女は意外にあっさりと踵を返した。ロックは少し拍子抜けしたが、都合が悪いわけではないし魔女の気が変わったらたまったものではないので、何も言わなかった。

「この村、宿はある?」

「うちの二階でよければ」

「なら、そこで」

 魔女はカバンに手を入れた。ロックは広げた手を突き出してそれを制する。

「いや、二枚目はいらねー。さっきので十分だ」

「あらそう。良心的ね」

「その程度の部屋ってことさ。察してくれ」

 ロックはベルトに付けた鍵束から、錆だらけの鍵をひとつ外しカウンターに置いた。魔女はそれを取り、眼前に持ち上げてくるくると回す。大きなとんがり帽子の奥に、訝しむ表情がちらと見えた。

「……使えるの? これ」

「二ヶ月前は使えた」

「……」

「輪に番号が刻まれてるだろ。それと同じ番号の部屋だ」

 親指でカウンター横の階段を示す。魔女は擦れてほとんど読めなくなった鍵の番号を睨むように見ながら、その階段を上っていく。その姿が見えなくなったところで、ロックとアンドレイは揃って大きな溜め息を吐いた。

「どうなってんだよ、最近はァ……魔物、踊り子と来て今度は魔女だと?」

 ロックは大げさな手振りで呆れ具合を表現した。

「マジでヤベーんじゃねーか、この村。不吉の前兆だって言われたら信じちゃうぜ俺」

「カタリナちゃんまで不吉扱いしてやるなよ」

 アンドレイは苦笑した。数日の雇用ではあるものの、売り上げに多大な貢献をしている踊り子に対してもう少し感謝しても良いのではないかと。

「いや、ありがてーよマジで。あいつのおかげで倉庫の奥に貯まってた酒がようやく処分できた」

「……」

 アンドレイはつい今しがた空にしたジョッキを据わった目で見る。いや、味も匂いもおかしくはなかった。きっと大丈夫だろう。多分。

「だがまあ、その女神様もちとお疲れみてーだし、今日はもう終わりだ」

 カウンターからカタリナを見ると、笑顔にこそ翳りを見せないものの、全身に滝のような汗を流していることがわかった。開店から今までほとんど休まず踊り続けたのだから当然だ。むしろまだ踊れることに驚嘆すべきである。村人たちは踊りに夢中で気付いていないようだが。

 その踊りはどうやらクライマックスらしく、ロックはキリの良いところまで待つことにした。床板が心配になるほど力強いステップで、踵が打ち鳴らされる。拍手と口笛と歓声に包まれる舞台に向かって、ロックは最大音量で告げる。

「オラァ、飲んだくれども! 今日はもうしまいだ、代金置いてとっとと帰れ!」

「はあ!? おいマジかよ、まだいいだろ!」

「うるせー、ここは俺の店だ、俺に従え!」

 不満を漏らす客たちを、ロックは強引に追い出していく。始めは抵抗しようとした客も、カタリナが笑顔で帰宅を促すと頬をだらしなく弛ませて帰って行った。

「んじゃ、俺も帰るわ」

「おう。嫁さんによろしくな」

 最後にアンドレイが、魔女から渡された銀貨をそのままロックに渡した。ロックは嫌そうな顔をする。何か呪いでも掛けられているのではないかと警戒しているのだ。次の仕入れで真っ先に使おうと心に決めた。

 客が皆居なくなり、酒場は途端に静かになった。ふぅ、とひとつ息を吐き、

「じゃ、俺は店片づけるから、お前は風呂入ってこいよ」

「え? そんな、私も手伝いますよ」

「いらん。そんな汗だくで歩き回られても困るし。色々と」

 カタリナから微妙に目を逸らしながら言う。視界に入れていると一部に視線を吸い寄せられることが明らかだからだ。

「そもそも、お前は踊らせるために雇ってんの。片づけやらはしなくていいよ」

「……そうですか。それじゃ、失礼します」

「鍋で湯沸かしてるから、それ使ってくれ」

「はい」

「覗きに気を付けろよ」

「……はい」

 二階に着替えを取りに行ったカタリナを見送り、ロックは店の片づけを始めた。食器の散乱具合は、昨日よりもさらに酷い状況であった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ふああぁ……」

 翌朝、大きな欠伸をしながら一階に降りたロックは、身支度も適当に厨房に入った。普段は肉を焼き適当に味を付ける程度の朝食しか作らないが、今日は随分と久し振りに宿泊客がいる。少しは真面目にやるか、となけなしの気合いを入れ、調理を始める。

「おはようございます!」

「おお。朝から元気だねお前は」

 匂いに釣られたのか、それから少ししてカタリナが降りてきた。眩い笑顔に目が潰れるかと思いながら、ロックは適当に挨拶を返す。

「今日はどうすんだ。こんな村、昨日だけで回っちまったろ」

「あはは……そうですね、今日は……」

 カタリナが考え始めた時、階段から足音が聞こえた。例の魔女だ。彼女を泊めていることを聞いていたカタリナは、大変に美しいらしい魔女の素顔に興味があり、思考を中断して階段に向いた。

 やけにゆっくりと階段を降りて、右手に杖を、左手にとんがり帽子を持った魔女が現れる。昨日と同じ格好だが、髪は下ろされていた。というより、まだまとめていないのだろう。

「………………おはよう」

「……おお」

 深い隈が刻まれた死んだ魚のような眼に見られて、ロックは少し怯えた。魔女は凄まじく眠そうであった。

「……朝食は?」

「今作ってる。もうできるよ、適当に座って待っててくれ」

「そう……」

 魔女はフラフラと最寄りの席に座る。次の瞬間には寝そうな有様であった。

「カタリナ、アレが例の──」

 見ればわかるだろうが一応伝えておこうかとカタリナに話しかけたロックだが、目を見開き口を開けたままのカタリナの様子に戸惑った。後ろ姿だけならば見たと聞いていたが、何をそんなに驚いているのだろうと、少し心配する。

「か……」

「……か?」

「可愛いっ!!」

 日の出を告げる鶏よりも大きな声と、まるで財宝の山を見つけた盗賊のような顔で、カタリナは叫んだ。間近で直撃を受けたロックは顔をしかめて耳を押さえ、魔女はビクンと背筋を伸ばす。

