三
◯第三段「ノークォーター」
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──They hold no quarter
They ask no quarter──
「貴奴らは慈悲を知らず、また求めない。」
『No Quarter』from Houses of the Holy
Led Zeppelin 1973
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嘗て東方騎馬民族の帝国シーラスが来襲し、このエウロシャーダの地の尽くをその馬蹄で蹂躙して踏み均し呪術で人を焼いてより千余年。かのシーラスが放逐戦争の名の下にエウロシャーダより放逐されて三百余年もの歳月が過ぎた。
ヴェステンブルク東の国境近くには草の海があった。
なだらかな丘陵の表面を覆う草が風に波を立てた。
丘陵が続く草原を時に散り散りになり時に纏まって歩む難民の集団があった。あたかも干からびて死にゆく粘菌の如く茶色で汚く不定形。
さほどの勾配ではない緑の傾斜も餓え傷ついた彼らに登らせれば目に見えぬ泥濘地帯に足をひねくり回されるが如く遅々として揃わず危うい。
而して、その集団を少し離れた高台から見下ろす武装集団が居た。
「整然たり、地を覆うシーラスの騎兵。
その戦列に地は震え立ち敵兵失禁す。
勇壮たり、地を覆うシーラスの騎兵。
その騎行に海沸き立ちて敵兵斃る。」
武装集団の首領──アヴラム・ヴェステンブルク大公は嘶く馬を宥めながら古いシーラス人の軍歌を透き通ったシーラス語で詠唱してから、首をかしげて北叟笑んだ。その挙動に答えて着こんだ甲冑がわずかに金属音を立てる。
「見たまえ、ディミトリ。
嘗ての整然だの勇壮だのと評され、大層恐れられたシーラスの騎兵も今やあのザマ。襤褸を纏い、半ば難民と化して国境に雪崩れ込むことしかできぬ奴等よ。まったく整然さの欠片もありはせんなぁ。憐れ憐れ。」
カラカラと笑う主人の機嫌を害うまいと彼の甲冑もジャラジャラと呵呵大笑する。
一方、ディミトリと呼ばれた傍らの老騎士は「さようで」と短く答えて、すぅと深呼吸をした。
それから、何らかの宗教的儀式さながらに手掌を開いて天に向けて挙げた。
後方に続く彼の配下たちもそれに倣うように挙手する。
異様な光景である。
すると俄かに彼らの手掌は光を帯びる。
その光は有るものは棍状に、有るものは刀剣の象に、更に有るものは長柄の斧の象に収束して彼らの手におさまった。
彼らは各々の腕より光の武器を顕現させてみせたのだ。
それを認めたアヴラムは采を振った。
「大した数じゃァねぇからな。
汝の手勢だけでやれ。
何人殺しても構わん。
いつも通り適当に蹴散らしてこい。」
「はっ」
ディミトリが返事と共に光刃を頭上に掲げ振り下ろしたことを合図に武装集団の一角が崩れ高台の梺めがけて駆け降り始めた。
半刻と経たずにディミトリの騎士団が難民を東に追い返すことだろう。
──気のせいか、どうも最近来寇の頻度が増したのぉ。
アヴラムは相変わらず古いシーラス歌を口ずさみ、眼下の殺戮を見下ろしながら物思いに耽っていた。
「反れ!歸れ!毋れ!歸れ!去れ!」
軍歌とも吠え声ともつかぬ声が上がる。
ヴェステンブルク騎士たちは叫びながら難民の群れに騎突し各所で血の煙を吹き上げた。
先頭のディミトリは光の双剣を振り上げ、眼下のシーラス難民目掛けて振り下ろして、その耳と両腕を器用に切除した。難民がよろめき倒れる前に止めを刺すべく、ディミトリが再度剣を上げると、刹那、通りすぎた騎士が光の大斧で難民の背を横に薙いだ。難民は肉とも臓物ともわからぬ欠片をぱっくり空いた赤く長大な裂目から吐き出して絶命した。
「ちんたらしてるからっスよ。」
大斧の騎士はカラカラと笑いながらディミトリに掌を向けた。
ディミトリは唾を吐いてから懐から金貨を取りだして大斧の騎士に投げ与えた。
「ここで一週間分稼いでやりますよ。」
這いつくばっていた別の難民の頭を馬蹄で粉砕した大斧の騎士は、そう言うと上機嫌で去っていった。
