モンブラン?
「先達は、どうもすみませんでした、
ご迷惑をおかけしました」
神妙な面持ちで、深々と頭を垂れた国見万智子さんの脚下を、ポンスケの奴は何食わぬ顔ですり抜けて行った。
すれ違いざま、その柔らかな尻尾が万智子さんの細くしまった足首をシュルっとなでた。
僕の思い過ごしかもしれないが、アイツは少しだけ彼女の感触を確かめたような感じがした。
と、その時だ、
「ポンちゃん?」
と呟いた万智子さんの声に僕は耳を疑った。
「ポンちゃんのこと、ご存知なんですか?──」
と、まっ先に食いついたのはレイちゃんだった。
──いやいや、そうじゃないだろう。
「あ、はい、知っている猫です、ここにまだ来ていたんですね」
緊張気味の万智子さんの頬が少し緩んだ。
「ええ、そうなんですよねー」
と、レイちゃんはまるで状況が分かってもいないにも関わらず、突然の有名人の出現に舞い上がって、ヘラヘラと笑っている。
──しかし、そうじゃない、レイちゃんのリアクションは尽く間違っている。
僕はそう心の中で叫びながらも、
僕を見つめている万智子さんにどう声を掛けるべきか、必死で考えるので精一杯だった。
「ポンちゃん」の謎について解明する余裕などある訳もなく。
「店長さん、国見万智子と知り合いだったんですか?」
「──その言い方、」
本人を目の前にまさかの呼び捨て──、
そのレイちゃんは、壁に寄りかかって黙ったままの僕と、俯きかげんで戸口に佇む万智子さんの顔を交互に見つめて、喜びを隠しきれない様子。
「──あなたのせいじゃない、あの場合は誤解されて当然だったかもしれないし──」
と言いかけて、僕はまた押し黙った。
──違う、そうじゃない、もっと気の利いたことを言うべきだ。
僕が自分の責任を言えば彼女はもっと気にしてしまう。
案の定、
万智子さんは、首を大きく横に振って、また頭を深々と下げた。
僕は、少し口角を押し上げて笑って見せた。
「──どうか、気にしないでください」
と、絞り出した僕の声は、彼女に届いていたのだろうか。
「何ですか、それ──」
レイちゃんは僕の声を遮るように、万智子さんの細い指からぶら下がっている品の良い白の紙袋に食いついたのだった。
「ああ、つまらない物ですけど、どうかお納めください──」
たどたどしくではあるが、彼女はこう言う時の所作を充分に心得ていた。
レイちゃんは、さし出された袋包みをただ受けとってさっそく中身を確認すると、
「キャッホー!」と奇声をあげた。
まったく、この娘と来たらどう言う育ちをしているのか、
礼儀作法と言うものを意識すらしていない。
「お気遣いなく、国見さんが、こんなことをする言われは、全くもって無いのですから──」
遅ればせながら、僕がそう言っている側から、レイちゃんはその袋包みを部屋の中へと運び入れてしまった。
「それでは、私の気がおさまりません、どうかお納めください──」
──もう、あの天然小娘が納めてしまっているのだが──
そう仰って再度、頭を下げた万智子さんの、佇まいの何と美しいことか、それは例えば京都の芸妓さんへ日舞でも教える御師匠さんから10年間ご指南を受けてたとしても、身につくかどうかと言うレベル。
そして後ろ髪から分け出でたる頸の、これまた美しいこと。
白い首筋が富士の白雪のようである。
僕はついつい彼女に見惚れてしまっていた。
──いかん。
事件当夜、酒場で出会した、グデングデンの酔っ払い女とは、まるで別人である。
「あ、ポンスケ──」
と、レイちゃんが唐突に玄関まで駆け出して来て、また万智子さんに絡んだ。
「あれって、銀座のメゾン・ド〜なんとかって、有名なモンブランですよね、いま丁度お茶入れましたから、是非、ご一緒に召し上がってって下さい」
「そんな── そんな訳には、ちょっと──」
「そう、ちょっとだけ寄って行って下さい」
レイちゃんは不謹慎にも、万智子さんの背中をグイグイ押して、廊下の中ほどへ押しやると、自分はさっさと靴を履いて踵を返すのだった。
「おい、レイちゃん何処行くの?」
取り乱した僕に、その腕をガッと掴まれて、
「ポンスケ、探しに行くの──」
とレイちゃんは目を丸くして言い放った。
「猫なんざいいよ、放っておいて──」
顔を顰める僕に、
「だって、ケガしてるんですよ、放っておけませんよ」
いつになく食ってかかるレイちゃん。
──レイちゃんがこの場から居なくなると僕と万智子さんの2人きりになってしまうじゃないか、そこのところどう考えているのだろう?