「か、可愛い……昨日は後ろ姿しか見えなかったけど、こんな美少女だったなんてっ……!」

 まさに感極まったという表情で言うカタリナ。魔女は一瞬の硬直から抜け出し、キョロキョロと周囲を見回した。

「な、なに、今の。この村には何が居るの?」

 狼狽する姿は見た目相応に幼く見え、それがまたカタリナの琴線に触れた。

「あの、ロックさん、この魔女さん貰ってもいいですか!?」

「何言ってんのお前?」

 ロックは悟った。こいつ、ダメな奴だ。そんなことには気付かず、カタリナは大股かつ早足に魔女へと接近する。

「ま、魔女さん!」

「な、何? なんなのあなた?」

 魔女は酷く混乱していた。ロックはその姿に哀れみを感じたが、口には出さなかった。

「私、カタリナって言います! 踊り子やってます! あなたも一緒に踊りませんか? 大丈夫、手取り足取り教えますから! 手取り足取り!」

「は?」

「落ち着け」

 昨日の客以上に盛り上がっているカタリナの頭に手刀を食らわして鎮めると、ロックは彼とカタリナを交互に見ながら目をぱちくりとさせている魔女に謝った。

「悪いな、驚かせて」

「え? こ、この子昨夜の踊り子よね。頭がおかしいの?」

「いや、常識も良識もあるっぽいよ。だがまさかこんな性癖を持っているとは」

 しかも出会って二日と経たない内に知ることになるとは。完璧な人間などこの世にいないことを再確認し、ロックは心中で嘆いた。

「ほれ、お前も謝れ」

「ご、ごめんなさい。私、可愛い子を見るとつい我を忘れてしまって……」

「……他人の趣味に口出ししたくはないけれど、何か問題を起こす前に自制心を鍛えたほうが良いんじゃないかしら」

 大分落ち着きを取り戻した魔女は少々の毒を吐きカタリナを見る。その冷たい目にカタリナは怯んだが、内心若干興奮していた。

「……ほら、朝食できたぞ。さっさと食え」

 ロックは厨房に行き、先ほど完成した朝食を持って戻って来た。固くボソボソとした食感のパンと、痩せた鶏の肉を焼いたものと、それらに比べれば上質な野菜を使ったサラダだ。魔女が座るテーブルに三人分を置き、自分も座る。魔女の眉がピクリと動いた。

「なんだよ、いちいち別のテーブルに運ぶ手間が減るだろ」

「……まあ、いいけど。でもその踊り子は隣に座らせないでね」

「ええ!?」

「当たり前でしょう」

 魔女は朝食を食べ始めた。あまり切れ味の良くないナイフで巧みに鶏肉を切り分け、小さな口に運ぶ。味に文句はなさそうだ。仕草のひとつひとつを愛しげに見詰めるカタリナを無視するのに必死なのかもしれない。

 しばらくの間、誰も何も話さなかった。響くのは食器の擦れる音だけ。静かな食卓があまり好きではないロックが、食事中の話題として適切ではないことを知りながらも、気になっていることを訊くことにした。

「……今日、退治に行くのか」

「そのつもりよ」

「え……? まさか、魔物のことですか?」

 ニコニコと魔女を見ていたカタリナが急に不安げな顔になる。魔女は誰の目にも、とても戦うことが得意なようには見えないからだ。

「何か問題が?」

「だって、魔物ですよ? スワンプスパイダーっていうのがどんな魔物かは知らないですけど、危険なんですよね?」

「人を襲うことは珍しくないわね」

「ほら! 魔女さん、こんなに小さいのに」

 魔女は呆れの溜め息を吐きながらロックを見た。

「戦士ならともかく、魔女に体格って関係あるのかしら」

「知るかよ。だがまあ、ムッキムキの魔女がいたら嫌だな」

 ロックは興味なさげに返す。カタリナは魔物退治をやめさせようとなおも食い下がるが、二人とも相手にしない。魔女は依頼を受けた以上部外者の感情任せな説得で揺らぐはずもないし、ロックは魔女の安全自体はどうでもいいからだ。

 まったく気にせず食事を続ける二人に、カタリナは次第に涙目になった。その時、酒場の入口が開いた。言うまでもないが朝は酒場としては営業しておらず、客が来ることなど滅多にない。精々、夜通し歩き続けた旅人が食事や水を求めに来る程度だが、それすら相当に珍しい。

 今度はなんだ、とうんざりしながらロックが入口を向くと、そこに居たのは村長であった。彼は村人には馴染み深い苦悩に満ちた表情で三人を見る。

「騒がしいのう、朝っぱらから」

「あれ、どしたんすか村長」

「うむ……今日、アンドレイを見なかったか?」

「アンドレイ? いや、見てないですけど……あいつがどうかしたんですか」

「仕事に来ておらんらしくての。若いのが家まで見に行ったらしいんだが、アンドレイどころか家族揃って不在だったそうだ」

「え?」

 ロックは胸騒ぎがした。今の村の状況を考えれば逃げ出す者がいても不思議ではないが、アンドレイは自分と違って真面目な男だ。逃げ出すにしても仕事仲間や村長、何よりロックに何も言わず逃げるなど考えられなかった。

「行ってくるわ」

 魔女がとんがり帽子を被りながら立ち上がり、言った。髪はいつの間にか纏められており、昨日見たままの魔女の姿に戻っていた。

 ロックの胸騒ぎが強くなる。魔女の朝食は中途半端に残されていた。突然、急ぎの用事ができたかのように。

「おい……まさか」

「確証はないけど、魔物が連れ去った可能性はあるわね」

「なんだと!?」

 魔女以外の全員が目を剥いた。魔女は静かに続ける。

「その魔物が本当にスワンプスパイダーだとして、あの人か言ったように赤色だったとしたら、繁殖期のメスかもしれない。スワンプスパイダーは他の生き物の体に卵を産み付けるから──」

「そのために攫った、ってことか」

「そういうこと。つまりまだ生きている可能性がある。仮にもう産み付けられていたとしても、孵化前なら取り除ける」

 孵ってしまったら手遅れだけど、と続く言葉を待たず、ロックは厨房に向かい、ガタガタと派手に何かを探し始めた。村長は呆然と立ち竦み、カタリナはもう魔女を止めることはできないと悟り俯いた。

「待ってくれ!」

 入口に手を掛けた魔女は、呼び止められて面倒そうに振り向いた。そこにはロックが、店にある中でも大きい包丁を両手に持って立っていた。

「俺も行く」

「素人がいても邪魔に──」

「うるせえ! 行くったら行くんだよ!」

 ロックは自分でも良くわからない衝動に駆られていた。ただ強く、行かねばならない、と。

「わ、私も行きます!」

 その気迫に影響されてか、カタリナまで同行を申し出た。魔女は苛立たしげに言う。

「ふざけているの? 遊びに行くのではないのよ」

「ふざけてなんていません!」

 カタリナは魔女を真っ直ぐに見ながら否定した。

「ロックさんは恩人なんです! アンドレイさんは良い人でした! だから、ロックさんがアンドレイさんを助けに行くなら、私も行きます!」

 ロックは何も言わない。村長は混乱していて何の役にも立たない状態だ。何より、説得する時間が惜しい。魔女は諦めたように溜め息を吐く。

「……勝手になさい。ただし、あなたたちのことは守らないし、何かあっても責任は取らないわよ。攫われた人たちはともかく、あなたたちは自分から危険に飛び込むのだから」

「はい!」

「わかってる」

 二人は一切躊躇わずに頷いた。もはや魔女は何も言わなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アンドレイとその家族が居なくなったことは、すぐに村中の知ることとなった。恐れていたことが起きたと騒がしくなり始めた村を抜け、三人は村外れの廃屋へ向かう。狭い村だ、急ぎ足だったこともあり、着くまでにそう時間はかからなかった。