「ほざけ、餓鬼が。
ハンデをやろうぞ!」
そう叫んだディミトリは片方の光剣を掌に仕舞うと追っていった。
これは騎士の遊戯である。
ルールは簡単、ある騎士が殺そうとしていたシーラス難民を不注意で他の騎士に横取りされた場合、その騎士に金を払わなければならない。男なら金貨、女なら銀貨、子供なら銅貨をそれぞれ一枚。仲間割れをした場合は両成敗で現時点での所持金を他の仲間に分配する。横取りに執心し本来の殺戮を蔑ろにした場合も同様。また、極めて優美に殺せた場合は払う側が個人の判断で払う額に色をつけることもある。監視者という非武装の騎士が巡回してトラブルが無いか見回り、後々、飼葉桶や肥料や難民への威嚇として再利用されるシーラス人の死体を過度に損壊せぬように注意して回る。
このような行為は騎士に差別的な者や、シーラス保護派の貴族などの批判を受けることも多いが、この国では無条件に被差別的な扱いを受ける騎士にとって重要なガス抜きである。
どのみち難民を数十人程度殺したところで億戸と評される巨大民族シーラスにとっては痛くも痒くもない些末事であろう。
名もない難民の死とて本人以外からすれば些末事。
果てなど見えぬ草の海の中の僅かな一帯が血に染まったところであまり目立たないのと同様の些事である。
千年前のある日、部族を率いて田狩に赴いた髭面のヴェスラン人がいた。未明に自らの治める環壕集落を出て、彼が狩り場たる山に着くころに丁度日は昇った。そこには山も森もなかった。大地の起伏は一夜にして尽く均され短草草原と化していた。而してそこには草すら見えなかった。均された大地に整然と兵が並んでいた。後方に彼らが嶼と呼んでいる峻嶺があり、峻にも軍旗が見える。狩り場から嶼まで徒歩半日の区間を完全武装の兵士達が埋め尽くしていた。
馬に跨がり膠で繋がれたように動じぬ重装の騎兵、足を鎖で繋がれた軽装の歩兵、顔面から触腕を垂らした灰色の巨獣、車輪もて動く鋼鉄の櫓、それらの異形が青銅の鏃とてまだない部族社会を蹂躙した。
それが千年前。
則ち嘗て東方騎馬民族の帝国シーラスが来襲し、このエウロシャーダの地の尽くをその馬蹄で蹂躙して踏み均し呪術で人を焼いてより千余年。かのシーラスが放逐戦争の名の下にエウロシャーダ地域より放逐されて三百余年もの歳月が過ぎた。
「そう、三百余年が過ぎたのだ。」
アヴラムがにっこり咲う
「三百年で理も変わった。」
前線に展開していたシーラスの軍団は軍閥となり軈て独立国家となった。本国の弱体化によりの救援が断絶すると殊に草原や砂漠地帯に展開した旧シーラス系国家は深刻な食料不足から互いに内戦を始め、難民と化した大量のシーラス人が嘗ての占領地たるエウロシャーダに雪崩れ込んだ。惨めな襤褸に身を包み、まともな兵糧もとい食糧も持たず。
斯様に、すっかりみすぼらしくなったシーラスの難民をシーラスの文化を得て逆に発展したヴェステンブルクの民は無慈悲に狩り取っていった。降りかかる火の粉を軽く払ったに過ぎない。払った者は払われた無数の火の粉が光を失い粉々になってちっぽけな灰として地に落ち崩れ去る様など気に留めようか。そうして騎士達は国境に白骨を積み上げた。あたかもシーラスの征服戦争で失われた同胞の命を雪ぐ様に放逐戦争を騙り、拒絶し、殺戮した。
彼彼女らは数百年続いた暗黒の占領期自体は覚えていないかもしれない。
だが無抵抗の仇敵を屠ることは殊更心地がよいのだろう。
故に暗黒の占領期が気にさわるふりをした。
ふりをしているうちはシーラス人の屠殺を正当化して愉しめる。
愉しんでいるうちは、己らが被差別階級であることを忘れられる。
故にか、眼下の殺戮の顛末を見たアヴラムはシーラス人に讎を感じてなどいない。
故にか、あるのは快感と幾ばくかの憐れみ、それに幾ばくかの脱力のみ。
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なだらかな傾斜が続く草原を行く者がある。
