四
◯第四段「死にかけて」
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どれくらい踞っていただろうか。
アヴラムとその騎士たちはいなくなっていた。
相変わらず背にプラタを感じる。腕の出血は止まりそうにない。
斬られたとき、初めは妙な暖かさを感じて、一刹那の後には痛みから嗚咽し見つかる以前から生唾で塞き止めていた嘔吐をした。
更に一刹那の後、ソーニャは足元に己の吐瀉物があることにも構わず倒れてのたうった。
縦に叩き割られた左腕の内の中指より下から腕の外郭だった場所を割かれ肘から皮一枚でゆらゆらと下がっていた。
弓は中心で二つに切られソーニャの哀れな腕を標榜するように弦一本でゆらゆらと垂れる。
それでも残った指先は硬直して弓を離さない。やっとのことでソーニャは振り返る。
プラタはソーニャの襤褸の縁を掴んだまま気絶していた。
ソーニャは右手でプラタを抱え、足を引きずり、軈ては這い、南を目指した。
「何が恩赦だッ、何が恩赦だッ、何が恩赦だッ!」
小声で、恨み言という名の鞭で己を急かしながら。
血と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
丘陵も幾度も越えた。
半ば転げるように坂も下りた。
やがて東の草原が明るくなる頃、プラタは目を覚ました。
一際高い丘陵の中腹で力尽きた姉とその腕の惨状を目にしたプラタは絶句した。
血は止めどなく流れ、主人の意思とは真逆に丘陵を下って行った。
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老農夫は牛に牧草をやるべく、草原を訪れていた。
牛が草を食む間、丘陵の頂きに床机椅子を置いて煙草を一服するのがささやかな楽しみにであった。
こんなときでしか煙草は楽しめない。遥々新大陸から来た高価な煙草を妻の前で嗜んだものなら、即座に没収される。ヴェステンブルク東部に位置する黒の山の南南東、コルスン侯領はルニンの寒村に居を構える彼は若き日のシーラスとの戦を回想しつつ、この日も丘陵の頂の切り株に腰を下ろしキセルに火を灯した。
キセルをくわえつつ、妻の作った弁当に手をつけようとしたとき、僅な声を耳にした。何を言わんとしているかはおろか、掠れ声であることしか解らない呻きであった。
視界を丘陵の下に落とすと、長草の間に小さな人影を認めた。
農夫は鍬を手に警戒しながら影に近づいた。
腕に大怪我を負った娘にすがりついて泣きじゃくる娘。
──シーラス人だ。
即座に農夫は持参した鍬を構える。
しかし直ぐに下ろした。
「いや、俺の知っているシーラス人ではない。
馬を駆け無慈悲に同胞の頭を射抜くシーラスではない。」
農夫は独白し鍬を落とした。
その独白に目を泣き腫らした娘が飛び起きる。
「お前、言葉は解るか?」
娘はこくりこくりと頷く。
当然だ。ヴェステンブルクに移り住む限りはエウロシャーダの共通語が通じねば正しく話にならない。
「移民狩りに遭ったのか。」
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「強弓だな。
余程の剛の者でなければ引けまい。」
農夫は自宅に持ち帰った真っ二つの弓を見て云った。
それは何らかの動物の角を芯に複数の木材で補強された長弓であった。
農夫は次に矢を壁に掛けられたランタンにかざして見た。
昼間にも関わらず室内は暗く農夫は眉間に皺を寄せて目を凝らす。
箙に収められた雑多な─屑鉄、骨、木の鏃を持つ長短様々な矢が彼女らの困窮を示していた。
しかし、この強弓を以て放てば、木の鏃とてかなりの脅威となるだろうと農夫は思った。
「大公の兵に見つかれば大逆罪になりますよ。」
妻は静かに云ってから彼の傍らに坐った。手には薬湯の入った碗がある。
「熟知している。
数年間にわたり大公の兵として闘ったからな。」
農夫はソーニャの腕に包帯を当てながら答えた。
無惨に垂れ下がった腕の半分は捨てる他なかった。
プラタは寝台に寝かされたソーニャの服の裾を掴んで眠りこけている。
「幸いというべきか。
光刃で斬られたのなら破傷風の心配はなかろう。」
「どうするんです?
治療して僧院に預けますか?」
妻が問うた。
「見てわからんか?こやつらはシーラスの血統が濃すぎる。
姉は白銀の髪で、妹は真紅の双眸だぞ?
僧院が受け入れるにもリスクが大きすぎる。」
「ではどうしろと?」
妻が不機嫌そうにため息をつく。
農夫は表情を変えずはっきりと応えた
「俺が育てるよ。」
「何を馬鹿な。」
妻は不機嫌を通り越して呆れているようであった。
「十分育ったら、部族のもとに帰そう。」
妻の反論などなかったかのように農夫は淡々と続けた。
「隠し通せると思ってるの!」
農夫の妻が語気を強めたところでソーニャは目を覚ました。
跳ね起きたソーニャは半分が無くなった左腕を農夫に向けた。
妻は思わず悲鳴と共に碗を落として薬湯を床にぶちまけたが、農夫は微動だにせず、また目を覚まして早々に行われた彼女の奇行の所以も見透かしたように佇んでいる。記憶の混濁したソーニャには未だ弓が手元を離れていないように感じられていた。
しかし、その手元に既に弓はない。
ソーニャは再び手掌に妙な暖かさを感じた。
不意に壁に掛けられたランタンの火が俄に揺らぐ。
─光を吸っておる。
暖かさが強まった。
凍えて帰ってきた天幕で亡き父に手掌を包まれた時を思い出す。
ランタンの光は宙を舞い、ソーニャの左腕にて凝固した。
血とも炎ともとれる朱の光がソーニャの左腕を巻き込み渦巻き、やがて収束しはじめた。
やはり、弓は彼女の掌を離れていなかった。
それは光で出来た強弓であった。
欠損した腕の左半分も光が補っている。
右腕には別の光が光の矢を顕現している。
紛れもない騎士の力であった。
「光刃の弓か。
驚いた。騎士の素養があったか。」
その現象にソーニャ自身や目を覚ましたプラタも戸惑った表情を浮かべていることを認めた農夫は言い直す。
「いや、今初めて覚醒したのか。」
農夫は傷だらけの大きな手でソーニャの左手を包み、それに応えるように光の弓はソーニャの手中に仕舞われた。