「……見た目は普通ですね」

「ボロい以外はな」

 カタリナとロックは緊張を紛らわせるためか、できるだけ軽い調子で話した。平和に暮らしていたロックに、命懸けをした経験などない。カタリナはあるにはあるが、自らその危険を冒すことは初めてだった。

「一応言っておくけれど、卵を産み付けるために攫ったのではなく、食料として巣に持ち帰った可能性もあるわ。心の準備くらいはしておきなさい」

「……そうだとしても、スワンプスパイダーの胃袋にだって限界はあるだろ。あいつの家族か、あいつ自身か、どっちかだけでも生きてるかもしれねー」

「そうね」

 魔女はどちらでも良さそうに言う。

「もうひとつ。産卵のためだった場合は二匹いるはず。赤いほうはメス。産卵後で疲れているけど、その分飢えて凶暴よ。黒いほうはオスで、こちらも(つがい)と卵を守ろうと必死だから凶暴でしょうね」

「どっちも凶暴なんじゃねーか」

 引き攣ったか笑みを浮かべるロックを無視して、魔女は玄関の扉に手を掛ける。

「……鍵がかかってるわね」

「廃屋だからな」

「合鍵は?」

「村長が持ってるはずだが、見つけるまでに時間かかると思うぞ」

「あの様子ですと、そうですね」

「魔法でドカンとぶち破れねーのか?」

「できるけれど、あまり騒がしくしたくないわ。警戒されると面倒だもの」

 魔女は数歩下がり、廃屋を見る。アンドレイの言った通り、二階に塞がれていない窓を見つけた。

『我に翼を』

「え?」

 魔女が何事かを呟くと、黒いケープが一瞬で翼に変化した。生まれて初めて魔法を目にした二人は両目と口を大きく開き、ふわりと飛び上がって窓へと入って行く魔女を呆然と見送った。

「…………はっ」

「お、追いましょう!」

「ど、どうやってだよ」

 ロックは周囲を見渡すが、梯子や登れそうな場所などは見当たらない。

「ロックさん、包丁片方貸してください」

「あ?」

 訝しみながら、言われるがまま包丁を手渡す。カタリナはその柄を咥えると、窓の下、壁に向かって走り出す。

 何を、と問う間もなく、カタリナは跳んだ。目を見張る高さの跳躍であった。しかしさすがに窓には届かない。だがカタリナは、壁に横向きに打ち付けられた木の板を足掛かりに再び跳び、窓の縁を掴んだ。

「すっげ……」

 またも呆然とするロックをよそに、カタリナは窓の中へと消える。しかしすぐに顔を出し、木の棒を窓から投げ落とした。どうやら朽ちて折れた転落防止用の手摺りのようだ。

「いいね」

 ロックはカタリナと同じように包丁を咥え、木の棒を壁に立て掛け登る。窓には少し届かないが、窓から身を乗り出したカタリナが手を伸ばしており、その手を掴むと中に引き上げられた。

「すげえ力だな」

「踊りは体力勝負ですから」

「ま、助かったよ」

 窓の内側は廊下だった。暗いが、他の窓を塞ぐ木の板は隙間があり、差し込む光でどうにか見える。廊下は吹き抜けに面しており、向かいの廊下にある階段と散らかった一階の様子が見えるが、魔女の姿はない。

「よし……アンドレイを探すぞ」

「はい」

 左右を見ると、廊下はぐるりと一週しており、どの壁にも扉が設えられている。二人は包丁を構え、互いの死角をできる限り補いながら、まずは右の廊下へと進んだ。手前から順に扉を調べる。開かない。次の扉へ。こちらも開かない。同じように調べていくが、その廊下の扉にはすべて鍵が掛かっていた。

「……部屋、多いですね」

「あのジジイ、客が来るわけでもねーのになんでこんなに……」

 ロックはぼやきながら、次の廊下へと進んだ。結果は同じだった。階段を通り過ぎ、最後の廊下へ。やはりすべて開かない。

「……一階か」

 掠れた声でロックが呟く。暑くもないのに、額からは滝のように汗が流れていた。神経が磨り減っていくのを感じる。心臓は激しく鼓動しっぱなしだ。

「大丈夫ですか?」

「……情けねーなあ」

 カタリナの顔も相当に強張っているが、ロックほどではない。危険の伴う旅を続けてきたが故の違いであった。

「行こうぜ。のんびりしてたら、その分アンドレイがヤバイ」

 早くも疲労が溜まってきたが、休む暇などない。そもそもこの廃屋の中に安全な場所などないのだ。二人にできることは、静かに素早くアンドレイたちを見つけ出し、スワンプスパイダーに見つかる前にここを出ることだけだ。

 二人は階段に移動する。そこから見えるエントランスから三方に廊下が伸びている。外から見た限りでは、一階は二階の倍以上広い。ロックは心臓の音が漏れ出ていないか心配になり、服の上から強く胸を押さえた。

「魔女さん、どっちに行ったんでしょう」

 ポツリとカタリナが言う。足跡を探せばわかるかもしれないが、つい先ほど飛んでいたことを思うと望み薄だ。たとえあったとしても、それを探せるほどには中は明るくなかったし、それよりも遥かに注意し警戒すべき存在がここにはいるのだ。

「……」

 ロックはとりあえず、壁に背を付けて最寄りの廊下を覗き込んだ。外に面していないため、ほとんど真っ暗だった。

「ちくしょうめ……」

 額の汗を拭い、廊下を進む。カタリナが続く。古い床板が音を立てないか不安で仕方なかった。

「うっ……!」

 ロックは呻いた。暗闇に慣れてきた目が、両開きの大きな扉の存在に気付いたのだ。その扉の片方が壊れ、内側に倒れていることにも。

 まるで「扉を開ける」ということを知らぬ何者かが、無理矢理に押し入ったように。

「ロックさん……!」

「……入るぞ」

 恐ろしい。恐ろしくてたまらない。だが、無視するわけにはいかない。ロックは今まで以上に慎重に、息を殺して扉を通った。

 どうやら書斎らしかった。ただでさえ暗いというのに、立ち並ぶ本棚により視界が悪い。勝手に逃げ出そうとする身体を必死に制御し、尚も進む。

「うう……」

「「っ!」」

 小さな呻き声。耳を澄ませていた二人には聞こえた。駆け出したくなる気持ちを抑え、ゆっくり、静かに進む。

「アン……!」

 大声で呼びそうになり、ギリギリで口を塞いだ。ロックは見つけたのだ。糸に巻かれたアンドレイと、その妻と、二人の間にできた男の子と。

 その真上。糸にぶら下がり揺れる、巨大な赤い蜘蛛を。

「っ……っ!」

 二人は口を塞ぎ、必死に悲鳴を呑み込んだ。蜘蛛は二人に気付いていないのか、ゆらゆらと揺れるだけで襲い掛かっては来ない。

「……寝……てる、のか?」

 スワンプスパイダーが眠るのか、眠るとして今は本当に眠っているのか、そんなことはロックにはわからない。しかし、願ってもないチャンスのように思えた。

 極めて危険であることはわかっている。だがこうして視界に納めておけるということは、少なくとも不意に背後から襲われる心配はないということだ。オスの居場所は依然わからないままだが、それが二匹いるより一匹のほうがまだマシなのは言うまでもない。

