虚栄心と羞恥心、これの両方を経験して人は悟る。
シラ10:26 仕事をするとき、理屈をこねるな。 困っているとき、見栄を張るな。
シラ10:27 働いて、すべてに満ち足りている人の方が、 パンを得る手だてを持たず、 見栄を張って生きる人にまさる。
シラ10:28 子よ、慎み深く、自らに誇りを持ち、 自分を、あるがままに、正しく評価せよ。
シラ11:21 罪人が仕事に成功するのを見て、驚きねたむな。 主を信じて、お前の労働を続けよ。 貧しい人を、たちどころに金持ちにすることは、 主にとって、いともたやすいことなのだ。
シ ラ11:22 主の祝福こそ、信仰深い人の受ける報いなのだ。 主は、幸せの花を、速やかに咲かせてくださる。
※人は他人と比較することで、その心の中に虚栄心や羞恥心を作りだす。
虚栄心とは、みえを張りたがる心である。
人間は、アイデンティティ確立のために、常に他人を持ち出すという心理が生まれます。
「自分は自分、人は人」という意識を持つことができずに、いつでも他人との比較でしか「自分が自分であること」を認識できないのが見栄を張りたがる心を作り上げます。
他人よりも上に立っていたいという欲求が強く、「自分は他者よりも優れている、人よりも大きな存在である」と確認することによってのみ、安心を得られる心理と言い換えることも可能です。
しかし、その虚栄心を心に置くことが、悟りを開くには大きな障害になります。本当の自分を見つけるには、その虚栄心に慢心していた自分を、どん底という極限の低さに落とすことにより、じっくりとした悟り的な要素が見えるようになります。
よく、人間は何もかもがうまくいかない時に、敗北感を味わうのですが、敗北感という要素を経験することにより、正しい意識を見につけることにより、勝利という要素を目指すようになります。
ところが、このどん底から這い上がる意味は、血の滲むような努力が自分自身に出来るかが大事なカギとなるのです。
この血の滲むような努力をするようになる頃には、虚栄心を持っていた己の浅はかさに気が付き、よくまわりを見る冷静な眼があることに気がつくことになあります。
状況は、神から示されたその意味に耐えられるかが肝心な要素になります。15歳の時の御言葉の一つ、「その境遇に耐えうるか?」が大事な心の置きどころになります。
並大抵ではありませんが、それを経験するのも運命なのです。
屈辱、身にふりかかる艱難はすべて甘受して、災難のときにも、取り乱す意味は許されません。
もちろん経験が浅い時は、大いに取り乱します。錯乱します。辛くなります。
されど、金は火で精錬され、 人は屈辱のかまどで陶冶され、 神に受け入れられる。とあります。
その示された難題をすべて、神の配慮と受け止め、心からその真意を悟る時に己の意味の重要さに気がつくのです。
その最終的な意味が見えた時に、威張り屋、傲慢性、高ぶる心があるようでは、元の木阿弥です。
元の木阿弥とは、一時よくなったものが再びもとのつまらない状態に帰ること。(苦労や努力にもかかわらず)もとの状態にもどってしまうこと。
シラ書にも、その人物に示された重要な言葉があるのですが、
シラ4:19 しかし、お前が道をそれるなら、 知恵はお前を見捨て、 お前が破滅していくにまかせる。
ある程度、その意味がわかって、それで慢心して、己の意味に勘違いして、その道を反れるようであればです。
すべての努力が無駄になり、その蓄積してきた知識の言葉も水の泡となります。
それだけ、困難な道ですが、悟りとは何のためにあるかが大事な要素となります。
悟りとは、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い、「覚り」とも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得をいう。
「覚り」、覚の方は積極的な意味につながります。
自分の示された意味に、心の眼を開いてその意味を集めて目覚めることです。
聖書に示されて人物の最終的な意味は、その意味を知り得ても、威張ることなく、傲慢になることなく、高ぶることなくです。
なぜか、その意味を知り得て、その慢心する虚栄心を持つことが、人の領域だからです。それを超えることで、本当の自分に気がつくと、その記された運命の答えを導いても、特に冷静な心で見ていられるようになります。
悟りとは、「神の真意」を知ることです。
知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことです。
そのすべてを教えに生まれてきた人物が、エノク書に記された意味を持つことを悟るようになります。
羞恥心とは、自我や自尊心の延長にある概念である。
「恥となる行動をしてしまった」と感じる感情であるのですが、これこそその己に示された意味を悟る前の恥となる行動をしてしまった。
となるのです。
恥じらいの心がないと、悟りも持つこともできません。