樽の蓋を流用した粗末な車輪を六つ並べたひどくのろい幌馬車が悍馬とは程遠い痩せ驢馬に牽かれて軋みながらヴェステンブルクの国境を目指していた。車窓には雌牛の頭骸骨が下げられ自分達に戦意が無いことをシーラス流に示している。しかしこれも所詮は気休めに過ぎない。農民に見つかったならいざ知らず、移民狩りに来た騎士団に見つかればどのみち命の保証はない。
プラタは馬車の縁に腰掛け、時々自らの足に接触する車輪の感触を楽しみつつ呆けている。
白磁の如き蒼白の肌に彫りの深い顔立ち。
尖った耳には豊かな耳朶。
紅い双眸に白銀の髪。
それが元来のシーラス人の容貌であるというが、既に支配地の遊牧民との混血が進んだ彼女に残されたのは紅の双眸のみであった。
前方で車を御する姉のソーニャが白銀の髪を揺らしていつのものかもわからぬ本国支給の豚煮の缶詰を妹に向けて転がした。缶詰は車中の軋む床を転がりながら縁に腰掛けるプラタの尻に当たった。
襤褸ごしに唐突な金属の感触を感じたプラタは「はっ」と間の抜けた声を出して紅い瞳を向ける。
「もうすぐ国境だ。
この馬車も捨てなくちゃならない。
荷も間引かなきゃならない。今のうちに食べちゃいな。」
ソーニャは相変わらず驢馬に鞭打ちながら云った。
「うん。」
返事をしたプラタが胸から吊るした玉虫色のバタフライナイフで缶詰の口をなぞると缶は容易く開いた。穀は類いは既に尽き、缶詰の肉も異臭を発していた。しかし、ここに来るまでに食べたもの中ではマシな方であった。肉ばかりではない、変わりダネの缶詰もいくらあったが、先日車中で済ませたプラタの十一才の誕生日祝いで食べてしまった。
斜陽が西の空に没しようという頃、二人は国境間近の丘陵の影に至った。
妹を馬車に残し、ソーニャは丘陵を登り、国境を窺う。
「ちぃ」
不運を恨みソーニャは唾棄した。
暁の光に反射してよく見える。
国境付近には金属の鎧に身を包んだ一団が屯していた。
丘陵を勢いよく滑り降りたソーニャは妹に告げる。
「難民狩りがいるわ。」
紅い瞳が少し暗くなった。
「どうするの?」
プラタが不安げに問う。
「迂回するしかないわ。
北には奴らの居城ナスル鎮がある。
南の農村部から抜けましょ。
一度スゥクの僧院からは遠ざかるけど命あっての物種よ。」
ソーニャは馬車から荷を下ろして選り、獲物の弓に弦を張りつつ答えた。
ヴェステンブルク東側の国境には凡そ17スタディオン毎に"鎮"と呼ばれる砦が築かれ、駐屯する移民狩りの騎士団が目を光らせている。
その中でも国境線上の北端に築かれたナスル鎮は最大の鎮ではある。ソーニャは国境付近にいる騎士達の規模の大きさからナスル鎮から来たものと判断した。規模の大きなナスル鎮ではあるが、他方で大きさゆえか、南隣のレキ鎮まで17スタディオン以上の大きな開きがある。加えて対するレキ鎮は放逐戦争サイラズレコンキスタ時代は重要な拠点として機能した唯一石造りの鎮だったが、放逐戦争サイラズレコンキスタ以来まともな改修はされておらず、駐屯する騎士団もかなり小規模だ。
そのためシーラス難民の殆どはナスル・レキ間の国境を抜けて密入国するのだ。そして入国を果たした移民はシーラス人が統治していた頃に創始されてエウロシャーダで受容されたペズ信教の僧院か、或いはその荘園に庇護を求める。僧院に仕える僧侶や、僧院の庇護下にある荘園主は元々正式に亡命したシーラス人の士大夫階級がエウロシャーダ諸侯に重用されたものであり、シーラス難民といえども、僧院に帰依し出家をすれば僧院の庇護を受けられ、上手くいけば出家せずとも荘園で働くことができる。
「ナイフは持ってる?」
弦を縛りながらソーニャが問うとプラタは先程のナイフを出してみせた。
「離すんじゃないよ。」
玉虫色の刃が太陽に輝いたのを見てソーニャは安心させるように穏やかに云い、プラタは深く頷いた。
「行くよっ」
弓に弦を張り終え、箙と荷を背負ったソーニャが力強く云った。
陽は既に西に消え、草原をしじまが満たしていた。
