▲1一歩
「あ、負けました」
消え入るような声で、そう告げる。
瞬間、鳩尾の辺りに締め付けられるような、不快な熱を持ったような、敗北を認めたとき特有の、いやな感覚がじんわり上ってきた。
いつものことだ。いつものことだから、もう慣れてくれてもいいはずなのに。
僕は意味も無く上空のたなびく雲に視線をやったりする。桜もすっかり緑化してしまったので、この昼下がりの公園にはあまり人影はない。穏やかな風が木々の間をすり抜けて心地よさを僕らのところまで運んで来てくれているけれど、僕の心の底は澱んだままだ。
ぎこちない動きでパッドを閉じようとすると、目の前に端末が突き出される。
「おつかれ~、指置いてくれ~」
さっきまで、普段のちゃらけた空気を押し込めるかのように真剣に盤面に向かっていた相手は、今また弛緩した雰囲気を出し始めた。長い髪に指をやって片膝を立てると、何かひと作業をこなしました感で、もう僕には興味を失くしたかのような素振りだ。
賭け事は校則で当たり前だけど禁じられているものの、実際取り締まれているかというと、ほぼ無法地帯に思える。
去年の年末くらいから流行り始めた、この「真剣」と呼ばれている対局アプリを使用した賭け将棋も、こと「将棋」だから見逃されているのではないか? と勘ぐってしまうほど、構内のあちこちでもほぼ公然と行われているわけで。
差し出された相手のスマホに指紋を認証させる。これで相手の口座に僕のから「5000円」が振り込まれたことだろう。やることが済んだのか、長髪は違う画面に戻しつつ立ち上がると、僕の方にはもう目もくれずに気怠げに歩み去っていく。残された僕は何というか、無表情と半笑いの中間のような、妙な顔つきで座り込んでいるしかなかった。
(やっちまった……やっちまったとしか)
言えない。「勝ったら『5000ポイント』だぜ~? やってみない手はないっつの。一気に『二階級特進』して『五級』になれるチャンス逃すのかよ~鵜飼ちゃん、
ちったあ手ぇ抜いてやるから、な?」という甘言にまんまと釣られ、喋ったこともない別のクラスのチャラ男と「真剣」をしてしまった。
結果、5000円という、僕にとっては少なくない額を巻き上げられてしまったのだけれど、そんなの罠と気付けよ、というか、相手が段位者とは言え、六枚落ちで負ける僕も僕だ。
来月分のプロテインを買う金が吹っ飛んじゃったよ、と、ふへへ、とあえて気の抜けた笑い声を出してみるものの、すぐ横の小路をベビーカーを押して歩いていた女性が、こちらを顔を歪めながらチラ見しつつ、猛然とした早足で過ぎ去っただけだった。
走って帰るか、と腰のポシェットに自分のパッドをしまい込んで、深緑の塗装がはげかけているベンチから力無く立ち上がる。
周りを見回し、いかにも座り続けていたから体固まっちゃたよという体で、素早く屈伸と伸びをして体をほぐす。アキレス腱も伸ばしておきたかったけど、流石にそれは露骨だと思い、やめておいた。
このご時世、公然とジョギングでもしてようものなら、監視カメラの映像が学校やら家やらに流されて厳重通告となる。
「走ることが目的であることを悟られてはいけない」。そのため、この、学生服を模して精巧に仕上げられたジャージの上下をいつも着込んでいるわけだが、僕の「趣味」は割と命懸けとも言えなくもない。いや、それは言い過ぎか。
うわ~、15時からの小久保五段と斯波四段の対局、リアルタイムで弟と検討するって約束忘れてたよ~、と不審極まりないひとり言を、どこかにあるだろう集音マイクに向けて放つ。どうだこの通好みの対局チョイスセンス。
そんな約束は真っ赤な作り話だが、要は走れる口実を作れればいい。機械に向かって言い訳をかますのは何とも言えない感じだが、AIは今や神様ですから。
僕が慌てた素振りで足を踏み出そうとした。その時だった。
「少年」
いきなり背後からかかる、しゃがれた低い声。ベンチの後ろからだ。
「……」
まばらな芝生の上に、後ろ手に組んだ姿勢でこちらを睥睨していたのは、真っ白な髪をうねりにうねらせた、結構年いってるだろうけど、頑強そうな体つきで背も僕より高い、背筋のぴんと張ったひとりの老人? であった。
やけにぴんと糊の効いてそうな真っサラな白衣を着こんでいるけど、これを外出着として選択しているのなら、うん、どうなんだろうといった感じだ。
顔色は日焼けなのか酒灼けなのか、色素が淀んだかのような褐色で、これだけでもう正体不明なのだけど。
「まさかこんな所に、これほどの逸材がいるとは、思わなんだ」
第一声から、こちらの警戒レベルをぐんぐん上げてくる物言いだ。だがそれだけに留まらなかった。
「……選ばれし者、我らと共に、戦ってはくれぬだろうか」
ああー、春だもんね仕方ないかー、と、僕が完全無視の体で、今度こそ走り出そうとすると、
「君は……将棋から、愛されていない側の人間ではないかね?」
その老人の言葉は、意外な鋭さを持って、僕の背中から僕の心の核のようなものを突っついて来た。何だって……言うんだ。
「……確かに愛されてもいないし、愛してもいませんね。いけませんか? 将棋が、将棋がなんぼのもんだっていうんです? おかげさまでの、高三で『七級』足踏みの逸材ですよ? 僕は、徹底的にダメなんです。将棋というものが、そしてそれに振り回されているようなこの社会が、まったくもって理解できないダメな落伍者なんです」
初対面の相手に、いきなり胸の内を吐き出してしまった。これも春だからだろうか。でもどこか、すっとしたような感覚。後で厳重通告もんの発言だったかも知れないけど。
「ダメ、ダメ、ダメ、いいではないかね」
と、その老人は、いやにギラついた目をこちらに向けてくる。正気かそうでないかは、残念ながら判定できなかったけど。
「将棋に毒された奴らを、世界を、ひっくり返す。大いなる災厄に立ち向かい、人々を清浄で正常な世界へ導く、それこそが、我らが『ダイショウギレンジャー』」
ささくれだった褐色の指を、僕に突きつけながら放った言葉が、全ての始まりだった。
僕と、烏合の将棋戦士たちの、壮絶な戦いの幕開けだったのであった。