ケガ人とケガ猫 ⁈
ベランダの端から覗くように、
月があまりに綺麗に顔を出すものだから、
僕は、呼ばれたみたいな気になって、
縁台へと腰を下ろした。
すぐに雲がかかり、霧雨など降って来た。
よく湿度で傷が痛むなどと言うが、
どうなんだろう。
隣の彼氏さんは、傷害の現行犯で逮捕された。
僕は、脇腹をやたら蹴られたお陰様をもって、肋骨にヒビが入ったらしかった。
仕事へ這って出ては見たが、立ってても座ってても痛くて仕事にはならず、2、3日休みを取ることにした。
それでも警察は容赦なく、被害届がどうとかで、「目黒警察署までのご足労お願い出来ますか」と催促して来た。
“ご足労”と分かっているならせめて、痛みが引くまで待って欲しいものだったが、
わざわざタクシーで出向いた。
休んだ仕事の給料分と、病院の治療費をご負担諸々、示談へ応じて頂ければ被害届けだしません旨、
警察には申し送りして帰って来た。
そんな折、この件が何故かネットやマスコミを騒わがせていることを知った。
ネットは仕事以外では使わないし、
テレビは映画を見る時以外殆ど見ないのだ。
ただ新聞だけは毎日欠かさず目を通す。
三面に隣のマチコさんの顔を見つけた。
僕はその時初めてマチコさんが雑誌などで活躍しているモデルであることを知った。
【人気音楽グループEscapeのボーカル、シーゲルこと、玉頭茂容疑者(19)が傷害の現行犯で逮捕……(中略)人気モデル国見万智子(24)の自宅前に居合わせた一般男性へ殴る蹴るの暴行をはたらいた疑い……警察は三角関係のもつれと見て……】
「三角関係のもつれ……⁈」
警察はどんな了見でそんな記者発表してるのだろう。
警察の事情聴取では、マチコさんはただの隣人であり、僕とはそれ以上の関係はないと、きちんと話したはずだ。
お陰で雑誌記者か何か、怪しい輩が連日アパートの外をウロついている。
僕はふと隣のベランダを見た。
開け放たれたカーテン。
部屋の灯りは消え、人の気配はない。
彼女は何処かへ身を隠しているらしかった。
もしかしたら、他所へ引越してしまったかもしれない。
それならそれで、こちらとしては助かる。
しかし、少々つまらなくなる。
なんてことを考えながら、庭へ目をやると、不穏な人影が、
僕の庭のかすみ草をミシミシ音を立てて踏みつけている。
「ちょっと、アンタ……」
不法侵入と言いかけて、マチコさんの顔が浮かんだ。
「ああ、週刊ケッタイの者ですが」
人影は僕の花を踏みつけながらこちらへ歩み寄って来た。
「あのね、警察呼びますよ、不法侵入並びに器物破損の現行犯です」
僕が彼の足下を指差しながら、聞いた風なことをスラスラ口走ると、彼は薄ら笑いを浮かべたまま、風のように逃げ去って行った。
「……ったく、」
被害の程を確かめに、懐中電灯を携えて、庭へと降りた。
困ったものだと、潰された花々を元通りに植え直し、あとは明日、明るいうちにやろうと、立ち上がった矢先、
かすみ草の茂みの中からガサゴソと何やら物音がした。
懐中電灯をそちらへ向けると、
一匹の痩せ細った猫がぐったりと横たわっていた。
「こんなところを寝床にして……」
ちょっと脅かして追い払ってやろうかと近づいたが、
どうも様子がおかしい。
猫の奴は地面に横たわったまま、反応がない。こちらを警戒する様子もないのだ。
時折、前脚をバタバタ動かすが、起き上がることができない様だ。
全体的にグレーがかった黒い毛色で、
身体は小さいので、比較的若い猫だろう。
お腹から後ろ脚にかけて白い毛も見られる。
後ろ脚に限っては、白いハイソックスを履いたような配色なっていた。
しかし、その上等な靴下が、よく見ると赤く血に染まっていた。
「お前、怪我してんじゃん……」
肋骨の浮き出た脇腹が、ポンプのように波打って、呼吸は早い。
目を閉じたまま、口を開けて小さな舌が見えている。
とても苦しそうだ。
このまま放って置いたら、
朝までに死んでしまうだろうと思った。
このまま看取ってやるべきか、
すぐに病院へ連れて行ってやるべきか、
暫し考えた。
僕はその体にそっと触れた。
小さな鼓動と体温がこの手に伝わってくる。
猫は苦しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
数年前の夜更け、僕は若い猫を車で轢き殺したことがある。
タイヤから伝わって来たあの嫌な感触は、恐らく一生忘れることはあるまい。
ちょっとおかしくなった猫は、時より車のヘッドライトの前へ飛び込んでくることがある。
僕はその時、助手席にいた彼女との話にかまけていた。
猫が道を横切ったかと思ったが、
そいつと何故か目が合ってしまった。
ブレーキを踏んでも時すでに遅し、
車の前で一度立ち止まったその猫との接触を避けることはできなかった。
僕はすぐさま車を路肩へ寄せ、
放心状態の彼女を放ったらかして、自分の轢いてしまった猫のもとへと走った。
猫は首の骨が折れてしまった様で、道路の真ん中で頭を起点にバタバタのたうち回っていた。
暴れる体を抱き上げると、猫は虚空を眺めながら二、三度血を吐いて静かに動かなくなった。
振り返ると、僕の後を追って来ていた彼女が半狂乱でキーキー悲鳴を上げながら立っていた。
僕らは、道路脇の街路樹の下で死んだ猫を抱えたまま2人で泣いた。
人目も憚らず声をあげて泣いた。
テレビで猫が映っただけで、奇声を上げるほど猫好きだった彼女の心にも傷が残ってしまったと思うと、自分の不注意を責めたものだった。
あの頃は若かった。
いまなら、あの猫を自分が轢かなかったとしても、きっと他の車が轢き殺していただろうと割り切れる。
目の前で死にかけている野良猫を見つけても、黙って看取ってやろうと言う気にもなれる。
小雨が嘘だったように、
歪な十三夜の月の金色の光が
庭の僕らを優しく照らした。
コルセットを巻いた脇腹が妙に疼いた。
猫はそれでも、生きようとしているようだった。息も絶え絶えで、力無い前脚を頻りに動かして地面を掻いていた。
数分後、目黒通り、
僕は自転車を無我夢中で漕いでいた。
前のカゴにはモコモコのバスタオルに包んだ猫。
この時代、スマホひとつあればネットで何でも検索できる。
碑文谷に動物救急病院があることも。
ちょっと遠いが行けない距離じゃない。
漕いでも漕いでも3段変速のママチャリは一向に進まないような気がした。
「頑張れ、頑張れ、死ぬな」
僕は自分の肋骨がズレるかも知れない事も忘れ、痛みを堪えながら、必死でペダルを漕いでいた。
つづく