「……」

 ロックはカタリナに顔を向け、カタリナ、自分の目、スワンプスパイダーを順に指差した。意図を理解し、カタリナは頷く。ロックは慎重に、アンドレイたちの元へ向かう。心臓よ、どうか今だけは止まってくれ。半ば本気でそう思ってしまうほど、鼓動がうるさい。

「う……ロッ……ク……?」

「しーっ……」

 アンドレイは意識を取り戻したのか、薄く目を開け、友人の名を呼んだ。とりあえず生きていることがわかり、ロックの目から涙が零れた。

「おら、助けに来てやったぞクソッタレ。静かにしてな」

 耳元に口を寄せて言う。アンドレイは朦朧とした意識で頷いた。

「ルネ、と……ジョルジュは……」

「安心しろ、無事だ。三人とも助けてやる」

 アンドレイの横、彼の妻と息子は意識がない。糸のせいで胸が上下しているかもわからない。だが、今それを正直に言うわけにはいかなかった。

 ロックはアンドレイを拘束する糸に包丁を突き立て、切ろうとする。恐ろしく丈夫で、なかなか切れなかった。湧き出す焦りを押さえつけ、必死に自分を落ち着かせる。ここでのミスは、文字通りすべてを台無しにしてしまうのだ。

 ロックは歯を食いしばり、全力を込め、体重を目一杯かけ、包丁を前後させた。折れないでくれ、切れてくれと祈りながら。その祈りが通じたのか、糸は少しずつ切られていく。

(もう少しだ、焦るな、もう少し……!)

 そして遂に、すべての糸が切り払われた。支えを失って倒れ込むアンドレイを抱き止める。安心するには早過ぎるとわかっていたが、涙が止まらなかった。

「よし、よしっ……! ほら、捕まれ。逃げるぞ」

「妻と、息子を……」

「わかってる、まずはお前だ」

 ロックはアンドレイに肩を貸し、歩き出した。体格差に難儀しながら、一歩一歩進んでいく。カタリナにもう少しで手が届く。自分よりよほど筋力も体力もある彼女にアンドレイを背負わせ、逃がし、自分は取って返してアンドレイの妻と息子を助ける。

 完璧な作戦だ、楽勝さ、さすが俺、とロックは自分を鼓舞した。そうでもしないと動けない。彼のなけなしの勇気はとっくに限界を迎えていて、何かの拍子に悲鳴を上げて逃げ出してしまいそうだった。

 カタリナもまた安堵の笑みを浮かべて、ロックたちを迎えようと歩み寄る。あと三歩。二歩。一歩。

 カタリナの表情が凍った。

「走れェッ!!」

 アンドレイをカタリナへ向けて突き飛ばし、ロックは身を投げ出した。その後頭部の僅かに上を、ゴウッ、と凶悪な風が掠める。

「ロックさんっ!」

「走れ! 逃げろ!」

 そう言うだけで精一杯であった。ロックは震える足を叱咤して立ち上がり、振り返る。そこには赤い大蜘蛛が、杭のように巨大な牙をギチギチと擦り合わせていた。威嚇などではない。蛮勇を振るう愚かな獲物を前に、舌舐めずりをしているのだ。

「ちくしょう、ちくしょう! なんだあの魔女、どこに行きやがった役立たずめっ!」

 ロックは包丁を振り回して威嚇しながら後退る。スワンプスパイダーはじわじわとにじり寄る。その巨体が、僅かに沈んだ。

「っ!」

 極限状態で研ぎ澄まされた生存本能が危険を察知した。ロックが横っ飛びに転がると同時、スワンプスパイダーは矢のような速さで突進する。その一撃は空振りに終わったが、進路の先にあった本棚が粉々に砕け、尋常ならざる威力を証明した。

「ヒ、ヒヒ、ヤベー、ヤベーぞっ……!」

 ロックの口から引き攣った笑い声が漏れた。どうやら俺の頭はイカレちまったらしい、と妙に冷静に思いながら起き上がり、包丁を構える。スワンプスパイダーがロックを通り過ぎて行ったことにより、立ち位置が入れ替わり、書斎の出入口が塞がれてしまった。そのことをスワンプスパイダーも理解しているようで、下手に動かずその場でじっくりと好機を待っている。

「上等じゃねーか虫ケラが、いいぜ、どっちの味方が先に来るか運試しといこうじゃねーか」

 ロックは魔女の、スワンプスパイダーは(つがい)の到着を。互いに待ちながら、距離を保って睨み合う。

 だが。

「ギシィィィ……」

「な、なんだ?」

 スワンプスパイダーが、鳴き声のような音を出した。牙の擦れる音ではない。再び嫌な予感がして、ロックはとにかく避けようと横に跳んだ。しかし、今回は間に合わなかった。

「ギシャァァァッ!」

「うお、ぎゃああああっ!!」

 スワンプスパイダーが、口から黒ずんだ緑色の液体を吐いた。その勢いは先ほどの突進よりなお速く、ロックが射線上から逃れる前に彼に届いた。逃げ遅れた左腕に液体が掛かり、焼けるような激痛が走る。ロックは無様な悲鳴を上げて転げ回った。

「ああああっ、なんだよこれェ!?」

 つい左腕を見て、後悔した。服が溶け、二の腕が見るも無惨に焼け爛れていたのだ。毒だ。ロックはようやく理解した。スワンプスパイダーはオスの到着を待っていたのではない。希望があると思い込んで無駄な抵抗を続ける獲物の姿を眺めて、楽しんでいたのだ。

「ギシ、ギシ……!」

「ひ、ヒィッ……!」

 真っ黒で大きな八つの目が、まるで笑っているように見えた。高い知性を持つ生物特有の残忍さが伺えた。さあ、次はどうやって逃げるんだ? そう言っているような気がした。

 ロックの心は遂に折れた。残されたアンドレイの妻子を見捨て逃げようとした。出入口は塞がれている、関係ない、なんでもいいから逃げ出したい、こんなところには一秒だって居たくない、どこでもいい、このバケモノが居ない所なら。

 だが足が動かない。体が言うことを聞かないのだ。

「はあ、はあ、ひひ、ひぃひひひ……!」

 包丁はとうに手放していた。涙と涎と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、頬を痙攣させて笑みのような表情を作る。失禁していないのは奇跡と言えるだろう。

