答えは、見えるものではなく、聞こえるものでもない。
【16】真理の福音は、真理の父から恵みを受けた者たちにとって喜びである。(恵みを受けたのは彼らが)プレーローマから来た言葉の力によって彼(父)を知るためである。それ(言葉)は父の思考と叡知の内にあり、人々がそれに向かってソーテール(救い主)と呼びかけるものである。それは、父を知らなかった者たちの救いのために彼がなすべき業の名だからである。
※神に与えられたなすべき仕事。
それの啓示の始まりが、雄牛の方の言葉。
胸の病を植え付けられ、その後に、その意味を知るために奔走した。
【18】忘却は、たとえ彼(父)のゆえに存在したとしても、父のもとに存在しなかった。それに対して、彼(父)の内に存在するものは認識である。それは、忘却が消失し、父が知られるために啓示されたのである。忘却は、父が知られなかったので存在したのであるから、忘却は、父が知られれば、その時点から、存在しないであろう。
※存在したのであるから、これの意味を父と表現している。
完全な答えを言うならば、この世の神の存在である。
確かに存在するのだ。
【18】これが、(人々によって)求められる者の福音である。これが完全なる者たちに啓示された。父の憐れみ、隠された秘義、イエス・キリストによって。彼は、忘却によって暗闇にある人々を照らした。彼は彼らを照らした。
※その隠された秘儀、その一つ一つの書物を読み切れる意味は、人間には許されていない。
証をするのは、その書物を作り上げたお方。
【29】なぜなら、物質(の人々)は他所者で、彼の姿を見なかったし、彼を知らなかったからである。彼は肉体のかたちを持って出てきたのだから。
※確かに、この世にいて生きているのである。
【24ー25】父は自らの胸を開く。――彼の胸が聖なる霊である。彼は彼の隠されているものを啓示する。――彼に隠されているものは彼の子である。・・・なぜなら妬みと争いがある場所は欠乏であり、一致がある場所は完全だからである。欠乏が起こったのは、父が知られなかったためである。だから、父が知られれば、その瞬間から欠乏はもはや存在しないであろう。ある人の無知は、闇は光が現れれば消え去るように、その人が認識すれば直ちに消え去る。そのように欠乏も完全の中に消え去るのだ。この瞬間から姿かたちが見えなくなり、一者(父)との融合の中に消え去るであろう。
※箴言で、我が子というように、その意味を悟りし時に、その子の中に主が入る。