顕現の日の提示。
顕現の日の提示
「わしの選んだ預言者よ、あの大いなる日と、この世界を裁くためにとらえる顕現とを、人は誰ひとり知ることはない。〔しかし相手が〕おまえだから、わが預言者よ、おまえに〔裁きの〕日を云った、しかし刻限はおまえに云わなかった」。
顕現=はっきりと姿が現れること。
「おまえは思い違いをしている、エスドラムよ。というのは、裁きの日は次のごとくである、その日に雨は地に降らぬ。その日の法廷は、憐れみ深いからだ」。
※その法廷は憐れみ深いといわれていること。
顕現の日はさばきの地上に起きる大惨事ではなく、この日に主が現れる期日を指定している。要するにその苦汁の日々を終えて、世の中にその言葉をいう日。
※この苦渋の日々というのが、コリントの手紙第1章にしるされている。
1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
※その状況は極めてみじめな状況であること。
その言葉を語るために無職であること。
無きに等しいと言っている事実である。
しかし、この状況を行かねば、この世の民は助からぬ意味が記されているが故、
あえてその道を選択したことになる。
「主よ、その年もわたしに云ってください」。 すると神が云った。 「この世界の義が、過分にあると見れば、彼らに寛大となろう。
※これの条件が世界に義が、過分とあること。 過分とは謙遜しながら感謝を表す場合に用いる意味。 要するに神の存在を認め、人々が義を行うのが大事であること。
だが、こう言っている。
「さもなければ、わしの手を伸ばし、ひとの住まいするこの地の四つの果てをひっつかみ、イオーサパトの腹の中にすべてを寄せ集め、人間どもの種族を抹殺しよう、そのとき世界はもはや存在しない」。
イオーサパト=聖書ではヨシャパテ。 名前の意味は「主はさばきたもうた」である。
※要するに世界に神を認める感謝の意味がなくば、神はさばきを行うというのである。その時には人間の種族を抹殺するというのである。
顕現の時は11月16日。
第8の月の18日である。(エズラの黙示録)
※これの期日はユダヤ歴にしるされているので、これを西暦の意味に換算する。
神が高らかに布告する口調で云った。
「わしの契約を無視する者どもを憐れむことはせぬ」。
※要するに神の律法を守らないでその掟や、行うべき決まり事を行わない者は憐れまないというのである。
そうして、自分より昔の人たちの不法行為を、自分の裁きの日に思い出さないでください。しかし、この書を信じない者たちはみな、ソドマとゴモッラのごとく燃えつきよう」。
※要するに聖書の言葉を軽んじて信じない者には容赦はないといわれる。
だが神は慈愛の満ちたさばきを求められる。 要するに顕現の日に人々を集め、その日に神の律法を解く。
問題がある。
※滅びの記述が記されているが、
3:3「わたしの生れた日は滅びうせよ。
『男の子が、胎にやどった』と言った夜も
そのようになれ。
3:4その日は暗くなるように。
神が上からこれを顧みられないように。
光がこれを照さないように。
3:5やみと暗黒がこれを取りもどすように。
雲が、その上にとどまるように。
日を暗くする者が、これを脅かすように。
※ここでいうことは遵守するかの人類への布告。
ただし悪行を行っている者(神の律法で神が忌み嫌われる)は、許しを得る意味はない。悔悟して反省して義を行い善に励む者はすべて見逃すことに
この書を信じない者たちはみな、ソドマとゴモッラのごとく燃えつきよう」。
※こういっていることが大問題なのである。
その顕現の前に私の生誕日があること。
11月15日である。