「ギシャシャシャシャ……!」

 獲物が逃げる気力を失ったことを察し、スワンプスパイダーはゆっくりとにじり寄る。ロックはあまりの恐怖に気を失いそうだった。いっそそうなれば、苦しまずに死ねるのだろうか。あの毒を全身に浴びせられ、意識があるまま溶かされるくらいなら、そのほうがずっといい。本心からそう思った。だが左腕の痛みが、彼に逃避することを許さない。

「……あ」

 その時、スワンプスパイダーの背後に、小さな人影が現れた。その人影は何事かを呟きながら、手に持つ長い杖をゆらりと振る。すると杖の先から、青白く発光する槍が無数に放たれ、スワンプスパイダーの全身を貫いた。

 スワンプスパイダーはもんどりを打って倒れ、青黒い血が壁を、床を、天井を汚す。

「ギィィィィッ!?」

「まったく。だから言ったでしょう」

 人影はうんざりしたように言いながら、突然の致命的な攻撃に絶叫しのたうち回るスワンプスパイダーに歩み寄る。そして杖を振り上げると、その先端に先の槍と同じ色の光が集まった。違いは、今度は鋭い槍ではなく、大きな球体であることか。

「ギ──」

 杖と共に、光の球体が振り下ろされる。ズドン、と重い音を立てて、硬い甲殻に包まれたスワンプスパイダーの体がまるで紙細工のように潰された。

 恐ろしいスワンプスパイダーを、不意打ちとは言えいとも容易く倒した小さな魔女の姿を、ロックは尻餅をついたまま呆然と見上げることしかできなかった。

「良く生きていたわね。とっくに死んでいるかと思っていたのに」

 助かった。ロックがそれを理解するのに数秒を要した。しかし理解すれば僅かばかりの余裕が心に生まれ、彼は正気を取り戻すことができた。

「お、お前……どこに行ってたんだ! 死ぬかと思っただろ!」

「守らないと言ったはずよ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないわ」

「だけどよ……うぐっ!」

 魔女は無表情に返した。ロックはまだ文句を言おうとしたが、左腕に走った激痛に遮られた。改めて二の腕を見ると、火傷に似た、しかし少し違う、妙な傷であった。

「毒ね。診せなさい」

「それより、先にあの二人を……」

「さすがに一日で孵化することはないわ。でもあなたの傷は、すぐに処置しないと腕どころか命を持っていかれるわよ」

 魔女はロックの前に屈み込み、無遠慮に左手を取る。

「ぎゃあ! ちょ、てめーふざけんな何しやがる!」

「煩いわね。静かにしなさい」

 傷の様子を「診察」することしばし、魔女は左腰のホルスターから細長いガラス瓶を一本抜き、ロックに手渡す。瓶の中には金色の液体が入っていた。

「な……なんだよ、これ」

「薬よ」

「怪しい薬じゃねーだろうな」

「魔女の薬が怪しくないわけないでしょう?」

「……」

 悪びれずにとんでもないことを言う魔女に、ロックは恐ろしくなった。しかしなんだかんだ言いながらも命を助けてくれたのだ、今更本当に危ない薬など飲ませはしないだろう。

 色々と考えて、少し躊躇しながら、ロックは瓶の中身を飲み干した。恐ろしく苦い。だが少しすると、確かに痛みが引いていった……ような気がした。

「これで……大丈夫なのか?」

「いえ」

 魔女はもう一本、ホルスターから瓶を抜く。その中身を、今度は傷に丁寧に掛けた。

「これで大丈夫」

「本当だろうな」

「保証はできないけれど。八割といったところね」

「……まあ、十分か」

 魔女は立ち上がり、ロックを見下ろす。

「歩ける?」

「……いや、無理だ。足に力が入らねー……」

「腰が抜けたのね。情けない。なら、ここで待っていなさい」

 魔女は書斎の出入口を振り返った。そのまま歩き出そうとする魔女を、ロックは慌てて引き止める。

「お、おい! こいつらを置いていくのか?」

「まだオスが残ってる。さっきはそいつを探していたのよ。先に片付ければ安全にここを出られるから」

 そうかもしれない。だがロックは、アンドレイに約束したのだ。必ず妻子を助けると。少しでも、一秒でも早く助けたかった。それはただのわがままでしかないとロックにもわかっていたが、簡単には諦められなかった。

「なあ」

「しつこい。子供ではないのだから、聞き分けなさい」

「だけどよ!」

「……あなたね──」

「魔女さん! 危ない!」

 突如乱入してきた声はカタリナの物だった。アンドレイを外に運び出し、その足でここまで戻って来たのだ。

 そういった経緯は、今は重要ではない。問題はカタリナが見た物だ。

 いつの間にか天井に貼り付いていた、巨大な黒い蜘蛛。それがするりと降りて来て、魔女に後ろから覆い被さる瞬間だった。

「な、あ」

「う……うわああああっ!」

 ロックは本日何度目かの悲鳴を上げた。黒い蜘蛛、メスと比べて倍近い大きさのスワンプスパイダーのオスは、四本の足で自分の体を支え、四本の足で魔女の体を抱きかかえ、首と右肩に杭のような牙を打ち込んだ。

「かはっ……」

 とんがり帽子が落ち、魔女の口から血と共に力ない吐息が漏れる。首から噴水のように血が吹き出て、書斎の高い天井まで赤く染め上げた。

「こ、の」

 抵抗ようとした瞬間、ゴキンと骨を噛み砕く音が響く。力を失った魔女の右腕はダラリと垂れ下がり、杖を取り落とした。

「ちくしょう、このバケモノめ!」

「よくも!」

 ロックは尻餅の姿勢のまま後退り、転がっていた木片や本などを手当たり次第に投げつけた。まったく効果はなかった。カタリナが駆け寄って、包丁を突き立てようとする。スワンプスパイダーは器用に振り向いて、青ざめた魔女の顔をカタリナに見せつけた。

「くっ!」

「ギシャシャシャシャ……」

 スワンプスパイダーが鳴く。まるで動けなくなったカタリナを嘲笑うように。八つの黒い目からは、(つがい)を殺した者たちへの憎悪が感じられた。

「ちくしょう、こんな、折角っ……!」

 ロックは敗北を悟り、嘆いた。スワンプスパイダーは勝ち誇るように身を震わせ、一層の力を牙に込めた。食い破られた魔女の首から、もはや残り少ないであろう血が溢れた。あまりにも恐ろしい光景に、カタリナが目を逸らす。

「残念でした」

「ギ……!?」

「「……は?」」

 魔女は事もなげに言った。死人にしか見えない、青ざめた顔のまま。

「中々見事な奇襲だったけれど、相手が悪かったわね」

 カタリナは魔女を見た。顔色に生気が戻っていた。わけがわからなかった。さっき確かに、死んだはずなのに。ついさっきまで、死んでいたはずなのに。

「それじゃあ、終わりにしましょうか」

 魔女は困惑したように固まるスワンプスパイダーを横目で侮蔑的に見ると、動く左手で腰の後ろに吊った本を取り、床に落とす。すると本はひとりでに開き、パラパラと滑らかにページがめくられていく。

