一
◯第一段「前記」
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放逐暦320年は異常な年であった。
320年前に放逐戦争に敗れてからもなおエウロ地域の東に居座っているシーラス人の難民が堰を切ったように流入し、西方からは黒雲が湧き上がった。過去に例がないほどの大雨が農作物を押し流し、続いてやって来た大干魃が急速に大地を乾かしていった。貧農は土地を捨て南のかた気候が比較的穏やかな内海沿岸に逃れ、嘗ての大穀倉地とそこに残された餓死者達の夥しきは原野に帰っていった。
しかしそうした天災の数々でさえ、この年に誕生した二人の女帝を前にしては恥じ入ることだろう。
後の史家は彼女らを次のように評した。
「世に恩恵をもたらすことに於いて彼女らに勝るものなし。
世に損害を与えることに於いてまた彼女らに勝るものなし。」と
エウロ地域は大陸の西部に位置する亜大陸である。
エウロ地域の中東部にヴェステンブルク大公国という国がある。南北二つの山地の間に広がる草原地帯に沿って築かれた細長い国土が大陸を縦断する形で横たわっている。これは嘗てのヴェスラン人の居住地域と重なる。ヴェスラン人とは、非常に発達した魔術を以てエウロ地域を占領していた騎馬民族シーラス人の到来する以前にこの地に定住し、ヴェステンブルクの国号の由来にもなった原住民である。現生のヴェステンブルク国民に祖先を訊ねれば、誰もが胸を張って「ヴェスランの民である。」と応えるが狭義には違う。五百年の占領統治と強制移民で混血は進み、独立の時点で既に純血のヴェスラン人は数少なくなっていた。強いて言えば放逐戦争によってヴェステンブルク大公国を打ち立てた国祖トリストラム一世の出身部族がヴェスランであった為に、このような民族意識が生じたのであろう。では現生のヴェステンブルク国民は何人の子孫であるかと言えば、西の隣国プルーセンの民であろう 。霧深い森の国であるプルーセンに住まう屈強な野人は占領時代に於いて労働力として、ヴェステンブルク南西部の穀倉地帯へ移民を強制され、農耕に従事していたのである。ヴェステンブルク自体、プルーセンの民の協力を得たヴェスラン人がシーラスから独立させた国であり、同時期にプルーセンの民が独力で打ち立てたプルーセン王国を宗主国に戴いている。
そうした背景から、ヴェステンブルク大公国は防波堤になった。放逐戦争に敗北し文字通り放逐の憂き目を見た後もシーラス人の侵入は度々起こった。前述したようにヴェステンブルクの国土は南北に長い。東の国境には17スタディオン置きに鎮と呼ばれる城塞が築かれ東方の草原に目を光らせた。それでも建国以来、六度の大規模攻勢に遭い、首都ヴェステンブルクの放棄を経験したが、放逐暦三世紀ごろから始まったシーラス人の衰亡もありヴェステンブルクはその国土、延いては以西の国々の防衛に成功したのであった。
しかし衰亡と同時にシーラス人はこの地に禍根を残していった。「騎士」と呼ばれる存在である。シーラス人は占領した土地の民を戦奴隷として戦力に組み込んだ上で他の地域へと侵攻するという戦い方を繰り返した。シーラス人の優れた呪術は、戦奴隷の戦闘能力の底上げに使われた。シーラス人は占領地に「呪い」といわれるある種の病をばらまいた。国によってまかれた呪いは異なり、例えば西のプルーセンでは若者が狼に変じ、更に西の島国ブリテンでは死者が蘇生し、南のノースレイアでは女が竜を産んだ。
そしてヴェステンブルクに於いては「騎士」という存在が生まれた。これは他国に於ける騎士とは意味が異なる。ヴェステンブルクの騎士とはシーラス人が土地に感染させた呪いを受けた人間である。ヴェステンブルクにまかれた呪いはというと、整形自在の光の刃を生み出す能力を得るというものであった。
呪いを御すことができたシーラス人は光刃を振り回すヴェステンブルクの戦奴隷を率いて侵略を行ったが、放逐戦争と以降の衰退によってシーラス人が去ると御す術は失われて呪いのみが残り、毎年国内では数十人の先天的な感染者がその出生に際して光の刃で母胎を裂いて生まれた。生まれながらにして親殺しという原罪を背負う感染者を国民は忌み嫌ったが、歴代の大公は戦闘能力の高い感染者を軍事的に運用するために「騎士」と呼び、徴兵した。先天的な感染者が被差別階級にして専業軍人という異色の集団「騎士」となる一方で、稀ではあるが命の危険などに際して後天的に騎士の呪いを発現し、徴兵を逃れるためにその事を隠す者もいた。シーラス人の浸入が激しかった時代に於いて卓越した戦闘能力を持つ騎士は重宝されたが、放逐暦三世紀ごろまで盛んだった内外での戦が終息するに従って、騎士の専業軍人的な側面は軽視されるようになった。結果として騎士は武勲侯として高い地位を得る一族と被差別階級として徴兵されるだけの一族という二つの層に別れ、その格差を広げていった。下層の騎士達は戦時に前線に駆り出されるだけの存在として、大公国中部の半湖上都市イティル・ヤスランの郊外に隔離された、スラム街同然の騎士養育施設兼宿舎に押し込められ、極めて不衛生で厳しい生活を強いられた。
