2012年、7月23日に伝えていた「私は、キリスト教徒ではない。」
2012年、7月23日の時には、その存在をサタンと言っていたのだが、この意味、その聖霊に出合う者は当初は魔物と勘違いする意味がある。
釈迦もそうだったし、イエスキリストも雄ヤギの聖霊を悪魔と思い、重大なミスを犯している。
48:8あなたはこれを聞くこともなく、知ることもなく、
あなたの耳は、いにしえから開かれなかった。
わたしはあなたが全く不信実で、
生れながら反逆者ととなえられたことを
知っていたからである。
48:9わが名のために、わたしは怒りをおそくする。
わが誉のために、わたしはこれをおさえて、
あなたを断ち滅ぼすことをしない。
こう記されているように、後世にくる隠された意味を持つ人物は、必ず雄牛の聖霊の重要な答えを悟ることになる。
この時のタイトルで、その内容を話してはいないが、キリスト教でないことは宣言していた。
何故か、やがて知りえる意味に、キリストの死後にその権威を利用して教義を作り上げた者たちがいたのである。
つねに、イエス・キリストの画像を寝室に飾ってはいるが。
そのサタンとの出会いの意味に、釈迦の残したもの。
そして、イエス・キリストの残した足跡を、人生のやるべきことにヒントを求めた次第である。
この世の中、キリストを自称した者も、たくさんいるが。
私は、一切、自称などはしない。
僕は、僕自身である。
この二人は、あくまでも人生のヒントにした偉大なる人物である。
サタンは、甘くはない。
まさに、地獄そのものの試しの存在。
これから、はじまる出来事は、熾烈を極めることになる。
人類への、神からの怒りは止めることはできぬ。
母が云っていた。
人々を助けるためには、体調の管理が不可欠。
人並みはずれた意思は、己の精神を磨いてゆく。
ふと、肖像画を見つめていると、声が聞こえてきそうだ。