「おい、おい! 一体何が──」

 ロックからはスワンプスパイダーの巨体が邪魔で良く見えない。ただ、彼の想像力を超越した何かが起きている。それだけははっきりとわかった。

「出番よ」

 本が止まる。開かれたページにはカタリナが見たことのない不可思議な形の、錆びた血のような赤黒い文字が、何かの図を描くように並んでいた。

「教えてやりなさい。誰に手を出したのかを」

 次の瞬間、開かれた本の上、光を呑み込むような黒い円が現れた。カタリナは直感的に、あの円の向こう側は、ここではない何処かに繋がっているのだと悟った。

 スワンプスパイダーはようやく、単に仕留め損ねたのではなく、途轍もない危険が迫っているのだと気付いた。牙を抜き、確実なとどめを刺すため再び振り下ろそうとする。

 その頭を、巨大な手が鷲掴みにした。

「ギ、ギ!?」

「え、な、えぇ!?」

 カタリナは見た。円の中から異様な速度で見たこともない植物が伸び、それらが意志を持つかのように集まり、硬い樹を骨格として、太いツルが筋肉のようにそれを覆い、右腕を形作ったのだ。

 それで終わりではなかった。植物は円から這い出るように伸び続け、胴が、頭が、左腕が、腰が、両足が、次々に作られていく。

 植物の「成長」が止まった時、そこには異形の、4メートルはあろうかという高い天井に頭が付くほどの巨人がいた。足は太く短く、胴は太く重厚で、腕は太く長い、樹の巨人。腕の先にある手は特に大きく、指の一本一本が人間の腕ほどもあり、握り込めば破城槌の如き拳が作られることは明らかであった。

「ギシャ、ギシィィィ!」

 スワンプスパイダーは巨人の手を振り解こうと激しくもがいた。巨人はまさに大樹のようにビクともしない。

「ギィィィ! ギィィィ!」

 スワンプスパイダーはこの巨人が魔女を守ろうとしていることを察し、ならば捕らえた魔女を離してなるものかと抗った。自分の体を支えていた四本の足も使い、全身で魔女を拘束した。すると巨人は、空いている左手でスワンプスパイダーの右足を四本まとめて掴み、紙切れのように引き千切った。

「ギシャァァァァァァッ!?」

 耳に残る悲鳴が響き渡り、青黒い血が撒き散らされる。凄惨な光景であったが、ロックは、そしてカタリナも、目を背けることができなかった。

「足が半分になったくらいで、みっともない。男の子でしょう?」

 解放された魔女は全身に血を浴びながら、落とした杖を拾い上げる。振り向いた魔女の瞳は黄金すらもくすんで見えるほどに輝き、見詰めれば吸い込まれそうなほどに透き通っていた。スワンプスパイダーは残った足を必死に伸ばすが届かず、毒液を吐きかけようにも頭を掴まれていては狙いも定まらない。

 彼にはもう、できることなどなかった。だがそんなことは受け入れられないと、いつまでも無駄な足掻きを続けている。目の前の哀れな虫ケラに、魔女はクスリと妖艶に笑いかける。

「頑張るのね。魔物でも、死ぬのは怖い? それともただの本能かしら」

 この世の物とは思えないほど美しい笑みだった。目を逸らせるわけがなかったのだ。二人は、血の雨に打たれる魔女に見惚れていたのだから。

「でも、もうおしまい。あなたはここで死ぬの。大事な奥さんも、生まれてくる子供たちも守れずに」

 スワンプスパイダーの醜い顔を愛おしげに撫で、心臓が凍るほどに優しい声色で、魔女は言う。スワンプスパイダーは足を伸ばす。それも巨人に掴まれ、引き千切られた。

「シャァ……ァァァ……!」

「それじゃあ。さようなら」

「……ムゥゥゥゥゥゥン……!」

 巨人の赤い四ツ目が爛々と輝き、スワンプスパイダーを持ち上げる。口を持たぬ巨人から、地鳴りのような唸り声が響く。全身のツルが盛り上がり、伸縮し、想像を絶する力が両腕に込められていく。スワンプスパイダーの体がミシミシと音を立てて、潰れていく。

「ギ、ガ、ガ……」

 ぐしゃり、と。見上げるほどに巨大だった蜘蛛は、膝上程度の大きさになり、死んだ。巨人はスワンプスパイダーの残骸を敵兵の首級であるかのように魔女の前に置き、主に対し恭しく頭を垂れた。

 魔女が労うようにその頭を撫でる。役目を終えた巨人の体は糸を解すように無数の植物に戻り、円へと吸い込まれていった。

 円が消える。巨人の姿も当然ない。まるで、はじめから居なかったかのように。残ったのは魔女と、潰され丸められたスワンプスパイダーの死体だけだ。

「……さて。その人たちを助けて、帰りましょう」

「「…………」」

 気がつけば、魔女は二人の知る、死んだ魚のような目と気怠げな無表情に戻っていた。何事もなかったかのように本を拾い上げて、埃を払い、再び腰の後ろに吊る。

「ちょっと。大丈夫?」

「「は?」」

 返事がないことを訝しんで、帽子を拾って被り直しながら魔女が問う。呆けていた二人は同時に間の抜けた声を発した。

「しっかりしなさいな。あなたたちまで負ぶって行くのは嫌よ」

「え、ちょ、待ってくれ。なんだよさっきの」

 ロックは混乱していることを自覚した。先の光景が夢、あるいは幻だと言われれば簡単に信じるであろう。

「何、って。魔法よ。当たり前でしょう、魔女なのだから」

「そういうことじゃねーよ」

「そ、そーですよ! なんかアレ、他の魔法とはちょっと違うような気が……」

 メスを倒した光はわかる。実に魔法らしい。

 オスを倒した巨人もわかる。生き物や人形を使役する魔法は聞いた覚えがある。

 だか、それらとはまったく別のことが起きた。誰が見ても明らかに、魔女は死んだのだ。少なくとも書斎にぶちまけられた血は確実に致死量だ。なのにこうして魔女は生きており、破れた服の奥に見える素肌は血だらけでありながら傷ひとつ残っていない。

 そんな話は聞いたことがない。それに関してはカタリナも同様であった。二人が知らないだけと言えばそれまでだが、しかしそれで片付けるには、あまりにも印象が強烈過ぎた。広く語られていてもおかしくないと思ったのだ。