第九十四代大公たるヤロスラ・ヴェステンブルクとアルディア・ヴェステンブルクの姉妹が即位する迄は。
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◯考注
外貌的な見地から、このことを主張するプルーセン人民族学者は多い。またプルーセン王室もこの説を推している。しかし王室の支持に関しては、謂わばヴェステンブルクをプルーセン王国の封地と考えるある種の奴視を基盤としており、シーラス人との戦役が鎮静化し、ヴェステンブルクがプルーセンの羈縻を離れていくにつれて、文化的な側面からこの説に異議を唱える学者が増えた。
殊にヴェステンブルク南部の東カルデラリア(カルデラレイア)大学の教授兼修道士にしてスユド文壇随一の耆宿たるアルブレヒト・アトールは「現生ヴェスラン人≠プルーセン人説」の根拠として、命名方法や、婚制、また社会集団等といったものがプルーセンとヴェステンブルクではかなり違っているということをあげた。
プルーセン人の命名法の特徴として「父子連名の制」がある。父の名に因んで嫡子の名をつけるのである。例えを言えば、「ビヨルンの長男ベルンハルト、その子ハルトルフ、その子レオンハルト……」という具合に。対してヴェステンブルクにはそれがなく、比較的に自由に命名が成され、漠然とした規則として長男には祖父の名を与え長女には父の名の女性形を与えというものがあるが、厳守すべき戒律というわけではない。また、プルーセンにはない幼名の文化も存在する。
次に婚制であるが、いとことの優先婚の風習があるプルーセンに対して、ヴェステンブルクには同姓不婚のしきたりがある。
また、社会集団の面で見れば、爲政理念に「身を修め、家を斎へ、国を治め、天下を平らぐ。」とあるように、プルーセンでは自身→ごく近しい家族→国家→世界という風に展開される。一方でヴェステンブルクでは(国家の中核をなし、ヴェスラン人の末裔を名乗る「"現生"ヴェスラン人」に限ってではあるが)、ごく近しい家族に加えて「マケ」と呼ばれる独自の共同体を形成する。これは遠祖・姓・家紋(貴族なら紋章、平民なら族徽。なお、紋章と族徽の違いは大公国の紋章官によって登録されているか否か。)の三つが同じである親族の集団である。基本的には血族集団になるがかなり範囲が広く、またマケ内部で階層を跨ぐ場合もある。その場合はマケ内部で「貴族マケ」と「下層マケ」に分類される。下層マケの成員は、同じ遠祖・姓・家紋を戴く貴族マケの事実上の臣下であり、平素は親族として対等に接する権利を有するが、戦時には貴族マケの成員に臣従する誓約戦士として戦った。
以上がヴェスラン人による近出の説であるが、プルーセン人民族学者は外見に因る現生ヴェスラン人=プルーセン人説を未だに推している。これらの説は長らく東カルデラリア大学内部に於いて噴出こそしていたが、まとまった論として学会に提出されていなかった。はじめて公に言及されたのはプルーセンのファルケンハウゼン王立大学での放逐暦217年春のシンポジウムであったが、ここに於いて提唱者アルブレヒト・アトールはプルーセン人学派からの袋叩きに遭っている。これに対してアルブレヒト・アトールは「(ヴェスラン・プルーセン間の文化的違いは確かであり、また一朝夕で醸造できるような浅薄なものでもない。)この説は神の唱導に因るという他ないだろう。」という有名な演説を行い、諸外国による現生ヴェスラン人=プルーセン人説の濫用を痛烈に批判した。
謂へらく、現生ヴェスラン人とプルーセン人の外見的な一致は確かであり、血統的には現生ヴェスラン人は古代プルーセン人の裔に属することは疑いようがない。しかしプルーセン─ヴェスラン間での文化的な相違も揺るがぬ事実である。また、現生ヴェスラン人の風習に関しては近年の考古学的成果から古代ヴェスラン人から受け継いだものであることがわかっている。しかし社会集団「マケ」については古代ヴェスラン人にはなかった(古代ヴェスラン族は血縁がない族人と村を形成することはなく、ごく近しい家族だけで森林に散住するか、血の繋がりが確かな族人と村落を形成していたということが、住居址などから判明している。)思うに現生ヴェスラン人とは、プルーセンの血統がやや優勢ではあるが、古代プルーセン人と古代ヴェスラン人の混血種族である。恐らくは移民した古代プルーセン人と現地の古代ヴェスラン人とが混血し、文化的にヴェスランに帰化したものであろう。同時に、後にヴェステンブルク大公国となりぬべき移民の地には、この当時アトール人やヤラン人、黒の鷹匠などといった─(プルーセン人と混血した)中核的な古代ヴェスラン人とも異なる─広義のヴェスラン人とでもいうべき諸部族もまた多く存在し、現生ヴェスラン人の祖先はその中にあって比較的少数であった。そこで数的な不利を補うために強固な親族集団「マケ」を形成したことがうかがえる。
何れにしてもこの「現生ヴェスラン人問題」は未解決であり諸説が入り乱れている状態である。