いや、この娘は、万智子さんをお茶に誘うだけ誘っておいて、先の事は何も考えちゃいないのだ。
「ポンちゃんなら大丈夫ですよ、ここらへんの地域猫なんで、何かあってもご近所の方が面倒見てくれます、あの子、ファンが多いんです」
と背後から、万智子さんの鶴の一声。
「──ああ、そうだったんですか」
レイちゃんはすんなりと諦め、何事も無かったようにケロっとして、靴を脱いだ。
きっと万智子さんも、僕と2人きりになるのは気まずかったに違いない。
しかしながら、ナイスアシストである。
レイちゃんは、例によって僕に断りもなく虎の子のスウェーデン紅茶をガバガバ濃いめに入れて、万智子さんをもてなした。
「──レイちゃん、それはね、《ロイヤルセーデルブレンド》と言って──」
僕の説明をまるで聞かず、
レイちゃんは食卓テーブルの上で銀座メゾン・ド〜なんとかの箱を勝手に開いていた。
「モンブランが、ちょうど4つ──」
と言うレイちゃんの歓喜の声に、
「ちょうど?」
僕と万智子さんは首を傾げた。
「──1個はシゲちゃんの分です、多分もうじき来ると思うんで」
「迎えにでしょう」
と僕は付け足した。
その後、レイちゃんはお約束のように万智子さんを質問責めにした。
「へぇ、隣に住んでるんですか、あの国見万智子が⁈」
「──また、その言い方」
しかし、不思議と万智子さんの緊張はだんだんと解けて行ったようで、1時間も経たないうちに彼女の顔に笑顔が溢れた。
「どうして顔が小さい──腕が細い──ハーフですか──化粧品は何を使っているのか?」と
レイちゃんの質問は殆ど、万智子さんの容姿のことに終始した。
程なくして部屋にシゲがやって来て、
「ゲッ、国見万智子!」
──デジャヴと言うか、悪夢のように、事がふりだしに戻ったようになって、更にもう小1時間、彼らの質問責めは続いた。
「──私、てっきりレイちゃんが、奥さんかと思いました」
シゲとレイちゃんの関係を察した万智子さんは僕を見つめて笑顔を浮かべた。
「──え、僕の?」
「違ったんですね」
万智子さんは緊張が完全に解けたようで、腹を抱えて笑っていた。
「この人、トボけた顔してますけど──けっこう偉いんですよ、“シリヤドゥニア”って雑貨屋の店長さんなんですよ、経営者、実業家」
調子に乗ってレイちゃんは、僕の肩をパンパン叩いて言った。
「──トボけた顔は余計だよ」
と苦言を呈してみたが、彼らはまるで聞いちゃいない。
「──だから、見たことあったんだ、
あのお店にはよく行ってました、高校生の頃、どこかで見た顔だなと思ったんですよ──」
と万智子さん。
「この寝ボケた顔?」
とレイちゃんが話に水を差す。
「変わってんじゃねえか、トボけた!」
シゲがレイちゃんに優しくツッコむ。
「高校生──」
と言う、万智子さんの言葉に、
僕は夢のような時間から、現実へ引き戻されたような気がした。
圧倒的な年齢差だ。
僕は、大学を中退してから仕事を転々として、やっとあの店を居抜きで譲り受けた。それだって大学時代の仲間のサポートがあってのことだが──、
──シゲは前オーナー時代から10年あの店で働いている古株だが、まだ28歳。
レイちゃんだって、大学を卒業したばかりだから22か、23歳だ。
万智子さんは、10代からモデルさんをやっていて、大人びて見えるが新聞の情報によると24歳、24歳なのだ。