「教える必要はないし、その時間もない。孵化まで多少の余裕があるとは言え、卵の除去は早いほど良いわ」

 アンドレイの妻子を横目に見ながら魔女が言う。それを言われれば二人は黙るしかなかった。

 魔女が杖を振ると、その先から伸びる青白い光がスワンプスパイダーの糸を容易く断ち切った。魔女は何も言わずに少年を背負う。重い方をカタリナに押し付ける意図を隠そうともしていなかった。カタリナとしては元々そのつもりだったので、特に不満もないのだが。

「ロックさん、立てますか?」

「ん……ああ、なんとか……」

 薬の効果か、ロックの体には少しだけ力が戻っていた。どうにか自力で立ち上がった彼を見て、カタリナはアンドレイの妻を背負う。

「さ、帰りましょう。お店開く準備しないと」

「マジか。今日は休ませてくれェ……」

 馬鹿みたいな会話が心地良く感じた。死んでしまえば、こんなくだらない話すらできなくなるのだ。決して軽くない傷を負い、しばらくは悪夢にも悩まされるだろうが、それでもロックは生き残った。

 廃屋を出ると、太陽が中天に差し掛かるところであった。陽の光が傷に染みる。無事な右腕でひさしを作り、空を見上げた。ここ十数年で一度もなかったほど、ロックの気分は晴れていた。

「……ふふっ」

「あん? なんだよ」

「ロックさん、なんだかすごくいい顔してますよ」

 そんなにわかりやすかったか、とロックは自分の顔に触れた。笑っていた。特に意識するでもなく、自然と。なんだか恥ずかしくなって、手を振って誤魔化す。

「まあ、エライ目に遭ったが、これでアンドレイの野郎は俺にデカい借りができたわけだ。さァて、どう返してもらおうか」

「ところで、その人はどこに?」

「「…………」」

 魔女の問いに、二人の笑顔が固まった。アンドレイの様子を見た限りでは、自力で村まで戻ることはできまい。かと言ってカタリナが運んだにしては、戻って来るのが早すぎた。

 まさか。ロックの首がぎこちなく動き、カタリナを見る。カタリナは目を逸らした。

「……おい」

「ええとですね」

「おい」

「……とりあえず廃屋の外に運んで、見つからないように茂みに寝かせて……」

「……で?」

「……そのまま……」

「……」

「私は運ばないわよ。折角こちらも三人居るのだから、当然一人ずつ背負うべきだもの」

「「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」」

 二人は同時に叫び、慌てて道を引き返して行った。魔女は呆れた顔でそれを見送ると、再び村に向けて歩き出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから数日が経った。急いで村を出る必要のなくなったカタリナは、まだロックの店で踊り子を続けていた。連日大盛況ではあるが、さすがに村人たちも慣れてきたのか、あるいは酒場に通い詰める金がなくなってきたのか、少しずつ落ち着きはじめている。

 ロックの左腕も心配していたほど酷くはならず、今日もカタリナ目当ての客たちに酒と料理を提供していた。その料理は、相も変わらず大した技術があるわけではないが、真面目に作るようになったのか少しはまともになったと評判である。

 アンドレイとその妻子は健康そのものであった。特に妻子のほうは、攫われてから助け出されるまでずっと意識を失っていたことが幸いしたのか、心にも傷を負うことはなかった。アンドレイはそうもいかなかったが、彼は強い男だ。恐怖を引き摺ることなく、生きていけるだろう。

 そして、魔女は。

「魔女さーん! どうでしたか、私の踊り」

「見ていなかったわ」

「ヒドイ! 魔女さんのために踊ったのに!」

「客のために踊ってくれー。そいつ金払わねーんだから」

「あなたがいらないと言ったのでしょう」

 魔女は、まだ村にいた。なんでも元々は、あの廃屋にあるという蔵書を目当てにこの村を訪れたらしい。事件の後も廃屋の調査、破れたローブの修復、ロックの腕の治療、卵を除去したアンドレイ一家の経過観察、報酬の件で村長と揉めるなど忙しくしていた。

 結局目当ての本は見つからず、ロックは治療代が払えなかったので宿代と食事代がタダになるだけ、アンドレイは報酬の不足分を補うと言い、元の金額を上回るほど払ってくれたが、所詮小村の石工の給料だ。大した額ではない。魔女からすれば踏んだり蹴ったりな依頼であった。

「ガハハハ。ま、いいじゃねえか、この人が居なかったら、俺らみんな死んでるんだぜ。タダ飯食わせるくらいは安いもんだろ」

「言い方に棘があるようだけれど?」

「おっと、すまねえ。そんなつもりはないんだ、何せ学がなくてよお、上手い言い方がわからねえのさ。あんたには本当に感謝してるよ」

 閉店後の酒場で、アンドレイを含めた四人がテーブルを囲む。事件以来、仕事の時間以外ではできるだけ家族といるようになったアンドレイだが、今日はこうして酒場にやって来た。この村での用件を終えた魔女が、明日、村を出るからだ。

「参るね。この後腕が悪化したりアンドレイから蜘蛛が出てきたりしたらどうすんだよ」

「おいおい、おっかねえこと言わないでくれよ」

「有り得なくはないけれど、心配するほどの確率ではないわ。突然の流れ矢に警戒しながら生活するほうがまだ意味があるくらいね」

 魔女は店で一番高い酒をちびちびと飲みながら言った。

「今も特に異常はないのでしょう?」

「ああ、すこぶる快調だぜ」

 ロックは左腕をぐるぐると回して見せる。傷は残ってしまったが、勲章のようなものだ。生活にはまったく支障はなく、気にすることもなかった。

「しかし、仕方ねえっちゃ仕方ねえんだが……明日か。寂しくなるね。うちの息子がもうちょいデカけりゃ、是非とも嫁に来てほしいくらいなんだが」

「あなた、周りから馬鹿だと言われることはない?」

「ガハハハ!」

 冷たい目で睨む魔女に、アンドレイは笑う。割と本気なんだが、とは口に出さず、少しだけ味が良くなった鶏肉に豪快にかぶりついた。

「……まあ、あんたなら何があっても大丈夫だろうが……気を付けてな」

「ええ」

 しみじみと言うロックに、魔女は素っ気なく返した。

「そのうち、またこの村に来てくれよ。歓迎するぜ」

「よほどのことがない限り、来ることはないでしょうね」

「例えば?」

「国外でも噂になるほど本を集めるとか」

「おいおい、こんな辺鄙な村に無茶言わないでくれよ」

 アンドレイは恩人との別れを心から惜しんだ。もう二度と会うことはないだろうとわかっているからだ。

「……魔女さん」

「なに?」

 カタリナは消え入るような声で言った。出会って十日ほどだが、この娘の元気さを知っている魔女は少し不思議に思った。

「……な、なんでもないです! 頑張ってくださいね!」

「……何をよ」

 カタリナは顔の赤さを誤魔化すため、木樽ジョッキに残った酒を一気に飲み干した。

「みんな心配してんのさ。あんたがすげえ魔女だってことは知ってるが、何せ見た目がな」

「大きなお世話よ」

「いいか、ふざけて言ってるんじゃないぜ。本当に注意しろよ。世の中にはあんたみたいに小さな女の子が好きな変態がたくさんいるんだからな」

「余計なお世話よ」

 魔女は見るからに不機嫌そうな顔をした。この小さな村の中でさえ、魔女を「そういう目」で見ている者は数人いるのだ。うんざりするのは仕方ないとも言えた。更に厄介なのは、それが男に限らないということだ。具体的には目の前でジョッキに酒を注ぎ足している踊り子である。

