飼いますか?
碑文谷の動物救急病院前。
自転車を降り、地面へ足をついた瞬間、
脇腹に稲妻のように激痛が走った。
自転車を倒しそうになるぐらい、のたうち回ったが我慢するしかない。
ここは動物病院だ。
「類人猿ですが肋骨が……」と言っても通用する筈もない。
モコモコに巻いた猫を何とかカゴから下ろして、振り返ると入り口には階段。
「階段か……」
途方に暮れている場合ではない。
とにかく、この階段を登ろう。
と言っても、3〜4段程度のものだ。
富士山は言い過ぎだが、
山手通り側から目黒の駅を目指す時の、あのなんか急な坂ぐらい、イラッとする。
目黒はやたらと坂が多い。
元々山なんだから仕方ない。
昔は目黒の富士塚なんて言って、
わざわざ富士山を模した塚をあちこちに築いたらしい、江戸時代の人は全く余計なことをしてくれたものだ。
でもここは、山じゃない動物病院だ。
院内は至って清潔感のある佇まいだ。
日頃地べたを駆けずり回っている獣どもからすると、どうなんだろう?
「わー、素敵な病院」と思うのだろうか?
待合室にプードルみたいな髪型の老婆が1人座っていた。
受付のカウンターに人が居らず、
僕は、カウンターに掴まり立ちしたまま、しばらく待たされた。
「フン……」という息とも声ともつかないものが、数秒おきに漏れた。
プードル老婆の視線を背中に感じる。
良く考えたら、顔中ガーゼとか絆創膏だらけだし、まともに立ててる自身もない。
傍目に見ると、“来る病院を間違えていませんか”と思われても仕方ない。
「こんばんは」
看護師なのか医療事務なのか、オールバックで髪をお団子にしたパッと見は知的で小綺麗な白衣の女性が奥から現れた。
「初めてですか?」
と彼女は僕を一目見て息を飲んだ。
180cm近く大柄の男が上下スウェットの室内着を汗染みだらけにして、
顔中傷だらけで、震えながら立っている。
誰がどう見てもまともな状態じゃない。
そいつが、
「この猫なんですが」
と差し出したタオル包みを、
「猫ですか?」
と、彼女は目を丸くして確認した。
「まあ、いわゆる栄養失調ですね、去勢されてるから、多分飼い猫でしょう、迷子になってしまったのか、飼い猫は自分で餌を取ることができないから、何日も食べてないんでしょう……」
と医者は、たいしたことはないと言う口ぶりだった。
「怪我は……血が出てて」
「多分、野良猫に虐められたんでしょうね、よっぽど大事に育てられたんでしょう、ご希望なら抗生剤出しときますが、どうしましょう、今後めんどうみますか?」
「こちらで、引き取ってもらうって言うのは……」
と僕が言うと、
医者の目つきが途端に厳しくなった。
「それはちょっとね……、保健所も怪我や病気の猫は、引き取ってくれませんよ、連れて来た以上は連れて帰って下さい」
全くその通りだ。
元々面倒を見る気じゃないなら、放っておけば良かったのだ。
どうして病院まで来てしまったものか、
少々後悔した。
結局、僕は医者の前で、
至極当たり前の決断をさせられたのだ。
一時的にでも、“飼う”と言った瞬間から、僕は病院にとってはお客さんになった。
「それで、猫の病院食ってのがあるんだけどね……、長い時間何も食べてないと、ほら胃腸が弱っているでしょう、すぐにキャットフードとか食べられないから……」
“食べられないから”と言われれば、
「……じゃあ、それも」
と言うことになる。
結局、替えの包帯やら、薬やら、色々出されて、受付で精算する頃にはとんでもない金額になっていた。
「これって“0”ひとつ多くないすか」
と桁を指でなぞる僕に、
「こんなもんですよ、保険とかないんで」
と受付のお姉さんは、あざといぐらい可愛いらしい笑顔で答えた。
「できれば来週も連れて来てください」とのことだったが、
できれば、二度と来たくはないと言うのが本音だった。
翌朝、
僕は例によってまた仕事を休んだ。
今や、影の店長としてシゲがバリバリ店を回してくれているんで、あまり心配はしていないが、
「ああ、ゆっくり休んで下さいっす……、あとレイが心配してたんで、行かせますんで……」
電話口でシゲが、そんなことをあっけらかんと言ってのけたもので、
心配事がひとつ増えた。
「お前、それはマズいよ、女の子ひとりで男の部屋に……」
「大丈夫っす、俺らそんなヤワな関係じゃないんで……」
シゲは逆に気を悪くしたようだったし、
そう言われては、何も言い返せない。
電話を切ってしばらくして、
《僕はよっぽど色気がないのだろうか?》
そこはかとなく、漠然とした不安が込み上げてきた。