シゲよりまだ若い。
僕はと言うと、もうすぐ40歳に手が届く。
「──若いですよね、」
と万智子さんの琥珀色の瞳が僕を見つめた。
「ええ、若いです、もうすぐ40」
「若くねーし!」
と、シゲの優しいツッコミが、有り難い。
いつの間にやら、
レイちゃんとシゲのカップルは勝手に冷蔵庫中の缶ビールを飲み尽くして、
「酒が足りない」
とグダを巻き始めていた。
「そう言えば、二階にウィスキー類が有りましたよね、ジョニ黒とか──」
シゲは言うが早いか立ち上がって、
階段の方へ歩き始めた。
「──もう、いいだろう、君らはモンブランから、なぜ酒になる」
と言う僕の苦言はまるで彼らの耳には届かなかった。
見るとシゲは部屋の中ほどで立ち止まって、何やらベランダの方を眺めていた。
「店長、何で窓を少し開いてんすか?」
シゲが気味が悪そうに、ベランダへ近づいて窓を閉めようとすると、
僕より先にレイちゃんが口を開いた。
「ポンちゃんがトイレするのに開けてんよ、いま外出中だから開けといて」
「あ、ポンちゃんって、例の店長が助けた猫か──」
シゲは納得して、そのまま二階へ向かった。
「ポンちゃんのこと、助けてくれたんですか?」
と万智子さんがポツリと僕へ尋ねて来たので、僕は少し照れながら──、
「あのですね──」
と言ったところで、横から、
「──庭で怪我して倒れてたんですって、それですぐ動物病院へ駆け込んだもんだから、今度は自分が倒れちゃって、まったく良いんだか悪いんだか、」
と、また先にレイちゃんが、みんな話してしまった。
万智子さんは、終始なごやかに話しを聞いていたが、やはりどこか申し訳なさそうに僕を見つめていたし、時よりどこか寂しげな表情を浮かべていた。
数時間後、シゲは僕のジョニー・ウォーカーを1瓶まるまる飲み干して、一階の僕の布団で寝てしまった。
レイちゃんは顔を赤くして、ベランダ外の縁台で、ひとり涼んでいた。
万智子さんは僕の制止も聞かず、キッチンで洗いものなんかをしてくれていた。
「付き合わせちゃって、すみません──」
と言う僕に、万智子さんは、
「いいえ久々に楽しかったです、いつも独りだから──」
と屈託なく微笑んでくれた。
しかしその瞳には、やはりあの悲壮感が感じられた。
「──例の彼氏さんの事なら、本当に気にしてないので、また元通り──」
と言いかけて、僕は硬直した。
違う──僕は何を言っているんだ。
少し距離が縮まったことに気を許して、
ついつい話を蒸し返してしまった。
「彼とは、もうとっくに終わっていたんです、って言うか警察にも届けて、裁判所に接近禁止にしてもらったので、」
心なしか、彼女の声のトーンが低くなった感じがした。
「ああ、そうだったんですか」
と言う僕を置き去りにするように、万智子さんは足早に、部屋を出て行った。
「どうも、お邪魔しました」
僕はと言うと、「ああ、」と息を漏らすに留まり、椅子から立ち上がれたのは良いが、彼女の後を追えず惨めな醜態を晒したのみだった。
少しは、彼女の気は晴れたのだろうか。
彼女の美しい笑顔の中の、あの寂しげな瞳。
外の縁台の上で寝っ転がったまま寝ているレイちゃんを叩き起こしに行っても、
あの霧のかかったような琥珀色の瞳が、僕の脳裏から離れなかった。