国境を挟んで草原の遥か西の遠方に見える"ベレンガリオの嶼"と呼ばれる切り立ったの頂が光を放ち始めた。ベレンガリオの嶼は草の海さながらの草原に佇むたった一つの山であったことから嶼と評されている。頂上はシーラスによる三度目の首都占領から領土の回復を行った第15代大公ベレンガリオによりシーラス人を哨戒するための巨大な灯台を装備した砦が構築されている。
国境を越えた後は、ベレンガリオの嶼の後方に守られたヴェステンブルク東端の街スゥクを目指さなければならない。
ソーニャは歩みを進めながら仇敵を見るように眉間に皺をよせ、彼かの嶼を睨んだ。
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人生の多くをシーラスの移民狩りに費やした女が、この日もシーラス難民の一団を始末していた。アヴラムが釁られた曲刀を小姓に預けると、小姓は丁寧に血を拭き取り鞘に納めた。アヴラムは紅く焼ける西の空を認めて兜を外し、また気だるそうに頸を鳴らしながら云う。
「ディミトリ、夜間哨戒は任せた。私は帰る。」
「はっ」
ふと、アヴラムの視界の端に鋭い光が入ってきた。
色ははっきりしない云うなれば玉虫色の光が東の草原に広がる丘陵の隙間より見えたのをアヴラムは見逃さなかった。
「ディミトリ。
ちと、汝の倅とその手勢を借りていいかね?」
アヴラムは小姓より曲刀を力任せに奪いつつ問うた。小姓が「ひっ」と小さく叫ぶ。
「不肖なれど使われるがいいでしょう。
カイル!」
ディミトリは髭を震わせながら倅を呼んだ。
「御前に。」
精悍そうな若者であった。
騎士にしては軽装である。
アヴラムはディミトリの倅─カイルを指して問う。
「ディミトリ、汝の倅の光刃の形は投斧鉞であったよな?」
「然りであります大公。」
答えたのはカイルであった。
「シーラス蛮徒の死に損ないを追いたてるにゃ最適よのォ。」
にやりと微笑んだアヴラムは自身も実体の曲刀の他に大鎌の形をした光刃を左腕に顕現させて馬腹を蹴った。
「我に続け。」
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──気付かれたか?
遠方より聞こえる複数の馬蹄のけたたましきを耳にしたソーニャは思った。
「ここに居て」
とプラタに厳命し、弓に矢をつがえつつ比較的低い丘陵を駆け上がる。
滑る短草に幾度か足をとられながらも丘に上がって伏せて望めば、少数の騎馬が砂塵を上げて先程まで二人が居り、二人が馬車を捨てた丘陵の裏を目指して騎行している。
「感づかれたっ」
梺で踞るプラタを立たせると南へ走った。
踵を返し東のシーラスに帰るれば助かるかもしれなかった。
しかしソーニャはあの地獄に帰るということを決してしなかった。
「それだけは肯んぜぬ。」
心中で云った筈の言葉は緊張から口に出ていた。
プラタは息を切らせながらもその言葉に反応して姉を見た。
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「馬車です。」
先頭を行っていた長槍型光刃の騎士が丘陵の梺に留まる幌馬車を認めて報告した。
「見ればわかる。
あまりに隠れるのが下手クソだったからてっきり数十人単位でお出ましかと思いきや、こりゃ多くて十人程度かのォ。」
残念そうに云ったアヴラムは後方に続いてきた部下たちに向き直って、また気だるそうに頸を鳴らした。
「ロドギュネ。
お前は30ばかり率いて東を哨戒しろ。
タハール万戸すれすれまで哨戒して見つからなけりゃ、ナスル鎮に帰還せよ。」
アヴラムがそう命じると両手に鋭い爪の如き光刃を生やした女騎士─ロドギュネが小さく頷き、東へ去っていった。
タハール万戸とは国境に最も近いシーラスの集落である。
「カイルと残りの連中は私と来るのだ。
南の農村部を哨戒する。」
「はっ」
アヴラムは腰に下げた皮の水筒に口をつけて中の酒を嚥下した。
その水筒は白磁の如く透き通った皮を張り合わせて出来ていた┃ 《(1)》。
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ソーニャは背後にすがりつくプラタの感触を感じながら、吐瀉せぬよう唾を飲んだ。ソーニャは片膝立ちにて弓を構えて硬直している。弓は騎馬族らしく横に寝かされて引き絞られている。目の前にはソーニャの首筋に鎌状の光刃を突きつけるアヴラムがいた。姉妹は追い詰められていた。