「まあ、全部ひっくるめて気を付けろってこった。恩人になんかあったら気分悪いからな」

「なんでえ、結局お前の都合かよ」

「ったりめーだ。俺は常に俺の都合だけで生きてるのさ」

「ガハハハ!」

 何が面白いのか、アンドレイは笑い、ロックとジョッキをぶつけ合った。勝手に盛り上がる男どもを無視して、魔女は静かに酒を飲んだ。

 踊り子は、その後一言も発することはなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「……さて」

 翌朝。魔女は酒場を出て、朝日が昇り始めた東の空に背を向けた。するとそこには、待っていたのか、眠そうな顔のロックが立っていた。

「よう」

「金も払わない客をわざわざ見送り? 暇なのね」

「客じゃねー。あんたかだら見送ってんだ」

 ロックは彼には珍しく、真面目な顔で言った。

「ありがとな。本当に感謝してる。俺らの命を助けてくれたことだけじゃなくてさ……色々と」

「そう」

 魔女の返事は相変わらず素っ気なかった。ロックは苦笑する。

「最後にちゃんと礼を言いたかった。それだけさ。引き留めたりはしねーよ」

「そう」

 逆光と黒い大きなとんがり帽子で、魔女の顔は見えない。しかしきっと、目の下に深い隈を作って、あの気怠そうな無表情をしているのだろう。

「……じゃあな。元気で」

「ええ。さようなら」

 言って、魔女は去って行った。ロックは空を見上げる。あの魔女には似合いそうもない、良く晴れた青空だった。

「……寂しくなるねェ」

 ロックはぼんやりと呟く。昨夜話した通り、店の中からドタバタと慌ただしく身支度を整える音が聞こえた。そしてすぐに、その音の発信源がやって来た。

「おはようございます!」

「おお。おはよう」

 魔女とは真逆の、青空がよく似合う踊り子は、今日も元気に現れた。満面の笑みを、ロックは眩しげに目を細めて出迎える。

「お前も気を付けてな」

「はい! ロックさん、本当に……お世話になりましたっ!」

 少し色をつけた給料を懐に納め、日持ちする食料や旅道具を満載した大きなカバンを背負って、カタリナは元気一杯に走り出す。魔女を追い掛けて。

 ロックの酒場は、また一人に戻った。だが何もかもが同じになったわけではない。ロックの心中は穏やかだった。カタリナが居なくなったことで、客たちが文句を言うだろう。それでもやっていけるという確信があった。そんなものは、あの恐ろしい体験に比べれば屁でもないのだ。

 その自信は、あの二人がくれたもので。きっとこれから、幾度となくロックを助けるだろう。

「……さァーて、仕入れに行くかァ!」

 朝一番の気合いを入れて、ロックは歩き出した。二人とは逆に、朝日に向かって。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「魔女さーん!」

「……」

 木漏れ日が差し込むのどかな森の中を歩いていた魔女は、突然無遠慮に自分を呼んだ声に振り返る。ここ数日で飽きるほど聞いた声の持ち主が、太陽にも負けないほど輝く笑顔で、ブンブンと手を振りながら走って来ていた。

「……なに、あなた。なんの用?」

 嫌な予感のした魔女は、凄まじく面倒くさそうな顔を作って問うた。カタリナはそんな顔にも一切尻込みすることなく、変わらぬ笑顔で言う。

「一緒に行きましょう!」

「嫌よ」

 予想通りの言葉に、魔女は即答した。その返事はカタリナにとっても予想通りであり、その程度で諦めることはない。

「私もこっちに用があるんです! 一人よりも二人でいたほうが安全ですし、一緒に行きましょう」

「嫌よ。だってあなたが危険だもの」

「うっ!」

 数日の間ほぼ毎夜魔女の寝所に忍び込んだことを咎められ、カタリナは小さく仰け反った。しかしすぐに立ち直り上体を戻して、僅かに引き攣った笑顔で言う。

「だ、大丈夫です! 自制心を鍛えましたから! ほら、昨日はお邪魔してないでしょう?」

「十分の一程度の実績の何を信じろと?」

「ううっ!」

 カタリナは大きく仰け反った。立ち直るのに数秒を要した。グググ、と上体を戻したカタリナは、少し汗が出始めた笑顔でさらに言う。

「だ……大丈夫ですっ! ほら、私の目を見てください! これが嘘をついてる目に見えますか!?」

 紫色の大きな目で真っ直ぐに魔女を見詰めるカタリナ。魔女はその目に指を突き入れた。

「ギャーッ! ひ、ひどい! 何をするんですか!」

「ちっ、浅かったか」

 寸前で顔を逸らしつつ目を閉じて直撃を回避したカタリナは魔女を責めるが、しかし魔女は既に再び歩き出していた。カタリナは数回まばたきをして目が無事であることを確かめると、急いで魔女の後を追う。

「いいじゃないですかー。一緒に行きましょうよー。きっと楽しいですよー? ほら、私体力には自信ありますし、荷物持ちとかしますよ。お金だって少しは稼げます。夜の見張りだって、二人いれば少しは楽でしょう? どうですか、良い案だと思いません?」

「……はあ」

 踊るような足取りで自分の周りを回り続けるカタリナに、魔女は小さく溜め息を吐いた。あまりの鬱陶しさに根負けしたのだ。

「……一緒に来るのはいいけれど。私はあなたの都合には合わせないし、あなたが危険に晒されても助けないし、あなたが邪魔になるようなら捨てていくわ。それでも良いのなら、勝手になさい」

「やった!」

 カタリナは飛び跳ね、全身で喜びを表現した。それもすぐに止み、居住まいを正して向き直る。

「カタリナです!」

「は?」

「あなた、ではなくて、私の名前はカタリナです」

「そうね。知っているわ」

「そうね。じゃなくて! これから一緒に旅をするんですから、お互いの名前もわからないんじゃ不便でしょう?」

「……」

 カタリナが何を言わんとしているかなど、当然わかっている。なんで私があなたに名前を教えなければならないの? その言葉は呑み込んだ。言っても無駄だからだ。

 諦めの境地に達し、魔女は己の名を告げた。

「……ベルカント。この名はあまり好きではないから、ベルとでも呼びなさい」

「……はい! ベルさん!」

 とても嬉しそうに笑うカタリナの姿に、ベルと名乗った魔女は再び溜め息を吐いた。これからの旅は騒がしくなりそうだと、明日の明るさを嘆きながら。

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