「雌ガキ二匹か、腹の足しにもならんわぃ。
しっかし、姉貴の方はいい髪してんな。
むしって兜の飾りにでもするかね?┃ 《(1)》
というか、姉妹であってるのか?あんまり似てないけど。」
「シーラス人殺しっ」
ソーニャは噂によく訊いたその名を絞り出すように言った。足の腱は逃げている最中に後方から飛来した投斧鉞に割かれ立つことすらままならない。
「口惜しいことよ。
宗主国からの許可がありゃあ、汝らシーラスなんぞ一捻りだというに、許可がねぇから国境に引っ掛かる難民を狩ることしかできんとはな 。
ってか言葉は解るのかね?」
「汚らわしい親殺し奴っ!」
ソーニャは片言ながらエウロシャーダの共通語にてハッキリと云った。
途端にアヴラムの周りを固める騎士たちが殺気立ち、一方のアヴラムはそれを聞いて逆にカラカラと笑う。
「残念だがね。
私は騎士の類いじゃないよ。
この鎌は後発的に身に付けたもんでなァ。」
アヴラムが僅かに鎌を動かす。
鎌にあてられたソーニャの首から血が垂れる。
「さて、どう死にたいのかね?顔は傷つけたかない。
同じ女の子としてなァ。
心臓を一突き?断頭?失血?袈裟懸け?
私だって出来れば殺したくはないんだがね。
若すぎて騎士の苗床にすら出来ん。
その上、昨今のシーラス女は性病持ちが多いと聞く。
気安く部下の慰み者にもできんとはつくづく一片の利用価値の無い人種よのォ。」
後方の騎士達からも笑いが起きる。
思わずソーニャが矢を放たんとしたそのとき、後方より騎馬が現れた。
服装は小札甲冑に毛皮のマント。
ヴェステンブルクの伝令の様だ。
「大公閣下、お退きを!」
伝令は馬上からアヴラムに告げた。
「無粋なものよ。
見て解んねぇかなァ?
今は遊びの最中だというに。
あと下馬しないの?無礼じゃね?」
アヴラムは振り返らず不機嫌そうな声だけを抑揚なく淡々と伝令に向けた。
「御子が御産まれに!」
伝令は馬を降りそう云った。
瞬時に光の鎌は掌に消えて、アヴラムの顔は驚きと喜びに染まる。
「まことか!でかしたぞ!」
アヴラムは向き直り壊れた様に呵呵大笑した。
「聞いたか?シーラスの雌ガキ!
私の子が産まれたそうだ。命拾いしたな!
撤収だ!早駆けで都まで戻るぞ!」
目の前にいるのは紛れもない女、そしてその女に女の子が生まれたと告げる伝令、ソーニャには意味がわからなかった。
彼女の困惑をよそに後方の騎士たちは愚痴をこぼして帰ってゆく。
満面の笑みのアヴラムの掌にいつのまにか鎌が戻っていた。
アヴラムは上機嫌で鎌を振りかぶり、
「これは恩赦っやつだよ」
と一声、光の鎌は一閃し、矢を構えたソーニャの掌から肘までを縦に割いた。
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○考注
ヴェスラン人による人皮や人骨の加工は古くから確認されている。特に皮膚にしろ髪にしろ見栄えのいいシーラス人はその標的になった。放逐戦争以降には髑髏飲器の使用も始まるが、こちらは遊牧民族馬追い人が持ち込んだ風習と考えられる。
プルーセン王国はヴェステンブルク大公国の宗主国であるが、大公国に対して国内諸侯よりも強力な自治権を与えており、従属諸侯の一角ではなく半独立国として認めている。しかし、戦争に就いては「大公国が他国に対して軍事行動を行う際はプルーセンに伺いを立てるべし」という約定が交わされている。
但し、この約定が成立したのは第二次スラゴン朝になってからであり、対シーラスの名目で軍拡を繰り返してきたヴェステンブルク大公国を牽制するべくプルーセンが突きつけたものである。この頃には既にシーラスの組織的な侵攻は衰えシーラス=ヴェステンブルク戦争は沈静化を始めていたため大公国もこれを認めた。しかし、この約定によってシーラス人最後の組織的侵攻である「マールの大攻勢」の際にはヴェステンブルク側に対応の遅れが生じた。